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『光にむかう3つの夢想曲』 Personal review 1 Personal review2

 

西 周成の『ラスト・サンセット』について   


エフゲニー・グロモフ(哲学博士、モスクワ)

これはロマン主義的で悲しい作品であり、またそこには神秘的なトーンも響いている。愛の力、そして愛する娘との永遠の別れが、主人公の地上での生を不可能にする。彼は自発的に生を離れ、彼女のもとへ去って行く。映像の完成度は驚異的である。映画の作者たちは、ロシアの自然を再発見することに成功した。それは恍惚として美しく、奇妙な神秘感に貫かれている。若い俳優達はこの環境に有機的に融合している。彼らはまだ経験を積んでいないかも知れないが、真摯でかつ説得力をもって演じている。

 

(『光にむかう3つの夢想曲』について)

斎藤 毅(ロシア文学研究者)

軽率な人間は、このタイトルに安易なロマンチシズムを見るかもしれない。しかし、実際はまったくそうではない。「」――この語(ないしは、象徴)が暗示しうる無限の意味の広がりについては、ここでは語らない。ただ一つ述べておきたいのは、光が映画という芸術の「媒質」(という表現でよいのだろうか)であるということだ。3つの作品は全体として、「創造行為についての映画」という側面を少なからず持っているように私には思えた。

夢の言説(物事の語り方)においては、因果関係などの論理的一貫性は放棄される。夢においては、そこに現われる個々の形象の、比喩的(隠喩的・換喩的等)機能が主導権を握り、それに従って言説が構成されてゆく。これも映画芸術の手法に通じるところがあるように思える。映画を「現実の写し」(現実、ないしは演じられた現実をそのまま写したもの)と考えるのは、言うまでもなく根本的な誤解であろう。

」――映画と音楽の類縁性についても作者自身が強調している。この点で興味深いのは、『薔薇』の冒頭シーンである。このシーンは主人公の旅の出発点であると同時に、作品それ自体の出発点でもある。主人公は、今から旅に出ようとするそのとき、ピアノの譜面台に置かれた写真を手にとる。「視覚像を音楽化すること」――これこそこれから作品が為そうとしていることではないか。

ちなみに『夢想曲』の真ん中に置かれた『天使』では、「夢」と「音楽」のモチーフが実際のプロットの中で直接的に現われている。そして、そこでは音楽は夢の中で初めて実現される。現実では、たとえば青年はサキソフォンから音楽を生み出すことができない。ここに夢と音楽の直接的な関係が示されている。『天使』のこのような性格が、両端に置かれた『薔薇』と『ラスト・サンセット』を結ぶ働きをして、『夢想曲』が全体として統一されているのだと考えられはしないだろうか。

また音楽芸術の素材(媒質)としての音自体、空間を前提としている。「音が響き渡る」、「音楽が部屋の中を流れる」等。西洋音楽における和声(教会音楽に端を発する)の根幹をなす「倍音」という現象も、空間(大聖堂の音響効果等)なしには考えられない。このような、音そのものの空間的なあり方は、光のあり方と似ているように思える。

さらに変奏という、音楽の本質的なあり方をここで挙げることもできるだろう。『夢想曲』の3つの作品は、1つの主題の3つの変奏ということができる。だが重要なのは、芸術作品のあり方、ないしは手法としての「変奏」だけではない。現実の人間の生のうちにも「主題と変奏」という契機は見出せるのではないか。それは日常にあっては人の眼から隠されているが、芸術作品こそが、それを構造としてはっきりと浮かび上がらせるのではないだろうか。

3つの作品のプロットはどれもきわめて簡素なものである。だが、そのプロット――主人公の置かれている具体的状況、人物同士の関係など――は人間の生ないしは存在の根本に関わるように設定されているため、そこからは無限の内容が溢れ出てくる。その内容を映画というジャンルに固有の手法によって形象化し、構成してゆくこと、それが作者の方法であるように思える。

3つの作品はいずれも、異性同士の関係(出会いないしは別れ)を扱っている。(ここで3作品における女性像の強烈な官能性をやはり指摘しておきたい。)これらの作品において、性愛(異性同士の愛)のモチーフと、《父》のモチーフはどのように連関しているのだろうか。「父」という位置は夫と妻の間の性愛という契機なしに生まれないという意味では、それらのモチーフは連関しているといえるが、『夢想曲』の3作品でのその連関の仕方は単純なものではないはずである。

『薔薇』における男女の出会いについては、それを性愛と呼ぶことはできないかもしれないが、しかし単なるニュートラルな出会いでもない。この作品を見て私が思い出したのは、フランスの作家モーリス・ブランショが書いたある断片である。女が夜道を歩いていると、突然見知らぬ男が近づいてきて言う:「私は今とても怖いんです。ちょっとだけ私と一緒に歩いてくれませんか」。女は同意し、男の手をとって歩きだす。他愛のない一節のように見えるが、ここで女がひとつの危険を冒しているということに注意しなければならない。日常生活においては、人間同士、とりわけ男女の間にはつねに見えない境界が存在している。そして、その境界を単純に踏み越えることは規範(礼儀作法、法律など)によって禁止されている。しかし、上の一節の男はこの禁止を無遠慮にも踏み破ることにより、自分が正気ではないことを示している(「私は今とても怖いんです」)。そして女はそれを意味もなく許し、自分の身に降りかかるかもしれない危険を引きうけている。つまり、ある意味では、女の方も正気ではないのである。

だが、このような「狂気」(広い意味での)なしに、真の「出会い」は起こりえないのかもしれない(『薔薇』の女が設定上、「神秘的な女性」と呼ばれているのも、彼女がそうした「狂気」を孕んでいるからではないだろうか)。そうでなければ、ただ規範(ルール)に従った出来事の順列組み合わせがあるだけであり、新たなもの、真の意味での「出来事」はなにも生まれえないことだろう。『薔薇』のプロットも、日常的な観点からすれば、「女が異国の男に親切にしてあげた」ということで片付けられかねない。しかし、作者は二人の出会いのプロットを可能な限り単純なものに切り詰め、それを細部にわたり集中的に、テンポを落として表現することにより、その「出会い」の核心にあるものを示そうとしているように思える。(主人公が女に対して発する「お邪魔じゃありませんか=私は貴方の邪魔をしていませんか」というロシア語の決まり文句も、作品の構成の中では真正な意味を帯びて響くことになる。)

再び見いだすこと、再認re-cognition。(私の誤認でなければ)『ラスト・サンセット』の主人公の部屋にはキルケゴールの『反復』が置かれているが、これは重要な暗示ではないか。『夢想曲』の主人公たちはみな、何かを再び見いだすことを求めている。この点に関しても、『天使』では直接的な表現がなされている。主人公は、亡き父親の姿を再び見いだし、彼の吹くサキソフォンの音を再び聞きたいと願っている。

『薔薇』と『ラスト・サンセット』では、状況はより錯綜したものとなっている。『薔薇』の主人公は失踪した父親の足跡を追っており、彼が訪れたという土地を見いだそうとしている。これは、父親(の足跡)を再び見いだすという意味では、すでにあったこと(既知のもの)の再認であるが、主人公は自分の捜している土地をいまだ知らないのだから、彼が求めているのは言わば「未知のものの再認」ということになる。『ラスト・サンセット』のプロットも同じ構造を有している。主人公は妻の描いた絵の風景を再び見いだしたいと願っているが、彼はその風景がどこにあるのかを知らない。
この「未知のものの再認」というテーマは、実は芸術において普遍的なものなのではないだろうか。たとえばロシアの詩人オーシプ・マンデリシタームは、『言葉と文化』というエッセイの中でそのことについて語っている。そこでマンデリシタームが述べていることを私なりに言い換えると次のようになる。詩人が詩作をしているとき、ある詩行のある部分にくるべき言葉がどうしても見いだせないことがある。彼の耳にはその言葉の「響きの型」のようなものが鳴り響いているのであるが、それは受肉した言葉としては現われてきてくれない。だがある瞬間ついにその言葉が見いだされる。そのとき詩人は言う:「そうだ、この言葉だったのだ」。彼は自分がその言葉を「再認」したかのように感じる。しかし、彼はその言葉を(少なくとも意識の上では)知らなかったのだ。

芸術作品の創造とはつねにこうしたものなのだろうか。作者は完成された作品の姿を求めているが、それがどのようなものなのかをいまだ知らない。そのような中で創造がなされ、作品が完成されたとき、作者は自分が求めていたのはこれだったのだと思う。作者は作品の存在を予感してはいるが、それが形態化された姿は知らない。そしてその姿を求める。

『薔薇の香り』というタイトルに、このような意味を読み取るのは恣意的だろうか。ずっしりとした重量と精巧な形態を持つ薔薇、あたかも無から現われ出るかのごとく花開く薔薇は、作品の象徴となりえないだろうか。そして、タイトルは『薔薇の香り』となっている。香りは人に薔薇の存在を予感させるが、それがどこにあるのかを人は知ることはできない。嗅覚には空間的なパースベクティヴといものが欠けているのである。人は言わば手探りで薔薇を求めなければならない。

先に『夢想曲』には「創造行為についての映画」という側面があるのではないかと述べたのは、このような意味においてである。また、どの作品も視覚芸術を重要なモチーフとして扱っている。真ん中に置かれた『天使』では、主人公の部屋に掛けられた絵が象徴的な意味合いを帯びて現われる。そして、『薔薇』では写真(カメラを向ける行為)、『ラスト・サンセット』では絵画(絵を描く行為)が、作品の構成ないしはプロットにおいて重要な契機となっている。(ちなみに、『天使』の主人公が操る手回しミシンの動きは、私には映写機の動きを連想させた。)

しかし、ここでただちに留保をしておきたいのだが、私が言いたいのは、「薔薇は作品の比喩である」ということではない。そうではなく、「薔薇という象徴は作品の比喩ともなりうる」ということである。一般に芸術作品における象徴は、記号(ある一つのものを指示する符牒)ではなく、作品の解釈は暗号の解読ではない。象徴を一義的な比喩として解釈すると、作品はただちに平板化されてしまう。『薔薇の香り』における「薔薇」の象徴は、言わば捩れた空間の中に置かれているのであり(「この土地に薔薇は育たない」)、作品の中では不在のまま、まさにその不在の力によって、登場人物たちを、観客を、そして作品それ自体を導いてゆくのではないだろうか。

『薔薇』の冒頭シーン。フォルダーに収められた写真が一枚一枚めくられてゆく。この動きは作品の流れにひとつのリズムを導入している。そして譜面台に置かれた写真。

主人公は旅に出る。自分のアパート――住居、すなわち自分の身を置くべき場所――を出てゆく。壁には鏡が掛かっているが、壁紙を写しているために目立たない。主人公が出てゆく一瞬、彼の姿が鏡に写る。実際の彼と、鏡の中の彼は逆方向を向くことになるため、彼の存在が分裂したかのような印象を受ける。彷徨とは、自己の同一性に休らうことを止めることを意味するのか。

やがて主人公は女と「出会う」。主人公は相変わらず建築物にカメラを向けているのだが、その建築物の前を女が通りかかる。すなわち、主人公のカメラの映像の中に女が「割り込んで」くる。その瞬間、主人公は思わずカメラから眼をはずし、裸眼で女を見る。この場面は非常に印象的である。(ここで冒頭からの映像の「リズム」も途切れるのではなかったか。)カメラを向ける主人公の視線と、思わず裸眼で女を見る彼の視線のあり方の差異は、どのようなものなのだろうか。

この場面は、作品を形成する核となるものが、作品を形成しようと意志する主体にとってはまったく思いがけないところから、不意に訪れるということを暗示しているのだろうか。作者は、状況をあるパースペクティヴのもとに把握し、見渡す力の象徴としての「視覚」に頼ることができず、先ほどの比喩をもちいるなら、香りに導かれて、手探りで薔薇を見いださねばならない。主人公の妻の描いた絵画をめぐる『ラスト・サンセット』も、すぐれて「視覚」に関わる作品であるが(主人公は絵画の中の風景を「見」いだすことを求めている)、そこで事の本質を見通しているようであるのは盲人である。

このように、作品が物語るプロットと、作品が創造される過程とは、一体化しており切り離すことができないように思える。『薔薇』が日本人によってロシアで撮られた作品であることを知っている観客の多くは、主人公と作者の間の同一性を感じ取ることだろう。(主人公の設定は「東洋人」ということになっているが、彼は日本語の手紙を読んでいるのだから、日本人とみなしてよいのではないか。)しかし、こうした「自伝」的要素を作品の中に確認しただけでは、作品を理解したことにはならないというのも確かである。作品とは、作品の外部にある何かの「コピー」ではなく、その本質は作品の中にしか見いだせないのだから。