えびす組劇場見聞録:第16号(2004年5月発行)

第16号のおしながき

「アライブ・フロム・パレスチナ−占領下の物語−」 シアタートラム 2004年2/25〜29
「だるまさんがころんだ」 ザ・スズナリ 2004年2/20〜3/7
「小さな家と五人の紳士」「眠っちゃいけない子守歌」 横浜相鉄本多劇場 2004年3/16〜17
「KASANE 本多劇場 2002年2/7〜17
「外側と内側、両方の視点から」 「アライブ・フロム・パレスチナ−占領下の物語−」 by コンスタンツェ・アンドウ
「立ち上がれ、だるまさん」 「だるまさんがころんだ」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「『不条理劇』の意外な産物」 「小さな家と五人の紳士」
「眠っちゃいけない子守歌」
by C・M・スペンサー
「ちぐはぐな男女」 「KASANE」 by マーガレット伊万里
あとがき

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「外側と内側、両方の視点から」
コンスタンツェ・アンドウ
 ユダヤ人の歴史に初めて触れたのは小学生の頃だ。友人の家で昼食を取っていた土曜の午後、ナチスの強制収容所の記録がテレビに映り、強い衝撃を受けた。現在と比べ、かなり残酷な写真や映像が放送されていたのではないだろうか。次に思い出すのは、ミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』。まだ中学生だったので作品を深く理解できた訳ではないが、森繁久彌扮するテヴィエとその家族が、ユダヤ人だからという理由で村を追われるラストに涙を流した。
 以後、数多くの舞台を見るにつれ、海外の演劇に「ユダヤ」は欠かせないトピックなのだと気づかされることになるのだが、ホロコーストは歴史的事件であり、ユダヤ人の問題は欧米のものだから、現代の日本人には実感として受けとめられない…それが正直な印象だった。
 しかし、この数年、呑気な私ですら中東諸国に関心を持たざるを得なくなり、改めて「パレスチナ」に目を向けた。迫害と差別の末にイスラエルを建国したユダヤ人、故郷を失ったパレスチナ難民、絶え間ない紛争、悲惨なテロ…。「ユダヤ」は過去でもなく、海外だけの問題でもなく、現在進行形で日本と密接に繋がっている。そのことをようやく実感した。随分と長い時間がかかってしまったが…。
 そんな折、「東京国際芸術祭」で、パレスチナ人自身がパレスチナの現実を描く作品が上演されることを知った。初めて見る中東の演劇、アルカサバ・シアター『アライブ・フロム・パレスチナ―占領下の物語―』に、当日券で滑り込んだ。
 瓦礫を模したと思われる新聞紙の山が幾つも置かれた舞台で、六人の出演者によって複数のエピソードが演じられる。レストランでデートしながら武器を交換する恋人達、本当の紛争を映画のロケと間違える少年、ロンドンに住む息子と国際電話中にミサイルが飛んできても驚かない父親…エピソードの設定だけを短い文章にすると陰鬱なイメージが浮かぶが、実際の舞台は不思議と明るく、時には客席から笑いも起こる。パンフレットに掲載された扇田昭彦の文章を引用すると、「怒りと悲しみを喜劇的に転化することで、悲劇が日常化しているパレスチナの異常さを鮮烈に実感させる。」観客は、ふっと笑った後に、ぞっとするのだ。
 腹を撃たれた男が「どうしてこんなことに?」と問いかけながら死んでゆく。この言葉を聞いて、一昨年、写真展「The Day マグナムが撮ったNY9/11」を見た時の感想を思い出した。「えびす組劇場見聞録」ホームページの掲示板に、私は次のように書いている。
 ―「Once」「The Day」「After」の三つのセクションに分けて、「9.11」前後のNYの写真が展示されていた。必要以上に煽動的な作品はなく、見ながら感じたのは、恐れや悲しみよりも「何故こんなことになったんだろう」という疑問だった。今も答えは出ていない。―
 重みは全く違うが、同じ問いかけだ。舞台でも、答えは提示されない。
 終幕、全員が銃撃され、新聞紙の山へ埋もれてゆく。やがてその中から手だけが突き出され、うごめき続ける。ひとりの俳優の左手薬指に、指輪が光った。役として身につけているのか、個人としてかはわからない。どちらであっても、指輪が繋ぐ二人の幸福を祈りたい…そう思った。役の上での悲劇と、俳優個人が体験しうる悲劇。その間の距離がこれ程までに近い舞台を私は他に知らない。
 ひとつ気になったのは、パレスチナの観客がこの作品を楽しんだのだろうか、ということである。外国人にパレスチナの現実を伝えることができたとしても、渦中の人々が改めて現実を見たいと思うのか、自分が当事者だったら劇場へ行くだろうか、と考えてしまった。
 答えは、アルカサバ・シアター芸術監督ジョージ・イブラヒムのインタビュー(雑誌『世界』三月号、聞き手・文=井上二郎)の中にあった。アルカサバ・シアターは一九七○年に創立され、いわゆる普通の「戯曲を演出家の指示で俳優が演じる」舞台を上演してきた。しかし、二○○○年に、本拠地のラマラ(ヨルダン川西岸)で行われたイスラエル軍の残虐行為に対し、その場で作品を上演して怒りを表現し、居合わせた目撃者達が観客となった、という出来事が起こる。それから九ヶ月間、俳優が街に出て知った事実をもとに作品を作って毎週上演し、その成果をまとめたものが『アライブ・フロム・パレスチナ』なのだという。机の上で、頭の中で生み出された作品ではない。パンフレットにも「作」や「脚本」の文字は見られず、「考案(Creation)‥アルカサバ・シアター」と記載されている。
 イブラヒムは「この作品を観客は笑いながら観て、厳しい現実を受け入れ、舞台を通じて励ましあうことができた」と語っている。「自分が当事者だったら…」という考えが、傍観者の貧困な想像に過ぎなかったことが情けなかった。
 イブラヒムはまた、この作品は「メディアへのアンチテーゼ」であり、「パレスチナ人の現実が単なるニュースとして省略されることを拒絶し、現実と正反対の状況を伝えるメディアにかわり、この作品を通じてパレスチナ人の現実を伝えようとした」と言う。一枚の写真、一本のニュース、一編のドキュメンタリーが、見る者の心を激しく揺さぶることがある。しかし、その中に操作された情報がないとは言い切れないのだ。
 二○○二年ピュリツァー賞を受賞したニューヨークタイムズのクリス・ヘッジズ記者は、東京新聞のインタビューで「米国がイスラエルに武器と金を与えてパレスチナの抑圧に手を貸しているのに、米メディアはその事実を無視するか、知っていても伝えようとしない」「メディアは、商業的な理由から、栄光や名誉、英雄を見たいという読者の期待に応え、戦争の神話化に加担している」と語っている。長い間戦争取材に携わってきたアメリカ人記者が母国のメディアを批判する言葉は、胸にずっしりと響く。
 現代社会にメディアは不可欠であり、その全てを疑う必要もない。だが、私達が知りうる情報の殆どは、現実を外側から捉えたものだという認識を持つべきだろう。それに対し『アライブ・フロム・パレスチナ』は、内側から湧き上がってきたものである。演劇は、虚構の上に立ち、即時性にも乏しい。現実を伝えるためには不利と思える表現方法を取りながら、この作品は、内側からの生々しい生命力を後ろ盾にして、ストレートでスピーディな伝達力を持つメディアに立ち向かっている。しかも、観客の感情を纏めあげて一方向へ連れて行こうとする意図を感じさせない。その点で、潔さと信頼感を覚えた。
 幼い頃に見たテレビ映像の衝撃も、『屋根の上の…』に流した涙も、原体験として大切にしたい。そして、「どうしてこんなことに?」と繰り返し問いかけながら、パレスチナに限らず、世界の現実を注意深く見つめてゆきたい。外側と内側、両方の視点から現実を捉える機会があること、それはおそらく、とても貴重で幸せなことなのだ。
 ラマラでは、俳優も、劇場関係者も、観客も、劇場へたどりつけるかわからない、無事に幕が開き、幕が閉じるのかわからない、終演後に家へ帰れるのかもわからない、そんな状況の中で演劇を愛し続けている。私は、安全神話が崩れつつある日本の首都・東京で、これからどのように、演劇とそして世界と接することができるのか、思いを巡らしている。
(二月二十七日観劇) 

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「立ち上がれ、だるまさん」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 劇団燐光群の最新作『だるまさんがころんだ』は、地雷によって手足をもぎ取られた人間の姿を「だるまさん」にたとえ、地雷をモチーフにした複数のエピソードが絡まりあいながら進行していく刺激的な舞台だ。
 地雷原をさまよいつつ、子どもの遊び「だるまさんがころんだ」をする二人の自衛官。
 親分の命令で地雷を入手しようとする子分と、地雷撤去作業で義手義足になった黒服の女との奇妙な交わり。地雷製造会社に勤める父親とその家族。地雷によって村を追われるアジアの人々の群れ。
 さらに武器マニアの商人や空港の爆発物事件、女子大生の文学賞受賞などの時事的なエピソードも次々に盛り込まれ、一人の俳優が複数の役を演じることもあって、一瞬も気が抜けない。
 終幕、数々のエピソードが登場人物全員による「だるまさんがころんだ」の遊びへ一気になだれ込み、黒服の女が鬼になる。
 スズナリの小さな舞台のセンターにすっくと立つ女の姿はぞくぞくするほど美しい。
 燐光群は不思議な劇団である。二つ折りの公演パンフレットはいたってシンプル、出演俳優の顔写真もなく、本人のコメントや友人関係者による紹介文も稽古場リポートもない。だから何度も見ているのに未だに俳優さんの顔と名前が一致せず、なかなか覚えられないのである。しかし各人相当に個性的で粒だって、気迫に満ちている。
 固定ファンのつくようなスター俳優がいて、外部公演にも出演し、やがてテレビや映画にも顔を出して次第に売れっ子になっていくことは珍しくない。舞台とは違う魅力を発見できることは楽しいし、映像でその人を知って舞台に足を運ぶ新しい観客も生まれる。公演ごとに観客動員数を増やし、劇団が小劇場から大劇場へと進出していくことも悪くない。
 しかし燐光群のようにひたすら演劇という地場を離れず、一人の劇作家のもとで活動が二十年も続いているというのは、ほとんど奇跡に近いのではないか。
 上演を前に主宰の坂手洋二が「偶然集まった仲間が、芝居づくりの中で必然の関係になった。色々なことができる状態になりました」と語っているが(二月十三日朝日新聞)、燐光群はいわゆる劇団というより、挑戦し続ける人々の群れといった印象がある。
 燐光群の公演で昂揚感というのか、「盛り上がる」感覚を味わったのは今回が初めてなのだが、舞台と観客が一体化する盛り上がり方ではなかった。両者の間には冷徹なまでの距離がある。燐光群はそう簡単に観客を仲間に入れてはくれないのである。
 公演時に配布された地雷関連用語を掲載したチラシを改めて読んでみると、こんなにも多種多様な地雷が存在することに驚き、地雷をめぐる状況の複雑さと深刻さに暗澹たる思いになる。地雷をなくそう、戦争は悪ですと叫んだところでどうなるのだ?
 燐光群の舞台から投げかけられるのは平和への祈りでも希望でも救いでも癒しでもない。人間が作ったこのおぞましい兵器の前に、わたしたちは何をもって闘えるかという問いである。演劇を表現手段として持つ人々による強烈な意志表示であり、挑戦状である。
 地雷の被害は遠い異国で起こっている不幸な出来事ではない、どころか、本稿を書いている今(四月中旬)、イラクでは自衛隊の宿営地を狙って砲弾が打ち込まれ、武装組織が自衛隊の撤退を要求して日本人を人質に取る事件が起こった。これをどう考えるか意志表示しないわけにはいかないだろう。
 これはわたしの、わたしが生きている国の問題なのだ。
 実際には見たことのない地雷が、生々しくまるで生き物のように近づいてきた。
 終幕の「だるまさんがころんだ」の遊びの場面が異様なまでの迫力をもって心に甦る。
 だるまさんは立ち上がり、「逃げるな。闘え」とこちらに向かって迫ってくる。
 今回の舞台にはいつもの重苦しさに加えて自在で軽やかな印象があり、結構笑えたこともあって、終演後の気分は充実して、爽やかですらあった。
 しかしそれも束の間、わたしを落ち込ませるのは、燐光群と互角に闘うにはまだまだ自分は力が足りなさすぎるという自覚である。わかったとはとても言えないし、おもしろかったとすら、ちょっと。前半に「一瞬も気が抜けない」と書いておりますが、ほんとうは少し寝てしまったし。だが見るたびに「負けたくない」と何やらけんか腰の気分になり、懲りずに足を運んでしまう。
 娯楽や息抜きにはならない演劇。
 それでいい。そのほうがいい。
 わたしにとって燐光群の舞台はほとんど訓練、修行に近いのである。
(二月二十一日観劇)

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「『不条理劇』の意外な産物」
C・M・スペンサー
 トーキョー・バッテリー・ブラザーズが、別役実の『小さな家と五人の紳士』『眠っちゃいけない子守歌』を上演した。それぞれ一九七九年、一九八四年に書かれた戯曲だという。役者と演出家が上演日ごとに2チームに分かれており、私の観た回の演出は加藤一浩。両作品とも役者は二十代のようだった。
 『小さな家と五人の紳士』は、文字通り五人の男たちの絶え間ない会話で成り立っている。今の時代だからしみじみ思うのか、会話の、その対話が素晴らしい。きちんと相手の言ったことを聞いて、確認して、違っていれば説得する。これが二人の会話だけでなく、四人になっても、最後の一人が加わっても、きちんとコミュニケーションが取れている。また、その言葉について、客観的に一人が反論するところが面白い。「ばか、ばか」と理解しない相手に対して何度も繰り返して発することもあるが、そこには「俺の話を良く聞けよ、聞いた上での発言か」という想いが伝わってくるので、乱暴に聞こえない。そして若者たちは言葉を省略することもなく、きちんと「○○だから、こうなんだよ」と説得を試みる。更に「こいつが○○だったら、△△じゃないかと思って、だから□□するんだよ」という相手を思いやったお節介から展開するストーリーが絶妙だ。いくら説得しても、そこがそれ、別役作品だから、どんどん話が思いもよらない方向へ発展していく。若い役者に淡々と言わせているところに本作品の魅力があった。
 若者が筋道をたて、相手の話に耳を傾けての会話は、こんなにも生き生きしているものなのか、と、それがルールとして存在していた世代の私からすると、大変新鮮に映るのである。
 二本目の『眠っちゃいけない子守歌』は、妻に先立たれた老人と派遣された若い家政婦の対話である。演じ手も老人に扮した若い役者がのらりくらりとしゃべるのに対して、甲高い声の女優が早口でまくし立てる掛け合いが、お互いの置かれた状況をよく象徴していた。
 老人の発言に家政婦はいらいらして帰ろうとするが、結局、老人との対話の中で、お互いが歩み寄っていくのが感じられる。眠ってはいけない謎も、最後には解き明かされていくのだが、ここにも屈折したコミュニケーションの形が表れていた。
 ところで、私が初めて別役作品を観たのは、ちょうど『眠っちゃいけない子守歌』が書かれた頃だった。当時の私には、別役作品の、登場人物の対話にこちらが気付いたらとんでもない方向に話が展開されている芝居に面食らったものだった。しかし、そのうち言葉が持つ意味とストーリーの意外性、作品の持つ社会性の虜となった。
 少々趣が異なるが、野田秀樹も言葉を巧みに操る戯曲家だ。野田作品は、こだわる一つの「言葉」から、どんどん話がふくらんでいくように思われる。一口には説明がし難いが、言葉に関して別役が「静」で野田が「動」というところだろうか。
 別役作品の短編戯曲は、つきつめると大変シンプルである。だからこそ演じられる時代により、本質は変わらないまでも作品における対象の受け取り方が変わってくる。若者がきちんとした言葉で主張するのが当たり前だった時代に、これらの作品は別の対象を映し出していたことだろう。日々言葉も目まぐるしい進化を遂げているが、言葉の変化とともに現代の日本人は短気になってしまったようだ。
 作品の結末は想像を超えるものであったが、相手を理解するために言葉を話す、わかってもらうために言葉を駆使する、つまりはコミュニケーションという形に満たされる思いがした。
 若者がきちんと言葉を話していることに驚きを持って「美しい」と思うこの時代、癒されたような心地良さを感じながら劇場を後にした。
(三月十六日観劇)

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「ちぐはぐな男女」
マーガレット伊万里
 私が演劇企画集団THE・ガジラ公演『KASANE』(作・演出=鐘下辰男)を見る前から気になっていたのは、久世星佳の起用だった。最近のガジラ公演で核となった女優をざっとみると、若村麻由美、若林しほ、高橋恵子、南果歩、七瀬なつみなど、いかにも女性的な雰囲気の顔が目立つ。その点、久世星佳は宝塚出身の元男役で、長身も手伝いどちらかといえば中性的ですっきりとしたいでたちだ。これまで抱いていた鐘下作品のイメージが何か変化するかもしれないなと漠然とだが思った。
 話は、下総羽生村(現在の茨城県水海道市)に残る伝説をもとにした芝居の稽古に、一同がやって来るところから始まる。その伝説とは、夫に殺された累(かさね)というみにくい女が、後妻を次々呪い殺すというもの。
 集まったのは、英国帰りの演出家・桐山月子(久世)と七人の役者・スタッフ(若松武史、千葉哲也、大鷹明良、冷泉公裕、真那胡敬二、大内厚雄、塩野谷正幸)。伝説発祥の村までやってきたかれらは、稽古に熱が入るどころか、累伝説の解釈をめぐって溝が深まり、しだいに桐山が追い込まれていく。
 全体を通して三分の一は伝説における解釈の説明といえるのではないか。伝説の謎にせまる桐山の新しい解釈は斬新で、その後の展開に当初は期待した。役者たちもそれぞれの解釈を持ち出しはじめ、延々と応酬が続く。とは言っても、解釈を披露するのにやっきになるのは役者たちの方で、演出家の方はわりと冷静。演出家は役者の話に耳をかたむけ、頭ごなしに否定することもしない。役者は芝居の稽古だということはどこかへ追いやってヒートアップしっぱなしなのに、知的な演出家という役柄からかなんなのか、桐山の方は自分を全くさらけ出さない。どこかのれんに腕おしのようで、演劇的な対立が生まれてこない気がした。結果、累伝説の隠された真相が明かされるというようなこともない。
 一つ気になっていたのは、冒頭ですべてがわかってしまうところだった。
 先に到着している役者・スタッフは、桐山の話をひとしきりしている。かれらのせりふの端々からは、桐山に対する不快さをしっかり感じさせられた。
 そして演出家と俳優の対峙は、しだいに女性と男性の対立のように見えてくる。
 役者たちははなから、外国で演劇を学んできた女性演出家という存在をけむたがり、頭に血がのぼっている様子なのだ。その後はすべてがこちらの想像範囲でしかない。はじめからほころびが生じている演出家と役者の関係が、クライマックスを得て、新しい視点を切り開くといったこともなかった。
 たとえば、対等にみえた役者と演出家の力関係がくずれていくような過程があれば、もっと緊迫したムードになっただろうか。
 逆に、役者が自分たちの気に入らない演出家をよってたかっていじめる――学校や会社で起きているいじめを演劇の場にもちこんだのなら、いじめに対する作者の意図がみえてくるかとも思ったが、いじめられる演出家の存在も役者たちがいじめる理由も宙に浮いたまま判然としない。
 夫にうとまれて殺された累、もしくは田畑をねらう村人に謀られた累。いっぽう、役者たちに攻撃される桐山。この二人の女性が時代をこえて結びつく線はうっすら想像できる。それでも、現代に生きる桐山がそんなかんたんに役者たちに嫌われるものだろうか。
 『ベクター』(〇一年改訂再演)で、ぎりぎりの状況に追い込まれた人間がエゴを剥き出しにする瞬間や、『アンコントロール』(〇三年)で見せた、生きていく上で引き受けてしまったいやしようのない傷をかかえた者同士が、隠れていた部分をすべてさらけ出してぶつかりあうようなことではなかった。結局は、役者たちが男で、演出家が女であるという表層での対立にしか見えてこなかったのが残念だ。
 鐘下作品に登場する女性については、かねてからどこか違和を覚えていた。それは彼が描く女性たちが男性の道具としての役割しか与えられなかったり、ひとつのイメージでくくられていて多様さに欠けており、いささかきゅうくつなのだ。
 この世は偏見にとらわれやすいということは別に珍しくないし、それを設定として持ち込むことだって驚きはしない。ただこれは女性だけではなく、男性の場合とて同じ事。ステロタイプの人間ばかりでは、どんなに興味深いテーマをとりあげていたとしても、こちらは閉口するだけの存在になってしまう。
(二月十四日観劇)

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あとがき
★気がつけば芝居よりもテレビドラマの話で盛り上がっているえびす組。一番人気は『エースをねらえ!』でした。いやはや(ビ)
★東京の公立小学校で、錚々たる演劇人が授業を行うというニュース。演劇が社会の中に広く深く浸透するのを切に願って(万)
★今年のお花見は姫路城。冷たい雨が降っていましたが、桜とお城が織りなす情景の美しさは、感動的でした!(コ)
★自由劇場オープンで、劇団四季のストレートプレイを観て思うこと。肉体は台詞を発するためにあるのか、台詞に感情をのせるために存在するのか(C)

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