桂花咲く頃
「プー!」
ぱたぱたと回廊を走ってくる軽い足音がして、時空の扉が勢いよく開け放たれた。
「まぁ、スモール・レディ・・・!よく来て下さいました」
時間の狭間、冥王星にある時空の扉を侵入者よりただ一人で守る番人たるセーラープルートの顔も、思わずほころんだ。
主、ネオクイーンセレニティの一人娘たるスモール・レディがここへ遊びに来るようになってまだ間もない。だがプルートにとって、
その訪問は既に楽しみなものとなっていた。スモール・レディは無邪気ににこにこと笑っている。見れば後ろ手に何か隠し持っているようだ。
「今日はねぇ、いいもの持ってきたの」
「いいもの、ですか?」
「うん。ハイ、これプーに!」
スモール・レディが差し出したものは一枝の木の枝。
つややかな葉が生い茂り、そして枝のあちこちに小さな塊(かたまり)を成して咲いている、山吹色の小さな花達。
その花は、甘く、そして包み込むような馥郁(ふくいく)たる香りを放っていた。
「これは・・・」
「うん、名前聞いたんだけど・・・思い出した!『きんもくせい』っていうんだって!」
金木犀――。
それでは、パレスのあるクリスタル・トーキョーはもう秋なのだ・・・。
もう永いこと訪れていない遥かな都を、プルートは遠く思い浮かべた。
「ジュピターにお願いして貰ってきたんだ。ここ、何にも無くてプーつまんないでしょ?だから」
差し出された枝を、プルートは少し身をかがめて受け取った。
顔をそっと花に近づけ、目を閉じて胸いっぱいにその香りを吸い込む。
時空の扉のあるこの茫漠たる荒野に花は咲かない。花の香りを嗅いだこと自体、随分久しぶりであるのかもしれなかった。きっと元の樹の手入れが良かったのだろう。こんなにも馨り高い木犀も、滅多にあるものではない。
その芳香はどこか懐かしく、そうしてどこか心苦しくなるものを秘めていた。
花の香りとは、こんなにも切なく、胸が締め付けられるように物悲しいものだったろうか?
――あの時もらったあの花も、こんな風に香りを放っていた・・・
いつしかプルートの目の端には、涙が浮かんでいた。
忘れた筈の遠い思い出の中に、プルートの心は彷徨いかけた。「――プー?ねぇどうしたの?プー」
はっと気がついて目を開けると、心配そうにこちらを見上げるスモール・レディの顔があった。
慌てて気づかれぬように涙を払う。
「人から花をいただいたことは――あまり無かったものですから」
スモール・レディを安心させるように軽く微笑みながら、プルートは答えた。
「ありがとうございます、スモール・レディ。大切にいたします」
「よかったぁ!プーが喜んでくれて」
スモール・レディは満面の笑みを浮かべて歓声を上げた。
「でも、それならもっと早く持ってくれば良かったね・・・
今度来る時に、もっとたくさん持ってくるね!今パレスのお庭にはね・・・」
嬉々として花の話をしだしたスモール・レディの顔を、プルートは静かな微笑みを浮かべながら見つめていた。* それから数日後――といっても通常空間の時間に当てはめて言うならば、の話だが――プルートのもとに再びスモール・レディがやってきた。
だが前にきた時とはうって変わって、見るからに悄然としている。
「プー・・・」
「スモール・レディ。・・・どうか、なさったのですか?」
「ねぇプー、こないだあたしが持ってきたお花、どうなった?」
プルートはなぜ彼女がそんなに悲しそうにしているのか何となく分かったような気がして、黙ってスモール・レディを奥へ誘った。
花瓶に挿された金木犀の枝は、葉はまだ青々と茂っていたが、花はもうほとんど床に枯れ落ち、枝にはいくつか茶色く色褪せた花の残骸が
僅かにへばり付いているばかりだ。
もうあの芳(かぐわ)しい馨りもない。
「お庭の樹の花もみんな落ちちゃって・・・。
折角プーのために持ってきたのに・・・ごめんねプー・・・」
泣きじゃくるスモール・レディの頭を、プルートはしゃがみこんでそっと撫でた。
「・・・いいえスモール・レディ。これでいいのですよ」
その穏やかな声に、スモール・レディは泣き止んで顔を上げた。
「草や樹は、その花を咲かすために、ずっとその力を溜めていなければなりません。
それには長い、長い時間が必要です。そうして時が来たら、一斉にその力を解放して、花を咲かすのです」
「・・・それで?」
「花を咲かすにはたいへんな力がいるので、花はいずれ散ってしまいます。
ですが、花が散ってしまった時から、また樹は力を溜め始めるのです。
再び花を咲かせる、その時に備えて・・・」
「じゃあ、また花は咲いてくれるの?」
まだ幾分涙声のままスモール・レディは尋ねた。
「ええ!咲きますとも。
だからスモール・レディ、そんな顔をなさらないで。スモール・レディが笑っていれば、また金木犀は花を咲かせてくれますよ」
「ほんとう?」
「ええ、ほんとうですよ。さぁ、涙を拭いて。
私も、スモール・レディの笑っているお顔が大好きですから」
「・・・うんっ!」
金木犀の枝の葉は、確かな生命の証を示して、光を受けてつややかに輝いていた。* * ――ふと鼻先をかすめた嗅ぎ覚えのある香りに、せつなは思わず足を止めた。
辺りを見回すと、路の脇に、立派な枝振りの大きな金木犀の樹が在った。
(歩き馴れているキャンパスなのに・・・こんなところに金木犀があったのね)
普段気にも留めていなかった樹が、ある時不意にその正体を明かす。
何だかうまく出し抜かれたような気がして、せつなは思わず微笑んだ。橙黄色の小さな花たちが枝のあちらこちらで身を寄せ合って、甘苦しい気配を辺りに振りまいている。
1年にただ一度――それもほんの一瞬。
秋の初めのこの季節のためだけに、その花を咲かす金木犀。
甘やかな馨りの中、せつなはしばらく風にそよめくその枝を見上げていた。――不意にその耳に届く音。授業の始まりを告げるチャイムだ。
腕時計を見て、ずいぶん長い事我を忘れて見入ってしまっていた事に驚いて、慌ててせつなは次の授業のある校舎へと走っていった。
秋の訪れを知らせる花、金木犀。
その香りは、新たな出会いと再会の予感を含んで、風に乗って遠く遥かに漂っていった。(終)'98.10.29 by かとりーぬ