[より良い医療のために(2)]

[説明と同意 医者と患者の溝埋めよ] 大和成和病院心臓外科 南淵明宏 朝日新聞「私の視点」2007年4月12日
[地方医療、専門医より一般医の充実を] 済生合熊本病院副院長 副島秀久 朝日新聞「私の視点」2006年3月1日
[「医の成功と失敗」について] 日本医師会・日医ニュース「視点」No.1052 2005年7月5日
[名医と迷医の見分け方、裸のお医者さまたち] 桑間雄一郎著(ビジネス社)
[患者への十分な説明と配慮で本来のアドボカシーを] 京都保険医新聞 2005年4月18日
[くり返される安楽死事件] 医師はまず正しい知識を持つこと、市民は日頃から家族での話し合いをしておくことが大切
[医師選び、医師に相談を] 下田治美さん「賢い患者術
<下>病院を探すには」朝日新聞2005年1月3日
「アドボカシー」患者の権利を守り、支援する 院内に相談窓口置く施設も Nikkei Medical 2003年2月号

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[説明と同意 医者と患者の溝埋めよ]
大和成和病院心臓外科 南淵明宏
朝日新聞 「私の視点」 2007年4月12日

心臓手術のようなリスクを伴う医療行為について、患者に十分に説明をし、同意を得ること、つまりインフオームド・コンセントは実に難しい。医者は医学書に書いてある内容をもとに説明しようとする。しかし、それではまず患者は理解してくれない。医学的な知識において、医者と患者は対等ではない。「分かりやすさ」が求められる。患者の仕事や家族のことも考えなければならないが、どこまで目を配れるか、これも難しい。患者側は同意に際して医者の脱明を理解し納得することが欠かせない。とはいえ、どこまで理解できたのか、患者自身も分からない場合があるのではないか。

私のもとには毎週のように弁護士が相談に来られる。カルテを広げ、「ある病院で心臓手術を受けた患者が死亡した。ミスはないか」「他の治療法はなかったのか」「別の病院を紹介すべきではなかったか」などと疑念を示される。この時に問われるのが、インフオームド・コンセントのあり方だ。結果が最悪となり、「事前にもっと詳しく説明して欲しかった」という患者側の気持ちは理解できる。その気持ちにそうなら「説明は十分ではなかった」ことになる。ただカルテをみる限り、多くは医療側がかなり丁寧に説明していた形跡がうかがえる。簡単な記載しかないものもあったが、分厚い冊子を患者に渡していて感心したこともあった。どうしてこんなにも大きなギャップが患者と医療側に生まれるのだろうか。

患者に全身麻酔をかけ、胸の真ん中を切り開いて拍動する心臓にメスを入れる――私が専門とする心臓バイパス手術は何百というプロセスで成り立っでいる。そのすべてに危険が潜む。大動脈や心室の壁など大切な部分を傷つけると大出血を招く。どんな小さなミス、思い違いでも一歩間違えば患者の死につながる。手術を終え、文字通り「危険な橋」を渡った心臓はどう反応するか。血管を良くしても弁の逆流を止めても身体が期待通りに回復してくれる保証はない。患者への説明は、手術と同様に神経を使う。図を描いたりして「ここまでは分かりましたか」「質問はありませんか」などと尋ねて同意書に署名してもらっている。だが弁護士から他の病院でのトラブルを聞く度に自分の方法が十分なのかどうか、自信がなくなる。

「溝」を埋めるには、たゆまぬ現場の努力しかない。医療側は図や動画を駆使して説明し、患者の理解度を可能な限り厳しく確認するべきである。患者側に望みたいのは、事前に納得できるまで、治療法や医療機関をとことん吟昧し、自分自身で選択してほしいということだ。有益な情報は求めなければ得られない。患者も医師も成功を確信して手術に臨む。その期待が裏切られる結果になった場合、疑念や後悔といった負のエネルギーは医療裁判に形を変える。文明杜会の知恵で、双方が納得できる形で紛争の芽を摘み取ることができないだろうか。

◇58年生まれ、奈良県立医大卒。豪州などで研修。

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[地方医療、専門医より一般医の充実を]
済生合熊本病院副院長 副島秀久
朝日新聞「私の視点」2006年3月1日

地方での医師不足が、深刻になっている。原因は医師の臨床教育が、専門医の養成に偏ってきたためではないか。地方に必要な一般医や家庭医といった総合臨床医が、ほとんど養成されてこなかったと言っても過言ではないだろう。地方の医師不足を解消するには、まず一般医の養成を中心に据えるべきではないか。

日本では、もともと専門医志向が強かった。医師免許取得者の大半が、大学の医局で専門分野だけを研修し、勤務医や開業医になっていたからだ。医療が高度化、専門化し、分業が進んでいるという事情もある。半面、総合的な診療ができる医師が少なかった。そうした反省から、厚生労働省は04年度から2年間の臨床研修を必修にした。一般的な病気にも対応できる能力を養成するのが狙いだ。研修医は内科、外科・救急、小児科、産婦人科、精神科、地域保健・医療などを回ることになった。「スーパーローテート」と呼ばれる方式である。一歩前進であり、効果はこれから表れるだろうが、幅広い診断能力を養うのに、2年で十分な力がつくのか。研修医を指導する医師側の態勢は充実しているのだろうか。新機軸とはいえ、課題は少なくない。

高齢化は、都市部より地方の方が進んでいることを考えると、老年学の知識も含めて、一通りの診療ができる一般医の養成を、臨床教育の基本にすべきではないか。一般医には、けがや症状の程度に応じて、救急病院に送るかどうかを適切に判断できる「トリアージ」と呼ばれる能力も必要だ。地方で望まれているのは、こんな一般医だ。現在、大学では一般医を養成する講座はない。専門として、明確に位置づけられているとは言えないのである。一般医を医療の現場に送り出すと言っても、高い専門性が必要だ。だが、そうした重要性も認識されていないのだろう。開業しても、「一般医・家庭医」という看板が掲げられないことが、雄弁に物語る。

医療の分業が進み、医師の診察範囲が狭まっている一方で、一般医というカテゴリーがないため、医学生は専門医を選ぶしかない。専門性を高めるために症例を増やそうとすれば、都会志向にならざるを得ない。その結果、地域医療の担い手は減っていくわけだ。厚生労働省によると、医師の総数は毎年約4千人ずつ増えている。全国的には増えているのに、地方が医師不足になるのは、こうした構造的な問題が、背景にあるからだ。「地方の医師不足」も県庁所在地などの都市部と、それ以外の地域とでは格差がある。小児科や産婦人科・産科・麻酔科などで、特に不足が目立っている。

もっとも、医師自身が地方勤務を望まないという現実があることも、否定はできない。地方の勤務医は、外来のほかに入院を診て、急患も診るという過酷な勤務を強いられる。長時間労働にもなりがちだ。休みも取りにくい。給与面で恵まれているとも言い難い。地方の医療に貢献しようという志が高くても、体力が続かず、辞めて開業に向かう勤務医が少なくない。中堅が抜けるので、病院の臨床力、教育力は下がる。一般医の重要性を臨床教育の中に明確に位置づけ、病院や診療所の看板に、掲示できるようにすべきだ。同時に、勤務医の労働環境も改善し、地方の医師不足を解消していくべきだ。

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[「医の成功と失敗」について]
日本医師会・日医ニュース「視点」No.1052 2005年7月5日

社会のなかには、どの分野においても、ある度合いを持って「危険」が存在する。その危険度が現実に増し、あるいは危険度が増しているのではないかと人々が不安状態に陥っている社会を「リスク社会」と呼ぶ。残念だが、医療も「リスク社会」に「加担」しているとみなされている。

病んでいる人を癒し、疾病を治し予防する使命を、医療が担っていることはいうまでもないことだが、その医療には、村上陽一郎氏が『安全学』(青土社)のなかで指摘しているように、「患者の身体の『安全』を脅かす要素が、本来的かつ必然的に備わっている」。すなわち、すべての医療行為は、患者の身体への侵襲を伴っているというわけだ。それが許されるのは、「医療行為が、一般的見地からみれば患者の『安全』に対する侵害であったとしても、その行為が患者の生命の安全にとってより大きな利益になる、という前提があるからである」と続けて村上氏は述べている。

また、松本三和夫氏は『知の失敗と社会科学技術はなぜ社会にとって問題か』(岩波書店)のなかで、「科学技術が問題を解決すると同時に生産するものとして社会と螺旋的に結びつくような構造を科学・技術・社会系が備えている。結局のところ科学・技術・社会系における成功(問題解決)と失敗(問題発生)には境界がなく、連続的につながりあっている(一部省略)」と指摘している。この指摘は正に医学・医療に本来的に備わっている「成功(問題解決)」すなわち医療成果と「失敗(問題発生)」すなわち医療事故との関係を、先に述べた『安全学』と同じ文脈で、適切にいい得ている。

医師は、医療に携わるにあたってインフォームド・コンセントを適切に行うように医師の職業倫理によっても、また医療法によっても義務付けられている。当然のことながら、行おうとする医療行為がもたらす医療成果のみならずその医療行為が内蔵している危険性(度)をも適切に説明したうえで、同意を得る必要がある。この医療成果と危険度は、平均値はあるにしても、その医療施設(構造、設備、スタッフの質と量、組織の質)と医師(技術、知識、熱意、誠意、人間性)によって異なるし、医療を受ける個体(患者)によっても異なる。さらにいえば、いわゆる患者-医師関係によっても影響を受ける。特に当該医療に備わっているリスクを説明し、理解を得るのは相当な信頼関係がないと困難だ。医療を行う医師と医療を受ける患者・家族とが、リスクについての共通認.識に立つためには、危険度を意識したリスクコミュニケーションが必要である。.

医療安全については、さまざまな議論がなされていが、医療者と社会とは、医療が本来的に備えている「患者が受ける侵襲と利益」「医の成功と失敗」という視点で共通認識に立つことも必要であろう。

<ドクターちゃびんの解説>よく書けた論説ですが、「インフォームド・コンセント」を医師が行う行為ととれる表現をしています。インフォームド・コンセントは、患者の権利であり患者が行わなければいけない行為です。

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[患者への十分な説明と配慮で本来のアドボカシーを]
京都保険医新聞 2005年4月18日

最近、ちまたにはアドボカシー(患者の権利擁護)という名の幽霊が出る。この言葉が、米国医師会と保険者との対立の中で、医師会のポリシーとして明文化されるに至った経緯は、アメリカ医療の光と影をテーマにした気鋭の書き手である李啓充氏の初期の著作に詳しい。

しかるに、いま日本で頻繁に語られるアドボカシーは、患者にすり寄るだけのやたら甘口の言葉による、医療機関の標語に過ぎないように思える。結果、依然として医療機関ごと医師ごとに対応がバラバラで、肝心の、医師会として自らを批判し、どう律してゆくかというストラテジーがごっそり抜け落ちている。

最近立て続けに本来のアドボカシーの必要性を痛感する事例に出会った。一つは、短期間に進展したと思われる肝がんが見つかった患者を紹介した公的医療機関の対応。腹水も溜まりはじめ、日に日に体調が悪くなっているにもかかわらず、担当の医師に、ベッドが空くまでとむなしく自宅で待たされる患者家族の不安や苛立ちに対する配慮はない。私自身が直接掛け合いに行っても将があかず、病棟医長に病状を説明して、ようやく即決の入院になった。

また一つは、インフルエンザの予防接種をすでにしているのにもかかわらず、入院先の老人病院で接種された老人。一度しているからと拒否すると医師が出てきて、いま流行している型に対応した新しいワクチンだから受けるよう言われた。そんなワクチンがどこかにあるのだろうか。おまけにもう3月だというのに。

また一つは、事故後の首の痛みで公的医療機関に通院中のところ改善しないため、評判の整形外科を訪ねた患者の話。頸椎のXーPを見て、事故による椎間板ヘルニアがあるので毎日牽引と低周波に通うように言われ、加えてそれを診断できなかったのは前医のミスだと断じた。単純X線でどうやってヘルニアを診断されたのだろう。できるなら私も診断基準を伺ってみたかった。

これらに共通するのは、十分な説明を行っていないこと、患者に選択肢がないことだ。何より患者の側に立つ(アドボケイト)意識が希薄な点である。些細なことかもしれないが、「神は細部に宿り給う」と思えてならない。(中京東部・辻 泉)

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[くり返される安楽死事件]
医師はまず正しい知識を持つこと、市民は日頃から家族での話し合いをしておくことが大切
2005年3月28日

繰り返される安楽死事件の報道を見るたびに、医師の不勉強に落胆する。医師に安楽死や尊厳死についての正しい知識が無いために、患者家族の「かわいそうだから」という心情に流されて、医師として行ってはならない医療行為をしてしまう。このたびの福山の病院での事件は「非自発的(本人の意思の確認が無い)積極的安楽死(医療行為によって意図的に命を縮める、つまり死なせる)」ということになり、言い換えれば慈悲殺人という可能性もある。一方、尊厳死とは人間としての尊厳を保って死に至ることであり、「自発的(本人の意思に基づいた)消極的安楽死(苦痛を取り除いて死ぬに任せる)」のことである。今回のような事件を防ぐために、医師には正しい「医学的判断、倫理的判断、法的判断」が求められる。また医療行為を行うにあたっては患者家族との充分なコミュニケーションに基づいて、医師と患者家族が共通の認識をもち納得が得られた上で、医学的にも倫理的にも法的にも正しい方法を選ばなければならない。専門家としての医師と素人の立場の患者家族との溝をうめるものは、充分なコミュニケーションに基づいた信頼関係である。医師も市民も、日ごろから命や死について考えたり、同僚や家族と話し合っておくことが大切である。

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[医師選び、医師に相談を]
作家 下田治美さん「賢い患者術
<下>病院を探すには」朝日新聞2005年1月3日

47年東京生まれ。主な著書に「愛を乞うひと」など。脳動脈瘤の手術を受けるまでの医師選びの経緯をつづった「やっと名医をつかまえた1脳外科手術までの七十七日」や、「精神科医はいらない」など、医療をテーマにした著作も。

自分に合った医師を探すのに、まずは「医師のことは医師に聞く」ことが重要だと思います。病気がちの私には、老眼で眼科、腰痛で整形外科、ほかに内科や皮膚科にもふだん診てもらう医師がいます。別の病気で医師を探すとき、診療科は違っても、信頼できる彼らに意見を求めることにしています。医師同士のつながりの中で彼らが持っている情報は確度が高いと思います。名医は名医を知っているのです。信頼できる医師がいることは、名医探しの近道でしょう。インターネットや書物の膨大な医療情報も手がかりになります。最近では、医師個人がホームページを持ち、診療内容や実績を紹介しています。私はそうしたデータをおおむね信用しています。優秀な医師ほど自信があり、自分の情報公開に積極的だと思うからです。

7年前、脳動脈瘤が見つかり、手術してくれる医師を探し奔走しました。友人にかき集めてもらった情報を基に、これはと思う医師を拾い出し、電話して面会の約束を取り付けました。助手や部下ではなく、その大本人の手術を受けたい。そのためにはこの目で直接、本人を確かめるべきだと思ったからです。面会の約束を取る時、医師は多忙だからと遠慮はしませんでした。自分を名乗り、自分の求める医師のフルネームと、その医師の実績を知った情報源を明らかにすれば、電話で対応してくれた人が必ず、その医師につなぐ手配をしてくれます。最後の決め手は、その医師に会い、話したときの「ひらめき」みたいなもの。正しい選択だったと思っています。とはいえ、失敗もあります。知人に医師を紹介してもらい、いったんは手術に同意しました。知人の顔をつぶしたくないと思うほど、私はその医師に言いたいことを言えなくなり、我慢を重ねた末、ついには不信感から、たんかを切って病院を逃げ出しました。手術の前々日のことでした。

患者には医師を選ぶ権利があります。キレるときはキレなければなりません。「医者は日本に26万人もいるんだい。おまえなんか目じゃないぞ」って。医師の側も患者の性格を見極めています。飾らず、正直に医師に向き合うことが、.患者の側の心得だと思います。(聞き手・嘉幡久敬)

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「アドボカシー」
患者の権利を守り、支援する 院内に相談窓口置く施設も
Nikkei Medical 2003年2月号

アドボカシー(advocacy)とは、唱道、擁護、支持などを意味する英語。早稲田大人間総合研究センターバイオエシックス・プロジェクト助手の河原直人氏は、「社会的不正義が存在する場合に、その事実を広く集め、問題点を浮き彫りにして社会に変革を促し、結果を個人に還元するという一連の運動全体が、アドボカシーと言える」と説明する。

アドボカシーは、1960年代の米国で、消費者運動の高まりに呼応して起こった。医療分野では、当然守られるべき患者の権利を擁護、あるいは支援するという考え方、またはそのための取り組みという意味で使われている。

元ハーバード大助教授の李啓充氏の著書によると、マサチューセッツ総合病院では外来棟ロビーの最も目立つ場所に「患者アドボカシー室」が設置されている。専任の職員が患者の苦情や不満を聞き、医師や看護師にフィードバックして、改善を促す役割を果たしているという。

臨床研修指定病院に設置

この4月からわが国でも、特定機能病院および臨床研修病院に、「患者相談窓口」の設置が義務付けられることになった。厚生労働省の医療安全対策検討会議が昨年まとめた対策に沿って、リスクマネジメントの観点から、患者の不満や苦情に迅速に対応するのが目的。

これは米国の「患者アドボカシー室」とは設置の経緯こそ異なるが、患者の声に真剣に耳を傾け、患者の立場に立った医療サービスの改善が行われるのであれば、病院側からのアドボカシーとなり得るだろう。

アドボカシーの理念で患者相談に取り組んでいる医療機関もある。岡山旭東病院(岡山市)では2001年4月に「患者様アドボカシー室」を設置し、これまでに20件ほどの相談を受けた。同室を担当する四方克尚氏は医療ソーシャルワーカーの立場から、「当事者である患者・家族が何を不満に思い、どんなことを望んでいるのかを把握し、こたえていくよう努めている。職員が相談を受けると身内に甘くなりがちになるデメリットはあるが、患者の二一ズを最優先に考え、十分に話し合うことにより、病院側が学ぶべき点が多いことを実感している」と話す。

日本外来小児科学会では2000年に「アドボカシー委員会」を設けた。委員長を務めるみうら小児科医院(盛岡市)院長の三浦義孝氏は、「小児科医の仕事は、子どもの病気を治すだけではない。地域に溶け込み、子どものためにできることは進んでやろう」と呼びかけている。麻疹予防接種料金の無料化の提言や心肺蘇生法の講習など、診療に直接関係することのほか、待合室での本の朗読やチャイルドシート着用講習など、ユニークな活動も行っている。

患者自身による活動も活発化

当然ながら、患者会や市民団体もアドボカシーの重要な担い手だ。乳癌患者が中心の市民グループ「イデアフォー」は、1989年の発足時から、アドボカシーを活動の柱の一つに据えている。世話人の一人である中澤幾子氏は、「患者同士が慰めあうだけでなく、患者の立場で理不尽だと感じたことについて積極的に声を上げることで、医療を患者にとってより良いものに変えていくことも、患者会の役割」と話す。同会では乳房温存療法の普及を目指し、乳房温存術をめぐる医療過誤訴訟の支援などにも取り組んでいる。(北澤京子)

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