[社会]

[「違憲」濃厚 強行を許すな] 元東京高裁部総括判事 大久保太郎 朝日新聞「再考 裁判員制度」 2007年12月30日
[世の中に不信感をばらまいた「偽装」] 中国新聞「天風録」2007年12月13日
[健康って義務なんでしょうか?〜特定健診・保健指導の義務化は必要か〜] 広島保険医新聞 第381号 2007年12月10日
[「日本企業の隠ぺい文化」人命優先へ意識改革を] 柳田邦男 中国新聞「現論」2007年5月20日
いじめの裏にも[偽装社会] 中国新聞「天風録」2006年12月4日
[国民の健康・いのち優先へ、迫られる行政の大転換] 柳田邦男 中国新聞「現論」2006年10月15日
[拘禁者の処遇大改革] 代用監獄"温存"され「改革は30年前の国際標準」東京新聞 2006年4月3日
[補陀落渡海] 大府市 池山 淳 愛知保険医新聞 第1621号 2005年10月5日
[自己責任論を批判「若者誇るべき」と仏紙] 共同通信 2004年4月20日
[欲望垂れ流し社会] ジャズミュージシャン 坂田 明 中国新聞コラム「風ぐるま」2003年7月26日
[「長寿村の秘密」大自然 ストレスを濾過] 中国新聞「こころのコンパス」2001年1月13日
[「健康日本21」推進運動、人間を序列化する恐れ] 中国新聞「介護あの目この目」2001年1月7日
[医師の社会的責任の重さ] 中国新聞コラム「天風録」2000年5月16日
[人は殺されてはならない] 小田 実 朝日新聞 1999年5月7日
[これは「人間の国」か] 「経済大国」の貧し
小田 実 朝日新聞 1996年1月18日
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「違憲」濃厚 強行を許すな
元東京高裁部総括判事 大久保太郎さん*
朝日新聞 opinion 耕論「再考 裁判員制度」2007年12月30日
*28年生まれ。長野地・家裁所長などを歴任。土田邸・日石・ピース缶爆弾事件の一審で無罪判決を出した。

私は裁判官時代に一審だけで数年かかる刑事裁判を担当し、審理の難しさや、裁判が長期化せざるを得ないことを体験してきた。裁判員制度はオウム真理教事件、特に松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の一審のような長期裁判への反省から生まれたと言われることがあるが、「だから裁判員制度が必要だ」というのは誤りだ。

刑事訴訟法の一部改正により、05年11月から初公判前に争点を整理する「公判前整理手続き」が導入され、裁判所の訴訟指揮権も強化された。一定の効果は表れており、弁護人による引き延ばし戦術に対する社会の批判も厳しくなっているから、今後は異常に長い裁判はなくなるだろう。しかし、すべての刑事裁判を数日から十数日の間に短縮することは不可能だ。複雑、大規模な事件では数十回、数カ月の公判を要する場合も予測しなければならない。最高裁は「多くの事件は3日で終わる」というが、そんな短期間の処理では、被告や被害者にも大きな不満が残る。

そもそも、裁判員制度は憲法違反の疑いが極めて強い。裁判員は評決にあたり裁判官と同じ一票を持つから、実質は裁判官だ。これは、憲法80条1項の「下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって内閣でこれを任命する」との規定に抵触する。裁判員が裁判に関与する根拠は、憲法のどこにもない。また、憲法37条1項は被告の「公平な裁判所の裁判を受ける権利」を保障しているが、その裁判1回限りで何の責任も負わない裁判員の加わった裁判所が「公平な裁判所」といえるだろうか。違憲の疑いのある裁判所が、被告を死刑などの刑に処することなどできないだろう。

裁判員制度は憲法に根拠がないのに国民に公共奉仕を強いる一種の「全体主義」だ。日本国民は現行の憲法により個人の自由権を保障されている。辞退を認めるかどうかは裁判官が決めるというが、これでは裁判官が全体主義の手先を務めるようなことにならないだろうか。裁判員法は政府と並んで最高裁にも裁判員制度の広報義務を課しており、最高裁は広報に懸命だ。しかし、「憲法の番人」である最高裁が広報を行うことは、この制度の問題点について将来の訴訟を待たずに早々と「合憲」のお墨付きを与えるもので、「違憲審査権」を事実上放棄したのではないかとの疑いもある。

大事なことを言いたい。裁判員制度は09年5月までに始まるとは決まっていない。裁判員法付則2条2項は、同法の施行日を決める政令を定めるには、「裁判員の参加する刑事裁判が円滑かつ適正に実施できるかどうかの状況に配慮せよ」と定めている。世論調査では国民の大多数が参加に反対で、以上のような問題点があるような状況では「円滑かつ適正」に実施できる状況など存在しないし見通しもない。施行の強行は許されず、断念されるべきだ。

私も、刑事司法への国民の関与を否定するものではない。調停委員制度のように、一定の社会経験を積んだ人の中から選び、たとえば少年事件などの一定の事件について評決権を持たない形で意見を述べる。このような制度でも、国民と裁判所との間の「通路」となって風通しが良くなるのではないだろうか。(聞き手・岩田清隆)

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世の中に不信感をばらまいた「偽装」
中国新聞 「天風録」 2007年12月13日

世の中に重い病に侵された少女は、はらりはらりと散るツタの葉を窓越しに見ていた。「最後の一枚が散る時、私は死ぬのよ」。友達に言い置いた夜は、ひどい嵐になった▲翌朝、少女は驚いた。たった一枚だけ葉が残っている。「私も生きるんだ」と希望を取り戻した。実は、本物の葉ではなかった。少女の話を聞いた老画家が、風雨を突いてツタのはう壁に一枚の葉を描いたのだ。オー・ヘンリーの短編「最後の一葉」である▲恒例の「今年の漢字」に「偽」が選ばれた。応募者九万人の18%が推し、二位以下を大きく引き離した。ミートホープ、白い恋人、赤福、船場吉兆と続いた食品偽装。情けない一年を象徴する▲過失だったのなら、まだ救われるかもしれない。しかし当事者の言動をみると「発覚しなければいい」という考え方が共通しているようだ。産地を偽ってもどうせ分かりはしないだろう。ほかの肉を混ぜても見分けられないだろう。作りたてだろうが解凍だろうが、区別はできまい…▲小さいころ「はれなきゃいいじゃないか」と大人に反論したことがある。「でも自分自身が知っているだろう」と諭された。「悪事」をした後に感じるやましさは、ぬぐうことができない。意味は後になって分かった。かの人たちは心の曇りをどう封じてきたのだろう▲偽の葉っぱは、人々に感動を与えたが、ばれた偽装は世の中に不信感をばらまいた。来年はこの字に縁のない年になるだろうか。

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健康って義務なんでしょうか?
〜特定健診・保健指導の義務化は必要か〜
広島保険医新聞 主張 第381号 2007年12月10日

来年度から医療費適正化計画の一環として、特定健診・保健指導の義務化が実施される。我々医師・歯科医師も健康保険加入者として健診を受けることが義務付けられる。厚労省は医療が必要となる前段階に介入して健康増進をはかり、医療費を抑えることを目指している。これをビジネスチャンスととらえる業者は健診・保健指導の受託や、特定保健食品を金儲けの対象にしようとしている。この特定健診・保健指導について、健診の診断基準や方法に多くの専門家が異論を口昌えている。肥満学会が中心となって作られた基準のためか、腹囲・体重におもきがおかれ、喫煙の悪影響が認識されているのに、ヘビースモーカーであっても腹囲が85センチ未満なら保健指導の対象にはならない。腹囲85センチの軽度肥満の人が最も長生きとの統計もある一方で、モデル事業で急激に体重を減らした人がジヨギング中に急死するというニュースもある。この事業の背景には厚労省とその天下り先の製薬メーカー及びメーカーから寄付をうける大学医学部との癒着もあるのではないかと思われる。こういった状況で副作用を伴うかもしれない保健指導を全国一斉に始めるには、この事業の有効性(健康増進・医療費の抑制)を示すエビデンスが不十分と思われる。ここで言う「医療費の抑制」は政府が進める政策とは違い、健診の充実等で健康増進をはかり、「早期発見・早期治療」により実現させることである。世界に誇るべき我が国が持つ国民皆保険制度広島保険

の優位性を活かすものであることを付け加えておきたい。平成19年版厚生労働白書によると、u形、新潟、山梨、長野、静岡は高齢寄就業率、在宅死亡率、健診受診率が高い一方、メタボリック・シンドロームの保有者の割合が低く、1人あたりの老人医療費が低いので、医療費適正化のモデルにしたいとしている。しかし、広島、大阪は外来医療費が高い割にはメタボリック・シンドロームの保有者は低くなっており、メタボ退治が医療費抑制に直結するとは言えないのではないか。むしろ、長時問労働や不安定雇用の解消こそが早急な課題であろう。まずは地域を限定しモデル事業を行い、健康増進を確認した上で、国民合意のもと義務化すべきと考える。このような事業は地方自治によりそれぞれの地域に適した方法で行い、自治体が住民の健康増進を競うべきである。厚労省は批判に耳を貸し、もう少し慎重に事を進める必要がある。いずれにしろこのままで行くと来年度からこの事業が始められる。しかし、仮に来年早々に総選挙が実施され、その結果政権が交代し、特定健診・保健事業が盛り込まれた「高齢者の医療の確保に関する法律」が改正されれば、この事業が見直される可能性が出てくる。現情勢は政権交代が可能な状況であり、来る総選挙における投票行動によって「特定健診・保健指導の見直し」「国民皆保寅制度を守れ」「保険でより良い医療の実現を」という意見表明を大いにしたいものである。

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[「日本企業の隠ぺい文化」人命優先へ意識改革を]
ノンフィクション作家柳田邦男
中国新聞 現論 2007年5月20日

「隠ぺい」「改ざん」「偽装」という言葉は、2000年代になって人の命にかかわる報道で、一体何回使われたか。2000年の雪印乳業の乳製品による大規模食中毒、02年の雪印食品の牛肉偽装、02年にクロースアップされた長年にわたる三菱自動車・三菱ふそうの大型車欠陥隠ぺいと東京電力の原発損傷データ改ざん、04年の三井物産のディーゼル車排ガス浄化装置データ改ざんなどが、まず相次いだ。これで産業界は教訓を生かして清新な体質改善がはかられたと思ったら、期待は甘かった。今年の年明け早々、不二家がかねて期限切れの牛乳を原料にした乳製品を製造・出荷するなどさまざまな安全軽視の問題を起こしていたにもかかわらず、隠ぺいや偽装をしていたことが発覚。三月には、北陸電力志賀原発1号機で原子炉の制御棒が抜け、重大な臨界事故が1999年に起きていたのに隠ぺいしていたことが公表されるや、東北電力女川原発、中部電力浜岡原発、東京電力福島第一・第二原発と柏崎刈羽原発でも、78年から2000年にかけて同じような制御棒トラフルが続発していたことが明らかにされた。原子力安全・保安院が発電所不正総点検を行った結果、電力12社の発電所不正報告は、原発だけでも12原発計97項目もあったことがわかった。(三月三十日公表)このほか、昨年問題になった建築設計の耐震データ偽装事件や製品の欠陥を公表しないまま21人もの死者を出したパロマエ業製ガス瞬間湯沸かし器による一酸化炭素中毒事件もある。

なぜこうも日本の企業は、事故・トラブル・不正行為の隠ぺいや改ざんや偽装を行うのか。これだけ同種の事件が続くと、これはもう一企業の体質と言うより、日本企業に染みついた「隠ぺい文化」と呼ぶべきではないか。かつて国際的に高い信頼感を得ていた日本企業に対する評価が凋落したのも当然だろう。私の長年にわたる取材経験から、隠ぺい、偽装の背景要因を分析すると、その実態は次のように愕然とするばかりだ。(1)問題を軽く見る。その中身は次の三つに分けられる。1.本気で大したことではないと見る。2.法規に違反していなければよしとする。3.一般人には技術的なことはどうせわからないと考える専門家の独善と傲慢。(2)事故の本質がわかっていない。(3)人命を最優先する考えが根づいていない。(4)企業イメージ、製品イメージの低下と営業成績の低下をおそれる。(5)とくに原発については、地域の反発や社会の批判をおそれる。(6)企業の現場も幹部も保身の意識が先に立つ。社内で率直な議論ができない空気がみなぎっている。(7)被害者の訴えを避けるため事実を公表しない。訴訟になっても不利にならないようにする。(8)役所の介入を防ぐ。

この結果、何が起こるかは明快に指摘できる。事故やトラブルの真相、とくに構造的な問題点や安全のための組織の取り組みの問題点が明らかにされないから、技術的な教訓も組織の取り組みの教訓も生かされない。このようなリスク情報を自社内はもとより、広く業界に流通させて、事故防止に役立てるのを「リスク情報の水平展開」と言う。これは安全確立の重要な視点なのに、流された情報でさえ「水平展開」がなされていないのが、日本企業の実態だ。ちなみに、不二家は雪印乳業の教訓を全く生かしていなかった。電力各社の原発における一連の制御棒トラブルは、もし最初の78年に起きた東京電力福島第一原発での事故が公表され、業界がこぞってその問題解決に取り組んでいれば、十分に防ぎ得たものだった。企業は国民を一時的にだませても、「欠陥は必ず事故を招く」という技術の論理まではだませない。その恐ろしさと責任の重さを自覚して、今こそ「隠ぺい又化」の払拭に努めるべきだ。重要なのは、企業のトップが保身に走らず人命を最優先する意識改革を行い、社員が事故原因や安全問題を堂々と議論できる「文化革命」の先頭に立つことだ。

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いじめの裏にも[偽装社会]
中国新聞「天風録」2006年12月4日

いじめが問題化したのは、北海道の小六女児の自殺をめぐる市の教育委員会の対応からだった。「私のこときらいですか」と書いた遺書を公表せず、初めはいじめを認めなかった。文部科学省の統計上、いじめ自殺は七年間ゼロ。実態との大きな溝を露呈した▲高校の必修科目の履修漏れも騒ぎとなった。調べると全国でやっていた。文科省も教委も知らなかったことになっている。本当だろうか。そうだとしたら、現場を全く把握していなかったといえる▲政府のタウンミーティング。やらせ質問や度を超した費用が話題だ。地方の声を聴く狙いは、大臣や中央官僚の前で粗相なく終える目的にすり替わっていた。「役所では常識」という自治体職員もいるのに、税金を使って調べ直している▲官製談合で知事が次々に捕まる。「必要悪」「地元企業の育成」と昔からよく聞く。広島県知事の後援会不正事件で浮上した県議への対策費や自民党県連への上納金疑惑だって、驚く人は少ないかもしれない。政治家はよく、「選挙にはカネがかかる」と訳知り顔で言うではないか▲結局どの問題も、関係者は知っていながら、見て見ぬふりをしていたのではないか。体裁を取り繕ってきたのにボロが出て慌てたり、予想以上の世間の反発に自らの「非常識」をかみしめたり▲自民党の復党問題もそう。党内の多くも、除名された議員の側も復党を望んでいる。格好を整える苦労をしているだけだ。偽装社会とでも呼びますか。

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[国民の健康・いのち優先へ、迫られる行政の大転換]
ノンフィクション作家 柳田邦男
中国新聞「現論」2006年10月15日

国家賠償にかかわる最近の一連の司法判断は、極めて重要な意味を持っている。行政のあり方を根底から転換すべき時代に来ていることを、それらは示している。一連の司法判断とは、このわずか二年余りの間に、公害、労働災害、感染症対策、原爆症不認定の問題をめぐって、被害者・患者が国家賠償や認定を求めて起こした訴訟に対し、裁判所が下した判決のことだ。

最高裁で国が被害防止の安全対策を強制しなかった怠慢(規制権限不行使)が断じられ、原告に損害賠償支払いを命じるという最終判断が示された判決が三件。「筑豊じん肺訴訟」「水俣病関西訴訟」「B型肝炎訴訟」だ。地裁段階だが、同じように国の怠慢(規制権限不行使)による被害発生・拡大の責任や国が支援すべき疾病の認定の形式主義を問う訴訟で、国に損害賠償を命じたり不認定の取り消しを命じたりした判決が七件。「薬害C型肝炎訴訟」二件、「トンネルじん肺訴訟」三件、「原爆症認定訴訟」二件だ。地裁の判決は、高裁や最高裁で変更されることがあるが、右の各地裁判決は、判断の論旨が三件の最高裁判決と近似しているので、逆転の可能性は少ない。

これだけ国の行政の誤りと責任が軒並みに問われるというのは、大変な事態と言わざるを得ない。行政の規制権限不行使について法的な責任を問うには、行政に幅広く認められた裁量権とのかね合いをどう判断するか、どこで両者の線引きをするかという問題をめぐって、裁判所は積極的に踏みこむのを避ける傾向があった。しかし、右の一連の判決を見ると、裁判所は被害者側に寄り添って行政に厳しい判断を下すという方向に姿勢を変えている。それはまさに時代の要請に応えるものだ。

注目すべきことは、事件ごとに所管省庁は違うのに、誤りの本質は同じという点だ。そして、これだけ続々と国の行政の誤りが断じられることが、全体としてどういう意味を持つのかについては、いまだ誰も論じていない。私はこれらのうち、水俣病の最高裁判決を受けて今後の行政のあり方を検討する環境大臣水俣病問題懇談会がこの九月にまとめた提言書を起草した一人として、右の一連の判決の意味について分析したので、そのことをここに書いておきたい。

各判決が示した行政のあり方についての重要な問題点は、二つある。一つは、行政の規制権限不行使という怠慢。住民や働く者や国民の健康といのちを守るために当然取るべき安全対策を立てなかったことだ。なぜか。官僚が経済成長や産業の保護育成を優先順位の第一位に置き、住民や働く者や国民の健康といのちを二の次にしか考えていなかったことが、多くの資料で明らかになっている。さらにその背景には、政治の圧力、官僚の自己保身、出世主義、官僚世界(省庁内)の空気と価値観がはたらいていた。

もう一つは、援護やサービスの対象者を決める線引きと運用における形式主義。原爆症認定問題では、裁判所は「機械的に過ぎる」と批判した。国でも地方自治体でも、役所に勤めると、感情を交えるな、法律に基づき客観的に判断しろとたたきこまれる。公平性は重要なのだが、その行き過ぎは「冷たい役所」となる。背景には財源難によるサービス、財政支援の切り捨てという問題がからむ。

どうすればいいのか。行政はいまこそ戦後一貫して続けてきた経済成長優先から国民の健康といのちの優先へと根本的転換をはからなければならない。住民や被害者を単なる対象としてしか見ない「乾いた三人称の視点」から、客観性を考慮しつつも住民や被害者(一、二人称)に寄り添う道を探る「潤いのある二・五人称の視点」に、官僚の意識を転換しなければならない。その具体化のために、関係法律で「行政倫理」を銘記し、政府内にさまざまな事件の原因調査と安全提言を行う常設の「いのちの安全調査委員会」や「被害者・家族支援局」を設けること。これが水俣病の教訓を普遍的に生かすための提言なのである。

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[拘禁者の処遇大改革] 塀の中に光差すのか
外部との接触拡大?苦情受ける委員会設置
代用監獄"温存"され 「改革は30年前の国際標準」東京新聞 2006年4月3日

警察留置場も含めた「塀の中」の大改革が正念場を迎えている。監獄法を九十八年ぶりに改正した受刑者処遇法が来月、施行される。一方、未決拘禁者や死刑確定者まで対象を広げた同法改正案が今国会に提出されている。四年前に発覚した名古屋刑務所事件がきっかけだが、何が改革されるのか。「刑務所の実態はその国の文化程度を示す」という言葉もある。塀の中に光は差すのか。 (田原拓治)

先月二十三日、最高裁の第一小法廷。「被上告人は上告人に対し、一万円を支払え」。裁判長が告げた。最高裁では判決理由は読まれない。五分で閉廷した。「相手が違法だって書いてあるから、勝ったってことだよね」。上告人の加藤三郎さんは判決文を手に半信半疑な様子だった。被上告人なる相手は国。具体的には熊本刑務所だった。加藤さんは一九八九年から二〇〇二年まで同刑務所に服役した。在監中、塀の中での処遇問題で新聞社に手紙を出そうとしたが、許可されず、抗議する意味で国家賠償請求を訴えた。金銭的余裕がなく、弁護士抜きの本人訴訟。一、二審は敗れたが今回、逆転勝訴した。訴えた当初、看守から「やめないと昼夜独居(一日中、独居房に閉じこめる措置)だぞ」と脅されたこともあったという。「施行前だけど、新法の影響に間違いない」。支援者らは勝因をそうみる。その新法とは、昨年五月に成立した受刑者処遇法だ。

名古屋刑務所の集団暴行が契機

同法は名古屋刑務所での集団暴行死事件の産物だ。事件発覚後、法相の諮問機関「行刑改革会議」が設けられ、一世紀続いた監獄法の改正が始まった。約百年ぶりの大改革は二段構えだ。第一段階は刑務所の受刑者を対象にしたこの処遇法。次に処遇法を改正し、容疑者や被告などの未決拘禁者、さらに死刑確定囚まで対象を広げ、すべての塀の中の処遇を改める段取りだ。改正案(未決拘禁法案)も先月十三日、国会に提出されている。では、改正案を含め、改革の中身はどうなっているのか。大まかには(1)施設内から外部への交通権の拡大(2)収容者の苦情を受ける視察委員会の設置(3)死刑確定囚の交通範囲の拡大−などが改善点とされる。受刑者は従来、親族や弁護士以外の面会は無理だったが、今後は「更生につながる」枠内で友人とも面会できそうだ。死刑確定囚にも「心情の安定に資する」条件で、その可能性が開けた。また、各施設には外部委員で構成する視察委員会が設けられ、収容者は処遇の不満を当局の検査抜きに訴えることができる。だが、問題点も少なくない。例えば、外国人収容者には、面会や信書の通訳や翻訳料の当人負担が明記された。お金がなければ、外との連絡は閉ざされる。容疑者や被告は法的には拘置所に収容されるべきだが、改正案には“冤罪(えんざい)の温床”との批判が根強い「代用監獄(警察留置場)」の存続も盛り込まれた。

拘置所より留置場増設へ 代用監獄"温存"され 「改革は30年前の国際標準」

不明点も多い。視察委員会が機能するか、は構成メンバーによる。弁護士を必ず加えるのか。面会できる友人の基準も不明瞭だ。法務省は、処遇法の運用を定める施行規則や細目について「検討中」(矯正局)と明らかにしていない。 矯正局によると現在、全国七十四刑務所などの行刑施設に、約六万七千人の受刑者が収容されている。 法が改正されても、現場職員の意識が変わらなければ、絵に描いたもちになってしまう。「結局は変わらない」(ある受刑者)という不信感は小さくない。 それを裏付けるかのように昨年十二月、宮城刑務所の元、現役受刑者三人が「看守らから暴行を受けた」として、国家賠償請求訴訟を東京地裁に起こした。 訴状によると、暴行は昨年五月に連続して発生。いずれも抗弁などを理由に房から引き出された上、投げ飛ばされ、一人は肋骨を折ったという。さらに訴状は、同年七月に「自殺」と処理された五十代の受刑者の死因についても、直前に職員と争う声を聞いたという証言から「疑問視されている」と指摘している。 同刑務所は「訴状の事実はない」と否定するが、同刑務所では昨年六月、職員が受刑者に暴行したり、逆に酒、たばこ、携帯電話の使用を提供した不祥事が発覚。七月に懲戒免職二人を含む十人が処分された。

名古屋刑務所事件後、改革がうたわれていたにもかかわらず、現場の意識は旧態然だったのか。監獄人権センター事務局長の海渡雄一弁護士は「事件は改革に対し、受刑者になめられかねないと恐れる古い意識の表れだ。こうした傾向を徹底的に除かねば」と話す。 さらに未決拘禁者を対象とした改正案について、海渡氏は「一定は評価できるが、修正すべき点も多い」と注文を付ける。「代用監獄を減らし、最終的に廃止する文言を法案の付則か、付帯決議に盛り込むべきだし、視察委には弁護士会推薦の弁護士を含むよう確認すべきだ。電話やファクスによる外部交通も運用段階で可能にするというが、法案にも記す必要がある」 日本弁護士連合会も代用監獄が存続する以上、取り調べの録音、録画や弁護士の立ち会いなどが冤罪防止には急務と訴える。こうした声に対し、法務省矯正局は「刑事手続き全般にかかわることで矯正局の範囲を超える」と話す。

ただ、今回の改革に対する刑法学者らの視線は厳しい。龍谷大学の石塚伸一教授(刑事法)は「特に改正案は改悪」と言い切る。 「代用監獄は監獄法では『各警察署に付属する留置場を使うことができる』という位置付けだったのに、改正案では『都道府県警が設置する』になった。これは計画中の大規模留置施設の呼び水になる。なぜ、拘置所を造らないのかといえば、結局、警察が容疑者を手放したくないためだ」 石塚氏は受刑者処遇法についても「名古屋刑務所事件から考えれば、施設内の死亡認定の透明化も図れなかったし、三十年前の国際標準のレベル」とみる。死刑囚処遇でも「法律上は従来は未決並みだったが、改正案では既決(受刑者)に後退した」と批判する。 「処遇法、改正案併せ、短期的には改善もみられるが、長期的、構造的には致命傷になる危険がある」 元衆院議員で、秘書給与流用事件により服役経験がある山本譲司氏は「自由な処遇より充実した処遇が必要だ。現実には受刑者の半数以上が再犯者で戻ってくる。財政の観点からも、これでは意味がない。更生プログラムの充実という点ではまだまだだ」と語る。

「本音語れない雰囲気」が現状

前出の加藤氏は服役中、しばしば「ここでは本音は口にしてはいけない」と仲間から諭されたという。 「自分の誤りを見つめるには、人との信頼関係が不可欠だ。でも、現状の施設では、誰もが二重人格にならざるを得ない。システムもさることながら、本音を語れる雰囲気がないと更生の目的は果たせない」

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[補陀落渡海] 現代の補陀落渡海はあらゆる面で国民を襲っている
大府市 池山 淳 愛知保険医新聞 第1621号 2005年10月5日

かつて補陀落思想というのがあった。中世の日本では、那智山の先端、今の和歌山県勝浦沖には観音菩薩の浄土が広がっていると考えられた。補陀落山寺というのがあって修行僧が修行した。そして一定の年月がくると、僧侶が生きたまま棺に収められ舟で海に流された。極楽浄土が広がる黄泉の国へ旅立つというのだった。しかし一二〇〇年の中頃、ある僧侶が棺をやぶって岩にしがみついて助けを求めた。それでも村人は彼を捕まえ再び棺に納めて海に流した。あまりのむごさにこの補陀落渡海という行事はなくなった。

しかし、現代の補陀落渡海は社会のあらゆる面で行われている。農村が放置され、中小企業が見放された。社会保障も削減され国民の一人ひとりが無理に舟に押し込められ渡海させられた僧侶のようになった。病人や老人など、国民は出口のない棺桶のなかで手足を血みどろにしてもがき苦しむ状態になった。

政府の行う補陀落渡海は独立行政法人にも行われた。国から切り離され、規制が盛り込まれたまま独立採算を求められ船出させられた。そのためほとんどの独立行政法人が苦しんでいる。彼らは研究の数を競い、研究の効率化が求められ、そして赤字にあえいでいる。大学病院では(1)独立行政法人化によって起こる補助金カット、(2)診療報酬DPCによる年収の削減、(3)臨床研修の必修化や労働条件の改善などによる給与費の増大など、あらゆる面で経済的逼迫と、競争と苦吟の渦の中に投げ込まれた。

旧国立病院にいたっては最初二百五十ほどあったものが生き残るのが百をきるとさえいわれている。大学病院では、高度先進医療の開発と実践、専門医療機関としての役割、学生や大学院生の教育、そして独自の研究など、大きな役割が追行不可能になることが指摘されている。現代の補陀落渡海はあらゆる面で国民を襲っている。国民は総力をあげてこれを行う政府と戦わなくてはならなくなった。

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[自己責任論を批判 「若者誇るべき」と仏紙]
共同通信 2004年4月20日

 【パリ20日共同】20日付フランス紙ルモンドは、イラク日本人人質事件で、日本政府などの間で「自己責任論」が台頭していることを紹介、「日本人は人道主義に駆り立てられた若者を誇るべきなのに、政府や保守系メディアは解放された人質の無責任さをこき下ろすことにきゅうきゅうとしている」と批判した。

 東京発の「日本では人質が解放費用の支払い義務」と題した記事は、解放された人質が「イラクで仕事を続けたい」と発言したことをきっかけに、「日本政府と保守系メディアの間に無理解と怒号が沸き起こった」と指摘。「この慎みのなさは制裁まで伴っている」とし、「人質の家族に謝罪を要求」した上に、健康診断や帰国費用の負担を求めたと批判した。

 記事は、「(人質の)若者の純真さと無謀さが(結果として)、死刑制度や難民認定などで国際的に決してよくない日本のイメージを高めた」と評価。パウエル米国務長官が人質に対して、「危険を冒す人がいなければ社会は進歩しない」と慰めの言葉を贈ったことを紹介した。(共同通信)

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「欲望垂れ流し社会」
ジャズミュージシャン 坂田 明
中国新聞コラム「風ぐるま」2003年7月26日

日本の社会は常に欲望を垂れ流しする社会になった。哲学も倫理も捨て去った事に気付きにくい構造になってしまった。電車の中の「つり広告」はいい例だ。週刊誌などの見出しや写真の低俗さを見よ。子供も大人もみんなあのようなものを見ている。明らかに学校で教師や校長が言っていることとは違う内容の世界があることの証しである。あのような雑誌の広告が電車の中にぶら下がっている国は世界に例がない。驚天動地、言語道断である。鉄道会社は営業行為であろう。雑誌を作っている会社も営業行為であろう。その営業行為をしている人たちはいい大人だ。何か言わせればいっぱしの事をいえる人たちが営業行為をしているのだ。

では、食うため、生きるためだったら何をしてもよいのか?このときに人間として最低限守りたい品位をどこに置くかという問題がでる。雑誌を製作する側から言えば「表現の自由」というものがあるのだが、さて?はっきりしているのは売春と、ポルノグラフィーが非合法化されているからであろう。つまり合法の範囲を限りなく非合法に近づけようとしてきた結果、事の本質を見失ったものであろう。「合法だからいい。どこへ出しても検挙されないはずだ」という理屈のもとに、社会が成熟した常識を共有できずに、気が付いたらお尻が丸出しになっていたというわけだ。人間の欲望をうまく消化吸収し、かついかにスマートにコントロールするかは、人類の課題であり続ける。

次は女子高生のミニスカートだが、あのような女子高生は世界に類を見ない。あれは売春婦の格好が市民社会に進出したものとしか見えない。疑問のある人は外国へ行ってよく見てこられるといい。生物学的に見れば、最も子供を産み育てるのに適した身体的年齢であるにもかかわらず、精神的に甚だ未成熟な状態で、これはネオテニー(幼体成熟)だろうと思う。電車の中で化粧をするのもネオテニーらしいが。しかし、社会の趨勢に人の考え方も左右されるのです。女子高生も大多数がミニスカートをはけば自分もはきたくなるでしょう。自分が気に入ったオスと出会うチャンスを、他のメスと比べて悪い条件で勝負したくありません。むしろその条件を積極的有効に活用したいと思うメスも当然出現する。群れには必ずバラツキが発生する。その上、電車の中や駅であぐらかいて座るなど、したい放題。これもひょっとすればネオテニーかも。うがった見方をすれば、彼女らは、社会のインチキを見抜いているからかもしれない。

われわれは、他人のインチキを阻止できなくても、自分がインチキをしたり、インチキに加担するのを止める事はできる。


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[「長寿村の秘密」大自然 ストレスを濾過]
清水正弘 中国新聞「くらし」こころのコンパス(15)2001年1月13日

不老長寿の里として名高いパキスタンのフンザ。春は、アンズや桃の花で、谷が薄ピンク色に染まる。氷河から流れ出す水が勢いを増して、夏が到来する。短い秋の後、足早に冬がやってくる。万年雪を頂くカラコルムの峰々と里の色が、白で溶けあう期間が長く続く。日本の作家が、白きたおやかな峰と呼んだディラン峰や、天使の首飾りという意味のラカポシ峰など秀麗な山々が里を取り囲む。

アンザは、氷河からの濁流が渦巻くインダス河の上流にある。ガードレールもない目もくらむ断崖絶壁の道を二日がかりでたどり着く。ここに生まれ、日本人女性と結婚した友人の話である。妻の父親に痴呆の症状が出た時、彼は初めてアルツハイマーという言葉に接した。百歳以上と思われる老人が多い故郷には、痴呆という言葉がなかったという。

確かに、フンザでは年を重ねた人たちをよくみかけた。春の穏やかな日だまりの中で、畑仕事をしていたり、家畜を連れた光景に出会った。白い家の壁にもたれて、たばこをうまそうに吸っているシワだらけの老人もいた。山あいの小さな谷で、土と接しながら、人生を完結させてゆく。ストレスを感じても、大自然という大きな濾過器がそれをこしてくれる。生きてゆく上で、何が最小限必要なのかを選択し終わっている人たちなのだろう。訪れる度に、考えさせられる。平均寿命では世界のトップレベルの日本。しかし、心の平穏度という尺度ではどうだろうか。年を重ね心の汚れをそぎながら枯れてゆく人生観は、日本にもあったはずだ。

ストレスを濾過する時間と空間が、身近な生活風景の中にも存在していた。生きている人同士が、年齢に関係なく、思いやりと優しさ、そして厳しさをもった生活風景。その風景が日本人の心の原風景として伝承されできたはずである。唱歌などのメロディーで、その原風景に出会った時、私たちは自然と涙が出てくる。その涙が、心の汚れを流してもくれる。(辺境旅行プロデューサー、広島県筒賀村)

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[「健康日本21」推進運動、人間を序列化する恐れ]
滝上宗次郎 中国新聞「くらし」介護あの目この目(39)2001年1月7日

厚生省の念願であった健康づくり計画「健康日本21」が具体化に向けて走り出しました。21世紀の最初の10カ年計画です。悪い生活習慣を改善してもらい、国民の健康増進を図る。 同時に、病気を減らすことで膨脹する医療費を抑えたい。 二兎を追い、気合が入っています。よく分かります。三年前、私はコレステロール値がやや高いと、健診で発見されました。医師から薬を継続的にのみますか、それとも食事を節制しますかと問われました。好物の卵やイクラは、あきらめました。自己努力を選んだのです。一方で治療に頼る人もいます。国の立案ですが、「健康日本21」の音頭をとるのは役所ではありません。国民的人気を博する多数の著名人などからなる「健康日本21推進国民会議」です。国が目標管理することに対し、強烈な反発が予見されたからでした。生活が悪かろうが個人の勝手ということです。確かに国が一日に酒は何合まで、タバコは何本までと決めつけるのはやり過きです。国民は国家管理がどんなに危険なものかを戦争で体験ししこうています。さらに、嗜好品業界からも政治家への揺さぶりが相当にあったと聞きます。

私には、国民会議という体裁をとったにしても、この運動自体に疑問が多いのです。「健康日本21」の目標である「健康寿命」という言葉が受け入れられないからです。健康でなければ、寿命が長くても意味がないという響きがあリます。それは考えすぎだ、という指摘もありましょう。しかし、介護保険を利用する二百万人以上の高齢者やその家族からすれば、「健康寿命」とは気分がよくなる言葉では絶対ありません。私は、老人ホームで働いていますから強く代弁します。高齢でなくても、病弱な人や障害をもつ人にとって同じことです。「健康日本21」を推進する運動から、「健康寿命」という言葉や「健康でない人は生活の質が低い」という基本概念は捨ててもらいたい。人間に序列をつくる運動に転化してしまう懸念があるからです。健康だから生活の質が高いとはいえません。よい介護があれば豊かな暮らしも可能です。健康な人がそうでない人を一律に低く評価することは許されません。人の価値に差はありません。天は人の上に人をつくらず、です。(有料老人ホームー「グリーン東京」社長)

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[医師の社会的責任の重さ]
中国新聞コラム「天風録」 2000年5月16日

本音は逐一病状を公表したかったのではないか。小渕恵三前首相をみとった順天堂医院医師団の会見をみてそんな気がした。医師の沈黙が小渕さんの入院から森内閣の発足までの不明朗さに輪を掛け、国民の不信を募らせたからである▲医師団がそうした対応に苦慮したことは一見、矛盾するかに思える病院側の言葉にうかがえる。それはざっとこうだった。「家族の意向を十分尊重し、公式発表を控えた。(首相は)公人中の公人なので病状を刻々、逐一官邸に伝えた」と▲ここで読み取れるメッセージは医師団には「家族の了解を得るまでもない公人」という認識があったこと。にもかかわらず、了解が得られないことを盾に公表を阻む政治的圧力がかかり、責任回避ともとれる沈黙を強いられたこと。官邸への伝達を強調したのはそれを訴えたかったからだろう▲「万事よろしく頼む」と、小渕さんに臨時首相代理を託されたとする、青木幹雄官房長官の証人なき権力継承に臨床上、懐疑的な見方を表明し、長官の説明に「正直なところ、多少びっくリした」と疑問を挟んだのも医師団の「一矢」ではなかったか▲でも、それで総理という国権の長を預かった医療機関の責任を果たしたかと言えば残念ながら不十分だった。政府・自民党筋の強力な介入を排し、民主社会の一員として「国民の知る権利」にこたえる独自の判断をして良かったはずである▲そこに立てば、病状や意識状態を磁気共鳴診断装置(MRI)やコンピューター断層撮影(CT)のデータで国民に説明できたし、今後、真相の公表も可能になろう。医師の社会的責任の重さを痛感する。

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「人は殺されてはならない」、被災者を救うこともできない国が「人間の国」か
[憲法]見つめ伝えたいこと@朝日新聞阪神支局襲撃から12年
朝日新聞 1999年5月7日

作家・評論家 小田 実

大阪市出身。1958年、フルブライト留学生として渡米。世界放浪体験をまとめた「何でも見てやろう」がベストセラーに。65年に「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」を結成。日韓連帯、反核など多彩な市民運動に取り組む。88年に「HIROSHIMA」で第三世界最高の文学賞ロータス賞受賞。現在は被災者生活再建支援法の支給金額引き上げを目指し活動中。兵庫県西宮市在住。66歳。

阪神大震災で、つくづく「この国は『人間の国』じゃない」と感じた。被災者の生活基盤の回復にすらまともに取り組もうとしない国なのに、先進国だなんて威張れるもんか。震災直後、取材に来た外国の記者に「公的援助はない」と話したらたまげていたよ。「日本は経済大国だろう」と聞かれて説明に困り、思わず「そうかもしれないが、人間の国じゃないんだ」と口をついて出たんだ。

それまでもやもやしていたことが、その言葉に凝縮した。国は「震災は総理大臣が起こしたものじゃないから責任ない」とか、「先進国は被災の個人補償をしていない」なんて、うそ八百を並べる。

アメリカは、地震が起きればすぐホームレスに至るまで小切手を渡して生活保障をした。「民主主義国家は市民で成り立っている。市民生活の危機は国家の危機だ」というんだ。見事な論理だ。日本だと「銀行の破たんは国家の破たん」というが、「市民生活の破たんは国家の破たん」とはいわない。公的支援が法案になるまで二年以上かかったのに、相手が銀行だとすぐ税金を投入する。恐るべき矛盾だ。

国民性、政治、自分も含めた「日本」という存在全体に対する怒り。それが「人間の国じゃない」という言葉になったと思う。

■自然災害で住宅を失った世帯に最高百万円を支給する「被災者生活再建支援法」を成立に導いた立役者の一人。「震災を見れば、日本という国が戦後半世紀解決してこなかった社会的な矛盾がよくわかる」という。

明治以降、日本は富国強兵政策の下、軍事侵略国家になったわけだけれど、それは国民生活を犠牲にして成り立っていた。この図式は1945年の敗戦でつぶれた。「文化と平和を重視して、そこそこ食える国になればいい」というのが敗戦直後の国民的コンセンサスだったのに、いつの間にかまた、国民生活を犠牲にしてでも経済を発展させる方向へ行き始めた。それが誤っていたことは、震災の被災者を満足に救えない現状から明らかだ。

ある意味、震災は新たな日本をつくるきっかけとして肯定的に受け止めるべきなんだ。「金になるかならないか」という価値観が通用しないことを震災で悟らされた。いわば自然からの仕返しだ。ダイオキシンも環境ホルモンも根っこは一緒。二十世紀は破壊の世紀と自覚して、自然であれ人間であれ、非暴力で共生する方向に転換しないと。

■ベトナム戦争時、「ベトナムに平和を!市民連合」を結成するなど、平和運動にも尽力してきた。

日本人は「殺し、奪い、焼き」の歴史を45年まで続けてきて、「殺され、奪われ、焼かれ」の結果で終わった。暴力はいかんということを体験済みだ。いまコソボで北大西洋条約機構がしていることを見れば、暴力は暴力の拡大にしかつながらないことは明白だ。しかも、世界の紛争に介入できるほどの実力は日本にない。自然と非暴力に落ち着かざるを得ない。

「人を殺してはならない」というが、これは違う。「殺されてはならない」と考えないと。「殺してはならない」だと、アルバニア人を殺すセルビア人は殺していいということにもなる。それはテロだ。何が正義かを勝手に決め、従わないやつは殺せといってるんだから。それを防ぐべき国家が同じことをしている。

朝鮮半島の問題もある。私たちもしっかり考えないと国家によるテロのお先棒を担がされることになる。

■散弾銃を持った犯人に記者二人が殺傷された朝日新聞阪神支局襲撃事件。暴力で意見を押し通そうとする行動は断固排斥しなけれぱならない。ただし、言論によって。

よく「言論の自由を守れ」というだろう。これは「言論の自由を使え」という方が正しい。言葉を媒介にして人と人をつなぐ努力をすれば、暴力は避けられる。そのためには、自分の言葉を狭い範囲でしか通じないものにしてはいけない。わかりやすく伝える技術を磨き、良心と良識に基づいて事実を踏まえて語れば、暴力の連鎖は断ち切れる。

■この国が「人間の国」に変わるためには…。

夢想でも何でもない。経済発展優先の誤りを正し、中立性を前面に出せば、世界の中で価値ある国として生きられる。非常に現実的な選択だ。それしかないんじゃないか。(聞き手・星乃勇介)

ロ  ロ

1987年5月3日の憲法記念日に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件から、12年がたった。冷戦の終結、バブル経済の崩壊、そして阪神大震災、不況…。この間、世の中は大きく揺れ動き、先行きの不透明感も増している。憲法が支えているこの国の社会や生活の中にどんな問題が潜んでいるのか。私たちはそれをどう考え、何をなすべきなのか。さまざまな分野で時代への鋭いメッセージを放ち続けている人びとに語ってもらった。

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[これは「人間の国」か] 「経済大国」の貧し
小田 実(作家、兵庫県西宮市在住) 朝日新聞 1996年1月18日

地震後一年、被災者の一人として私が今考えることは、戦後五十年の日本は「経済大国」を形成したかも知れないが、ついに「人間の国」をつくり出して来なかったことだ。今さら、外国にまでよく知られた、被災地の「棄民」としか言いようのない人間無視の政治を改めて論じ立てるつもりはない。それは、一年たっても明日の生活再建の見込みも立たなをいままで十万人近くが仮設住宅や学校、公園で生活する事態がよく示している事実だ。

住む家が全壊した人でさえが、これまで受け取った援助は、とるに足らない金額だ。これも「義援金」からのお金で決して「公」的な援助金ではない。私のもとには外国人記者が来ることが多いが、彼らは被災者が何の「公」的援助金を受けていないことを知って驚き、異口同音に言う。「日本は豊かな経済大国ではないのか」私は答える。「経済大国ではあっても、人間の国ではない」復興は建物や道路のことではない。まして、今、神戸がまたしてもやりだした、今や土地が売れずに困る人工島や採算のメドもつかぬ空港をつくることではない。復興は人びとが安心して住める社会をつくることだ。そのためにはまず、「公」的援助金によって困窮被災者の生活基盤の回復をはかる。その回復あって、はじめて経済の復興もなる。

かつての山を削り、海を埋め立て、超高層建築をおっ立て、高速道路を貫通させる乱開発発展は、右肩上がり、そのきわめつけの「バブル」経済あっての話。それを今さら繰り返そうとしても、できるはずはない。その乱開発発展で一時「神戸株式会社」の成功をもてはやされた「被災神戸」は、今や土台が大きく揺らいできた日本の中央政治にとって「お荷物」になってきているにちがいない。

昨年十二月に発表された「住専」に対する6,850億円の「公」的援助金が大きく存在する来年度の政府予算(案)は、あたかも大震災はなかったかのように、「被災神戸」が存在していないかのようにして組まれているように見える。その証拠に、そこには千億円余もの「建設促進費」が計上された明石海峡大橋のほかに、同じ淡路島にもう一本、この大橋よりさらに長大なつり橋をかけるための予算までが計上されてもいれば防衛予算は六年ぷりに伸び率が前年度より上まわって、増加分だけで1,219億円の巨額に達する。

さらに言えば、昨年九月に沖縄で少女暴行事件をひき起こした駐米軍に対する「思いやり」予算には、先方が要求をしていない11億円の上乗せ分までが計上されているのだが、国はどうして「思いやり」を、今なお仮設住宅、学校、公園に住む十万人近くの人々に向けようとしないのか。しかし、問題は中央政治だけのことではない。「被災神戸」の行政自体が、困窮被災者の生活基盤の回復を無視して、あたかも大地震がなかったかのようにして以前通りの乱開発発展をやろうとしているのだから、ここで、もっともひどい目にあうのは、その十万人近くの人々だ。彼らは国家、地方、双方の政治によって二重に「棄民」にされている。これは「人間の国」か。

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