日瑞関係のページ HPの狙い
日本 スイス・歴史・論文集 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

日瑞関係トップ戦前のドイツ戦前のイタリア感想

< 戦前のベルリン日本人学校に関する新たな考察 

<序>

筆者はすでに「日本人小学生の体験した戦前のドイツ」で、戦前のベルリンの日本人学校について語った。また「靖国丸、欧州引き揚げ船の全記録」の中で、同じくベルリンの邦人婦女子が、欧州戦争勃発直前に日本に引き揚げた様子を紹介した。

靖国丸は1939年10月18日に横浜港に戻り、日本での報道はそこまでか思っていたが、その後も朝日新聞には、帰国した日本人の子供に関する記事が、複数あることを最近見つけた。この事はドイツから戻った子供らに対する、人々の関心の高さを物語っていよう。本編ではこれらの記事を中心に、戦前のベルリン日本人学校について、当時の写真を交え新たな考察を行う。



<1 稲沼史先生が語るベルリン日本人学校>


同年10月20日と21日の2回に渡り、「靖国丸で帰った稲沼史(いなぬまふみ)先生に聴く」というタイトルの記事が、朝日新聞の家庭欄に紹介された。

稲沼先生については「同女史は東京女子大学哲学科を終えて、東北帝大法文学部に学び、昭和10年卒業後、昨春請われてベルリンへ赴任した、型破りの女先生である。」と書かれている。女性で2つの大学を卒業したことは、当時の基準では型破りであったのであろう。

なお稲沼の前任の日本人学校教師で、西田幾多郎の姪である高橋ふみも、東北帝大の卒業である。東北帝大は最初に女子学生に門戸を開いた国立大学であった。それと二人の日本人学校教師が、同大学出身であったことに関連はあろうか?

沼先生が、生徒加藤眞一郎さんに寄せたサイン。

稲沼は帰国直前のベルリン日本人学校について、以下の様に語っている。(必要に応じ筆者が補足を加え書き記す。)

まず日本人学校は、5階建てアパートの1階を借りて、室数4つと、それに付随した女中部屋と台所を持った、普通の中流階級の住宅が、校舎であった。今もドイツでは街の医者は、同様にアパートのワンフロアーを借りて開業している例が多い。

生徒は尋常(今の小学校)1年から女学校5年(中学校3年)迄で、全校生27人で、内6人は満州国の子供であった。札幌師範出身の樽井近義校長が小学校1,2,3年を、伊藤先生が4,5,6年を、女学校3,5,6年生(他学年は生徒無し)を、稲沼先生が担当した。他に音楽を文部省在外研究生の平原先生が担当した。

そして「人数は少なくても、設備は整わなくても、すべて日本の学制に従って、授業を行い、教科書も日本から取り寄せたものを使った。ただしお裁縫と料理は行いません。化学も実験設備がないので、これもその分だけ省きます。」と述べる。

最後に稲沼先生の心意気が伝わる文章を紹介する。
「4年前にベルリンの真ん中に学校、なぜ日本人学校を建てなければならなかったかというと、それは日本人としての自覚、日本人としての国民的感情を養って、日本人らしい日本人を育て上げるには、是非日本語で教え、学ぶ学校が必要だったし、将来も必要です。」
稲沼先生は戦況が落ち着いたら、また戻るつもりであったのであろうか?



<2 記念写真>


当時は進学の関係で男子は小学校5年になると日本に帰国したので、日本人学校の中学生は女子のみであった。そして稲沼が受け持った5人の中等部の生徒について、
「中には(呂宣文)満州国公使の令嬢や、小島(秀雄)海軍武官の令嬢も交じっていました。」と述べている。ベルリンの名士の子女も多かったということであろう。

お父さんが大倉商事の支店長で、当時ベルリンに滞在した加藤綾子さんも、5人の中の一人であった。そして以下の写真を筆者はお借りした。裏には「1939年3月21日 終業式 学校の前にて 中等部 」と書かれている。
まさに稲沼先生が受け持った5人の帰国半年前の写真である。こういう発見が筆者の喜びの一つである。そして撮影されてから80年近くたった今、加藤綾子さん自身から写っているメンバーを教えていただいた。恐るべき記憶力である。

左から加藤綾子さん、妹の洋子さん、渡辺洋子さん(三菱商事渡辺支店長長女)、奥が稲沼先生、そして呂公使の娘さん。

また1939年4月15日、ベルリン日本人学校開校記念日に写した写真が同新聞に載っている。
これは筆者が幾度か紹介したものだ。またすでに伊藤正義さんにより図説「昭和の歴史」6(集英社)という本でも掲載されている。ベルリン日本人学校を語る上で、いわば記念碑的な写真である。新聞のは稲沼の提供であろうが、帰国直後には、すでにこの写真が全国に紹介されていた事になる。

2列目左から3人目が平原寿恵子先生、さらに左に順に稲沼先生、樽井校長、ベルリン大学留学中の伊藤貫一先生。生徒には先述のように満州国の子供も写っている。
  

                            
<3 学校閉鎖と引き揚げ>

最後の授業は1939年8月24日であった。日本と同じ3学期制であったので、夏休みを終えて新学期が始まったばかりであった。

以下も稲沼先生の説明である。
「8月25日、登校の直前に大使館からの立ち退き警告書を受け取りましたので、学校に出掛けて協議した結果、“暑いから当分休みにする”と言って子供を帰しました。

こうして翌26日にはベルリンの女子供と職務のない男子総勢200名がハンブルクに待機中の靖国丸に乗り込みました。
アメリカを経由して日本に向かう船中の生活はだらしなくなるので、毎朝9時、子供達を食堂に集めて、1時間だけ自由な勉強を続けさせました。言わば船中の移動学校です。

この船の中で満州国公使(呂宣文)の(下の)お子さんは、それまで知らなかった日本語で、桃太郎のお話まで出来るようになったのですから。」
そしてこの学校は「靖国学校」と呼ばれた。(小寺重郎 当時12歳)

子供の教育を大事にする日本人は、戦時下の欧州でも各地で“移動学校”を開いている。(「戦時下欧州の日本人学校」参照)
日本に戻ってからの稲沼先生の足どりは不明である。国会図書館には
「親と子 : 家庭のカトリック教育 M.R.ニューランド 稲沼史 訳 ドン・ボスコ社 1968」 など6冊の本が所蔵されているので、キリスト教系の仕事についたようだ。



<4 日本人学校の今>


ベルリンでは市街戦もあり、かつての面影をとどめない建物も多い。日本人学校のあったバベルスベルガー通り49番(Babelsberger Strase)は、今は下の様である。(グーグル・ストリートビューより)


一方当時学校の前で撮った写真が一枚ある。(下の写真)
通りから少し離れて建つ建物に、若干当時の面影を感じるのは筆者だけであろうか?

1938年、ドイツのヒトラーユーゲントが日本を訪問したのに呼応して、日本から「大日本連合青年団」がドイツに派遣された。彼らが日本人小学校を訪問した時の写真。



<5 靖国丸で帰った子供部隊。船上座談会>

1939年10月20,21日の稲沼先生の談話に続き、22日には標題の記事が載る。子供向けにやさしい言葉で書いた記事である。
「(40人近くの子供は)戦火の中から懐かしい日本に帰った喜びに、入港の日は夜も明けぬうちから、甲板を飛び回るのです。記者はこのにぎやかな子供部隊を船中に訪問して、船中座談会を開きました。」

そこに登場するのは、子供達の中で一番元気という江原淳(お父さんは満州国公使館員)他、可児八重子、節子(同三菱商事)、渡辺洋子、元子、恵美子、尚子、それに靖国丸船内で生まれた靖子(同三菱商事)、川村太郎、次郎(同ハンブルク領事)らである。
(なお新聞記事では可児八重子となっているが弥恵子が正しいと加藤綾子さんより教えたいただいた。また可児節子さんは母親である。子供座談会に母親が出ているのも不自然である。)

川村兄弟は
「僕たち夏休みなので、姉さんと海水浴に行っていました。急に引き揚げることになったので、姉さんも僕たちもドイツの友達に電話でサヨナラを言って船に乗ったんです。ドイツのお友達も、また、ドイツに戻って来いと言いました。」
と、休暇先からそのまま帰国となった様子を、はきはきと答えた。



<6 ノルウェー・ベルゲン港での記念写真>


少し時間が戻って10月15日付けの朝日新聞には、次のような記事がある。
「当の靖国丸より一足先に14日、ノルウェー・ベルゲン出発当時の記念写真が日本郵船本社に届いた。」
靖国丸の横浜到着は10月18日である。写真はニューヨークで靖国丸を降り、鉄路アメリカを横断し、サンフランシスコから龍田丸で一足先に日本に戻った邦人が、持ち帰ったのであろう。

「船側にはすでに大日章旗が描かれ、息詰まる欧州の風雲を物語っている。」と書かれている。新聞に写真は掲載されていないが、下の写真であることは間違いない。誤って攻撃されることを避けるために、見事な日章旗が描かれているのが分かる。

これも靖国丸での引き揚げを語るには欠かせない写真である。筆者はこれまでこの写真が出港地ハンブルクで撮られたのか、最初の寄港地ベルゲンで撮られたのか断定できないでいた。しかしこの記事から写真は9月4日、ベルゲン港で撮られたものであると分かる。船が出港する日であった。



以上で今回の考察は終わるが、これまでに公開した記事とあわせて読んでいただければ幸いである。
(2016年1月2日)

トップ このページのトップ