えびす組劇場見聞録:第11号(2002年9月発行)

第11号のお題/蜷川幸雄演出「欲望という名の電車」 
2002年5月4日〜30日/シアターコクーン

作        テネシー・ウイリアムズ
翻訳     小田島恒志
キャスト ブランチ ・・・・大竹しのぶ
スタンリー・・・堤 真一
ステラ ・・・・・・寺島しのぶ
ミッチ ・・・・・・六平直政
「熱演バトルが終わって」 by コンスタンツェ・アンドウ
「ニナガワ的ショック療法」 by マーガレット伊万里
「電車は迷走する」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「ブランチとミッチ、恋の結末」 by C・M・スペンサー
特別寄稿「やっぱりわかんない、あの人たちのこと」 by ヘンリー・ヤマト六世
◇◆◇あとがき◇◆◇

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「熱演バトルが終わって」
コンスタンツェ・アンドウ
  バチバチと火花が飛び、舞台前面上部に張られた電線が切れて垂れ下がる。これから舞台の上で起こることを象徴するように。トランペットの生演奏が流れる。精密に作られた家の中に置かれたドレッサーの鏡に、白い影が映る。客席から登場したブランチの姿だ。お膳立ては整い、超満員の「電車」が動き出す。
 乗り合わせた客が目にするものは、大竹しのぶの大熱演。予想はしていたものの、次第に苦しくなってきて、狂気が覗く場面などはこちらがとり憑かれそうで気が滅入った。何もかもが極端で、常に張り詰めていて、役柄としてそれが求められているとわかっていても、正直疲れた。
 堤真一も大熱演。一人で芝居をしているようになりがちな大竹に対し、「相手」として屹立するのは難しいが、堤は正攻法でぶつかり、いい勝負をしていたと思う。戯曲では、初めからスタンリーが優位に立っているようだが、この組み合わせだと、そうは受け取れない。大竹に向かってゆく堤の激しさが、全身全霊をこめてブランチを否定するスタンリーの切実な姿に重なって見えた。
 二人と比べると、寺島しのぶの演技には余裕や余白のようなものが感じられ、見ていてホッとした。本来、寺島も大竹と同じタイプだと思うが(寺島のブランチを想像すると少し怖い)、あえて熱演の輪に加わらなかったことで、逆に印象に残った。
 蜷川は、雑誌のインタビューの中で、前回演出した『欲望という名の市電』(私は未見)について「ブルジョワジーが労働者階級に敗北する情緒のドラマ≠ノしていた」、と話している。そのとらえ方を「読みが浅かった」とし、今回は変えようとしていることが配役からもうかがえる。
 大竹は、きれいにしているが余り品がなく、会話の端々に表れるキツさも、「上流婦人の辛らつな皮肉や嫌味」というより「おばちゃんになりかけた女性の愚痴」に聞こえる。戯曲に、ステラは「明らかに夫とは育ちが違う」というト書きがあるが、どちらかといえば寺島には下町育ちの雰囲気がする。逆に堤は、卑俗なイメージを「作っている」感じがした。
 ブランチとスタンリーの衝突を、「階級」や「人種」を強調せず、個別の人間同士の軋轢として描く方が、日本人の感覚には馴染むのかもしれない。しかし私は、もう少しバックグラウンドの違いが欲しいと思った。
 ブランチもスタンリーも、相手に求めるものは、100%か、0%である。その点で両者は非常に良く似ている。人間として近い種類であることをお互いに知りながら、ぶつかりあわなければならない理由。一つはステラだろう。ステラを二人で分けあうことは不可能なのだ。もう一つはそれぞれのバックグラウンドからくるプライドではないだろうか。
 ブランチは、上流階級としての自分が捨てられない。特に、自分が何者であるか直感的に悟っているスタンリーに対しては、膝を折ることができない。スタンリーは、男として、夫として、いずれは父として、自分こそが最高の存在であることを誇示するためにも、自分の力の及ばない、生まれながらの格差を否定する。
 出会い方次第では違う展開を持てたかもしれない二人を、とことん闘わせる運命へ導いたものは、一握りの人間達だけでは変えることのできないほど大きい。だからこそ、二人の行動は悲劇的であり、喜劇的なのである。そしてその結末には、勝利も敗北もない。
 この舞台では、ブランチとスタンリーの対立は、激しいけれどどこか表面的に思えた。戯曲の奥に描かれたものを伝えるためではなく、大竹VS堤の熱演バトルのために存在するように感じられてしまったのである。
 まず役者ありき、の舞台を否定しないし、決して嫌いではないが、そういう舞台を楽しむには、作品ではなく役者の世界へのめりこまなければならない。しかし、私はそれができなかった。そして、作品の世界にも入り込むことができず、宙ぶらりんのまま舞台を眺めていた。
 蜷川版『欲望という名の電車』の舞台には、あらゆる物が存在する。大道具、小道具、衣装、照明、音楽、音響。上演時間もたっぷりと取ってあり、「省略」は最小限に抑えられている。見終わった後は満腹で、「電車」に酔ったような気分すら伴う。「満足」とは少し異なる。物質的に満たされた時の感覚に近いのだ。
 与えられた物を受け止めるだけで、能動的になれない自分がいた。この舞台には、想像力や好奇心をさしはさむ余地が少ない。客席を巻き込むようなうねりも感じられない。所詮、観客は傍観者でしかないのだ・・・疲労感の中に、そんな思いが寂しく滲んだ。 
   
(五月十二日観劇)

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「ニナガワ的ショック療法」
マーガレット伊万理
 同じ戯曲が舞台にかけられても、演出、役者、照明や音響などによって、その都度舞台は異なる表情をみせてくれる。その意味で、作家の意図とは関係なしに戯曲は変容し、生き続けるのだろう。
 主人公のブランチが幕開き早々「欲望という名の電車に乗って、墓場という電車に乗りかえて」と言い始めた瞬間、私の頭のかたすみでは、いつもある種のおとぎ話が始まったという確信のもと、この作品に安心して身をゆだねているところがある。
 でも今回は違った。演出の蜷川幸雄は、テネシー・ウィリアムズの感傷的な世界からは遠く離れ、生身の人間たちが激しくぶつかり合うドラマを私たちに提示してきた。二階に住むハベル夫妻や、街角の黒人女といった脇役の人間までが、アメリカ南部のべとついた空気の中でたくましく生きる様を見せつけるのだ。
 まず、スタンリーにとってブランチの言動すべてが彼のかんに障る。ステラとの生活を乱され、一家の主としてのプライドはことごとく傷つけられる。
 かたやステラも、自分一人が家を出てきた負い目、または姉への思いやりから、しだいに姉ブランチと夫スタンリーの板ばさみになってとまどう。
 ある夜スタンリーは友人とのポーカーゲームに熱中するあまり、ブランチがラジオをつけたことに腹を立て、ラジオを外へ投げ捨てる。それを見ていたステラはスタンリーと大ゲンカの末、部屋を出ていってしまう。
 ブランチが家へやって来たことで夫婦の関係はぎくしゃくし始める。貧しいながらも楽しくやってきたのに、なぜこんな目に合わなくてはならないのか――二人のエゴは衝突し、激しく言い争う場面だ。その緊張感たるや、痛いくらいの切なさだった。
 一方ブランチは、スタンリーの友人でミッチという気持ちの優しい男性に出会う。住んでいた屋敷も、教師の職も失い、命からがら妹の所へ逃げてきた彼女は、彼に最後の望みをかける……が、しかし、隠していた事実(ここに来る以前、娼婦まがいのことをしていた)が、スタンリーによってあばかれてしまう。
 すべてを知らされたミッチは、別人のように酔った姿でブランチの前に現れる。一時は心を通わせた二人だったが、純朴で真っ直ぐなミッチにとって、ブランチの裏切りはとても受け入れられるものではない。許したくても許せない、そんな自分が情けないといった哀れさがにじむ。
 肝心のブランチは、わざわざやってきた甲斐なく身を破滅させ最後は去っていく。まわりを好きなだけかき乱したのだから自業自得かもしれない。でも、次々と家族の死にみまわれても逃げることなくそれに立ち会い、屋敷を失ってまともに生活することができなくなっても彼女は必死になって生きようとした。彼女は最後の「生」の輝きを求めて、妹の住むニューオリンズまでやってくる。ありったけの虚飾を身にまとい、その地に着いた瞬間、「死」が決定的になったとしても、そこには他の誰にも真似できない屈折した「生」への執着をひりひりと感じさせられるのだ。
 終幕、精神の混乱しているブランチが一粒のブドウをとって「わたしは洗っていないブドウを食べて死ぬの」とつぶやく。最後の最後まで死の恐怖と戦い、死を拒み続けていたブランチがこんなせりふをはく。私はいつもここで苦笑しつつ同時にホッとする。彼女の戦いがやっと終わったのだということを知るからだ。
 しかし蜷川は決して感傷をゆるさない。おとぎ話というガラスケースの中のものを引きずり出してきて、私たちの目の前につきつけてくるのだ。結局、いつも頭に描くブランチ対スタンリーという構図からはいつのまにか解放され、そこに浮かび上がってきたのは、皆がやり場のない悲しみにもがき苦しむ姿であった。ブランチだけではなく、スタンリー、ステラ、ミッチ。ブランチが破滅への道を歩むと同時に、それぞれが悲しみを抱え始める。
 これまで見てきた『欲望という名の電車』のどれとも違う、というよりは、私が勝手に抱いてきた幻想は蜷川によっていともかんたんに引っぱがされてしまった。自分が大事にしてきたあの物語はどこへ行ってしまったのだろう。なんだかとてもショックだった。ただ、これからまた新鮮な気持ちでこの作品と向かい合える、今はそんな気がしている。
 
(五月二十五日観劇)

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「電車は迷走する」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 「ステラはスタンリーがブランチとそうなっちゃったことを知ってるんですもんねぇ」
 えびす組メンバーの発言にわたしはどきっとした。「だってそういう台詞あるし」
 ブランチが精神病院に送り込まれる直前の、ステラとユーニス(立石涼子)の会話である。自分はまちがったことをしたのではないかと問いかけるステラにユーニスはほかにどうしようもないと答える。その次のステラの台詞は「姉さんの話を信じるとしたら、あたしだってスタンリーといっしょに暮らしていけないわ」(新潮文庫の小田島雄志訳。今回の恒志訳は手元にない)。
 あらま、ほんとうだ。勘違いしていた。
 こんな姉の状態ではスタンリーとの生活が壊れてしまう、くらいにしか捉えていなかったのだ。
 姉さんの話とは、ステラが出産した夜にスタンリーがブランチと関係を持ったことを指す。そのことをブランチは誰にも言わない、となぜかわたしは思い込んでいた。たしかに無理矢理ではあったが、あの出来事はブランチとスタンリーの一種の和解であり、愛の行為であり、ステラを含めた三人の関係の成就と終息であると認識していたのだ。
 その一件をユーニスも知っているらしい。
 ということはミッチはじめ仲間たちにも周知であるということだろうか?
 こういうとんでもない話を、親しいポーカー仲間や大家だとしても、他人に話せるだろうか?ステラ自身は、この話が狂気に陥った姉の妄想だと思っていることは推測できる。ステラは夫を愛しているから、まさか彼がそんなことをするわけがないと信じたいのだろうが、いくら精神のバランスが壊れているとはいえ、姉からそんな話を聞かされてそうそう落ち着いてはいられないだろうに。
 姉の話に驚き、疑いを持ち、夫を問いつめ、悩んだのではないだろうか?不信に陥り、自分が狂わんばかりに混乱したのではないだろうか?スタンリーにしてもあの夜から今日まで(戯曲には数週間後とある)いったいどういう態度を取っていたのか?
 わたしの心は疑問符だらけ、いちばん知りたいところをテネシー・ウィリアムズはすっ飛ばしているのである。
 姉が精神科医に連れていかれる場面、ステラは泣き叫ぶ。姉を受け入れられなかった自分をひたすら責めて、と思っていた。ですがですが、例の一件を知った上でのこの慟哭はまことに複雑に見えてくる。
 ステラは案外としたたかで、清濁あわせのむ(結婚の極意としてよく引き合いに出される表現です)どころか、泥水と知って飲み干して泣き笑いしているというか、毒を食らわば皿まで・・・違うか。ブランチという強烈なキャラクターの影にいたステラが、得体の知れない奥行きをもった存在としてわたしの中で呼吸しはじめた。
 『欲望という名の電車』が走り出したとき、彼女はけなげで可愛い、普通の女であった。そういう女が異常な状況に置かれたとき、どうやって平常心を保とうとするか。
 いっそ狂ったほうが楽だと思うくらい、辛いこともある。ブランチさんはあちらの世界に行ってしまったが、ステラはそうはいかない。ユーニスの台詞の通り、「どんなことになろうと生きていかなきゃならない」のだから。
 いま『欲望という名の電車』に乗っているのはブランチではなく、ステラである。
 終点に到着したと思っていた電車の行き先がわからなくなった。
 電車は迷走する。
 わたしは少し離れた席に座ってステラを見つめたまま、電車から下りることができない。
(五月十二、十六日観劇)

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「ブランチとミッチ、恋の結末」
C・M・スペンサー
 「戦いが終わった・・・」。最後に、そう思わせる舞台だった。
 精神科医に連れられて行くブランチを、泣きながら見送る妹のステラ。彼女の夫スタンリーが優しくステラの肩を抱きながら家へと導く様子を見た時、そう思った。
 あまりにも有名なこの作品。私自身、今までに文学座をはじめ、何本か舞台を観る機会があった。ブランチを杉村春子、樋口可南子、篠井英介、それから今回の大竹しのぶ、その他にも様々なタイプの役者が演じている。
 本作品の演出は蜷川幸雄。『マクベス』の時にも感じたが、既知の作品において、蜷川演出では新たな側面を発見させてくれる。
 これまではブランチの精神のアンバランスを傍観しているだけだったが、今回の大竹ブランチに、私はなぜかとても胸が痛んだ。 物語のクライマックスで、スタンリーの目に余ったブランチは、ついには精神科医の手に委ねられる。しかし、それ以前の彼女について、大竹は女なら誰もが持っている見栄をかわいらしく表現していたので、彼女が豪語する正気の沙汰とは思えない言動も、私は笑って許せてしまった。ステラ同様、ブランチが精神を病んで大きな嘘をついているようには思えなかった。再会した時からの姉妹の関係や、スタンリーの友人ミッチがブランチに恋してしまう気持ちにも納得がいく。そしていつしか彼女も、ミッチを結婚の対象として見ていたことにも。
 かつて結婚が不幸な結果に終わったブランチにとって、自分が見下していた粗野な労働者階級の男性との結婚を思い描くまでには相当な決心があったに違いない。それでも彼にすがって生きていくしか自分の幸せがないことに気付き、プライドを捨てて彼女の全人生をミッチとの結婚にかけてしまった。その一縷の望みが断ち切られてしまった時、女性として私はブランチの胸の張り裂けるような悲哀を察することができる。
 今まで、こんなにもブランチに共感することはなく、ただスタンリーとの憎しみにも似た激しい関係だけが印象に残る作品であった。しかし、ブランチとミッチの関係を丁寧に描くことにより、ブランチが完全に正気でなくなる方向付けがはっきりとなされた。ブランチを純情だと信じていたミッチから、娼婦同然のことをしていたと知ってさげすまされた時、彼女は徹底的な打撃を受けてしまった。更には追い討ちをかけて、理性を失ったスタンリーから受けた仕打ちに・・・。
 スタンリーの堤真一よりも、ミッチの六平直政の穏やかな演技がブランチとの関係において心に残る舞台であった。そして最後に、冒頭に述べた安堵感が心をよぎった。 
 (五月十一日夜観劇)

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「やっぱりわかんない、あの人たちのこと」
ヘンリー・ヤマト六世
 名作、名作って言うけど、話は無茶苦茶ですよね、『欲望という名の電車』。最後に生まれてくる赤ん坊、あの子の立場になってみればさ、自分が生まれてきた夜に父ちゃんが伯母さん強姦してるんだよ。そんで両親がツルんで、その伯母さんを精神病院送りにしちゃって。いちおう母ちゃんの方は、その話は信じてないってことになってるんだけど、絶対どっかで疑ってるよね、この男ならやりかねないって。じゃなかったら、無理に真実を無意識の底に抑圧してるか。だって、信じたくないもんなあ、ふつう。もう、生まれる前からトラウマ背負ってますよ、この子ども。ぜったい幸せにはなれないね。
 でも、こういう呪われた血の物語は、歌舞伎やギリシャ悲劇なんかだったらよくありそう。まあ、そういう意味では、悲劇の王道を行ってるわけだから、名作の誉れが高いってのもわかるけどね。蜷川幸雄が好きなのも、そういう理由かな。あの人、そっち方面の古典を現代風、オリエンタル風にアレンジして見せるのが得意でしょ。だけど、それってもともとの芝居に「様式」があるから面白くできるんであって、これはアメリカの現代劇だから「様式」ないし。だから、なかなかいじりようがないんだけど、リアルに正攻法でやると、これだけうっとおしくて暑苦しい芝居もめったない。そこがいいっていう人もいるかもしれないけど。
 そういえば、柄本明が言ってましたね、テネシー・ウィリアムズっていえば、「汗」だって。あの「汗の感じ」がわかればやってみたい、みたいなことを。でも柄本がまだ舞台をやってないってことは、わからないんでしょうね、「汗の感じ」が。確かに、なかなかわかるもんじゃないですよ、生理が違うって気がするもん、あの人たちとは。そんなこと言ったら、風土、階級、民族…って、もとからわかんないこといっぱい!なんですけど。だから難しい、テネっちの芝居をやるのは。
 難しいってことでいえば、いちばん難しいのはセックスかな、やっぱり。この惨劇のそもそもの始まりは、ブランチとスタンリーが出会って、互いに性的に強く惹かれ合うとこにあったわけでしょ。演出もそうなってて、大竹しのブーも堤クンも頑張ってるんだけど、どうもね。これ樋口可南子のブランチの方が、まだ説得力がある。でも、あの人だとほかのところに無理が出てきそう。一生懸命やってるの見せられて、それこそ息が詰まりそう。杉村春子なんてどうやってたんだろう。性的に強く…、想像するだけで怖い。一方、スタンリー役の堤真一も演技が優等生っぽくて、あの男のケダモノ性が出てません。上手に暴れりゃいいってもんじゃないからね。
 いまさら引き合いに出すのもどうかと思いますが、エリア・カザンの映画だと、もうビビアン・リーなんか最初っから最後まで誘惑しまくりですもん、男どもを。これがまた笑えるんだけど。マーロン・ブランドも、それはもう、汗くさいケダモノ。こいつならエキセントリックにキレてる女でもやれちゃいそう、って感じするもんね。ふつう引くでしょ、マニアでもなかなか行かないでしょ、そっちの方面には。まあ、要するに、よくわかりません、外国の方々のセックスは。
 最後に言っておきたいのは、こんだけ悲惨な目に会ってるのに、ブランチのことが全然可哀想に思えないってこと。「可哀想だたぁ惚れたってことよ」って有名な言葉がありますが、惚れられないもんね、この女。観客としては惚れたいわけでしょ、舞台上のヒロインに。でも、ダメ、無理。それはしのブーのせいじゃなくて、作者のテネっちがいけないんだよ。丸裸にしちゃってんだもん、ブランチを。少しは謎の部分を残しておいてあげないと、ヒロインには。でも、テネっち、女に恨みがありますもんね。そこんとこは非情。
 「トラウマゆえに我愛す」これはあんまり有名じゃないけど、斎藤環って精神科医の言葉。トラウマってのは見えちゃいけないんだよ、本人にも他人にも。テネっち、みんな見せちゃうんだもん。だから、あたしってなんて不幸なのって話でも、本人が言い訳してるようにしか見えないんだよね。オレたちは、わからないところでそっと傷ついていてほしいのよ、女の人には。オレたち、っていうか、日本人は。いや、ひょっとしたら、オレだけは。でも、岩松先生もきっとそうだと思う。あと、アントンも。日本人じゃないけど。 
 (五月十日に観ました)

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あとがき
■今回は「11号ゾロ目記念」として、「えびす組」ご意見番、ヘンリー・ヤマト六世(東京乾電池リチウム)にご登場頂きました。感謝。乾電池の次回公演は、柄本明主演・イヨネスコ作「授業」(10/29〜11/6、下北沢OFFOFFシアター)です。

◆ヘンリーは、さすが見る目は演出家。こういう客観性を見習いたい。私はすぐヒロインになりたがるもので。(C)

◆この夏のヒーローは『アテルイ』主演の市川染五郎丈。伝統を守りつつ新しいものに挑戦する人の、何と力強く美しいこと。(ビ)

◆楽しい芝居を見た後に飲む冷たいビールは夏の至福。これからも健康でありたい、と心から思う今日この頃です。(コ)

◆ブランチが降り立ったのは、「Elysian Fields」。今まで〈極楽〉という訳に慣れてきたので新訳の〈天国〉には少々驚き。翻訳劇の宿命か──。(万)

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