えびす組劇場見聞録:第2号(1999年9月発行)

第2号のお題/「セツアンの善人」

上演情報
作●ベルトルト・ブレヒト    訳●松岡和子    演出●串田和美
出演●松たか子  高橋克典 串田和美 他
1999年5月18日〜6月6日●新国立劇場中劇場
「神に選ばれた女」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「はじめが肝心」 by マーガレット伊万里
「身近なブレヒト」 by C・M・スペンサー
「ブレヒトの呪縛」 by コンスタンツェ・アンドウ

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「神に選ばれた女」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 この世に善人はいるのか?
 善人捜しにやってきた三人の神様に地上の人間は皆そっけない。貧しい娼婦のシェン・テ(松たか子)だけが一夜の宿を提供する。
神様からもらった金を元手にシェン・テはタバコ屋を始めるが、あっと言う間に強欲な人々にたかられてしまう。このままでは生きてゆけない。彼女は冷酷な従兄シュイ・タ(松の二役)になりかわって実業家として腕を奮い、身を守ろうとする。失業中の飛行士ヤン・スン(高橋克典)に恋し、彼のために金の工面をし、子を宿すが彼に愛がないことを知る。追いつめられていくシェン・テ、善人であって、しかも生き抜くということは可能なのか?
 終幕、二役が限界になり、シェン・テは途方に暮れて舞台にへたりこみ、絞り出すように「助けて」と叫ぶ。いったいこの女の子はこれからどうやって生きていくのだろうか(大声ではない、つぶやくような叫びだ。「・・助けて・・!」という感じ)とわたしは本気で心配になり、胸が痛んだ。
 薄暗くなった舞台にひとり残ったシェン・テは、妊婦のお腹の詰め物を取り、奥に去っていく。カーテンコールは芸人一座による楽器の演奏だ。ほんのワンフレーズだが、出演者皆晴ればれとした表情で、客席もおおいに盛り上がる。
 ここで多少救われた。そうだ、これはお芝居なのだと確認することができるからだ。と思ってもこの結末の何と苦いことか。
 わたしは映画やテレビドラマに感情移入しやすいタイプである。ドラマの人物が長年の友人知人として、自分の身近にいるかのように思えてくる。要するに「はまりやすい」単純な性格なのだ。
 ところが演劇をみて「はまる」ことは、実を言うとほとんどないのである。戯曲に描かれた人物よりも、演じている俳優に関心が向くからだろう。それが今回は違った。松たか子のあの声が忘れられない。それほど最後の「助けて」のひと言は現実味をもって響いたのである。わたしは松たか子のシェン・テにはまってしまったのだ(女優松たか子のファンになったのではない。念のため)。
 シェン・テはわたしの友だち、この世のどこかにいる。そう思えてしかたがない。わたしのなかでシェン・テは松たか子の顔をして、わたしに向かって今でも「助けて」と叫んでいるのである。
 どうしてこんな気持ちになったのか。
 以下はその解きあかしの試みである。
v
 善き人でありたい。人々に優しく、親切にしたいという純粋な気持ちが、善い人だと思われたい、感謝されたいと思い始めたとたんに、自分と神(あるいは神から示された掟)の関係が人間と人間の関係になり、世間体や見栄や体裁のレベルになる。
 これがすなわち偽善性である。
 シェン・テに偽善はなかったか。
 冷酷な従兄のシュイ・タに変身したのは、身を守るため(生きるためには食べなければ、金がなくてはという大義名分)というより、偽善的な醜い自分をみたくなかったからではないか。むろん彼女が二重人格者であるとは思わないが、この人どこまで意識的にシュイ・タになっていたのかしら。意識してやるにはあまりに無防備であり、無意識だとしたら相当に狡猾である。ほんとうの善人ならもっと苦しむはずだし(遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』の森田ミツのように)、二役をやる前にとっくに自滅するか、善人すぎるためにかえって周囲を悩ませていることだろう(妹尾河童の『少年H』の母親を見よ)。
 いい人でありたいが自分も幸せでいたい。
 これはごく当たり前の、人間らしい感情だ。シェン・テは決して現実ばなれした聖女ではなく、むしろ身近な存在ではないか。それが神様にたった一夜の宿を貸したばかりに「善人にされてしまう」のだ。ほんとうの善人なら、悪人を「演じる」ことなどできないはず。シェン・テは充分意識的に悪人シュイ・タになっていたのだ。彼女の心の奥深く内在していた悪の部分が、必要に迫られて表出したのだと考えてみてはどうだろう?彼女はシュイ・タになることで、自分の本音を表現していたのである。
 次に、三人の神様と掟は何を指すか。掟というとモーセの十戒を思い出すが、劇中の台詞にある「隣人を愛せよ」とはキリストの言葉である。とすると唯一神のキリスト教に神が三人というのは明らかにおかしい。またこの三人の上にさらにもっと偉い神様(上司的な存在か)がいる様子もあるし、シェン・テの二役の苦悩を最後になってやっと気づく無能さといい、助けを求めるシェン・テに無責任な励ましだけ与えてさっさと天上へ戻ってしまう鈍感さといい、とても人間臭い。この三人の神もまた、人間のある一面を表現し、同時に神の無効性を象徴する存在でもある。
 神は人間を助けてくれるか。食べ物を与えて、悪人を追い出し、平和を約束してくれるか。答は否である。なのに厳しい掟を示し、それを守れない苦しみから救ってはくれない。
 人間にとって大切なのは神を信じ、人々を愛すること。しかし空腹や貧乏が解決されなければ、何にもならないではないか。神は癒しや救いどころが、逆に人間を苦しめる可能性すら持っているのだ。
  第一の神役の大森博がシェン・テに求婚する床屋のシュー・フーにも二役で扮するのは、彼の芸達者ぶりを強調するためではなく、神的なものの嘘くささ、無効性の暗喩であると思う(裁判の場で、裁判官からあわてて床屋に衣裳替えする滑稽さを思い出して下さい)。
 と考えてみると、いちばん罪作りなのはシェン・テに金を与えた三人の神様ではないか。 彼らは(人間並みの呼び方をします)「ひとりでも善人がいれば、この世はあるがままでよい」という神様会議の決定に従って地上にやってきた。善人を見つけられなければまずいのである。シェン・テに善人としていてもらわなければ困るのである。
 いわば自分たちの保身のためにシェン・テを利用し、悪人シュイ・タになることも黙認した。しかも人々には真相を明かさない。世の中の問題を抜本的に改革する気などさらさらなく、この世をあるがままに、といえば聞こえはいいが、要するに何もしないで放置しておくのと同じではないか。
 ほんとうの善人なら、助けを求める前に自滅している。善人なのだから、ほとんど神を具現化する存在なのだからしょうがないでしょとこちらも思う。しかしシェン・テは普通の人間なのだ。一般人の「助けて」のほうがわたしには切実に聞こえる。松たか子の最後の台詞にぐっときてしまったのは、ここに理由があったのだ。
 シェン・テにはどうか幸せでいてほしいと思う。だが善人一筋で無理をしなくてもよい。神様は「月一回くらいにしなさい」とおっしゃったが、もっとたびたびシュイ・タを登場させて構わない。ただしもっと上手にやることである。
 そして「わたしは善人になどなりたくなかった。善人でいるのは、もうたくさんだ」と叫んで、シェン・テよ、本音で生きておくれ。
 誰がどう言おうと、わたしが許す!
(五月二十三日観劇)

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「はじめが肝心」
マーガレット伊万里
 ちょうどここ一年ほどで、串田和美演出による作品『幽霊はここにいる』『春のめざめ』、そして六月の『セツアンの善人』の三本を続けて観てきた。
 『セツアンの善人』は、昨年新国立劇場で行われた『幽霊はここにいる』(安部公房作)と同じように、多国籍の役者たち、フランス人による照明、そして世界的に活躍する日本のワダエミ(衣装)やcoba(音楽)といった国際色豊かなスタッフ・キャスト陣の中で創り上げられた力作である。
 今回の上演において大きな仕掛けが一つある。大道芸の一座が『セツアンの善人』を上演するという設定だ。その仕掛けは、開場早々に思いがけず観客の目の前で繰り広げられる。
 劇場ロビーに置かれた小さな舞台を中心に、役者たちが三々五々集まってくる。サックスを吹き鳴らしたり、その場に座り込む者、おしゃべりをする者。ロビーが大道芸人たちのウォーミングアップの場に変わる。何事かと集まってくるお客も巻き込んでのオープニングなのだ。
 しかし、個人的にはその余興を楽しむにはいたらず、なんとなく複雑な思いでながめるにとどまってしまった。それはなぜだろうかと、いろいろ思いをめぐらせてみた。
 ロビーの小さな舞台(といっても、材木むき出しに組んだだけのもの)には、出演者ほぼ全員が集まってくる。そう、主演の松たか子も。テレビでおなじみ「ああ。食パンのテレビCMでの顔と同じ、同じ」と下世話なことが頭をよぎり、相手役人気俳優高橋克典なども(マスクをつけていたが)「想像していたより小柄だわ」などと、大道芸の余興を楽しむというよりは、「こんな近くでタレントさんが見られてラッキー」という気になってしまう。どうしても開演前のうれしいサービス程度にしか受け取ることができない。
 役者が観客の前に素で現れるはずはないが、背負うはずの役柄である前に、こうした形で見慣れた役者を認識してしまうと、こちら側も身構えてしまうのだ。とくにマスメディアへの露出が多い役者の起用など、こうした無防備な状況でかんたんに姿をさらしてしまうのは危険ではないだろうか。敏感な観客の目はどうしてもそちらへ注がれ、せっかくの工夫を凝らした導入の雰囲気も台無しになりかねないだろう。
 昨年のtpt公演『春のめざめ』(フランク・ヴェデキント作)で、役者たちがトランプゲームや鬼ごっこに興じる幕開きに観客は立ち会った。このときも、彼らの遊びを楽しくながめるというよりは、観客の一人である自分の方が仲間ハズレにされているような心持ちで、なんだか居心地が悪かったことを思い出す。
 遊びの場の空気を役者と観客が共有し、観客にも参加してもらおうという演出と感じたが、実際は役者たちのある程度決まった演技を見せられるというレベルにとどまってしまっている。
 よって、芝居を観るという前提を一方的に打ち破ろうという意図が感じられる分、その食い違いが居心地の悪い空間に仕立てている。串田の意図する遊びへの参加に、心地よく参加できた観客がどれほどいたか疑問である。
 こうした幕開きの見せ方は、ここ最近の三作を観た限りでも共通するものがある。観客が静かに息をひそめるなか客電が落ち、幕が開くお決まりの導入を避け、にぎやかな気分で一気に芝居の世界を盛り上げようとする雰囲気づくりを串田は好んでいるようだ。
 しかしながら『セツアン』の導入は、演じる者と観る者双方が互いの領域を決して犯せないという暗黙の了解のもとに進行する、一見すると破天荒だが、実は双方が非常にお行儀がよい結果、ばつの悪い状況となってはいないだろうか。そしてそこには、大道芸人たちが、芸一つで日銭を稼ごうという気迫、リアリティがほとんど感じられない。
 「芸をみがいて出直してこい」なんて言うつもりは全くないが、「無機質な劇場が大道芸人たちでにぎわい、すごく面白かった」などとかんたんに思われてしまっても困るのである。
 ましてピカピカに磨かれたロビーでの大道芸というのもノリづらい。真剣な顔つきで待機するスタッフと思しき人々などに囲まれていては、大人の観客が単純に喜べるだろうか。ユニークな試みではある。作品としてアンサンブルも練り上げられていて、見所も多い。
 しかし、アイデアに満ちた導入の効果が散漫な印象を残してしまうなら、そこからつながる本筋への道筋も見つけにくいものとなってしまうだろう。
(六月五日観劇)

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「身近なブレヒト」
C・M・スペンサー
 戯曲家ブレヒトの作品は理解するのが難しい…そんな偏見ともいえる概念を持って、観劇に臨んだ。
 開演には少し早い六時四十分頃、なにやらロビーに人だかりがしていた。バンドの生演奏のようだ。あれは大道芸人の扮装なのだろうか。七〜八人の演奏者の中には外国人もいるし、よく見ると日本人の役者もいる。そろそろ開演時間だ…と思った頃に演奏が止み、役者の一人が「そろそろお芝居を始めさせていただきま〜す。お席におつきくださ〜い。」と叫びながら歩き出した。
 松たか子もいたのか、と思った時には前方の舞台上に、別の役者陣が既に思い思いの格好で登場していた。ロビーからの役者が合流したところで、いつからともなく芝居が始められた。
 上演時間は三時間強。長い芝居はとっかかりが大切だが、この『セツアンの善人』は、誰が何を言い出すのか、何が始まるのか、と様子をうかがっているうちにのめり込んでしまった。
 役者にしても、最初は全員が観客から見える位置に登場しているのだが、水売りが三人の神々と出会い、宿の主となるシェン・テが出現し、というように物語に人物が現れるごとに、舞台上の役者に役割がついていく。まるで背景と同色だった人物が、色つきになって現れるみたいに、改めて舞台の上に人々が登場したように見えた。
 演出は串田和美。事前に役者が舞台を取り巻き、いつからともなく芝居が始まる手法は、昨年彼が演出したtpt『春のめざめ』と同様だった。ベニサン・ピットの狭い空間ならではの演出かと、その時は役者と観客との一体感を楽しんだ。しかし、舞台の出来としては、新しい試みに巻かれて観客に物語の展開を理解する余裕がなかった。(男の役者が女の役を、またその逆や、年輩の役者が少年を演じるなど)
 今回も正直言ってロビーから役者が入場する際に、同様の手法によってまた話が難しくなるのでは、という不安を抱いていた。だがどうだろう。結論を言うと、この手法が自分でも気づかないうちに「難解ブレヒト観」を忘れさせていてくれていたのだから恐れ入った。
 次に、打倒!難解ブレヒトという偏見に対する私個人の最大の期待は、なんと言っても今の時代ならではの華やかなる演じ手、つまりキャストであった。女のシェン・テと従兄のシュイ・タを演じるのは、松たか子。シェン・テが思いを寄せる男ヤンに、テレビで人気の高橋克典。まずこの二人の名を聞いただけで、失礼だが、長い芝居も退屈しないだろうという思いを抱いた。
 これは本当に失礼だったと反省するのだが、松たか子に関して言えば、さすがに今年の一月に『天涯の花』で座長を務め、新劇の舞台上で見事な演技を披露した実力の持ち主だった。女と男の演じ分けには嫌みがなく、男の時に仮面こそつけていたが、私は従兄のシュイ・タが登場する場面が楽しみでならなかった。
 神の言葉どおりに生きようとするその姿は、気は優しいが凛としたシェン・テと、何を言うにも潔い男らしさを感じさせる従兄シュイ・タとの演じ分けによって、観る者に互いの立場への共感を与えていた。
 主役をさらに際だたせていたのが、ベテランの俳優と、全体の半分以上を占める外国人俳優の顔ぶれだった。多国籍の俳優を配することによって、主題を演じる人物に、より注目できたとも言えよう。
 私自身から「難解ブレヒト観」を払拭させてくれたことが嬉しくて、演出や演技の巧みさばかりが先行してしまったが、それ以上に今回の舞台の素晴らしさは、作品を通して、私たちに何かを問いかけていることを気づかせてくれたことにある。
 神の言葉によると、シェン・テは善人でありながら、自分の財産を守らねばならなかったが、それは彼女の優しさからして不可能に近かった。それゆえ「スラムの天使」の名を汚すまいと別人のシュイ・タを造り上げたのだった。結局最後には、善人としてだけでは生きていけない、と彼女は神に一人二役を告白するとともに訴え、悩み抜いた彼女を神々が許すところで終わる。だがしかし、この作品は、彼女がここまで追いつめられて葛藤してきたことに対する答えを、私たち自身で出さなければいけないということを語っているように思うのだ。
 今後も今の時代の作り手に、かつて難解と言われた作品を身近にしていただくことを切に願う。
(五月二十一日観劇)

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「ブレヒトの呪縛」
コンスタンツェ・アンドウ
 松たか子と高橋克典。テレビドラマで共演すれば、好視聴率を取れそうなカップルである。貧しいけれど心優しい女と、夢ばかりを追うワガママな男。一昔前の少女漫画にありそうな設定である。しかし、それはドラマでも漫画でもなかった。『セツアンの善人』、一九四〇年に完成したブレヒト作の「寓話劇」である。「寓話劇」という呼ばれ方にブレヒト自身が納得していたのかはわからないが、その言葉をキーワードにして舞台を見た。
 スラムに住む娼婦のシェン・テは、「善人」を探す三人の神達に宿を貸し、彼らが謝礼として置いていった金を元に煙草屋を開く。店へやってくるのは客ではなく、シェン・テにたかろうとする貧民達ばかりだが、シェン・テはそれを拒めない。シェン・テは、失業中の飛行士、ヤン・スンに恋をする。しかし、ヤン・スンの心をとらえているのはシェン・テの愛ではなく、金である。やがてシェン・テは、自分を守る為、男装して「いとこのシュイ・タ」を演じるようになる。シュイ・タは冷酷なやり方で裕福になってゆく。
 ヤン・スンを想うシェン・テはいじらしい。自分とは正反対の性格を持つシュイ・タを演じてしまうシェン・テの気持ちも理解できる。そして、一人二役が破綻したシェン・テの姿は哀れである。観客は、シェン・テを見て、シェン・テと共に悩み、シェン・テに同情する。松たか子はシェン・テという役に強烈な存在感を与え、ヒロインとして演じきった。まるで「女の一代記」である。しかし、『セツアンの善人』は「シェン・テの物語」であって良いのだろうか。「女の一代記」は「寓話劇」ではなく、「劇」ではないのか。
 「寓話劇」の目的は、社会の状況などを観客にわかりやすく説明し、考える機会を与えることにある、と言われている。『セツアンの善人』でブレヒトが描こうとしたのは、シェン・テの感情や行動ではなく、シェン・テに行動を起こさせる背景だったのではないだろうか?もしそうなら、観客はシェン・テのことを一歩離れて見なければならない。シェン・テの中へ入り込んでしまったら、背景は見えないのだから。
 シェン・テは誇張された善の象徴であり、シュイ・タは誇張された悪の象徴である。「象徴」に「個」としての現実感が加わると、不安定さが増し、「象徴」としての力は弱まる。シェン・テを、観客が感情移入しやすいヒロインとした演出、そして、それを見事に表現した松たか子の力量は、ブレヒトが定めた『セツアンの善人』の焦点を、ぼやけさせてしまったように思う。
 「寓話劇」には「わかりやすさ」が意図されていた筈だが、ブレヒト作品は一般的に「難解」とされている。その理由の一端は「難しくて解らない」というより、「ピンとこない」ことにあるのかもしれない。社会状況やその問題点などを託した作品は、現実ありのままを描いていなくとも、同時代の人にはピンとくる。そして、観客が共鳴するかしないかは別として、作品を通じてブレヒトの思想も伝わったのではないだろうか。一九四〇年、ブレヒトは亡命生活の真っ只中、故郷ドイツはヒトラーの統治下にあった。
 しかし、年月が経てば、何が作品に託されているかがわかりづらくなるのは避けられない。今の時代、劇場を訪れる観客達に真の貧困は無縁だろう。また、神に希望を求めている人も、神に失望した人も、少数派に違いない。善良であろうとする心も冷酷を憎む心も強くない代わりに、身の回りにある善良な行いも冷酷な仕打ちも、たいしたものではない。そういう環境の中にいる人間達には、ブレヒトが提起している問題を心で受けとめられなくて当然である。
 やがて、心ではなく頭で理解しようとする観客が増えることにより、ブレヒトの思想は高い壁に囲まれたかのように、見えにくくなってしまった。今回の舞台では、その壁を取り除くため、親しみやすさを前面へ押し出しているように感じる。主役二人に人気俳優を据えたこと、洗練された装置や衣装、印象的な音楽、散りばめられた歌と踊り…。しかし、結局はその親しみやすさばかりに目を奪われ、ブレヒトに『セツアンの善人』を書かせたものを受け取れなかったと思う。全編の中で最も盛り上がったのが、物語との関係が薄い、二部の幕開きのダンスシーンであって良い筈はない。
 「寓話劇」を更に平たくして「劇」に変え、「思想」にオブラートをかけたままで、ブレヒト作品を上演する意味があるのだろうか。あるとするなら、それは「箔付け」に思えてならない。作る側にとっては「ブレヒトを上演した」という箔。見る側には「ブレヒトを見た」という箔。ブランド物に群がる日本人のイメージが、私の脳裏をよぎった。
 『セツアンの善人』を「寓話劇」として見なければいけない、という決まりはない。だが、物語の上澄みだけを掬い上げて良い作品だとは思えない。ブレヒトによって呪縛をかけられたような、不自由な作品なのである。その不自由さこそ、「誰が書いたか知らないけれど有名な『セツアンの善人』」ではなく、「ブレヒト作『セツアンの善人』」として、完成から五〇年という時を耐えさせる力になっているのだと思う。呪縛から逃れて自由になれば、作品は糸の切れた凧になる。自分で舵が取れない上演を、ブレヒトが望むだろうか。また反対に、ブレヒトに舵をまかせきった上演を、観客が望むのだろうか。
 今回の舞台に用意された親しみやすさの要素は、演劇にとって大切なものだと思う。また、様々な国から出演者を集めるという試みにも基本的には賛成する。それらを活用して、全く新しい作品を作ってもらいたい。その舞台は、ブレヒトの呪縛から逃れられない、逃れたら変質してしまう『セツアンの善人』より、もっと魅力的なものになると思う。
(五月二十九日観劇)

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