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KISMET について

(2003年7月20日、東京におけるAlt-artsの上映会後によせられた観客からのメールより

●アントン氏をはじめ作品に登場する人々が音楽を職業としているわけではないにもかかわらず、深い芸術観を持っていることが面白いと感じました。昼間は英会話教室で働き、mたサッカーにも熱中しながら、その一方で夜創作に励むという、振り子の両端を行き来するような生活を営んでいくバランス感覚の絶妙さ。次に登場するフルート奏者やEXISA−Jのメンバーもしかり。それぞれの表情を見ていると、高い志を持ちながらも、しっかりと地に足のついた堅実な生き方をしている人たちだということを感じました。多分、私の知らないところでそうした生き方をしている人たちが大勢いるんでしょうね。(・・・…)

作品中で個々の登場人物の背景が詳しく述べられているわけではありませんが、否応無しに各々が各々の人生を背負っている(当たり前ですが)のだなということを感じてしまうのです。多分、そういう「人生」というものを一番そのままの形で示せるのが映画なのかなと、作品を観ながらふと思いました。(・・・…)どうも背負っているという言い方がウェットな響きを含んでいて適当ではない気もしますが、言い換えれば何かすべきこと、なさなければならないもの、或いは求めているもの、信じているもの、人生に意味をもたらす目的とも言えると思います。

そうした人たちが、初めは面識を持っているわけではないけれども、西さんを媒体として或いは彼等自身が求めあい、点と点が結びあい、気がつくと一つの星座が形作られていった過程がこの作品なのだなと思ったのです。私は平田オリザの芝居が好きなので彼の作品をちょっと思い出しました。彼の作品はたまたま知り合った人同士が会話をし、また去っていくという場を描いていること多いのですが、その出会いによって何かが生まれるわけではなく、その場限りの関係であるのに対してKISMETでは様々な人が行き交いそして新たな意味が生じてくることが違う点だと思いました。きっとそうした繋がりは人が真剣に何かしようとした時自然に見えてくるものなのでしょうね。

今の時代は皆生きる指針を見失っているといったことがよく言われますが、宗教や封建制など良くも悪くも人々の価値観を取りまとめていたものが無くなった今、堅実に今を生きている人々から何かを学び、影響しあいながら、各々がしっかりした価値観を作っていくしかないように思いました。

 

●先回の映画『光にむかう3つの夢想曲』(EXIAS-J演奏含む)をBOX東中野で拝見しており、アントン氏のグループとEXIAS-Jが登場するこのドキュメンタリーを、たいへん心待ちにしていました。

映像も音もクリアで臨場感に溢れ、『Caprice』『EXIAS-J』双方の活動の様子を、このような映像を通して体験できたことをたいへん幸せを感じました。
また、アントン氏の音楽の両面性(天使的なものと悪魔的なもの...こういう表
現ではなかったかもしれませんが)への自覚的な態度が、表現者として鍛えられていることに、強い印象を受けました。

『KISMET』には、第1部『Caprice』、第2部『EXIAS-J』、第3部『Moon FarAway』『Jack or Jive』と、それぞれ違った仕方で音楽にアプローチする演奏家集団が登場しますが、映画は三部構成を通じて、監督である西さんの音楽家への敬愛と美しい世界への眼差しが一貫して流れているように感じられました。しかし、興味深かかったのは、この一貫した眼差し(ドキュメンタリーの手法と言うべきかもしれません)が、『Caprice』『EXIAS-J』と『Moon Far Away』の音楽の差を明らかにしたように見えたことです。

 

●「KISMET」という映画の主題について。現実の中に生じながら、いわゆる「現実的」観点からすれば副次的と一般には見られているもの、しかしそれを視点の中心に据えると、まったく違った現実が現れてくるもの、それが「KISMET」であると私は解釈するのですが、その「違った現実」を呈示するためには、芸術作品という形を取らざるをえない、ということも、改めて今回再確認しました。冒頭のカメラの逆回しも、単に過去への遡行を象徴しているというよりは、そうした「現実を作品する」力の最初の現れなのかなと思いました。映画の中で、ときどきヴィデオを撮る西さんご自身の姿が現れますが、それもこうした観点から見ると、面白いと思いました。ドキュメンタリーというジャンルは、美学的・哲学的に考察すると、色んな興味深い問題がありますね。

 

 

(C)Nishi Shusei