えびす組劇場見聞録:第17号(2004年9月発行)

第17号のおしながき 

「記憶、或いは辺境」 ザ・スズナリ 5/12〜19
「ハイレゾ」 青山円形劇場 5/26〜30
「ジーザス・クライスト=スーパースター」 四季劇場[秋] 6/26〜8/1
「その鉄塔に男たちはいるという」(HHG) サイスタジオ・コモネBスタジオ 7/2〜11
「だるまさんがころんだ」 ザ・スズナリ 7/15〜8/4
その鉄塔に男たちはいるという」(花組芝居OFFシアター) 銀座小劇場 7/28〜8/1
「劇作家に出会った日」 「記憶、或いは辺境」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「全てをプラスへ」 「ハイレゾ」 by コンスタンツェ・アンドウ
「今を生きる、舞台の息遣い」 「ジーザス・クライスト・スーパースター」
「その鉄塔に男たちはいるという」
「だるまさんがころんだ」
by C・M・スペンサー
「胸さわぎと、すがすがしさと」 「その鉄塔に男たちはいるという」 by マーガレット伊万里

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「劇作家に出会った日」 風琴工房公演 作・演出・衣装 詩森ろば
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 昨年上演された『ユダの食卓』が気になりつつ、足を運ぶに至らなかった。今回の公演もなかなか決心がつかず、予約を入れたのは観劇日の直前であった。
 考えてみると、この劇団のことも主宰である劇作家・演出家の詩森ろばのこともほとんど知らない。なぜ昨年の『ユダの食卓』が気になったのか、どうして今回は見ようと思ったのか、いつからこの劇団の名前を知っているのか、もはや思い出せないのであった。
 日頃から通い慣れたスズナリの座席だが、初めての劇団の公演は妙に緊張する。
 太平洋戦争末期から終戦を挟んで、樺太にある小さな店、津田理髪店に関わる人々の八年間に渡る交わりの物語である。
 両親はすでに亡く、兄の徳雄(児玉貴志・THE SHAMPOO HAT)が鋏を持ち、美都子(吉川愛)と春子(椎葉貴子)の二人の妹たちが手伝いながら細々と営む店が舞台である。津田家に間借りしている教師の島崎(杉山文雄・グリング)や、兄妹の幼なじみで警察官の平原(増田理・バズノーツ)たちと交わす会話はほのぼのと温かく、慎ましい庶民の暮らしぶりが伝わってくる。
 そこへ朝鮮から労働に来た朴(小高仁・第三エロチカ)が偶然店に入ってきて、津田家の様相は少しずつ変化していく。続いて朴と同じく朝鮮から来て娼婦に身を落とした仙女(松岡洋子)、彼女を追ってきた恋人の沈(足立智充)たちが、まるで吸い寄せられるかのように、この小さな店に関わり始めるのである。
 津田家のきょうだいたちが朴たちと次第に心を通わせていく一方で、以前から春子と仲良しだった朝鮮人の一香(笹野鈴々音)との関わりは、戦争が激しくなるにつれ、悲しく変化していく。
 実は開演前、公演チラシに樺太やサハリンに関する歴史年表が掲載されているのを見て、正直「困った」と思った。こういう歴史的に重い題材を扱っていることに対して、心構えがなかったからである。
 しかし同じくチラシにあった作・演出の詩森ろばの挨拶文を読んでいるうちに、だんだん心が落ち着いてきた。
 そこには劇作家が戯曲を書き抜くまでの、まるで陣痛のような苦しみや迷いが淡々と記されている。文末に俳優やスタッフへのねぎらいとともに今日劇場に足を運んでくれた観客への感謝の言葉があるのは珍しいことではないが、決して紋切り型ではなく、この人の非常に真摯な姿勢が伝わってきた。
 詩森ろばのように演出も兼ねる人の場合、戯曲を書きあげるまでに大変な苦労をし、それを舞台に乗せるために更なる大仕事をするわけである。その大変さは想像するしかないのだが、心身を酷使し、エネルギーを消耗し、さまざまに悩んで苦しんだ末に、やっとの思いで産み落とす、まるで子を産み、育てるようなものかもしれない。
 折込みの中には詩森が講師をするワークショップやスタッフ募集のリーフレットもあって、その応募資格等を読んでみると、これがなかなかすごいのである。
 「精神論でなく、生活のあり方を演劇中心にできる方」「きちんとした美意識を持ち、精神の成熟を目指し表現へと臨んでいける方」。
 抽象的な表現である。
 ではどうしたらよいか、自分にその資格があるのか、劇団員になるつもりのないわたしでも、真剣に考えてしまう。にわかに身の引き締まる思いになるのである。
 風琴工房の舞台を見るからには、少し大袈裟だが自分の演劇観、ひいては人生観をきちんと持たないと、少なくとも持とうとする姿勢がないと、この世界を味わうことはできないのかもしれない。
 生半可な知識や経験では理解できそうになく、そう思うと落ち込むのだが、『記憶、或いは辺境』は声高に何かを主張したり、見るものに学習を要求する作品ではない。
 市井の人々の日常生活の中に、戦争、思想、民族という問題が否応なく襲いかかってくる時代であっても、誰に教わったわけでもないのに、そうするつもりはないのに、どうしても人は人を恋しく慕う。その恋慕の悲しみが静かに漂う終幕であった。
 そして二時間足らずの上演が終わると、まるでずっと以前からこの世界のことを知っていたかのような、不思議な感覚に包まれていることに気づいた。
 詩森ろばの紡ぐ世界は親しみやすく優しい。
 九三年に結成された風琴工房だが、わたしは今回が初めてである。まことにのんびりと無自覚な出会い方であったが、わたしは今回、「おもしろい舞台を見た」という印象よりも、詩森ろばという劇作家に出会ったのだ、という実感をより強く持った。
 きりりと背筋の伸びた、芯の強そうな人。
 そんなイメージを勝手に抱いている。
 スタッフ募集の文末はこうである。
 「約束したことを責任もってやれる方、に限ります」
 まことに簡潔。清々しくて気持ちがよい。
 わたしは詩森ろばさんと秘かに一方的な約束をした。
 次回の風琴工房の公演にも足を運ぶこと、もっと自分の演劇についての意識を高めることを。拙いことこのうえないが、本稿はその第一歩である。
 約束したことを責任をもって、やります。
(五月十五日観劇)

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「全てをプラスへ」
コンスタンツェ・アンドウ
 珍しく予定の入っていなかった週末を芝居で埋めようと、チラシをめくっていて目にとまったのが、少年社中『ハイレゾ』(作・演出 毛利亘宏)。少年社中については名前を知っている程度だったが、青山円形劇場というメジャーな場所での公演だし、おどろおどろしいものではなさそうだったので、お試し気分で前売を買った。
 舞台作品は、言うまでもなく、様々な要素の集合体である。多くの場合、観客はひとつひとつの要素から受ける印象をプラスマイナスし、舞台全体に対する評価を決めることになる。劇団公演であれば次回作に足を運ぼうと思えるかもポイントになるし、同じ劇団の作品を複数見ていれば過去の作品との比較も判断基準に加わるだろう。
 少年社中初見の私は、過去との比較はできなかったが、全体としてこの舞台を楽しく見た。しかし、諸手を挙げて次回作に駆け付けよう、と思ったわけでもない。少し引っかかる部分があったのだ。
 『ハイレゾ』は、二○○一年に初演された作品の再演。タイトルに添えられたHIGH RESOLUTIONという言葉の訳は、「高解像度」でよいのだろうか。劇中に出てくる国名や人名は、かつてアメリカとソ連が宇宙開発競争をしていた時代を連想させるが、実際には近未来スペースファンタジーと言える。
 客席に取り囲まれた完全な円形舞台に十字の通路が渡され、幕開き早々、派手な音楽と照明を浴び、四方から役者が出て走り回る。パンフレットによると、これは「チェイス」という手法で、ストーリーのダイジェストを展開しているとのこと。そこだけでストーリーを把握するのは難しいので、プロローグ、といったところか。
 ローラー付きシューズを履いている役者もいて、なかなかスピード感がある。かなり手の込んだ照明は、丸く閉ざされた劇場空間に宇宙のイメージを結ぶ。役者が普通に会話をする場面では、全方向の客を気にして動きが過剰になってしまうのだが、その点を除けば、円形劇場の特色が充分に生かされていた。円形劇場で上演する必然性を納得できる作品は珍しい。
 ビジュアル面でのチープさも感じさせず、音響や照明を含めた「外側」の要素は、勢いもあり充実していた。
 では、「内側」の要素、ストーリーはどうか。
 ふたつの物語が交互に進む。ひとつは、宇宙飛行士達と宇宙開発に関わる人々の話。憑りつかれたように宇宙への夢を追う男。そんな男を愛しながら疲れてしまう女。夢に破れた者の哀しみ。夢を阻む政治の流れ、その政治への抵抗。
 もうひとつは、手作りロケットを飛ばそうとする少女と仲間達の話。少年のような少女は、父と同じ夢を抱く。娘の夢を否定する母。友情、和解、そして別れ。
 はじめは、ふたつの世界が「離れた場所」にあるように思わせるのだが、次第に、離れているのは場所ではなく時間だとわかる。やがて、会えないはずのふたりが時空を超えてめぐりあい、言葉を交わす。「はじめまして」と。
 どこかで見たような、聞いたような、乙女チックな設定ばかり。「今どき、こんな甘ったるい世界を描く劇団があったのか…」と驚いたのだが、個人的には、意外と抵抗なく受け入れていた。そこには「懐かしさ」があった。若い頃読んだ竹宮惠子や萩尾望都のSF少女マンガや、SFアニメを思い出していたのだ。
 私のような観客をノスタルジーに酔わせる意図があったとは思えない。きっと作者は、こういう世界が好きなのだろう。しかし、この甘ったるさを好まない観客も多いのではないだろうか。
 テイストだけでなく、伝え方も甘い。全ての人物が予想したままの行動を起こし、予想したままの感情を表現する。展開や人物造型、関係性がありきたりで新鮮味がない。この甘さは、作品の弱さに繋がる。コメディー風な場面は取って付けたようで、そこだけ浮いていた。笑うには笑ったが、本当に必要な笑いだったのかは疑問。
 役者という要素。一人一人の力量に差はあるものの、役者と役のキャラクターが大きく外れることはなく、無理を感じさせなかった。あて書きのできる劇団の強み、キャラクターが確定した上で役者を選べる再演の強みだろう。
 中でも、ユーリを演じた松下好(客演)は、少年のような少女という、ひとつしくじれば失笑を買いかねない役を違和感なく見せていた。(ただし、このキャラクターそのものに拒否反応を示す観客がいるかもしれない。)他に気になったのは、毛利と共に劇団を旗揚げた二人。井俣太良は不器用そうだが、小細工抜きの押し出しに大きさを感じさせた。佐藤春平(今回で退団)は逆に達者そうで興味を覚えたのだが、出番が少なく残念。
 「マンガっぽい」とか「アニメっぽい」という表現が「演劇」の前に付くと、あまりいい意味にならない場合が多いが、私には、だからこの作品がダメだと言う気はない。(第一、日本のマンガとアニメと演劇の中で、世界に進出している作品が最も少ないのは演劇ではないのか?)
 『ハイレゾ』の魅力は、生身の役者の躍動感・体に響く音・空間を包む光であり、それは演劇でこそ楽しめるものだ。他の何かに似ていたとしても、演劇としてのクオリティは決して低くない。しかし、これだけでいいのか?という思いは残る。
 甘いストーリーに対する需要もあるだろう。書きたいものを書くという姿勢は劇団の個性にも通じる。だが、より広い客層を得るためには、脚本の部分で、もう一皮剥けてほしい。ストーリーを見せようという意識が受け取れるからこそ、そう望む。
 今回は劇場を生かした演出で効果を上げた。ちょっと気恥ずかしいような設定を勢いで見せることに成功したが、観客は貪欲である。「チェイス」にしろ、凝った照明にしろ、慣れれば飽きる。勢いの息切れにも敏感だ。懐かしさから生まれる感情は、目の前の作品にではなく、過去の自分に向けられているにすぎない。
 作品を構成する要素の中で、どれかひとつがマイナスに作用した時、別の要素がより強い力でプラスへ向かわなければ、作品全体がずるずるとマイナスへ引っ張られてしまう。「どこを突かれても大丈夫」という力強さを備えることが必要だろう。
 早大劇研から生まれた少年社中の旗揚げは一九九八年、今回が第十三回公演とのこと。それなりの公演数をこなしてきている劇団を一作だけで判断するべきではないが、「代表作の再演」で「青山円形劇場進出」とうたっている以上、総力戦で劇団の評価を問うという覚悟はあったはずである。少しの不安を抱えつつ、『ハイレゾ』との比較という視点も加えて、次回公演を見たいと思う。
(五月二十九日観劇)

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「今を生きる、舞台の息遣い」
C・M・スペンサー
 いつも駆け足で観劇しているという感がある。たまにはこの辺で振り返るのもいいかな、と思ってみるが、この見聞録が出る頃にはもう一年の四分の三が終わる頃だろう。今年は七ヶ月で四十三本。土日が中心の観劇スケジュールでは、はしごが当たり前となり、えびす組のメンバーと偶然劇場で出会うなんていうこともしばしばあった。
 元旦の劇団四季ミュージカル『アイーダ』に始まり、野田秀樹のオペラ初演出作品、海外招聘のミュージカル、ダンス、バレエ・・・今年の個人的な観劇傾向としては、音楽に関する舞台が多かった。そんな中で芝居の舞台にしても、今の時代に観て、私たちが何を感じるのかが問われているような作品の存在を強く感じた。
 今年は歌舞伎をまだ観ていないのがコンスタンツェとの大きな違いだろう。その分、メンバーの中では劇団四季公演に毎回足を運ぶのは私ぐらいかもしれない。一九八〇年頃に観た劇団四季『ジーザス・クライスト=スーパースター』は、初めて登場人物に「カリスマ」を意識した作品である。当時は曲とともにジーザスやヘロデ王の登場にドラマチックな華やかさを感じ、そういう人物だからこそ民衆が奉るのだと理解していた。それが今夏、四季劇場で再演された際のジーザス(柳瀬大輔)は、普通の青年が崇められ、見捨てられていくように思えて、ニコニコと笑ってカーテンコールに手拍子を送ることができなかった。二十年もの間に、普通の人々が崇められてもおかしくない世の中になってしまったからなのか。作品の時代背景からしても、とても遠くにあったものが、こんなにも深刻で身近に感じられたことに驚きを覚えた。
 さて、えびす組メンバーと遭遇した作品に、土田英生作『その鉄塔に男たちはいるという』がある。内容についてはマーガレットが詳しく述べているが、サイスタジオで上演されたHappy Hunting Ground(HHG)によるこの作品、劇団文学座の有志が劇団公認で行う自主公演であり、演出家を置かずに役者たちが舞台を作り上げることで話題になっている。以前は彼らの「演出家を置かない」作品で、逆に演出家という存在を意識したこともあったが、回を重ねるごとに演出がどうのということではなく、役者の個性が作品の中に表れる独特の雰囲気に面白味を感じるようになった。
 ある日のアフタートークで作り手である彼らが述べたことには、今年再演するにあたり、初演で入れたエンディングの「銃声」をあえて入れなかったのだという。この「銃声」こそが登場人物の生死を決定付けるものであるが、その結末は観客に委ねられた。「とある戦争の最中」という設定だが、遠くない未来として、誰もがこの状況を現実に起こり得るという視点で観たことだろう。等身大の役者たちの笑顔と葛藤を目の当たりにして、死とは遠い結末が導かれるよう思いを巡らせた。HHGの彼らは、演出家のある作品では見られない自分たちの「顔」に気がついているのだろうか。彼らの今後の作品選びにも関心が募る。
 文学座のアトリエ公演『ホームバディ/カブール』で、タリバン政権下で暮らす人々の世界に足を踏み入れた民間人の混乱を「その国の話」として観ていたのは、まだ昨年のことだ。同作品から私は「無関心という罪悪」を感じたが、無関心であったつけが回ってきたかのように様々な問題が近くに感じられる。
 燐光群の『だるまさんがころんだ』にしても、日本のとあるメーカーが極秘で地雷の製造を請け負っていると言う話、架空のこととは思えず芝居の行く末を見守った。いくつか伏線が敷かれている中で、地雷除去の活動に参加する度に、手がそして足が吹き飛ばされ、それでも信念を持って生きていく女性が登場する。そのシンボルが、だるまさん。世の中が怖くて自分だけの安全を確保したいがために地雷を埋める人、多くの人の安全のためにそれを除去する人。そんないたちごっこが地雷だけでなく、世界で繰り広げられている現実を思い起こした。
 世間では芝居が乱立しているように見えるが、どの作品にもそれぞれの時代を生きる息遣いが感じられる。舞台は決して一方通行ではない。作り手と受け手の両方の世界が同じ時間と空間を共有して存在するという緊張感。その緊張感に魅せられて、今日も客席に座っている。

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「胸さわぎと、すがすがしさと」
マーガレット伊万里
 舞台にかぶりつくようにして座ったベンチ席で、わたしの胸さわぎがおさまらない。それは、今の世の中をみていると、舞台で起こっていることが日本の未来を予見しているようだから。土田英生作『その鉄塔に男たちはいるという』(九八年初演)である。
 とある国で起きた戦争に日本が参加し、そこへ慰問で送り込まれたコミックバンドのメンバー。彼らは戦争の片棒をかつぐのを拒否し、森の中の鉄塔に逃げ込む。
 ある日、一人の日本人脱走兵もやってくる。戦争が終わったら日本でショーをやろうと皆で誓うが、彼らを待っていたのは銃を構えた日本軍だった。
 できれば追い込まれたくない。でも逃げられないときどうするか。何が起こり、何を選ぶのか。笑いに包まれていても結構シビアなものをわたしたちにつきつけてくる。すべてを飲み込む戦争の愚かさを感じずにはいられなかった。
 ラスト、五人の男たちは向けられた銃の前でコミックバンドの踊りを披露する、と同時に幕。その後、引き金はひかれたのか、引かれなかったのか。銃声が聞こえないラストシーンは、どこか楽観的な心持ちにしてくれ、救われる気がした。
 ただ、そんな追いつめられた状況なのだけれど、ここで起こるのは1枚のTシャツや水くみをめぐるたあいないケンカだったり、コントのネタ合わせだったり、どこか他人事。こういう状況に追い込まれるにいたった彼らの葛藤がどんなものであったのか。何か大事な部分を置き忘れているような、そんな気もする。
 鉄塔の中で淡々と交わされる物語を上演したのは、土田の劇団MONOではなく「花組芝居」。花組芝居といえば、歌舞伎の手法をとり入れ「ネオかぶき」と称する舞台世界を確立した男性だけの劇団。白塗りに派手なメイク、女形もこなす彼らにとって、今回は素顔の舞台だ。名づけて「花組芝居OFFシアター」。(演出・水下きよし、出演・原川浩明、桂憲一、嶋倉雷象、秋葉陽司、松原綾央)
 歌舞伎ふうのせりふに慣れている役者がどんな演技をするのか、とても興味がわいていた。が、ふたを開けてみれば、若手からベテランまで5人のふつうの男性がいるだけ。こちらは肩の力が抜けた。いつもはさぞかし重くて動きづらい衣装を身につけているであろう彼らは、Tシャツに短パンとカジュアルな服装がまったく違和感なし。それどころか、どちらかというと体育会系のノリの良さを感じたのも意外だった。役者の個性はくっきりとしていて、勢いもある。
 実はこれより先に、文学座有志が立ち上げたグループ「HHG(ハッピー・ハンティング・グランド)」による同作品の上演にも足を運んだ(七月二〜十一日 サイスタジオ・コモネBスタジオ)。内容が内容なだけに、二つの集団が同じ芝居を選んだのは、皆の心に通じるものがあるのだと思いたいところ。
 双方の違いで面白かったのは、寝静まった夜中のシーン。花組芝居の銀座小劇場の方は舞台が低く、前の席だと役者の雑魚寝状態が全く見えないのではと心配していた。
 ところが、なぜか全員が壁に向かって立っている。何が起こっているのか一瞬わからず、これには驚いた。実は背景を床にみたて、立ったまま、寝転がっていることを想定した演技をしているのだった。(美術・鈴木健介)これじゃふつうの動作のときとはつじつまが合わないなどとつまらない事も考えたが、アイデアの勝利。
 いっぽうのHHGはプログラムに演出の名前がない。ていねいなせりふ回し、アンサンブルの良さは文学座ならではのものだと思った。ただ全体を通して平板な印象が残ったのは、演出家不在と無縁ではない気もするのだが。
 花組芝居も文学座も、確立された集団の存在に甘んじない。カーテンコールで役者の顔を見ると、新しいことに果敢にいどむ姿はなんてさわやかなのだろうと感心する。心からエールを送るとともに、これからもゆっくりと見守ってゆきたい。
 (七月三十一日観劇)

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