えびす組劇場見聞録:創刊号(1999年5月発行)

創刊号のお題/「ガリレオの生涯」

上演情報
作●ベルトルト・ブレヒト       訳●谷川道子       演出●松本修
出演●柄本明 木野花 西牟田恵 麿赤兒 有薗芳記 他
1999年3月6日〜22日●世田谷パブリックシアター
「ビッグネームとの出会い」 by コンスタンツェ・アンドウ
「戯曲を乗り越える」 by マーガレット伊万里
「遠くのブレヒトより近くのエモト」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「劇場の外から」 by C・M・スペンサー
編集後記

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「ビッグネームとの出会い」
コンスタンツェ・アンドウ
 私は劇場へ行くのが好きである。ジャンルにこだわらないつもりだが、実際は、何となく避けてきた種類の作品がある。曖昧な表現をさせてもらえるなら、学問的イメージの漂う西洋近代戯曲、とでも言おうか。理由は単純。「難しそう、つまらなさそう。」その中に、ブレヒトの作品も含まれていた。名前こそ知っていたものの、ブレヒトを見たことも読んだこともなく、ブレヒトが演劇界に与えた影響や、演劇界がブレヒトに与えた評価についても無知同然だった。
 そんな私がついにブレヒトと向き合うことになった。作品は『ガリレオの生涯』。(演出・松本修。)きっかけはまず、キャスティング。バラエティに富んだ出演者の連名に、「この面々なら楽しく見られそう」と食指が動いた。舞台について何かを書く人間にとって、ブレヒトは一般常識である。見ず嫌いを克服する、いい機会だと思った。そして、劇評を書く仲間の集まりで、一つの舞台を取り上げることになり、『ガリレオの生涯』が対象に決まった。そこで私はふと考えた。もしも、作品がまるで理解できなかったら、文章を書くのは苦しくなる。事前に戯曲を読んだり、作家と作品について情報を得ておくべきか…? しかし、結局何もしなかった。「ブレヒト学」も一夜漬けでは底の浅さを隠せないだろうし、「読んでから見る」ことにも抵抗があった。『ガリレオの生涯』を見る理由の一つはブレヒトにあるけれど、それは一度忘れて、いつも通り、幕が開いてから考えることにして、無防備に客席に座った。
 見はじめてすぐ感じたのは、特別に難しくはない、ということだった。台詞は普通の会話体で、観念的な言い回しや不可解な比喩は使われていない。特異なキャラクターを持つ人物が奇矯な行動を取ることもなく、時間や場所が飛躍して混乱することもない。舞台上の出来事について理解に苦しむことは全くなかった。「ブレヒトは難しそう」という危惧は見事に外れた。だが、「つまらなさそう」という予想は、少なからず的中してしまったのである。
 休憩も含めて約四時間、正直な話、退屈だった。ガリレオの研究の様子、法王庁との対立、娘や弟子との愛憎等が、順に時間を追って丁寧に展開されるのだが、物語の流れも、人物の描かれ方も平板で、舞台と観客との間に「摩擦」が生じない。「摩擦」は、「違和感」や「ズレ」とも言いかえられるが、良い意味である。観客は、自分と舞台の間に違和感を覚えると、その理由を探して調整しようと能動的になる。強烈な違和感は観客の集中力を削ぐが、適度な違和感は舞台と観客に緊張関係を生む効果があると思う。その「摩擦」が感じられなかった。
地動説に嫌悪感を覚えつつ、否定しきれない天文学者がつぶやく。「全てを理解しなければいけないのだろうか?」年老いたガリレオは、かつての弟子に、科学が人間の為になるとは限らないと語る。それらは、「科学」に対する根本的な問いかけである。現代へ通じる印象的なシーンだが、やや直接的だ。ガリレオは、研究に没頭する余り、娘の結婚を破談に追いやる。しかし、そうまでして極めた学説も、教会から拷問をちらつかせられると撤回する。このエピソードで、ガリレオの科学者としての異常な面や、人間としての弱い面を描いているが、ありきたりである。この作品では、「科学」と同じウェイトを「キリスト教」が占める。ガリレオは、科学と宗教の狭間で葛藤する。だが、無宗教の現代日本人である私には、その苦悩は体感できない。ただ傍観するだけある。
 見終わった時、ガリレオがどんな生涯を送ったか良くわかったような気になった。しかし、それ以上のものを得たとは感じられなかった。私は、ガリレオという歴史上の人物を通じて、ブレヒトという作家の内面が露出された舞台を想像していた。内面の露出が強烈な違和感や難解さに通じるのでは、と警戒もしていた。しかし、実際には、ガリレオの人生を無難に脚色し、舞台に載せただけ、と感じたのである。長いものに巻かれるような受け身の四時間を過ごし、残ったのはあまり心地の良くない疲労感だった。
 帰りがけに買ったパンフレットで、『ガリレオの生涯』がブレヒトの自伝的な戯曲といわれていることを知った。ガリレオにブレヒトを重ねあわせて見たら、印象が変わっただろうか、とも考えたが、ブレヒトの生涯を知らない私には望み薄である。第一、作家が作品に何を投影したにしろ、舞台を見ていただけで伝わってこないものは、私には重要と思えない。「ブレヒト学」を修めなかった者の負け惜しみに聞こえるかもしれないが。
 最後になったがキャストについて。ガリレオは柄本明。出ずっぱりの熱演の中にも乾いた雰囲気があり、この人の主演で良かったと思った。ウェットな芝居をする俳優が演じたら、ベタベタしてしまいそうで、長丁場は耐えられなかったかもしれない。ただ、時折台詞が聞きづらくなったのが残念だった。他の出演者は何役かを演じているが、魅力を出しきれていないように感じた。ガリレオの娘に扮した西牟田恵は新鮮さに欠け、木野花や麿赤兒は役不足気味。山崎清介と植本潤は、三幕の初めにブレヒトについて面白おかしく解説するコーナーがあり、個人的には楽しかったが、その場面だけ浮いていた。ガリレオの弟子のアンドレアを、少年時代から通して演じた有薗芳記の、出しすぎず抑えすぎない演技が印象に残った。
 演劇界のビッグネーム・ブレヒトとの出会いの顛末は、こちらが勝手に「難しい」と想像し、それが裏切られたことに不満を覚えているような、少々滑稽な展開となった。どうやら私は、ブレヒトがビッグネームたる所以のものに触れることができなかったようである。仕方がないとあきらめつつ、少し悔しいのも事実である。しかし、「つまらなかった」という感覚だけは大切にしようと思う。それは、的外れな先入観や、肥大した知識から生まれたものではないからである。劇場へ足を運ぶうち、またブレヒトに巡りあうだろう。その時は、今回の「つまらなかった」を出発点として、ブレヒトへ歩み寄っていきたい。
(三月十四日観劇)

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「戯曲を乗り越える」
マーガレット伊万里
 「それでも地球は回っている」と言い残し、地動説を証明した科学者ガリレオ・ガリレイの物語である。しかし、ブレヒトの創作したガリレオは「偉人伝」としたものとは違う。歴史に名を残した者に凡人が抱く尊敬や羨望の念を裏切るかのように、人間臭いある意味で親しみやすい人物として描かれている。
 ブレヒト戯曲(谷川道子翻訳)の世界は、いつの世にも変わることのない人間社会の対立構造や矛盾を浮き彫りにする。ガリレオの口からは、教訓的で社会を巧みに捉えたせりふが次々とあふれ出す。
 教会を中心とする中世の世界観を真っ向から否定するガリレオの新しい発見。そしてそれを必死で食い止めようとする教会(「権力」)と、科学の証明によってひたすら「真理」を追求しようとするガリレオとは相容れることがなく平行線を辿るだけだ。
 ガリレオが生きた時代から私たちの社会は三五〇年もの時を経ている。科学技術は進歩の一途を辿り文明は驚くほどに発達した。社会はより良くなっているはずだったのに、中身を見ると進んでいるどころか同じ所をグルグルと回っているだけだと思い知らされ、がく然とする。せりふという紗幕の向こう側にちらちらと映し出されるのは、紛れもなく現在の自分たちの姿である。ブレヒトの言葉は、主役によって延々と語られるせりふの中で、自分たちの言葉となって観る者に訴えてくる。
 世界を巧みにすくい上げたせりふは魅力的だが、登場人物に課せられたせりふの量は多いし、上演時間も4時間近い。ベテランの柄本ガリレオでさえ、かなり手こずっているようだった。またそれ以上に、役者の長ぜりふに付き合い、緊張と忍耐を強いられるのは観客である。演出の松本修は新聞のインタビューで「今回は正攻法で」と語っていた通り、特に戯曲を読み替えることもなく、いたって戯曲に忠実で自然な進行であった。観客にとって、これは正攻法とするがゆえの、いたしかたのない忍耐なのだろうかとふと疑問がわいた。
 たとえば、地動説の証明となる星の動きを発見する場で、ガリレオの姿を照らす星の明るさのごとく、一筋の光が差し込むような感激や、町にペストが蔓延する場面、死の恐怖を目の当たりにしながらも、研究を優先しようとする科学者としての情熱。
 戯曲を読んだときに沸き起こるみずみずしい感動が、舞台にのせられた瞬間、どこか一気にしぼんでしまう。機関銃のように発せられるせりふによって煙に巻かれてしまったかのように。
 しかしながら、松本演出の中で印象に残った箇所がいくつかあった。法王ウルバーノ八世(麿赤兒)が短パン1枚の姿で現れ、舞台上で法王の衣装を側付き人によって一枚一枚着せられていく場面。教会の頂点である法王も、舞台衣装を着せられるように、法王としてあるべき言動を自分の意志とは関係なく身にまとわされるということを思わせ、興味深かった。また、ガリレオの地動説をネタに騒ぎ回る大道芸人たち。現代なら、さしずめ本人のいないところで表向きのスキャンダルだけが一人歩きするマスメディアを風刺するかのようだ。
 こうした遊びの部分は、演出家のオモチャにならず、遊びに見せかけてしっかり皮肉っているようなところはとても説得力をもっていた。そして、なんといっても主演の柄本明が、さも有りなんといった風情や飄々とした持ち味を生かしていて熱演。故に、惜しいと思ってしまう。
 人の頭の中の想像と対峙できるようなものを、生身の人間と舞台の上で作り上げることはできないものだろうか。人間の想像力を超えるものはないのかもしれない。それでも、記憶の底に眠っているものを揺り起こし、想像力を喚起するものを表現する、しようとするところに舞台の可能性があり、今回のブレヒト劇の可能性でもあったはず。
 オーソドックスな演出自体は成功していると思うが、欲を言えば、ブレヒトの難解さを払拭するほどの、ここをスタートとしてさらに戯曲の一歩前を行くような鮮烈さを求めたい。
 せりふの緊張にさらされ、長時間座席にしばりつけられてもなお、観客はその可能性を信じている。
 戯曲の不自由さから解き放たれる時を待っている。だからこそ舞台は成り立っている。その瞬間が舞台に立ち上る時、舞台であるがゆえの感動をもたらしてくれるはずなのだ。
(三月十一日観劇)

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「遠くのブレヒトより近くのエモト」無意識性の俳優・柄本明の魅力
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 ブレヒトには難解なイメージがつきまとう。ただ演劇を楽しむだけの安易な姿勢を否定というか、批判されているような居心地の悪さがあり、敷居が高いのだ。特にわたしのように俳優の表情だのちょっとした所作だの、誠にミクロな視点で演劇をみる人間にとって、ブレヒトは最も遠い位置にあると思われる。
 ある観客の演劇に対する姿勢は、その人の年齢や環境によって変化するものであろう。
 しかしわたしの場合、何をおもしろいと認識するかなどと考えるより先に、おもしろいところが勝手に目に飛び込んでくる。これはもう持って生まれた性質、自然に身についた習性のようなものだ。意識して、あるいは努力して多少は変わるかもしれないが、血液型を変えられないのと同じで、根本的にはどうしようもないと思うのだ。「あっ、おもしろい!」と瞬時に反応する感覚には思想などない。ほとんど動物的な本能だからである。
 だから今回の『ガリレオの生涯』には恐れ半分、これを機会に何とかこちら方面にも目を開かせてくれませんかねという下心半分で足を運んだ。ともかく今、自分のできるやり方でブレヒトをみることにしよう。
 『ガリレオの生涯』は、四時間近い大作である。疲れを感じなかったと言っては嘘になるし、何度か眠気と戦った。しかし退屈せず、難しくてみるのが嫌になることもなく、客席にいることが最後まで楽しかった。
 これまでのわたしのブレヒト歴からすると、大変な収穫である。何が楽しかったのか。
 答はガリレオを演じた柄本明である。
 冒頭、ガリレオが下宿の息子アンドレア(有薗芳記)に「ここで聞いたことを外であれこれしゃべるな」と戒める場面がある。台詞の語尾が「なぁっ」と下世話に響き、謹厳な科学者というより、あたかもその辺のおやじが近所のガキを叱りつける口調である。また、アンドレアの頭を掌でペチッと叩くその動作。東京乾電池の芝居で柄本が相手役の俳優に突っ込むときの感じとほとんど変わらない。この声と動作で、戯曲の世界が一気に観客に近づく。舞台にいるのは十五世紀のイタリア人科学者というより、どうみても日本人で、テレビに出ている、あの柄本明なのだ。
 柄本はテレビ出演が多く、お茶の間の認知度が高い俳優である。演技派、個性派、性格俳優という言葉が思い浮かぶ。
 役柄は実に多岐に渡っていて、普通のお父さんのときもあれば(『やんちゃくれ』はこの部類だろう)、一目で異様な人のときもある。『ふぞろいの林檎たち』のとき演じた、年若い妻に異様に執着する成金不動産屋はまさにこのタイプである。
 極端なキャラクターなのに、柄本が演じると不自然にならないのだ。ドラマによっては、いくら何でもこんな人はいない、作者が話をおもしろくするために無理矢理作った人物じゃないかと、しらけてしまうことがある。
 こうなるとほとんど漫画である。
 柄本の場合、そうならない。いそうもないが、ひょっとするといるかもしれないぞ。
 そう感じさせる現実味が滲みでるのだ。
 極端なのに自然体という不思議。
 技巧的というのとは違うのである。(技巧的俳優の例として佐野史郎を考えるとわかりやすいと思う)
 人間の心の深淵部、日頃は隠れている部分が表出するとどうなるか。柄本の演技は、ある人間のタイプをデフォルメしている、極端に演じていると一瞬見せかける。
 ここが曲者なのだ。
日経新聞の劇評には「うまく演じようという意識が抜けて逆におかしみがにじみ出ている」とあるが、これを手がかりに柄本の演技の特徴を言葉に定義すると、「無意識性」とでも言えるだろうか。観客の存在を意識していないかのようにみえるのである。
 しかしそうみえる裏側では、したたかな戦略があり、試行錯誤があるに違いない。ただその手の内が簡単に観客にわからず、あたかも素のままでやっているかのようにみえるところがおもしろいのである。
 勇んでブレヒトをみにいったのに、わたしは柄本明ばかりみていたことになる。
 体質の改善はやはり無理なのだ。
 しかし諦めることはない。
 ブレヒトは遠いが、エモトは近いぞ。
 柄本はこの台詞をなぜあのように言ったのか、自分はどうしてその場面で笑ったか。あのひと言によって舞台と客席の関係がどう変わったか。これまでの柄本の舞台をみたあととはどうも違う。劇場をあとにしてからも頭のなかは疑問符でいっぱいなのだ。ミクロな視点から遠くの何かがみえてきそうな予感。
 柄本明の演技を考察することで、ブレヒトに近づくことができるかもしれない。
(三月十三日観劇)

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「劇場の外から」
C・M・スペンサー
 残念ながら私は本作品を観る機会がなかったが、三人の論評からすると、劇作家ブレヒトの作品はかなり難しいらしい。それでは、ブレヒトをどう観るか。時代とともに演出家や役者の解釈によって表現が違ってくることも舞台の面白さの一つであるから、それを頼りに作品と向き合うという手もある。彼女達もそこに「ブレヒト」に接する糸口を見つけたのだろう。
 今回はガリレオ=柄本明としての印象が強かったようだ。それ故、彼の送ったメッセージは、果たして演出家の創ったガリレオ像だったのだろうか、などと考えてしまう。
 ただ、柄本ガリレオは難解ブレヒトを、確実に観客に近い存在にした。評判を聞いて「私もひとつブレヒトを観てみようかな」という気になった。古くから日本でも『三文オペラ』や『セツアンの善人』が、繰り返し上演されている割に難解なイメージがつきまとうブレヒト。ここは一つ、今の時代の作り手に、身近な存在にしていただくことを願う。
 今月『セツアンの善人』が、新国立劇場で目も覚めるようなキャストで上演される。彼らを糸口にブレヒトに接して、ブレヒトアレルギーを拭い去りたいものである。
 えびす組全員観劇予定。次回「えびす組 劇場見聞録」をお楽しみに。

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編集後記
  • 〈人はパンだけで生きるものではない〉私は芝居によって生かされていることを日々実感する。芝居のためなら亭主も泣かす?(ビ)
  • 〈劇場への一筆箋・壱〉世田谷パブリック様。三茶の駅から貴方の元へたどり着く迄、また迷いました。もっと自己主張して下さい。(コ)
  • 終幕、国境を越えたガリレオの『新科学対話』。その初版本が実は日本の大学にもあるそうで。ちょっと見てみたいかも?(マ)
  • 某チケット売場で売り切れと言われた日の当日券を劇場に問い合わせたら、公演は先日終了したとのこと。私が観られなかった理由。(C)

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