えびす組劇場見聞録:第10号(2002年5月発行)

第10号のおしながき

「冬桜」 国立劇場 2002年3/9〜24
「道元の月」 歌舞伎座 2002年3/3〜27
「アダムとイブ」 ベニサン・ピット 2002年3/16〜4/7
「橋を渡ったら泣け」 シアターサンモール 2002年3/21〜24
「まあるい桜 NHK・FMシアター 2002年3/16
「出会いが生む力」 「冬桜」「道元の月」 by コンスタンツェ・アンドウ
「今の時代の『寺山』探し」 「アダムとイブ−私の犯罪学」 by C・M・スペンサー
「ここに留まることの難しさ」 「橋を渡ったら泣け」 by マーガレット伊万里
「たったひとりの観客-ラジオドラマの楽しみ」 「まあるい桜」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
◇◆◇ あとがき ◇◆◇

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「出会いが生む力」
コンスタンツェ・アンドウ
 記録的な早さで桜が開花した三月、東京で三本の新作歌舞伎が上演された。そのうち国立劇場『冬桜』と歌舞伎座『道元の月』は鎌倉時代の物語で、両作共に、五代執権北条時頼が重要な役として描かれている。時頼は八代執権時宗の父で、昨年のNHK大河ドラマに登場していた。テレビでお馴染みになった人物の舞台化には「便乗」のイメージが付きやすいが、今回は、作品の時代背景を伝える意味で良いタイミングだったと思う。当時の鎌倉幕府がいかにドロドロしていたか、余り知られていなかったのではないだろうか。
 十二日に『冬桜』を見た。作・岡野竹時(国立劇場が公募した新作歌舞伎脚本平成三年度佳作を作者本人が改訂)、演出・国立劇場文芸室。新作歌舞伎『秋の河童』と二本立て。
 鎌倉御家人・佐野常世(歌昇)は、父を殺されて没落し、かつての領地・上野の国に妻の弥生(芝雀)と暮らしている。大雪の夜、常世のあばら屋を若い旅の僧が訪れ、宿を請う。執権となる前の時頼(愛之助)である。
 侘びしい毎日に本来の自分を見失いかけている常世。何とか夫を立ち直らせたい弥生。還俗して執権職を継ぐことに戸惑いを感じている時頼。三人は、それぞれの心情を語りあい、言葉を戦わせ、やがて常世は鎌倉武士としての誇りを取り戻してゆく。そして、そんな常世の姿を見た時頼は迷いを捨て、身分を明かさないまま鎌倉へ向かう。
 密度の高い会話劇だが、少し退屈した。鎌倉に対する常世の思いがやや観念的でわかりずらく、台詞の語調も生硬で、すんなりと心に響かない。また、芝居としての盛り上がりも今ひとつだった。「書いたもの」としては充実しているのかもしれないが、「見せるもの」としての力が弱い。小説で読んでみたい、と思った。
 役者に大きな不満はない。朗々とした歌昇の声はやや陰影を欠くが、三階席まで明確に届き、会話劇の主役としての力量を発揮した。愛之助は、持ち前のすっきりとした容姿が生き、清新さが求められる時頼役にふさわしかった。
 二十四日に『道元の月』を見た。作・立松和平(曹洞宗開祖・道元禅師七百五十年大遠忌を記念しての書き下ろし)、演出・福田 逸。『文屋』『一本刀土俵入』『二人椀久』と四本立て。
 『冬桜』から約二年。執権職の罪深さに悩む時頼(橋之助)は、救いを求めて道元(三津五郎)を鎌倉へ呼び寄せる。対面した二人の考えは相容れず、時頼が刀を抜くが、道元は命を危険にさらしても自らの信念を貫き、悟りの道を示す。
 道元の言葉には説得力がある。私も、時に反省し、時に感心しながら、退屈せずに見ることができた。
 視覚的な面でも楽しめた。幕開きは永平寺の方丈。盆が回ると、修行僧達が横一列に並んで座禅を組んでいる。だだっ広い歌舞伎座の舞台に、早朝の座禅堂の張り詰めた空気が流れた。再び方丈に戻り、自然の中での修行の大切さを述べる道元が、弟子に戸を開けさせる。すると、屋根などの装置が飛び、舞台は一瞬にして緑に包まれる。もちろん書割の木々だが、永平寺を抱く山々の美しさが観客の胸を打つ。舞台表現の力強さを感じさせる、印象的な場面となった。
 しかし、芝居が進むうち、何かが違う、という気持ちが大きくなった。
 道元は、物語の最初から既に人間として高い境地にいる。その心に触れた時頼や、若い修行僧の玄明(勘太郎)は成長するが、道元自身は変わらない。観客は、主人公である道元に感情移入するというより、道元の行いをありがたく見させて頂いている、お話をありがたく聞かせて頂いている、という感じなのだ。押し付けがましさはない。イヤな気分でもない。しかし、私が芝居に求めているものでもないのだ。どこか他の場所で、体験できることではないだろうか。
 永平寺の自然と同化しているような道元の存在に、誰も太刀打ちできない。迷える者達が道元によって正しい道に導かれることを疑う観客はいない筈だ。安心感はある。しかし、意外性がない。
 摂関家に生まれながら、全てを捨てて悟りを開くまでの道元の生きざまや、血塗られた鎌倉を離れられない現実と道元の教えとの狭間で時頼が抱える葛藤などの方が、芝居の題材として興味深いと思う。
 三津五郎・橋之助・勘太郎という各世代のスター役者が出演し、揃って適役だった。だからこそ、三人がぶつかりあい、影響しあい、観客の心を揺さぶるような作品が見たかった。
 『道元の月』を見ながら、時頼を接点にして『冬桜』を思い出し、自然と比べていた。完成度は『道元の月』の方が高いだろう。しかし、私に再演の決定権があるなら『冬桜』を選ぶ。退屈した方を推すのは矛盾しているかもしれないが、未熟な人間同士の触れ合いがお互いを変えていく、という構図が芝居として魅力的に感じるのだ。
 一夜の客に暖を与えるため、常世は丹精こめた鉢植えの桜を薪がわりに燃やし、その行為が時頼の心を決める。執権となった時頼と再会した常世は、時頼の瞳の中に新しい鎌倉の可能性を見出し、鎌倉へ戻ることを決意する。どちらも、相手に変化を与えた側の人間は、それを意図していない。人間の生活において決断とは、そうやって下されることが多いのではないだろうか。
 台詞が耳馴染むように手を加え、「見せる」ことを意識し、全体的に刈り込めば、『冬桜』はもっと面白い作品になると思う。
 通常、新作は同じジャンルの古典や人気作品と比較される。今回のように、時代設定や作劇方法等、共通点の多い新作が同時期に上演されるのは非常に珍しく、新作同士を比較する貴重な機会となった。
 古典と新作の比較は、道元と時頼の対立に似て、意外な結果を生まないだろう。しかし、新作同士の比較は、常世と時頼の出会いのように、双方を動かし変化を与えあう力を生むと思う。
 歌舞伎座では、舞踊を含め年間に六十〜八十本前後の作品が上演されている。新作はお客が入らないというが、仮に一本の新作が失敗しても他の作品がフォローし、興行全体に与えるダメージは一般の演劇に比べれば少ない筈だ。国立劇場は歌舞伎座よりも採算面で恵まれており、初日を遅らせて稽古時間を長く取ったり、料金を安く抑えるなど、柔軟な対応で新作二本立てを実現できた。
 これからも、劇場毎の強みを生かして、観客の好奇心を刺激する作品を送り出してほしい。私も、「新作だから見る」という積極的な姿勢で受け止め、感じたことを何らかの形で送り返したい。それが未来の新作づくりの一助になれば、と願う。

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「今の時代の『寺山』探し」
C・M・スペンサー
 演劇の世界で素人である私にとって、寺山修司の世界は独特のものに感じられる。特に新劇やミュージカルから観劇し始めた者にとっては、写真で見る寺山修司率いる「天井桟敷」の舞台に恐ろしささえ感じていた。時には顔を白く塗られ、無表情な人々の作り出す世界は、人間の裏の部分・・・他人には隠していたい醜い部分を暗喩しているかのようで、その作品には近づき難いものがあった。
 寺山修司とその舞台演出の表現については、新潮社の「新潮日本文学アルバム・寺山修司」を読むと概ね理解できるだろう。戦争と父、父と母、そして母と自分、戦争と家族とが、寺山修司にとっての「三大地獄」のヴィジョンとして彼の表現世界の中枢に位置づいているのだという。
 昭和四十二年に三十一歳で設立した演劇実験室「天井桟敷」では、舞台用のメイクも彼の創作作品というのだから、舞台に登場する見世物小屋の人物や女性の艶かしい姿は、彼の少年時代のヴィジョンの現れと解釈することができる。
 さて、最近私は若い演出家による寺山作品を観た。しかもtptという土俵である。今の時代の「寺山」の演出に、密かに期待を抱いていた。
 tptがフューチャーズプログラム2002として、寺山修司の『アダムとイブ─私の犯罪学』を上演した。そのプログラムにtptでは珍しく台本を掲載している。
 中年の女(または欲深きイブ、と書かれている)が、朝から晩まで林檎ばかり食べている場面から始まり、その家族の住むアパートはトルコ風呂「エデン」の屋根裏部屋であるため、部屋中に湯気が立ち込めている。彼女の夫である中年の男(または老いたるアダム、と書かれている)は、彼が林檎を食べていた時に第二次世界大戦が始まったとか、何かと不幸な出来事を自分が林檎を食べたからだと言って、妻が林檎を食べるもの忌み嫌い恐れているという具合である。そしてその次男については家族との関係に確執は見られないが、長男と母親の関係が最後まで執拗に描かれている。
 演出は木内宏昌。'00、'01、'02とtptワークショップに参加していることから、tptの芸術監督であるデビッド・ルヴォーの演劇メソッドを理解している演出家であることが伺える。キャストは、中年の女に中川安奈、中年の男に真名古敬二、長男に塩野谷正幸、次男に北村有起哉、舞台美術は'76生まれの英国人サイモン・ドゥと、そのキャスティングと彼らの芝居、美術に新鮮な印象を覚え、その中でのストーリーの展開は「理解」という観点から見て心地よいものであり、私は満足していた。
 しかし、日本の演劇人にとって、寺山作品の舞台はかくあるべき、という固定観念があるのか。この『アダムとイブ・・・』では、台本のト書きによると悪夢のように消える六人の神父たち(またはコロス、と書かれている)が登場する。彼らの出現は、幻想の中で生きているような屋根裏部屋の家族の暮らしに対し、そのセリフが我々観客に向かって現実を知らしめる重要な要素になっていると思うのだが、この神父たちの様子が従来の「寺山作品らしい」登場となったところで、「またか・・・」と興ざめの感があった。表情を変えず、声のトーンも一定で、女優も七三に分けた髪に他の神父たち同様に紳士もののスーツを着込み、大太鼓をたたく者あり、アコーディオンを奏でる者あり、彼らは異様な集団として舞台に登場し、そこにいなかったかのように去っていく。
 「天井桟敷」を否定しているのではなく、天井桟敷無き今、私としては、大いに演出家の個性を生かした寺山作品がもっと世に出てきて欲しいと願う。本作品についても、せっかく若手がtptという新しい環境で寺山作品を演出するのであるから、彼らの世代の感覚で作品を見たいと思った。
 寺山修司が亡くなって、今年で十九年目である。今なお演劇界では特別な存在であり、伝説的な偉大な作家であるということを、寺山修司に関する書物を読んで理解した。寺山修司の功績を知れば知るほど、作品に「天井桟敷」を引きずることになるかどうかが、演劇の作り手にとっての課題となるのだろう。と、同時に、寺山作品はこういうものだとイメージしてしまう観客の目にも責任はある。
 tptでは'97にも寺山修司作品『白夜』を上演している。寺山の「天井桟敷」以前の作ではあるが、奇をてらわずにストーリーの本質のみを見据えた演出は、自身が天井桟敷公演にも参加していた大鷹明良であった。
三月二十日観劇)

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「ここに留まることの難しさ」
マーガレット伊万里
 なんだかとぼけた味わいの芝居だった。
 MONOの公演『橋を渡ったら泣け』である(三月二十一日〜二十四日 シアターサンモール 作・演出 土田英生)。
 大地震で水没してしまった日本(世界中あちこちらしい)で、山に取り残された男女七人の物語だ。
 運良く缶詰工場の倉庫が残っていたり、湧き水があったりして、今日か明日かの危機的状況を免れているからか、登場人物が不安に怯えたり、陰鬱な雰囲気はあまりない。サバイバルな状況でありながら、まるでふつうの日常が淡々と綴られているような趣なのである。
 天変地異で崩壊した世界とは反する日常的な会話。そこで生じるズレた笑いは、MONOが人気を集める要素の一つ。客席の反応はとても良く、実際、その笑いを期待してやって来るお客が多いようにみえた。突拍子もない設定はMONOの特色らしいので、ファンにとっては、居心地が良いのだろう。
 それなのに、設定における細部のリアリティにこだわってしまったせいだろうか、私はMONOの笑いにすっかりのり遅れてしまった。特に、前半は笑いに重点が置かれていて、正直少し飽きてしまい、危うく芝居の山場を見失いそうになった。
 ある日、山で暮らす男女6人のもとへ佐田山(尾形宣久)という男が船で現れる。彼らは生き残った者同士、友好的に日々を過ごす。
 ところが次第にリーダー栗田(奥村泰彦)が独裁的な態度をとり、言うことを聞かない者を裁判にかけるとまで言い出す。静かにみえた生活も、佐田山が来る以前は年寄りや子供が殺され、たった六人になってしまったという事が、井上(金替康博)の口から明かされる。
 結局、栗田の横暴さは他の者の反発を招き、力関係は逆転、新たに信頼を得た佐田山がリーダーになるが、あれほど思慮深く落ち着いた人間であったはずの彼も、いつしか栗田と同じ轍を踏もうとする。
 はたからみるとその事は歴然としているのに、なぜかそれに気がつかない。果たしてなぜこれほどに人間とは愚かしいものなのかということをありありと見せつけられるのだ。
 そして、自分の非に気づいた佐田山はその苦悩をあっさりと脱ぎ捨てるかのようにして再び船に乗り込み、一人出て行く。この地でやるべき事、できる事には背を向けて。葛藤をリセットしようとする姿は、正直ちょっと潔すぎるのではないかと思った。過ちを犯し、失敗を繰り返してしまう人間だからこそ、これからをどう生きていくかという姿を見せてほしかった。
 今いる場所から逃れられない私たちは、答えを見出せずにいる。逃げられないし、止められない。リセットできない。そこから目をそむけたら、残るのは都合の良いしみじみとした思い出ぐらいのもの。今ここで泣いてやり直すことが、私達を勇気づけてくれるのではないか。
 佐田山は、自分が出ていくことを橋を渡ることになぞらえ、「この橋を渡らなければ、泣くことができない」と言う。
 今ここで泣けばいいじゃないか。橋を渡ったって、泣けないかもしれない。なぜここではダメなのか。彼はなぜここを出て行くのか、そこが今一つ伝わってこないままに、終幕を迎えてしまった。
 それは佐田山だけでなく、この地で親しくなった恋人(西野千雅子)の方も、出て行く彼を引き止めるでもなく、わかりきったように受け入れる様はなんだか釈然としない。人と深くかかわることをあえて避け、傷つくことを恐れているのか。
 そこには、人間関係が希薄になっている今の自分たちの姿ともダブる。それを否定するでもなく、覆そうとするでもない土田英生の作品は、ありがちな展開に収束させないという点で、かえって新鮮な余韻を残してくれた。
 これは作者と同世代である私たちにとって、切実でありながら、どうしても越えられない命題なのかもしれない。
三月二十一日観劇)

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「たったひとりの観客-ラジオドラマの楽しみ
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 舞台で活躍する俳優の出演が多いこともあって、NHK・FMシアターのラジオドラマをよく聴く。とくにこの春は「劇作家シリーズ」と銘打ったおもしろい作品に出会った。
 三月十六日放送の平田俊子『まあるい桜』の登場人物はわずか三人である。
 離婚して(夫に若い愛人ができたため)ゴキブリがぞろぞろ出てくるぼろアパートに引っ越したさえない三十五歳の女(中嶋朋子)と彼女の幼なじみ(村上里佳子)と、中嶋(役名を失念したので以下俳優名で書きます)の祖母(すでに死んでおり、遺影がひとりごとを言う不気味な設定になっている)通称ばばちゃん(麿赤児)だ。
 ドラマは、よりによって引っ越しの日に捻挫して荷物に埋もれたまま身動きできない中嶋のところに村上が引っ越し祝いの「かぼちゃ焼酎」を持ってきたところから始まる。
 中嶋朋子と村上里佳子。ちょっと思いつかない顔合わせだが、意外なことにこれがなかなかいいコンビなのである。
 子役時代から「演技派」の印象が強い中嶋と、どうしても「渡部篤郎の妻という名のタレント」的イメージの村上。ふたりの顔や演技を思い浮かべると、幼なじみの設定には遠い感じがするのだが、声のやりとりには違和感がない。不思議なものである。
 中嶋は親きょうだいも仕事もなく、夫にも捨てられたどん底状態で、何をやっても失敗ばかり。しかも周囲からあまり同情されない損なタイプらしい。
 一方村上はクールな現実主義者である。
 傷心の友だちに優しくするどころか、彼女が大切にしていた食器を派手に壊しておいて謝りもせず、過去をきれいに忘れて出直すにはこのほうがいいでしょ、などと言う。
 その口調がさっぱりしてうるさくない。
 中嶋の少々過剰な演技(計算の上でしているのだと思う)と自然なバランスがとれていて、いい配役だ。
 『まあるい桜』を聴いていると、いつのまにか中嶋朋子の顔も『北の国から』も、村上里佳子の抜群のスタイルも渡部篤郎の顔も思い浮かばなくなっていた。
 小さなアパートの一室でおしゃべりをしているふたりの三十女。演じている女優が誰だとか、これまでの出演作と比較していいとか悪いとか、まして女優本人の私生活などまったく考えなくなる。
 ドラマはふたりが話しているうちに、いつのまにか十年、二十年、三十年と時間が遡っていく。会社を辞めたとき、中学生のとき、五歳のとき。ふたりが出会って友だちになったときのことや、ばばちゃんとの思い出などが描かれていく。そうか、ふたりはこんなふうに友だちになったのか、あのときはこんなことがあったのねぇ。
 三十五歳のいま、ぼろアパートの窓から大きな桜の木が見える。ふたりともかぼちゃ焼酎でいい気分になって、まぁこれからも何とかやっていきましょうよというところでドラマは終わる(のだったと思う)。
 録音しておかなかったのは残念だが、何度も聞き返したら「この場面の台詞の言い方が」「この効果音が」とへんにこだわって分析したくなるだろう。せっかくのふわーっとした一夜の夢のような味わいが消えてしまいそうで、一度聴いたきりでよかったのかもしれない。
 演劇は目の前で生きた俳優が動いているのだから、みるほうにとっても大変ハードである。何かほかのことをしながらみるなど、ほぼ不可能であろう。いったん客席に座ったら最後、楽しめそうもない舞台であっても逃げ場はない。そのくせうっかりするとすぐ気が散るし、目は舞台をみているのにいつのまにかよそ事を考えているときもあるし、客席の雰囲気にも左右される。
 それに比べてラジオは耳だけなのだからずっと楽であってもいいのだが、耳以外のところを動かすと、そちらに神経がいってしまうのか、アイロンかけや洗濯物干しなどの家事はもちろん、爪のマニキュアでさえ集中できないこともあるから、たいていわたしはただ座ってラジオを聴いている。それが苦痛ではないし、歌舞伎やベケットや蜷川で疲れた心身が(決して不愉快なストレスではないのだが)いつのまにか安らいでいることに気づく。『まあるい桜』のように、演じている俳優の顔が浮かんでこないときのほうがおもしろい。「この俳優はこんな感じ」という固定イメージがいつのまにか取り払われて、新鮮な気持ちで楽しめるからだ。
 今週も土曜の夜はお風呂も家事も早めに済ませてラジオのスイッチを入れることにしよう。ラジオドラマの客席にはわたしだけ。
 究極のミニシアター感覚。
 おすすめである。
三月十六日放送

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あとがき
◆「えびす組劇場見聞録」HPに、掲示板「えびす組大福帳」がオープンしました。皆様のお立ち寄り・書き込みをお待ちしております。(コン)
◆「どんなことでも言葉にできるという信念がある」と言ったのは吉田秀和でしたか。自信ではなく、信念なのですね。難解でも逃げず、言葉を紡ぎ出す努力を厭わないように。(ビ)
◆京都を拠点とするMONOの活動は、今回彼らのHPで詳細を知ることができました。自分たちの芝居を外へきちんと発信していこうという姿勢がうかがえ、とても感心しました。(万)
◆見聞録ホームページのカウンタがアップされていくのを見て、書き手の責任を痛感しています。そしてこれからもプロとは違った視点で感じたことを書いていきたいと思います。(C)

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