憲法九条と九条の会

○日本国憲法今まさに旬!日本国憲法は、世界平和宣言であり、世界人権宣言なのです!
日本は、お金を沢山出しているから国連の常任理事国になりたいという卑しい考えでなく、
戦争の放棄を高らかに宣言した人類の理想とすべき平和憲法を持つ国として、
原子爆弾を落とされ、殺され、焼かれ、奪われた国の外交として、どうどうと世界に平和の大切さを訴えよう!
高価なイージス艦やあやしげな弾道ミサイル防衛構想をおしつけられ、いくら税金を使っても平和は買えない!

世界平和は戦争ではもたらされません。日本国憲法はもっとも現実に即した憲法です。
現実にそぐわないのは憲法違反の行為であり、その現実を変えて理想に近付けなければいけません。
教育基本法は、日本国憲法の精神に則って制定されたもので、国民を国家の犠牲にしない新しい日本を目指したものです。
憲法は国民を守るために国をしばる法!いまこれを国を守るために国民をしばる法に変えようとしている人たちがいます!
日本国憲法の三大原則:(1)国民主権(2)平和主義 (戦争の放棄)(3)基本的人権の尊重→日本国憲法
◎憲法違反の政治を見過ごしてはいけません!
日本に民主主義はあるのか?形骸化した3権分立:行使されない違憲立法審査権!
憲法 第10章 最高法規 
第97条
 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

日本国憲法第9条 →日本国憲法
(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

日本国憲法 第9条は、日本国憲法の三大原則のひとつである平和主義を具体的に規定する条文であり、この条文だけで憲法の第2章を構成する。
この条文は「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の3つの要素から構成される。
日本国憲法の三大原則:(1)国民主権(2)平和主義 (戦争の放棄)(3)基本的人権の尊重
1946年11月3日に公布され1947年5月3日に施行された日本国憲法は、1945年に制定された国際連合憲章の平和主義に基づいて、
その文言を引用しさらに究極の平和主義まで高めたもので、その精神は1947年3月に施行された教育基本法にも盛り込まれました。
○「軍隊は国民を守らない」が歴史の教訓 ○戦争しないことこそが唯一の「国民保護」→有事法制と歴史

◎もっとも重要な国際公約は平和憲法・日本国憲法第九条です
どんな国の核実験にも反対し抗議すべきです!
世界で唯一の原爆被爆国としての使命です。アメリカの核実験に対しても制裁措置を!
反戦反核への思いの結晶・RCC中国放送制作番組→「ヒロシマの記憶」(録画)のHP掲載を開始

[日本国憲法前文第2項、日本国憲法第9条] 日本国憲法の基本原理としての平和主義の表明とその具体的な規定
[空自イラク派遣に違憲判断―「そんなの関係ねぇ」?]  水島朝穂 2008年4月21日
[イラク判決 政府の法解釈もとに「違憲」 ] 水島朝穂 朝日新聞 2008年4月18日
[親鶯思想基に平和論『憲法九条は仏の願い』] 中国新聞 2006年12月24日
[改憲を許してはいけない]
 全国保険医新聞 2006年12月5日
[「九条の誓い」二度と戦争はしない、人類の滅亡を防ぐには] 中国新聞「天風録」 2006年11月3日
[戦争、人間、そして憲法9条ーアメリカと日本は価値観が違うー] 経済同友会終身幹事・品川正治 月刊保団連2006年7月号
[一本の鉛筆] 憲法は歴史の奇跡が生んだもの、今こそ活かさねば 中国新聞「天風録」2006年3月28日
[九条を遵守して米軍基地をなくせ] 広島県保険医新聞「主張」 2006年3月10日
[「九条の会」アピールへの賛同を多くの先生に呼びかけます] 広島県保険医新聞 2006年3月10日
[軍隊のない国「コスタリカ」では米国のイラク戦争支持は違憲] 全国保険医新聞 2005年5月15日
[憲法の世論調査にみる平和主義と扇動のこつ] 朝日新聞「天声人語」2001年5月4日

「九条の会」アピール(転載) 九人の呼び掛け人 2004年6月10日
「九条の会・医療者の会」発会記念講演会講演録(抜粋)
 小森陽一東京大学教授(「九条の会」事務局長)2004年11月5日
九条の会・医療者の会 九条の会・福山

「九条の会」呼び掛け人:井上 ひさし(作家) 梅原 猛(哲学者) 大江 健三郎(作家) 奥平 康弘(憲法研究者)小田 実(作家)
加藤 周一(評論家)
 澤地 久枝(作家) 鶴見 俊輔(哲学者) 三木 睦子(国連婦人会)

 →「九条の会」オフィシャルサイト  →「九条の会・医療者の会(「九条の会」アピールを支持する医師・医学者の会)
→「九条の会」アピール →「九条の会・医療者の会」発会記念講演会講演録

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[日本国憲法前文第2項、日本国憲法第9条]

日本国憲法前文第2項は、日本国憲法の基本原理として平和主義を表明している。

本文

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

英文

We, the Japanese people, desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship, and we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world. We desire to occupy an honored place in an international society striving for the preservation of peace, and the banishment of tyranny and slavery, oppression and intolerance for all time from the earth. We recognize that all peoples of the world have the right to live in peace, free from fear and want.

日本国憲法 第9条は、日本国憲法の三大原則のひとつである平和主義を具体的に規定する条文であり、この条文だけで憲法の第2章を構成する。この条文は「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の3つの要素から構成される。

条文

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を逹達するため、陸海空軍その他の戦力戰は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

英文

1.Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

2.In order to accomplish the aim of the preceeding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized

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[空自イラク派遣に違憲判断―「そんなの関係ねぇ」?]  2008年4月21日
早稲田大学・水島朝穂のホームページ

を疑った。「そんなの関係ねぇ」。最近テレビはあまりみないので、お笑い芸人の名前を知らない。パンツ一枚でこう叫ぶ男性芸人。なぜ人気があるのか疑問に思っていたのだが、その言葉を、何と航空自衛隊トップの田母神俊雄航空幕僚長が使ったから驚いた。「私が〔隊員の〕心境を代弁すれば『そんなの関係ねぇ』という状況だ」と。空幕長が憮然としたのは、イラクにおける空自の輸送活動を憲法違反とする判決が出たからである。

  4月17日(木)午後。名古屋高等裁判所民事第3部(青山邦夫裁判長)は、自衛隊イラク派遣訴訟において、違憲確認請求や派遣差し止めの訴えはいずれも不適法であり、損害賠償についても請求を認容するだけの被侵害利益は生じていないなどとして、被控訴人(市民グループなど)の控訴を棄却した。この結論は、これまでの多くの自衛隊海外派遣関連訴訟や、全国11の裁判所で行われている自衛隊イラク派遣差し止め訴訟のなかで出される判決のパターンとおおむね共通している。だが、今回の場合、結論を導く理由のなかで、相当踏み込んだ憲法判断が行われた点が特筆される。論点は大きく二つある。自衛隊イラク派遣の違憲性と、平和的生存権の具体的権利性である。

  第1の論点について。判決は、「海外派遣」と「海外派兵」の区別論や、「武力行使の一体化」論など、これまでの政府解釈を丁寧に追いながら、イラク特措法に基づく対応措置が、武力による威嚇・行使にあたるものであってはならないこと(2条2項)、当該措置は、現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷又は物を破壊する行為)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる一定の地域(非戦闘地域)で実施されること(2条3項)を確認したうえで、これをイラクの具体的状況のなかで検証していく。

   判決は、(1)〔イラクの状況が〕外国勢力である多国籍軍と「国に準ずる組織と認められる武装勢力」との「国際的な武力紛争」になっていること、(2)首都バグダッドはイラク特措法にいう「戦闘地域」に該当すること、(3)空自の空輸活動は、多国籍軍の戦闘行為の必要不可欠な軍事上の後方支援を行うもので、少なくとも武装兵員を戦闘地域であるバグダッドへ空輸する行為は、「他国による武力行使と一体化した行動」であること、(4)それは「自らも武力行使を行ったとの評価を受けざるを得ない行動である」こと、(5)空自の当該活動は、イラク特措法2条2項、3項に違反し、憲法9条1項に違反する活動を含むこと、を明らかにした。

  第2の論点。平和的生存権については、(1)「すべての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利」であり、憲法の基本的精神や理念の表明にとどまるものではないこと、(2)それは、法規範性をもつ憲法前文と9条、13条を媒介にして第3章の個別的人権を通じて憲法上の法的な権利として認められるべきこと、(3)自由権的、社会権的、参政権的態様をもつ「複合的な権利」であり、かつ裁判所に対して保護・救済を求めることのできる具体的権利であること、(4)憲法9条に違反する戦争遂行などへの加担・協力を強制されるような場合には、裁判所に対して違憲行為の差し止めや損害賠償請求ができる具体的権利性があること、である。

   第1の論点については、イラク特措法が制定されたときからの曖昧な部分を、判決は鋭く衝いたといえる。すなわち「戦闘地域」と「非戦闘地域」の区別という、いわば「砂上の楼閣」の上に、自衛隊派遣は行われてきた。政府は、「戦闘地域」を、「国や国に準ずる組織による国際性、計画性、組織性、継続性のある攻撃が続いている地域」と限定的に定義して、武装グループが、土着的で、場当たり的で、非組織的で、単発的な攻撃を行っているところは「戦闘地域」ではないという結論を導く伏線にしている。また政府は、バグダッド全体が「戦闘地域」か「非戦闘地域」かの判断をしないままに、自衛隊が活動するバグダッド空港に限って、これを「非戦闘地域」であるとしてきた。だが、これには相当な無理がある。小泉首相(当時)は、2003年7月23日の党首討論で、「どこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域か、私に聞かれても分かるわけがない」と叫んだことは記憶に新しい。「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域なんです」という小泉首相の発言(2004年11月10日党首討論)につながっていく。これは、「定義の定義」の矛盾とほころびを告白したものといえる。

   この点、判決は、空港を含むバグダッド全体が「戦闘地域」に該当すると判断し、そこにおける空自の活動を、違法な「戦闘地域」での活動と認定したわけである。これはきわめて常識的な判断であり、自然な解釈といえる。

  また、判決は、多国籍軍の武装兵員を戦闘地域に空輸する行為を、「武力行使と一体化した行動」であり、かつ日本国自身の武力行使と同等評価が可能な行為と認定した。これもきわめて理にかなった判断である。これまで政府は、武力行使ないし武力行使の一体化は、明確かつ直接的な武力行使(爆撃、砲撃)や、戦闘機を発進準備中の空母、ミサイルを発射しようとする艦艇への給油にあるといった形に絞り込み、それ以外は可能であるという「最初に結論ありき」の解釈を積み重ねてきた。しかし、テロ特措法による給油活動とは異なり、武装兵員の輸送というのは、武力行使との密着度は格段に高い。自らは射撃しないが、射撃する兵員を輸送している飛行機が飛んでくれば、当然、武装勢力の側からすればこの飛行機は攻撃目標となる。自ら武力行使を行ったと同等評価されうる部分が、今回の判決で、憲法9条1項違反とされたわけである。もっとも、判決はきわめて慎重に、自衛隊の活動全体が違憲とはしなかった点を強調して、『読売新聞』4月18日付は、あえて「イラク空自『一部違憲』」という一面トップ見出しをつけた。

  さらに、多国籍軍の活動が国連決議を受けた活動であることなどを指摘して、判決の誤りを説く社説もある(『読売』『産経』)。だが、イラク戦争そのものが侵略戦争であり、その後の状況から、多国籍軍を派遣している諸国でも撤退の動きがあり、またイラク戦争を始めた米国内でさえも、この戦争が誤りであったという意見が多数になりつつあるときに、日本政府や有力メディアは、ブッシュ政権の間違った政策を弁護し続けているのはいかにも奇異である。今回の判決は、まさにイラク戦争をめぐる世界の常識にかなったものであり、かつ日本国憲法の根本原理に立脚して、その問題性を率直に指摘したものであって、「変な判決」でも、「非常識」でもない。

   特筆すべきは、第2の論点である。もともと平和的生存権の議論は、恵庭事件で萌芽がみられ、長沼判決では、原告住民の「訴えの利益」(行政事件訴訟法9条)を認定する際の重要なポイントとなった。イラク派遣訴訟の場合、平和的生存権の持ち出し方は異なる。例えば、2004年1月28日、箕輪登・元郵政大臣(元防衛政務次官)が、自衛隊イラク派遣の差し止めを求める訴訟を札幌地裁に起こしたとき、訴状のなかで同氏は、「イラク戦争によって、国際的なテロの土壌が拡大し、日本国内外で活動し生活する日本人がテロの標的にされる可能性が顕著に増大している。従って、原告の生命・身体、自由、幸福追求に対する権利侵害の危険性が具体性を有するに至っている」とした。長沼判決が平和的生存権を裁判規範として認めたときの論理は、簡単にいえば、ミサイル基地建設により相手国の第一攻撃目標となり、そのことで「一朝有事の際」に原告らの平和的生存権が侵害されるという構成だった。箕輪訴訟では、テロの標的になることが平和的生存権侵害とされているのである。ただ、テロそのものが多様な原因をもっており、自衛隊派遣の差し止めを根拠づけるほどの具体的な権利侵害の主張としては十分ではない。

   箕輪氏は、慰謝料請求の部分ではこうもいう。テロなどにより「原告自らの生命・身体、自由、幸福追求への侵害の危険をもたらすと同時に、他国の人々に対するそれらの侵害に加担させられるのであるから、これにより受ける精神的苦痛は、人間として平和的に生きたいと考えている原告にとって耐え難いものである。原告は、かかる精神的苦痛に対する慰藉の一部として金1万円を請求するものである」と。

   しかし、この箕輪訴訟も同種の訴訟と同様に訴えは退けられた(箕輪氏も亡くなった)。これらに比べると、今回の名古屋高裁判決は、長沼一審以来、裁判所が言及した平和的生存権のなかで最も水準の高いものであり、平和的生存権論の到達点を示すものといえる。恵庭・長沼の憲法訴訟から箕輪訴訟などの多数の訴訟の理論と実践の蓄積が、今回の名古屋高裁判決につながったといえるだろう。

  高裁判決は、平和的生存権を「複合的権利」として構成し、とりわけその自由権的側面において、9条違反の行為に加担・協力を強制されたときは、裁判所に違憲行為の差し止めや損害賠償請求ができるとして、平和的生存権を具体的権利として認定したことはきわめて重要である。高裁判決はいう。「憲法9条に違反する国の行為、すなわち戦争の遂行、武力の行使等や、戦争の準備行為等によって、個人の生命、自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ、あるいは、現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合、また、憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができ、その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある」と。

  判決はこのような判断枠組を示したうえで、被控訴人の請求内容を審査して、それをすべて退けていく。ただ、棄却判決なのに、「〔控訴人らの〕それぞれ重い人生や経験等に裏打ちされた強い平和への信念や信条」や「そこに込められた切実な思い」などにも言及している。本判決は、原告らの主張を認容する判断枠組を丁寧に構築して、その上で訴えを棄却したわけで、決して不必要な「傍論」を展開したわけではない。原告らが憲法違反の主張を行ったことに誠実に応答しながら、結論的には原告らの訴えを退けたものであって、むしろ、自衛隊派遣差止めなどとんでもないことで、最初から棄却ありきの結論先行思考では、何のための裁判所かということになる。名古屋高裁は、政治問題に近接ないし関連した問題については、過剰に判断抑制的傾きのある日本の裁判所のなかで、あえて司法の原点に立ち戻って、誠実に判断しただけである。

   なお、判決は原告の損害賠償請求などを棄却しており、国側の「勝訴」である。国は「上告の利益」を欠くので、最高裁に上告できない。この控訴審判決は確定する。このことを問題にする向きもある。特に、「主文と関係ねぇ」というように、結論に直結しない「傍論」の形で憲法判断を示したことへの批判がある。『読売新聞』18日付社説や『産経新聞』などは、結論とは無関係な傍論の内容を不服として上告し、最高裁の判断をあおぐことができないことは「言いっ放し」のような形で、違憲判断だけが残るとして批判する。『産経新聞』19日付は、「三審制に基づき最高裁でもって憲法判断を行う終審裁判所としたわが国の違憲審査制を否定するもの」とまで批判する。映画「靖国」上映問題や、教科書問題など、いろいろなところで跳梁跋扈している稲田朋美代議士は、国側が上告できないことを、「最終決定は最高裁にあり、それを封印するような違憲論展開こそ憲法違反だ」という珍論を展開している(『朝日新聞』4月19日付)。『産経新聞』18日付は、稲田氏の言葉を大きな見出しに使って、「蛇足判決こそ違憲」なんて筋違いなことをいっている。

  そもそも憲法81条は、下級審の違憲審査権を予定したものであることは通説であり、実際にそう運用されてきた。また、下級審が憲法判断を行った場合、そのケースに関連して上級審が必ず憲法判断を行うようにもなっていない。憲法81条は、付随的違憲審査制と理解されており、当該事件に必要な限りで憲法判断を行うが、それは憲法判断をしなくてもすむような事情があれば、憲法判断に踏み込まないという傾きで理解されている(憲法判断回避のルール)。今回の高裁判決は確定したが、最高裁の憲法判断の機会が奪われたというような言い方もおかしい。最高裁は、自衛隊をめぐる問題では一貫して「統治行為論」をバックにおいて、判断を回避してきた。だから、かりに今回の事件がもし上告できるようなケースだったとしても、高裁の憲法判断を、正面から「合憲判断」によって否定するとは思われない。政治家たちは、最高裁がまるで合憲判断積極主義の「憲法裁判所」にすでになったかのような、改憲先取り的発想になっているのだろうか。

   ちなみに、戸松秀典氏はこう指摘している。「最高裁判所が憲法の番人であることを根拠に、下級審判決の結論はともかく、判決理由中の憲法論が受け入れられないとして、上告することができるだろうか、という問題がある。これについて、裁判所は、事件・訴訟の解決をすることを役割とし、その役割を果たすために必要な限りで憲法判断を行うとする付随的審査制の機能に照らして、消極の答が示される」(戸松『憲法訴訟』第2版〔有斐閣、2008年〕118〜119頁)と。

  ところで、裁判所が違憲判断を出すと、メディアは大きく報道する。とりわけ最高裁の違憲判断は、法律の改正などに向けた影響をおよぼしてきた(尊属殺違憲判決、薬事法違憲判決、議院定数不均衡違憲判決等々)。個別的効力の一般的効果である。実際、名古屋高裁の違憲判断に対して、政府・与党筋から激しい反発が起こっている。長沼事件のときは一審の地裁判決だったが、今回は控訴審の高裁である。平静を装うとしているが、相当なショックを受けていることは容易にみてとれる。

   テレビの記者会見でも、判決の影響をことさら低くみせようとし、主文と関係ない傍論だから影響ないといってみたり、辞めていく裁判長の暴論だといってみたり…。例えば、判決当日の福田首相。「国が勝ったんでしょ」と、木で鼻をくくったような物言い。町村官房長官も、「裁判官はどこまで実態をわかっているのか」という頭から馬鹿にした姿勢で会見に臨んでいた。高村外相は「判決を読んだか」という記者の質問に対して、「外務大臣を辞めて、暇になったら読んでみます」という挑戦的態度だった。一番驚いたのは、冒頭に紹介した田母神空幕長である。裁判所に憲法に適合しない点を指摘された以上、どんな点が違憲といわれたのかについて注意深い態度をとる(少なくとも神妙なポーズをとる)のが憲法尊重擁護義務を課せられた公務員の態度だろう。「そんなの関係ねぇ」とは、憲法や司法を無視するぞという「暴走発言」である。このような空幕長は即刻罷免すべきである。中山成彬元文相に至っては、「問題のある裁判長で、変な判決だった。3月末で辞め『最後っぺ』(おなら)を出したようなものだ」(『毎日新聞』4月19日付)と。ここまでくると、政治家として不適切を通り越して、人間として品位が問われよう。

  念のためにいっておけば、判決は裁判長一人で出すものではない。3人の合議の結果である。合議の秘密なので、全員一致か、2対1かは不明だが、「問題のある裁判長」の勝手な意見ではない。独立して職権を行う裁判官が合議の末にこういう結論に達したのである。辞めていく裁判長の判決を代読するということはままあることであり、何ら異例ではない。判決をイラク派遣について再検討の機会として、撤収への理由づけにするなど、頭のいい政治家ならばもう少しうまく利用するだろう。下級審の判決だから従わないというような物言いは、権力分立と違憲審査制への挑戦である。

  なお、判決当日、私は4コマの授業があり身動きがとれなかったが、ゼミの途中で、学生たちに理由を話し、取材を何本か受けた。翌日の『朝日新聞』オピニオン欄「私の視点」と、共同通信の配信でブロック紙や地方紙に私の見解が掲載された(『東京新聞』『高知新聞』など)。時間的余裕があれば触れたいこともたくさんあったが、判決直後のコメントとして、『朝日新聞』のものを以下に残しておきたい。

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[イラク判決 政府の法解釈もとに「違憲」 ]
水島朝穂(早稲田大学法学学術院教授)
(『朝日新聞』2008年4月18日付オピニオン面「私の視点」掲載)

  イラクでの航空自衛隊の活動に対して、名古屋高裁が違憲だとする判断を出した。これは極めて重要な判決だ。

   自衛隊の海外派遣をめぐっては、湾岸戦争後の掃海艇派遣、PKO、テロ特措法に基づく派遣に対して、いくつもの違憲訴訟が起こされてきた。いずれも原告敗訴で、今回も結論は同じだが、理由部分で初めて違憲だとする判断が示された。それだけ今のイラクの空自の活動は違憲性が高いということを意味している。判決には無理な解釈もないし、突飛な理屈もない。極めて常識的な判断だ。

   これまで政府は、自衛隊の活動は武力行使と一体化しなければ違憲ではない、と国会で答弁してきた。これに対して判決は、空自が輸送活動を行うバグダッドは「戦闘地域」であるとしたうえで、空自が多国籍軍の武装兵員を戦闘地域に輸送する行為は武力行使と一体化した行為だと認定した。

   現代戦においては、輸送などの補給行為も戦闘行為の重要な要素であり、空自の活動は武力行使に当たる。輸送だから、後方や兵站だから、武力行使ではないということにはならない。これは軍事の常識だ。

   判決は政府が積み重ねてきた解釈に沿ったもので、むしろ政府見解を丁寧にフォローしていることに驚かされる。

   判決は、イラク特措法が合憲であるとしても、活動地域を非戦闘地域に限定した同法に違反する、と明快に指摘した。どこが戦闘地域か不明なままで自衛隊の活動が続いてきたが、当時の小泉首相以来の政府のあいまいな態度に対して、裁判所が厳しい判断を示したということだ。

   戦闘地域や武力行使かどうかを認定するに当たって、ここまで裁判所が踏み込むことはこれまでなかった。そうせざるを得ないほど違憲性が高いと判断したのだ。

   さらに注目すべきは、判決が平和的生存権について従来より踏み込んでいることだ。〔平和的生存権は〕1973年の長沼ナイキ基地訴訟札幌地裁判決で、初めて憲法上の権利として認められた。今回の判決は、その後の学説の展開を踏まえ、裁判所に対し保護と救済を求めることのできる具体的な権利であると明言している。

   たとえば、国から戦争遂行への加担や協力を強制された場合、差し止め請求や損害賠償請求ができる場合があるとした。ここまで踏み込んだ判決はこれまでなかった。

   原告らの請求を棄却はしているが、その否定の仕方は異例ともいえる丁寧さが感じられる。理由部分で違憲判断を示したのは、憲法問題が問われた以上、それに誠実にこたえ、ぎりぎりの職責を果たしたと言える。

   これは実質、原告側勝訴の判決だ。それだけ、イラク戦争への協力をはじめとした昨今の流れに対して、裁判官の中にも憲法の観点からの危機感が強いことの現れではないだろうか。

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親鶯思想基に平和論
『憲法九条は仏の願い』(念仏者九条の会編・明石書店・1575円)
中国新聞 2006年12月24日

先の国会で「愛国心」などを盛り込んだ改正教育基本法が成立した。改憲論議も加速する勢いである。われわれ仏教者は憲法九条の意味をどう考えればいいのだろうか。戦後六十年を迎えた昨年、浄土真宗の僧侶と門徒たちが、「念仏者九条の会」を発足させた。本書では信楽峻麿(元龍谷大学長)ら十二人が、仏教と親鶯の教えに生きる立場から〈憲法と平和〉を輪じている。ブッダは仏典「ダンマパダ」で「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」と述べた。自己自身とともに「殺さしめる力」、すなわち国家や戦争を遂行するシステムを問うブッダの言葉は、仏教の平和思想の根拠である。

戦争放棄を宣言した九条は、仏の願いを表現している。九条の改定は、「戦争をしない国」から「戦争のできる国」への方向転換であり、ブッダの非戦の願いに背く改悪にほかならない、と本書は問題点を指摘する。かつて本願寺教団は念仏を弾圧した「主上臣下」を非難する「数行信証」の文言を削除し、戦争協力を呼び掛ける門主消息を出した。親鶯の教えを曲げ、聖戦と賛美して門徒を戦争に駆り立てた。本書の筆者たちは教団の歴史を批判的に検証し、継承すべき伝統を発掘して新たな教学、つまり自立した仏教思想の構築をめざす。時代の課題にこたえうる営みとして評価されよう。

また、本書に収められた戦争体験者の証言のうち、金谷経生の「学徒傷病兵の澄んだ瞳」と題する一文は胸を打つ。金谷の学生時代の友人鈴木隆平は軍医の粗雑な治療のため下半身不随となった。鈴木は語る。「相次ぐ(仲間の)傷病兵の自殺をとめることはできませんでした。…国はそっとわれわれを見殺しにしたのです」。不条理を問う鈴木の言葉は重い。九条は仏の願いであると同時に「死者との誓い」なのではないだろうか。

念仏者九条の会が提起する<憲法と平和>の問題は、日本社会の仕組みとわれわれ自身の生き方の選択を迫る不可避の課題だと言えよう。〈池田顕雄・仏教書編集者〉

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[改憲を許してはいけない]
全国保険医新聞 2006年12月5日

日本国民は戦前・戦中の大日本帝国憲法下で、国民主権もなく無権利状態に近く、国策に翻弄され続け、あの塗炭の苦しみを経験してきた。生活は困難を極め、生存することすら危ぶまれる状況であった。当時の国策では何ら有効な解決策にはなり得ず、そればかりか国の侵略戦争政策によって壊滅的惨状を日本およびアジア各国に作ったのである。

戦後、日本国憲法が発足するに到った経緯は、そうした戦前・戦中の教訓から、徹底的な民主主義を貫き、平和主義、人権保障、生存権保障を基本に憲法を誕生させたことである。即ち、勤労国民が被った近・現代史の結実が日本国憲法である。従って国民生活にとってのあらゆる部面における民主的条項が網羅されている。そのため、日米支配層が一体となって行おうとしている軍事的世界戦略や、大資本利益・利潤至上主義の推進にとっては、日本国憲法が大きな障害となって立ちふさがっているのである。日米の支配層が改憲を志向するのは、この障害を取り除きたいからである。これが日本国憲法改憲の本質である。

しかし、現実には全面改憲は不可能と支配層も判断している。ならば、これ以上の解釈改憲も限界であり、また日米一体の軍事的世界戦略上も喫緊であり、そして多国籍化した日米大資本の海外生産拠点を如何なる場合にも守護し得る日本軍という軍事プレゼンス発揮だけはぜひともに、ということからくる憲法9条に絞った改憲策動である。そして、次に予定する改憲をやりやすくするための手続きである国民投票法案である。他の人権保障・生存権保障による大資本利益・利潤にとっての障害は当面は自立・自助・自己責任論と小さな政府論による構造改革での日常的な諸制度改悪で事足れりと踏んでいるのである。例えば、憲法12条、13条、14条、21条、29条違反である自主共済つぶしの新保険業法であり、世界のどの地域でも戦争する国民作りと所得再分配や社会保障を否定する格差社会を容認する国民作りの教育基本法改悪法案(憲法19条、23条、26条違反)である。

改憲策動は、朝鮮戦争時よりこの方、ずっと支配層は目論んで来た。その策動を国民の運動でその都度しりぞけてきた。今これを許すことは「21世紀日本ビジョン」にみられるような支配層の目論む国のあり方を許すことになる。これでは国民生活を誰しも成り立たせようがないことは明々白々である。改めて訴える。戦前・戦中で塗炭の苦しみを経験した国民が日本国憲法で、どれほどに光明を見いだし勇気づけられたことか。改憲によって失うのがあまりにも大き過ぎやしないか。

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[「九条の誓い」二度と戦争はしない、人類の滅亡を防ぐには]
中国新聞「天風録」 2006年11月3日

二度と戦争はしない。そう誓った憲法九条の前途が危うくなってきた。そんな危機感が背景にあるのか、「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書)が売れている▲出版元によると、八月半ばの発売開始から一カ月で十万冊を完売。増刷で二十六万冊に達した今も、勢いは衰えそうにない。購入者の半数は女性。それも若い世代が多いそうだ。お笑いタレントの太田光さんと宗教学者の中沢新一さんの異色の対談集。「わかりやすさも売れる理由の一つ」と担当者▲「国家を生命体に例えれば、九条は免疫機構の解除に当たる。新たな生命を生み出すために母体に備わっている機能と同じです」。人類学者でもある中沢さんの指摘が新鮮だ▲母体は妊娠中、ウイルスなどの侵入に対して無防備になってでも、胎児を守り育てる。九条の戦わない体質にも通じる神秘的な仕組みである。人類の滅亡を防ぐには、全世界が戦争をせず、核廃絶へ足並みをそろえるしかない。そんな訴えが共感を呼んでいるのだろう▲日本ペンクラブ会長を務める作家の井上ひさしさんも、九条存続に向けた活動に精魂を傾けている。この夏には絵本でつづる「子どもにつたえる日本国憲法」(講談社)を出版した。「どんなもめごとも/筋道をたどってよく考えて/ことばの力をつくせば/かならずしずまる」▲古いコートを脱ぎ捨てるように、あっさり九条と決別してもいいものか。平和憲法公布から六十年の節目の日、深く思いをめぐらせたい。

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戦争、人間、そして憲法9条
ーアメリカと日本は価値観が違うー
月刊保団連2006年7月号(No.906)

経済同友会終身幹事 品川正治(しながわまさじ)
1924年生、東大法学部卒。
日本火災(現日本興亜損保)社長・会長、現相談役。経済同友会副代表幹事、専務理事、現終身幹事。日本ヒルトン会長。日商岩井(現双日)監査役歴任。(財)国際開発センター会長。

戦争は決して天災でもなく地変でもない。戦争を起こすのも人間ならば、それを許さず止めることができるのも人間です。ましてや国民が主権者であることが明記された憲法を持つ国における"戦争"と"人間"の関係は重く、一切の逃げ口上は許されません。

戦争体験を持ち、戦友の死に立ち会い、自らも傷を受け、数千万におよぶアジアの人々に加害者、侵略者の立場に身を置いた私は、二度と戦わないと定めた日本国憲法9条こそ、以後の人生の出発点であり指標でもありました。

しかし戦争放棄を願った国民に支えられたこの憲法に対し、支配政党の側は一度も国民と決意を共にしなかった。自衛隊を持ち、米軍とのガイドラインを協議し、有事立法が施行され、特措法の名の下に、ついにイラクまで自衛隊を派遣するに至りました。すでに9条の旗はボロボロに破れました。しかし国民は今なお9条の旗竿を握ったままで放しません。憲法9条を国民が支えてきたことによって、この60年間、日本は国家主権の発動を通じては一人の外国人も殺していません。また軍産複合体に支配されない形で世界第二位の経済大国を実現しています。私たちの誇りです。

その9条、ことに2項をなくし、アメリカと共に戦える国にしようというのが改憲派の主張です。ボロボロになっても手を放さない国民の手から旗竿さえもぎ取ろうとしているのが、いまの「憲法改正」の現状です。

すでに戦争を体験した年齢層の時代は去りつつあります。しかし戦争とは、「勝つため」には全てを犠牲にする、自由、人権はもとより「いのち」さえも犠牲にする、価値観が全く引っくり返ることは過去、現在、未来を通じて変わりません。

「日本はアメリカと価値観を共有している」と小泉総理は主張します。マスコミの多くもそれを前提にしています。国民の多くもそう考えています。そこに最も大きな落し穴があるのです。戦争をしているアメリカと平和憲法を持つ日本とは、価値観において最も遠い所に在るのです。戦争をしているアメリカは、全てを動員しています。国際政治も国際金融も、そして同盟諸国の軍事力、経済力も。ただ憲法9条2項があるため日本との軍事同盟はできません。いま国民投票で「改憲はNO」と日本国民が意思を明確にすれば、日本は変ります。日中関係も変り、日米関係も変ります。憲法が輝きます。次の時代の日本の進路が明らかになります。

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[一本の鉛筆] 憲法は歴史の奇跡が生んだもの、今こそ活かさねば
中国新聞「天風録」2006年3月28日

あなたに愛をおくりたい/あなたに夢をおくりたい/あなたに春をおくりたい/あなたに世界をおくりたい…一本の鉛筆があれば/八月六日の朝と書く/一本の鉛筆があれば/人間のいのちと私は書く▲松山善三作詞、佐藤勝作曲の「一本の鉛筆」。一九七四年の第一回広島平和音楽祭で、美空ひばりさんが熱唱した。ひばりさんは八八年の第十五回音楽祭でも歌った。いつ聴いても心に染み入る▲尾道市や福山市で活動する生涯学習団体「まなびや」の友野晴己代表(53)は、「『一本の鉛筆』は憲法前文に通じるものがある。その憲法が危ない時を迎えている」という。その危機感から平和を訴える詩や文章を集めた「LOVE&PEACE 言葉展」を尾道市で開いている。二十九日まで▲「わしら日本国民はのお…」と憲法九条を備後弁で書いた作品、「イラク戦争三年 泥沼は深まるばかりー」とパネルにしたためた反戦詩など、市民らがそれぞれ「一本の鉛筆」を発信した。その中には、尾道市出身の映画監督大林宣彦さんの一文もある▲「我我が現在所有している憲法は、歴史の奇跡が生んだもの、と考えるべきだ。時代の都合や理屈などで、決して疎かにしてはならぬ宝である。守る、を超えて、今こそ活かさねばならぬ」▲世の中、言葉があまりに軽くなっているのではないか。とりわけ政治の世界では、もてあそんでいるかのようだ。「言葉展」は、言葉の力を取り戻す願いも込められている。

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[九条を遵守して米軍基地をなくせ]
広島県保険医新聞「主張」 2006年3月10日

米軍再編で岩国基地に厚木基地の艦載機部隊の移転計画が明らかになりました。米国ブッシュ政権は先制攻撃戦略の中で日本での拠点を岩国基地に置こうとしています。厚木基地の空母艦載機57機と隊員等160人が岩国基地に移動します。岩国では戦闘機は合計110機となり海軍・海兵隊が統合され巨大な航空基地に変わります。厚木基地では最近の航空機騒音は月5,000回を越えており、移動後の岩国では8,000-9,000回と推定されます。また岩国基地の滑走路が沖合いに思いやり予算で移設され、騒音区域(W値75)は机上で計算されたコンター図(等高線)をみると現在より拡大され、岩国より北の宮島まで、南は大島までです。硫黄島では米軍兵士の戦闘機乗務の資格試験及びそのための練習で、基地でのタッチ・アンド・ゴーが昼夜連続で行われています。岩国基地でもこの訓練を持ち込んできます。

1950年の朝鮮戦争では、岩国は前線基地として使われました。その際、戦闘機が通過するルートに工場の煙突がかかっているということで、煙突の上部を切断させたり、市民には夜間灯火管制が強要されたりしました。また、10年前から対地攻撃訓練(標的はダム・橋)のためブラウンルート(岩国から三次そして岡山)で低空飛行訓練が行われ、最近ではエリア567(広島から島根)にも拡大され騒音被害が出ています。戦闘機の増加よる昼夜のFCLP(空母着艦訓練)と低空訓練は山口県・広島県・島根県へ騒音被害を拡大させ、米軍兵士の増員は過去の各地での犯罪が示すように岩国や周辺市町村への犯罪も増加が懸念されます。広島県内では岩国市近隣の大竹市や廿日市市、江田島市などの首長が「住民の生活環境を守る立場から移転は反対」との声をあげており、広島市に対して、「平和都市広島として反対の意思を表すべき」との声が高まっています。

「防衛は国の専管事項」という理由を持ち出し、国の政策については自治体に権限がないから反対決議や住民投票に意味がないとの意見があります。在日米軍地位協定に伴う「国有財産管理法」で米軍に使用させるとき、「地方自治体の首長の意見を聞く」と定めており、自治体は「地方自治法」で住民福祉の増進が義務付けられています。自治体にこれを阻害する国の政策に否の意思を示すのは自治体に与えられた当然の権利です。1996年の新潟県・巻原発、97年岐阜県・御嵩の産廃、沖縄県・名護市・米軍新基地、2000年徳島市・吉野川可動堰と、各地での住民投票は計画を撤回させています。

今でも日米安保条約から逸脱し、日本の基地から直接イラクヘ戦闘機が飛んでいます。最近の米軍と自衛隊の共同訓練は自衛隊の米軍の一部を担う海外での活躍を視野にいれたものになっています。しかし、それは憲法9条2項が足かせになっています。また、防衛庁は自治体の基地増強の反対決議を阻止するために議員に公然と違法な圧力をかけています。その中で、岩国での基地増強反対の住民投票の成功は米軍再編に大きな打撃をあたえます。

一方、戦争をする国に変える憲法改正を前提の国民投票法案の上程がみこまれています。今こそこの法案の問題点を明らかにして、憲法改正を阻止させるため「九条の会」に医療者が結集し、力を大きくする必要があります。

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「九条の会」アピールへの賛同を多くの先生に呼びかけます
広島県保険医協会 理事長 長谷憲
広島県保険医新聞(第360号) 2006年3月10日

2004年6月、井上ひさしさん、梅原猛さん、大江健三郎さん、奥平康弘さん、小田実さん、加藤周一さん、澤地久枝さん、鶴見俊輔さん、三木隆子さんの9氏が呼びかけ人となり、「九条の会」がつくられました。現在、第九条を中心に日本国憲法を「改正」しようとする動きがかつてない規模と強さで台頭してきています。「九条の会」はこうした動きに対して「憲法第九条を守る」という一点で多くの国民とともに広範な運動を行っていこうというもので、これを受けて各地では様々な形の「九条の会」がつくられています。町長も加わって地域住民が集まってつくられた会、職場の有志でつくられた会など広島県下でも「九条を守る」という一点でどんどん会がつくられています。

さて、私たち医療の分野では、全国の27人の医師・歯科医師・医学者が呼びかけ人となり「『九条の会』アピールを支持する医師・医学者の会」(略称「九条の会・医療者の会」)を結成し、「九条の会」アピールをより多くの医師・歯科医師・医学者に伝え賛同を広げていくことを呼びかけています。広島県保険医協会理事会は2005年4月12日の第15期第1回理事会にて「九条の会・医療者の会」の取り組みを強めていくことを確認し、本紙05年7月号にて賛同の協力を訴えました。現在までに30数人の賛同をいただいており、さらに多くの先生に賛同の協力をお願いしたいと思います。

国民投票法案は九条改憲と一体

現在、通常国会が開会中ですが、憲法「改正」への筋道をつくる「国民投票法案」の取り扱いが大きな焦点となっており、自民・公明・民主の3党は通常国会へ法案を共同提案することで合意しています。法案について、現在マスコミ等で報じられているものは、国民投票の結果に影響を及ぼす報道・評論を罰則付きで規制すること、また有効投票の過半数になれば国民の承認を得たとするなど、改憲のハードルを低い方に設定しています。この国民投票法案は九条改憲と一体となっており、今国会での成立を断じて許すわけにはいきません。

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憲法で軍隊の保持を禁止した国・コスタリカ

[軍隊のない国「コスタリカ」では米国のイラク戦争支持は違憲]
憲法改正◆考える(シリーズ)
全国保険医新聞 第2310号 2005年5月15日

「恒久的制度としての軍隊は禁止する」これは1949年に制定されたコスタリカ共和国憲法十二条の一部である。コスタリカはこの憲法の下、当然軍隊を保有していない。一時期、形式的には日本の海上保安庁に相当し、軍隊に匹敵する規模の戦力を持っている、との噂がインターネットを通じてまことしやかに流されたが、事実は全く異なっている。また、83年には「中立宣言」を出し、非武装中立政策を確立した。

そのコスタリカで、大統領が03年3月のアメリカによるイラク侵攻を支持し「平和を求める我々の使命感が、テロヘの無関心や寛容と解釈されてはならない。平和とテロの戦いにおいて、我々は中立ではないしとの声明を出していたことが明らかになり、国民の反発を買った。大学生であるロベルト・サモラさんは、「平和を求める憲法の精神や中立宣言に反する」と考えて憲法法廷に提訴した。04年9月8日最高裁憲法法廷は「米国のイラク侵攻を支持した行為は、平和を求める憲法や国際法などの精神に反し、憲法違反である」との判決を下した。きわめて常識的な判断である。

わが国では、九条一項で「戦争放棄」を定め、二項で「戦力を保持しない」ことを定めている。にもかかわらず、自衛隊が存在し、政府はアメリカのイラク戦争を支持し、自衛隊の派兵まで行っている。また、国際紛争処理へ自衛隊を派遣できるように日本の誇る憲法九条を変えようとする動きが活発化している。常識的には明らかに憲法違反である。

私たちにとって今大切なことは、日本で憲法が果たした役割を冷静に見つめることである。日本は、戦後60年間、国権の発動としての戦争を一度もしておらず、一人の外国人も殺していないし、一人の日本入も死なせていない。この平和憲法のもとでこそ、世界第二位の経済大国に発展し、また世界一の長寿国になれたのである。私たちの、いや世界の宝、日本国憲法を、コスタリカのたたかいからも教訓を学び、守り育てることが今求められている。(中川武夫・愛知県)

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[憲法の世論調査にみる平和主義と扇動のこつ]

朝日新聞「天声人語」2001年5月4日

憲法記念日に憲法の世論調査の数字(2日朝刊)を見ていて考えた。一見矛盾すると思える数字もある。しかし、見方によっては、味わい深い結果だ。この結果の一部をある人物の独白として構成してみよう▼「憲法改正? してもいいのじゃないですか。時代に合わせて変えるべきところは変える。恐れることはない」「だったら、改正しやすくしたらどうか、ですって? それはちょっと待ってください。だれが何を変えようとしているのですか」「9条ですか。そうですか、それがやりたかった。それは困ります。自衛隊はどうなる? いまの状態でかまわないのじゃないですか」▼この世論を、いわゆる平和ぼけと見る人もいるかもしれない。9条の定着ぶりを示すと見る人もいよう。いずれにしても「9条を変えない方がいい」「戦争放棄条項が日本、アジアの平和と安定に役立った」がともに74%というのは、大きいと思う▼ナチスの指導者だった人の言葉「普通の人はだれも戦争を望みはしない」を思い浮かべた。「しかし、政策を決めるのは指導者だ」と言って、いかに普通の人々を戦争に巻き込むか、を語る▼「自分たちが攻撃されていると告げる。平和主義者を非愛国者として非難する。そして実際に国を危険な状態におく」。体制に関係なくこれでうまくいく、と▼極端な例だ。しかし、扇動のこつである。たとえば平和主義が、愛国的でないと非難されるようなときには気をつけた方がいい。世論の平和志向の強さを数字に見て、余計な心配とは思いながらも。

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「九条の会」アピール(転載)
→「九条の会」アピール

 日本国憲法は、いま、大きな試練にさらされています。ヒロシマ・ナガサキの原爆にいたる残虐な兵器によって、五千万を越える人命を奪った第二次世界大戦。この戦争から、世界の市民は、国際紛争の解決のためであっても、武力を使うことを選択肢にすべきではないという教訓を導きだしました。侵略戦争をしつづけることで、この戦争に多大な責任を負った日本は、戦争放棄と戦力を持たないことを規定した九条を含む憲法を制定し、こうした世界の市民の意思を実現しようと決心しました。

 しかるに憲法制定から半世紀以上を経たいま、九条を中心に日本国憲法を「改正」しようとする動きが、かつてない規模と強さで台頭しています。その意図は、日本を、アメリカに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。そのために、集団的自衛権の容認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、憲法上の拘束を実際上破ってきています。また、非核三原則や武器輸出の禁止などの重要施策を無きものにしようとしています。そして、子どもたちを「戦争をする国」を担う者にするために、教育基本法をも変えようとしています。これは、日本国憲法が実現しようとしてきた、武力によらない紛争解決をめざす国の在り方を根本的に転換し、軍事優先の国家へ向かう道を歩むものです。私たちは、この転換を許すことはできません。

 アメリカのイラク攻撃と占領の泥沼状態は、紛争の武力による解決が、いかに非現実的であるかを、日々明らかにしています。なにより武力の行使は、その国と地域の民衆の生活と幸福を奪うことでしかありません。一九九〇年代以降の地域紛争への大国による軍事介入も、紛争の有効な解決にはつながりませんでした。だからこそ、東南アジアやヨーロッパ等では、紛争を、外交と話し合いによって解決するための、地域的枠組みを作る努力が強められています。

 二〇世紀の教訓をふまえ、二一世紀の進路が問われているいま、あらためて憲法九条を外交の基本にすえることの大切さがはっきりしてきています。相手国が歓迎しない自衛隊の派兵を「国際貢献」などと言うのは、思い上がりでしかありません。憲法九条に基づき、アジアをはじめとする諸国民との友好と協力関係を発展させ、アメリカとの軍事同盟だけを優先する外交を転換し、世界の歴史の流れに、自主性を発揮して現実的にかかわっていくことが求められています。憲法九条をもつこの国だからこそ、相手国の立場を尊重した、平和的外交と、経済、文化、科学技術などの面からの協力ができるのです。

 私たちは、平和を求める世界の市民と手をつなぐために、あらためて憲法九条を激動する世界に輝かせたいと考えます。そのためには、この国の主権者である国民一人ひとりが、九条を持つ日本国憲法を、自分のものとして選び直し、日々行使していくことが必要です。それは、国の未来の在り方に対する、主権者の責任です。日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため、一人ひとりができる、あらゆる努力を、いますぐ始めることを訴えます。

2004年6月10日

井上 ひさし(作家) 梅原 猛(哲学者) 大江 健三郎(作家) 奥平 康弘(憲法研究者) 小田 実(作家)
加藤 周一(評論家)
 澤地 久枝(作家) 鶴見 俊輔(哲学者) 三木 睦子(国連婦人会)

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「九条の会・医療者の会」発会記念講演会講演録(抜粋)
小森陽一東京大学教授(「九条の会」事務局長)2004年11月5日
→「九条の会・医療者の会」発会記念講演会講演録

憲法が変えられるとどうなるでしょうか。空理空論ではなく予想することができます。1つ目は、集団的自衛権と称していますが、これは日米軍事同盟が強化され、アメリカの無法な戦争に日本が常に巻き込まれていく状態になるということです。2つ目は、連動して、現在は志願兵制度ですが、それでは間に合わなくなって徴兵の問題が出てきます。すでに、一部のマスコミでは取り上げられています。3つ目には、産業構造そのものが大きく変質し、軍産複合体という体制が敷かれます。4つ目に、アジアにおける外交の選択の幅が狭くなります。日本がアジアで孤立する。こういう4つの問題が、憲法9条がなくなったらどうなるか、ということから予測される事態です。

東側で戦渦が起きていないのはなぜか?それは一言で言えば、日本が憲法9条を持っているからであり、自衛隊が軍隊ではないからであり、従って日米安保という2国間軍事同盟に基づく集団的自衛権を行使できないからです。21世紀の現実の世界政治において、憲法9条は極めて実践的な、戦争の抑止力になっているのです。「日本が北朝鮮に攻撃される事態が予測される」という口実をつくった時、ユーラシア大陸の東側で、アメリカが武力行使する看板ができるわけです。これに道を開くことが、自民党の論点整理案の中で言うところの、「個別的・集団的自衛権の行使に関する規定を盛り込む」こと、つまり自衛隊を軍隊にすることの中心的な狙いだろうと思います。

25条は日本国憲法の根本的な考え方がセットで入っている条項なのです。国民の権利を規定しながら、「この国民の権利があるから、国をしばるのだ」と、国の義務規定があり、極めて重要な国民主権の内実を最も現している条項だと言って良いと思います。

日本で憲法がないがしろにされてきたのは、最高裁が違憲立法審査権を発動しなかった、そのことを、それを抑圧してきた歴代の自民党内閣が総括し、最高裁が自由な司法の判断として違憲立法審査権を発動するような体制をつくらない限り、どんな憲法をつくったって、駄目なわけです。最高裁を抑圧してきた自民党が、憲法改正案で「憲法裁判所」をつくると言ってもちゃんちゃらおかしいわけです。

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