これだけでは足りない
新橋演舞場公演『小笠原騒動』より
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  春にふさわしい清々しい公演である。少し無理をしてチケットを取った甲斐があった。
 新聞各紙がこぞって評していた「若手だけが結束し、協力し合って行っている公演」「自分たちでこの芝居を創ったのだという喜びがみなぎり溢れていること」(日経)、「役者が本当にやりたい芝居をやっている覇気を感じる」(朝日)というのはほんとうであった。熱気がびんびん伝わってくるのである。
 この公演は中村橋之助の発案で企画され、俳優、スタッフが協力して意見を出し合い、工夫を重ねて昨年京都の南座で上演が実現した。今回はさらに練り上げて演舞場で早々と再演の運びとなったわけである。このプロセスが重要であり、特殊であり、観客に熱気が伝わる大きな要因となっている。
 前半は淡泊である。客席の反応も静かだ。
 橋之助が登場すると舞台がぱっと華やぎ、同時に引き締まる。橋之助演じる岡田良助は金と出世に目がくらんで悪事を働くが、ほんとうは家族思いで情の厚い男である。悪と善の部分が複雑に入り交じり、変化する。ほとんど近代劇に近い心理描写や、小悪人が心の奥底の善を次第に表出させて改心していく様子など、丁寧であるのに説明くさくない。
 しかし、眼目の水車小屋での本水を使った立ち回りについて気になるところがあった。
 良助の橋之助と小平次の中村翫雀が小屋の屋根に登ったり、その屋根が壊れて滑り台のようになって下の池に落ちたり、水車に橋之助がつかまってぐるぐる回ったりと、大変なものである。下座音楽もチンドンカンカンと威勢良く、わくわくする気分をかきたてて、客席も大いに盛り上がる。
 だが屋根から水の中に入ったあとの橋之助と翫雀の立ち回りは、立ち回りというより、
子どもの水遊びである。それも水に落ちた途端に、すぐ水遊びになる。ばしゃばしゃと派手に水を掛け合ったり、口に水を含んでぷーっと吐き出したり、おもしろいことはおもしろいのだが、おいおい、ここは小笠原隼人の密書と取り返し、女房を殺された恨みを晴らそうとする小平次と、改心した代償に家族全員を失って捨て身の直訴をせんとする良助の必死の戦いではないのか。
 しかも互いのほんとうの事情を知らぬ故の悲劇が最高潮に高まるところである。
 互いに人生と家族を背負った大人の男が我が身を投げうって、斬り合いをする。自分が死ぬか、相手が死ぬか。小屋の前での刀を使った立ち回りはめりはりがあって気合いが漲っているのに、水にはいった途端水遊びになるのはどうかと思うのだ。
 必死の斬り合いの中に、思いもよらない滑稽味が瞬間的に出てしまえばこそ、おもしろいのではないか。さぁこれからが工夫したところですよという手つきが見えてしまっては興をそがれるのである。
 さらにいけないのは、橋之助が公演の筋書きや新聞や雑誌のインタビュー記事で「息子たちをゴムプールで遊ばせておいて、その動きをひたすら観察した」と種を明かしているところだ。わかりやすすぎるではないか。
おお、なかなかおもしろい立ち回りだ。
 あっ、もしかして子どもの水遊びの動きを使ったのではないか?と観客のほうに気づかせてほしいのである。
 これは贅沢な要求だろうか?
 あらかじめ客席二列目あたりまでビニールシートが配られていて、水からあがったふたりが着物についた水を大袈裟な仕草で振り払い、観客がシートで水を避けるところなど、コクーン歌舞伎やはたまた状況劇場を髣髴とさせる奔放さでサービス精神たっぷりだが、ここであまりにあっけらかんと笑っておもしろがっていては、ついに無念の死を遂げようとする良助が、苦しい息の下から本心を告げる悲しさや、真実を知って驚き、良助の介錯を躊躇する小平次の苦しみが生きてこない。
 俳優の熱気が客席に伝わり、元気が出てくる。しかしエネルギーが余ってしまい、というかもの足りなくて、『小笠原騒動』を見終わったあとそのまま歌舞伎座まで歩き、幕見で菊五郎・福助共演の『雪暮夜入谷畦道』をみて、この日の仕上げとした。これで満足。
 元気と清々しさだけではお腹がいっぱいにならないのはなぜだろうか?
 その日の食べ物にも事欠くような貧しい暮らし。借金取りに居座られる惨めで、落ちぶれた境遇。家族との諍いと悲惨な結末。そこからにじみ出る人間味がほしい。
 こってりとした「こく」を味わいたい。
 しかし「こく」が出てくれば、若々しさが失われるだろう。
 観客は心のなかで両方を補いつつ、楽しむものなのだろうか。
三月十八日観劇)

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