歴史と文化

[鞆の浦の行方と選挙の行方] 広島県医師会速報(第2074号) 2010年2月15日
「鞆の浦は誇れる宝物」可能性を探ろう 備陽史探訪の会会長 田口義之 朝日新聞「十色つれづれ」2008年1月19日
[備後天明の一揆物語り 天明の篝火(かがりび)] 中近世文学大賞受賞作家 藤井登美子(福山市在住)著 2006年12月発行
[アイヌの暮らしは自然の一部] 朝日新聞「科学」記者席 科学医療部 柏原精一 2006年6月21日
[天台本覚論とアイヌ思想] 梅原 猛 朝日新聞「反時代的密語」2006年1月31日
[歴史の町・鞆の浦] 中国新聞コラム「天風録」2003年6月4日
[グローバル化ということ] 中国新聞「風ぐるま」2001年8月17日 崇徳学園理事長 高橋 乗宣
[澤村船具店] 創業三百年を超える船具用品専門店が、国内屈指の景勝地、鞆の浦より情報発信します

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[鞆の浦の行方と選挙の行方]
広島県医師会速報(第2074号) 2010年2月15日

 吾妹子が見し靭の浦のむろの木は 常世にあれど見し人ぞなき

これは730年に太宰帥の任を終えた大作旅人が、平城京に戻る際に靭の浦で詠んだ万葉集の歌である。3年前の赴任する道程で、妻と靭で長寿の木といわれるむろの木を眺め、お互いに長生きしようと誓ったが、妻は翌年亡くなった。帰路で再びむろの木を見つけた際の旅人の哀感が伝わる。

靭の浦は瀬戸内海の中央に位置し、紀伊水道と豊後水道からの潮流が出会うことから潮待ちの港として栄え、江戸時代までその機能を果たしてきた。現在も石造りの雁木や常夜灯などの港湾施設と古い町並み、さらに朝鮮通信使がそこからの眺めを日本最高と絶賛した対潮楼など、万葉の時代からの雰囲気が奇跡的に残る貴重な文化遺産エリアである。実際に当地を訪れるとタイムマシンに乗って中世にやってきたような錯覚に陥り、冒頭の歌の時代の面影も残っていそうである。今年のNHK大河ドラマの主人公坂本龍馬と海援隊を乗せた船が、衝突沈没したいろは丸事件もここが舞台である。さらに数年前は、宮崎駿監督が「崖の上のポニョ」の制作前に居を構え構想を練ったことでも有名となった。

しかし中世の街路は当然車社会とは無縁であり、幅員は自動車がスムーズに離合できないほど狭く、住民の生活に支障をきたしている。それらの問題を解消しようと27年前に県が計画したのが、美しい弧を描く港の真ん中にバイパスを通す「靭の浦埋め立て架橋計画」である。計画が実現すると、港に突き出た灯台の役目の石造りの荘厳な常夜灯の目の前を人工的な橋が横切り、海に広がるすばらしい眺望が遮られる。さて靭の人口が減り続けるのもこの交通事情のためという意見は妥当だろうか。今の時代、バイパスができれば本当に人口減に歯止めがかかるかは疑問である。

靭の魅力は、対岸の仙酔島と弁天島などの美しい島々の眺望や個々の文化遺産だけではなく、総合的な空間である。その一つを破壊することで全てが台無しになり、また一度破壊すれば二度と復元することもできない。景観を守るため山側にトンネルを造る案を提示しても、これでは大手ゼネコンが施行し、地元建設会社に仕事が回ってこないとの憶測もあると聞く。しかし世界中の文化遺産やそのエリアを見ても、国が指導力を発揮し率先して知恵を絞り良いアイデアを出し、住民にも文化遺産の中に住んでいるという自負をもってもらい、少し不便でも生活している場所も多数ある。

この危機を切実な問題と認識したユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議は、「15世紀の寺社、18世紀の町並み、石造りの港湾施設から稀に見る意義深い歴史的な港町」と賞賛し、計画の放棄と代替となる交通手段を展開するよう要求した。さらに昨年は、住民からの事業差し止め請求裁判で、差し止めを認める判決が出て全国的に大きく取り上げられた。しかしこれだけ世の中が靭の価値を認めているにもかかわらず、前県知事と現福山市長は頑なに推進を貫き控訴した。以前国土交通大臣からも地元住民の意向だけでなく国民の同意が必要と一喝されたが、市長はほとんど意に介さずである。

ただし最近、公共事業の継続か中止かが争点となった選挙で、首長が変わることで事業が大きく方向転換するケースが注目されている。田中長野県知事の脱ダム、橋下大阪府知事の財政改革、昨年の民主党政権交代により誕生した鳩山首相の八ッ場ダム建設中止、また先日の米軍普天間飛行場移設先の名護市長でも受け入れ反対を表明するなど目白押しである。この硬直状態を打破するには、もはや選挙でわれわれの民意を伝えるしかない。幸い今回、一方の広島県知事が湯崎知事に変わり、若干光明を見出す。今年は身近な各医師会でも会長の改選が多く予定されている。現状に問題があり変化を求めるなら、選挙に興味を持ち、貴重な一票から政治や社会を動かすことも必要ではなかろうか。(岩崎泰政)

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「鞆の浦は誇れる宝物」可能性を探ろう
備陽史探訪の会会長 田口義之さん*
朝日新聞「十色つれづれ」2008年1月19日

*福山市生まれ。80年に備後の歴史を研究する同会を設立。90年から会長。県行政書士会理事。52歳。

福山市にとつて歴史の原点ともいえる鞆の浦が危機に瀕しています。県と市は鞆港の埋め立て・架橋計画を推進する構えで、このままでは貴重な歴史的景観や地元の人たちの暮らしが失われてしまいます。

よく知られているように鞆は瀬戸内海の中心に位置し、潮待ちの港として栄えてきました。江戸中期の政治家で、学者の新井白石は鞆を「魏志倭人伝」に記された邪馬台国に次ぐ大国の「投馬国」に位置づけました。邪馬台国が大和(畿内)にあったとする説を唱える学者の中で、白石の説を継承する人は少なくありません。万葉歌人の大伴旅人は九州からの帰路に「むろの木」の歌を詠みました。要衝の地で、足利尊氏が勢力を盛り返したり、室町幕府最後の将軍の足利義昭が滞在したりしたことから「足利氏、鞆に起こり、鞆に減ぶ」と言われました。江戸期には参勤交代の大名たちだけでなく、朝鮮通信使が訪れて「日東第一形勝」と景色の美しさを絶賛しました。

鞆は海に向けて開かれ、繁栄してきました。明治期からは鉄道、道路などの陸上交通が整備されて時代の流れとともに力を失ったわけですが、江戸期からの港町の姿を残す歴史的港湾都市として国内外の高い評価を受けることになったわけです。

福山市は埋め立て・架橋計画を進める一方で、鞆町の中心部約8.6ヘクタールを対象に国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の選定をめざしています。これでは箱庭のように町並みの一部を残し、海側には巨大な道路が走るだけで、江戸期の港と町並みが一体で残っている貴重な歴史的景観が壊されてしまい、何のために古い建造物を保存するのかわからなくなってしまいます。海と島々の美しい景色が見渡せることも観光地としての大きな魅力なのに全体が道路で二分され、大型車がひっきりなしに往来することになれば、地元の人たちは都市部と同じように騒音などにさらされながら生活することになります。

歴史や文化、自然を抜きにまちの将来像を描くことはできません。それらの遺産をどう生かすかが問われます。初めて訪れた人を魅了し、何度も足を運ぶようになる鞆は国内外に誇る宝物であり無限の可能性を秘めているように思えてなりません。

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[備後天明の一揆物語り 天明の篝火(かがりび)]
中近世文学大賞受賞作家の最新作 藤井登美子(福山市在住)著 2006年12月 初版発行

餓死者の数、百万と伝えられる天明の大飢饉にもかかわらず、老中就任を悲願とする福山藩主阿部正倫の意を受け、奸臣遠藤弁蔵は言語に絶する苛政を領民に課した。民衆の熱い信望を担うのは神辺徳田村の庄屋徳永右衛門。身分を超えた男の意地が備後の平原にぶつかり合う!

備後恵蘇郡川北村を追われ、流浪の一家に生まれた新四郎は、儒学者の菅茶山、庄屋の徳右衛門、「義倉」創設者河相周兵衛らの温かいまなざしに見守られ、未曾有の大飢饉と立ち向かい、四万の民衆が蜂起した天明大一揆を乗り越えて逞しく成長していく。そして彼らを支えつづける心優しき女たちの物語。

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[アイヌの暮らしは自然の一部]
朝日新聞「科学」記者席 科学医療部 柏原精一 2006年6月21日

「大自然の北海道、っていいますけど、大ウソ。短い間に、これほど収奪された土地は他にありません」見渡せば、はてしなく続く牧草地と畑。確かに、豊かな落葉広葉樹林に覆われていた、かつてのアイヌモシリ(アイヌ人たちの大地)の面影はないーあるシンポジウムにゲストスピーカーとして招かれた北海道ウタリ協会・秋辺得平さんの話に、目を洗われる思いで聴き入った。

「アイヌは、腕に止まった蚊を叩きません。払うだけです。植物にとってかけがえのない花は手折らず、飾る習慣がありません。シャケは、川に戻って産卵を終えたものを食べる。森が一番元気な夏には山に入らない。それがマナーなんです」「育てた熊は、3歳までに殺してみんなで食べます。いわゆる、イヨマンテです。わが子も同然だったんですから、それは悲しい。でも、熊はアイヌの貴重な食糧。食べて、神の国に送らないと、自然との関係がおかしくなってしまうのです」自然との共生という言葉は、アイヌの暮らしぷりをいうには、まだ人間側に寄りすぎていると思う。「自然の中で自然の一部として生きる」。そんな表現はどうだろう。

「天然」の対立語が「人工」ではない世界観から、現代が学べることは少なくないはずだ。しかし、アイヌ語を母語とし、アイヌ語で物を考える人は、もはや「皆無」。「結婚はアイヌどうしにこだわらない」のもこの文化の特徴なのだという。

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[天台本覚論とアイヌ思想]
梅原 猛
朝日新聞「反時代的密語」2006年1月31日

今年は最澄が天台宗を開宗して千二百年になるが、延暦寺においては宗祖最澄よりむしろ元三大師良源のほうが崇拝されている感がある。良源は円仁・円珍によって始められた天台密教の完成者であり、その思想は「山川草木悉有仏性」という言葉によって表現される天台本覚論であるとされる。

私は最初、この良源の崇拝にいささか疑問を感じたが、今はそれももっともであると思っている。なぜなら、この天台本覚論は禅、浄土、法華などの鎌倉仏教の前提になった思想であり、日本仏教独自の思想であるからである。この思想は、仏性をもつものを動物ばかりか、植物からさらに無機物と思われる山や川にまで広げるものであるが、インドの仏教思想にはない。

インドの仏教において衆生すなわち有情とされるのは動物までである。福永光司氏によれば、仏性をもつものの範囲を植物にまで広げたのは道教の影響を受けた天台仏教であるが、この思想は中国思想の主流ではなく、日本へ移入されて花開いたものであるという。私は、日本においてどうしてこのような思想が生まれたのかを問い続けたが、その答えは容易にみつからなかった。ところが最近、知里真志保氏の著作集を読んでいて、思いがけなく天台本覚論の原形をみつけたのである。知里によれば、アイヌ思想においては山や川も人間と同じような肉体をもつ生き物と考えられているという。

川は生き物であるのでヘアイヌ語には「ペッ・キタィ」(川の源)「ペッ・ランドム」(川の胸)「ベッ・カンカン」(川の腸)などという言葉がある。また川は生殖行為をも営むと考えられ、二つの川が合流しているところを「オウコッナィ」(交尾している川)、河口のふさがれている川を「オプッチャクナィ」(陰部に口のない川)とよぶ。山も生き物であるので、「ヌプリ・キタイ」(山の頂)「ヌプリ・オケシ」(田尻)「シレド」(出鼻)という言葉がある。山はまた喧嘩好きなので、屈斜路湖の奥のモコト山や摩周湖の近くのカムイ・ヌプリなどに関して血を血で洗う山の争いの話が伝えられる。

知里は、このような世界観は日本本土にはないというが、そのようなことはない。日本本土においても、二つの川が合流するところが川合とよばれ、多く神社が建てられている。古代日本語で「あう」というのは交合を意味するので、川合の地は川の交合するところであろう。尻魚川という川も日本のあちこちにある。また山についても、山の頂、山の背、山の尾、山の腰などという言葉が使われる。『万葉集』に三山伝説が語られているところをみると、山は古代日本人にとっても、人間と同じく恋をする生き物であると考えられていたことは間違いない。

アイヌの人々にとっては植物も人間の如き生き物で、木の枝のことをアイヌ語では「木の手」とよぶと知里はいうが、この点では日本語のほうがはるかに、植物も人間と同じように身体をもつという世界観を残している。植物は身すなわち実を人間に与え、眼すなわち芽、鼻すなわち花、歯すなわち葉をもっている。

埴原和郎氏などの自然人類学者によって、アイヌの人々は土着の縄文人の末喬であり、和人は縄文人と渡来の弥生人との混血であることが明らかになった。それゆえアイヌ社会にはっきりみられるこのような縄文時代の世界観が古代日本に強く残っていてもおかしくはない。

動物ばかりか植物や山や川さえも本来人間と同じような存在であるとすれば、狩猟採集によって生活する人間にとって一つの道徳的難問が生じる。それは人間が、本来人間と同じ生き物を殺さねばならないということである。これについてアイヌ社会では次のように考える。たとえば熊はあの世では人間と同じ姿で生きているが、人間の世界を訪ねるとき、おいしい肉と毛皮をミヤゲ(土産)として持ってくる。ミヤゲはアイヌ語では「ミアンゲ」といい、身をあげるという意味である。人間は熊の意思に従ってそのミヤゲをいただき、その代わりに礼を尽くして熊の霊をあの世に送る。そのようにして送られた熊の霊があの世へ帰り、礼を尽くして送られてきたことを仲間に話すと、「それでは俺も行こう」と、翌年の熊の豊猟が期待される。

このような思想は、何万年の間、狩猟採集生活を営んできた人類が、動物を殺すことに罪を感じつつも殺さずには生きていけない人間の生活を肯定するために考え出した苦肉の思想ではなかろうか。

そういう思想こそ、神によって理性を与えられている人間は理性なき動物の生殺与奪の権をもっているのでいくら動物を殺してもかまわないという思想よりはるかに、生きとし生けるものにやさしい思想ではなかろうか。

もしも環境問題解決のためにアニミ時ズム思想の復活が必要であるとすれば、このような一見不可解な世界観も再考されねばならないと私は思う。(哲学者、題字も)

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[歴史の町・鞆の浦]
中国新聞コラム「天風録」2003年6月4日

スニーカーに懐中電灯、ベルトに万歩計のスタイル。未明から三時間ほど、福山市の靹町を散歩したことがある。日課にしている知人に誘われて、狭い路地と階段、、寺の境内などをひた歩いた▲鞆の浦には寺が多い。潮待ちの港として栄えた名残である。寺の本堂前で手を合わせ、鞆城跡の小高い丘の周りを上り下り。体がほてる。空が白みかかったころ。汗をぬぐいながら、丘から眺めた鞆の港は心に染み入った▲江戸期から残る風情ある家並みと、焚場(たでば)、雁木(がんぎ)、常夜灯などの港湾施設がそろって残る鞆の浦に、埋め立て・架橋の計画が持ち上がって二十年になる。道路整備を最優先する計画推進派。景観の保全を訴える反対派。両者の溝は埋まらないままだ▲中国新聞が実施した電話世論調査では、架橋計画の是非をめぐり福山市全域の意見は、賛成45%、反対36%。地元の靹町では賛成が81%、反対は10%。「ソト」と「ウチ」の意識の差は大きい▲道路が狭くて不便、火事への不安、このままでは過疎になる、といった悩みを地元で聞いた。「景観優先を主張するのは外の人がほとんど。住んでみなければ不自由さは分からない」とのいらだちも分かる▲それでも、掛け替えのない人類の財産である。景観の保全か、埋め立て・架橋かの二者択一になったのは不幸なことだ。「また街並みを歩き、医王寺から見下ろす弓形の港を見に行きたい」。そんな思いを「ソトの人」の当方にさせるのが、輔の浦である。

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[グローバル化ということ]
中国新聞「風ぐるま」2001年8月17日
崇徳学園理事長 高橋 乗宣

イタリアのジェノバで開催された二十一世紀最初のG8サミットは、反グローバル化を主張する二十万人のデモ隊が荒れ狂う異様な雰囲気に包まれたようだ。何台もの車が黒こげとなさくれつり、催涙ガス弾が炸裂し、警官隊との激しいぶつかリ合いの中で一人の若者が発砲によって殺されたという。各国の首脳たちは金網の囲いの中に閉じ込められ、初めてサミットに出席した小泉純一郎首相をして「まるで篭の鳥だ」と嘆かせる状態だったようだ。反グローバル化デモと言えば、九九年十一月末からシアトルで開催されたWTO閣僚会議もそうであった。この会議では、二十一世紀にふさわしい自由貿易体制の構築を目指す新多角的通商交渉(新ラウンド)の立ち上げをはかる予定であったが、デモ隊に阻まれて流産し、今年十一月にカタールのドーハで開く次回閣僚会議に持ち越される結果となった。

こうした構図は、大部分の日本人にとってはとても分かりづらいことではないかと思うのだが、どうだろうか。日本でも九〇年代以降、グローバル化という言葉がなにかと多用されるようになっているが、これに対して目立った反発はほとんど見られない。金融ビッグバンでもグローバル化はキーワードの一つだし、グローバルスタンダードであるとか、生産のグローバライゼーションといった言葉がほとんどなんの抵抗もなく受容されているようだ。考えてみると、これはまことに不思議なことである。どうやら日本では、グローバル化という言葉が、国際化という言葉とほとんど大同小異の意味合いで受け止められているのではないかと思われる。もしそうだとすれば、グローバル化ということが違和感無く受け入れられるのも分かるような気がするのである。

だが、言うまでもなく両者は本質的に異なる概念である。国際化というのは、あくまでも国民国家の存在郷前提てあり、国と国との関わリ合いの世界である。これに対してグローバル化というのは、全地球規模で考え、行動することを意味しており、国民国家の存在は限りなく希薄なものとなる。日本語ではどうも適切な訳語が見当たらないのでカタカナ表記が用いられている。それを咀噛するさいに無意識的に〃国際化"という漢字表記に置換しているのだろう。この置換によって本来の意味が失われ、時代の特性に対する認識もまったく不完全なものになってしまう。反グローバルを叫ぶ運動の高まりについても理解を絶することになってしまうわけだ。言語と認識とは不可分離だということを痛感させられる。中国語では"全球化"と訳されていて、これなら国際化との区別も明瞭で、分かりやすい気がする。環境との共生、健康や安全、弱者配慮、さらには非政府組織(NGO)の重要度の高まりなどを考えると、市場原理一色のグローバル化についてわれわれも再考してみる必要がありはしないだろうか。(東京都世田谷区)

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