小鹿田焼の歴史
岳減鬼山(がくめきやま)の山懐に抱かれた日田市源栄町(もとえまち)皿山、ここが小鹿田焼の故郷です。
 この小鹿田焼は宝永2年(1750年)に窯が開かれました。 日田代官の室七郎左衛門の要請をうけて、福岡藩黒田家が小石原の陶工柳瀬三右衛門を派遣し大鶴村の黒木十兵衛が資金を出して小鹿田の仙頭(せんどう)坂本家が土地を提供したと伝えられています。
当時、有田では上質の磁器を大量に生産しており、日田では庶民向けの日用雑器の自給を目的に陶器製造が企てられたのです。
小鹿田焼は文禄慶長の役(1592〜98)の時に、黒田長政が南朝鮮の井土よりつれてきた陶工八山(和名 高取八蔵)の系譜をひいています。李朝の陶技は豊前小倉から、白旗山、上野(あがの)、小石原(こいしわら)をへて、小鹿田の皿山へ連綿と伝えられました。
小鹿田焼が注目されたのは、昭和6年に民芸運動の提唱者 柳宗悦(やなぎ・むねよし)が皿山を訪れてからです。柳は、小鹿田焼に無名の工人の長年の技から生まれた優れた”美”を発見したのです。戦後、バーナード・リーチや浜田庄司などの著名な陶芸家が来訪して作品を残しています。
小鹿田焼の技法と特徴
小鹿田焼の代表的装飾技法に、櫛目文、指描き、流し掛け、そして刷毛目文と飛び鉋があります。
わが国では幻の技法と考えられていた李朝の製陶技術の櫛目文が小鹿田焼の技法として生きていたのです。
また、旧来の技術だけではなく、新しい技法も工夫され、今日の小鹿田焼のスタイルを作り出しました。
大正期には、大鶴の井上医師と陶工の協力により、飛び鉋の技法が成立し、昭和7年頃には刷毛目文が導入されています。
小鹿田焼に用いられる主な釉薬には、ふうし釉(透明釉)、地釉(飴釉)、真黒、青地、黄なだれ、白なだれ、どーけ(伊羅保・いらほ=黄釉)、薄緑釉などがあります。
また、小鹿田焼の技術的特徴は、薪を燃料とする登り窯と陶土を精製する唐臼(からうす)、それに成型時に用いる蹴轆轤(けろくろ)など、伝統的な技術が今もなお脈々と生き続けられていることです。
小鹿田焼は平成7年4月に国の重要無形文化財に指定されています。
唐臼の音が平成8年7月に環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれました。
唐臼と清流
小鹿田・皿山の窯元の家並み
左のアイコンにカーソルを合わせると唐臼の音が聞けます!