えびす組劇場見聞録:第20号(2005年9月発行)

第20号のおしながき 

「モーツアルト!」 帝国劇場 7/4〜8/26
「電車男」 パークタワーホール 8/5〜27
「上演されなかった三人姉妹」 紀伊国屋ホール 7/6〜17
「王女メディア」 東京国立博物館 本館特別5室 7/19〜8/1
「四谷怪談」 シアターX 8/5〜14
「宿題は終わらない〜『モーツアルト!』と過ごした夏 「モーツアルト!」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「電車を乗り継いで」 「電車男」 by コンスタンツェ・アンドウ
「筋書きのない現実」 「上演されなかった三人姉妹」 by C・M・スペンサー
「抑圧と反逆の後にのこるものは」 「王女メディア」
「四谷怪談」
by マーガレット伊万里

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「宿題は終わらない〜『モーツアルト!』と過ごした夏
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 五年前の夏、わたしは東宝ミュージカル『エリザベート』でデビューした井上芳雄に骨抜きにされてしまった。当初のお目当ては主演のあの方だったのだが、皇太子ルドルフを演じる井上芳雄の伸びやかで美しい歌声、決して音程の乱れない正確で端正な歌いぶりに心底驚いた。笑われるのを覚悟で言えば「わたしは今、この人の歌を聴くために客席にいるのだ」とさえ思った。そんな人はこれまで彼しか体験がない。
 二年後の『モーツァルト!』の初演では、堂々とタイトルロールを演じる彼に惚れ惚れするばかり。よほど彼しか見ていなかった(聴いていなかった?)のだろう、今回の再演をみて、この作品について思い違いをしていたことがわかった。
 ひとつめ。再演を前にNHK教育テレビ『トップランナー』に出演した井上が、劇中の曲『僕こそ音楽(ミュージック)』を披露した。すぐに「あ、聴いたことがある」と思い出したのだが、わたしはこの曲をヴォルフガングと後に彼の妻になるコンスタンツェのデュエットだと思い込んでいたのである。僕には音楽しかない、他には何もできないけれど「このままの僕を愛して欲しい」。その彼に応えて彼女が「このままのあんたが好きよ」と歌うのだと。
 とんでもありませんでした。
 この曲は開幕してわりあいすぐの場面、青年に成長したヴォルフガングが父親(市村正親)と衝突した直後に歌われる。自分を子ども扱いし、神童と讃えられた過去と同じく型にはめようとする父親に反発し、「このままの僕を愛して欲しい」と訴えるのである。息子が父親にまっすぐに愛を求める歌だったのだ。「どうしてわかってくれないんだ」とふくれながらも、彼は夢と希望に溢れて、実に伸び伸びとこの曲を歌う。
 次にこのメロディが出てくるのは、コンスタンツェ(七月・西田ひかる 八月・木村佳乃)と親しくなったときである。それより前に二人の初対面の場があるのだが、彼らが決して劇的な一目惚れではないところがおもしろい。ヴォルフガングはセクシーな姉娘の色香に惑わされながらも、不思議にコンスタンツェをちらちらと気にする。その様子は数回みてもなかなか覚えられない、実に複雑で微妙な接し方なのだ。その二人が夜の歓楽街で再会して惹かれあったとき。コンスタンツェは彼のことを「他の人と全然違う。大人になりきれていない人」と少し子ども扱いするが、「このままのあんたが好きなのよ」とまるでつぶやき、独り言のようにひっそりと歌うのである。主役が最初に堂々と歌い上げる曲が、ほとんど忘れかけていた、唐突といってもよいくらいのタイミングで歌われるのだ。しかもフルナンバーではなく、一部分である。
 神童ともてはやされても心寂しいヴォルフガング、家族のなかでみそっかす扱いのコンスタンツェが互いに惹かれあう。「あのメロディだ」と気づいたとき、自分がずっと求めていた愛を不意に与えられたヴォルフガングの驚きと戸惑いと喜びを感じ取ることができた。
 次はヴォルフガングが遂に父親と決裂する場面である。自分の音楽を父親は認めようとしない。「なぜ愛せないの、このままの僕を」。僕を愛してという無邪気な願いが一転暗く悲痛なトーンに変わる。その次はコンスタンツェとの別れを予感させる場面で、彼女によって「あのままのあなたを愛していたかった」と歌われる。最後はレクイエムの作曲に行き詰まり死の影が迫ってきたとき、ほとんど息も絶え絶えに歌われるのである。
「僕こそ音楽」は希望から絶望、大切な人との別れ、そして死に至るまで、ヴォルフガングがひたすらに愛を乞う歌だったのだ。
 あるメロディが場面を代え、歌い手を代えてさまざまに歌い継がれることは、ミュージカルではよくある手法である。しかし「僕こそ音楽」は開幕して早々と歌われてしまい、そのあとどんどん場面が変わっていくうちに忘れてしまうのか、次にコンスタンツェが歌うといっても前述のようにそっとつぶやくようであるし、ごく短いフレーズなのでうっかりすると聞き逃してしまう。その次はあまりに暗い状況で歌われるので、あの歌の転調であるとはすぐに認識しにくい。わたしは「トップランナー」の録画を何度も見てこの曲をすっかり覚えてしまったのでさすがにわかったが、それでも初演のときは作品ぜんたいでのつながりには到底気づかなかった。
 ふたつめ。ヴォルフガングの傍らには子ども時代の彼、「アマデ」がいる。
 アマデは子役が演じる。白い鬘を被り、金色の刺繍の施された赤いコートを着て、いつもペンと楽譜と小さな箱を持ち歩き、青年ヴォルフガングに対し、不思議な距離感をもって存在する。作曲をするのは子どものアマデで、ヴォルフガングはどれだけ頑張っても過去の自分の影から完全に逃れることはできないのである。二人一役と言えばいいのか。
 自由を求める生身の肉体と魂がヴォルフガングなら、天賦の才能を子どもの姿にして舞台上に示したのがアマデである。両者は反発し苦しみながらも共存し、最後は共に死を迎える。
 初演のさい、わたしはこの役はまったく台詞も歌もなく、無表情な存在だと思っていた。それが今回はさまざまな表情と仕草で大人顔負けの存在であることに驚いたのだ。
 特に一幕の大詰めは圧巻である。譜面にむかってしきりにペンを走らせるアマデの顔が次第に険しくなっていく。ペンのインクが出ないのだ。作曲の力が、才能が足りないのだ。いらいらとペンを振り、いよいよインクが出ないとわかると、アマデは(たぶんここで)不気味な笑みを浮かべる。そしてヴォルフガングの腕にペンを突き刺し、そこから流れる血で狂ったように楽譜を書き続ける。何度も何度も。痛みでヴォルフガングが声をあげても容赦はしない。
 心血を注ぐ、身を削って働くという言い方があるが、遥かにすさまじく残忍だ。アマデは作曲を完成するためには、分身とはいえ、自分すら許さないのである。バックでは出演者たちが総出で「影を逃がれて」の大合唱である。子役のアマデはそれに負けていない。鬼気迫るような表情と仕草は、声を出して台詞を言い、力一杯歌う大人の俳優よりも迫力があった。
 アマデ役は子役さん四人の交互出演。わたしがみた日は高橋愛子ちゃんという小学五年生の少女だったが、辛抱強く冷静な演技は実にお見事。  
せっかくの再演だし井上くんだし、くらいの気持ちで足を運んだら、はまってしまった。大いに楽しんだと同時に、多くの宿題も与えられた。ひと夏ではこなしきれない。
もし再再演されるなら、あのときのヴォルフガングはアマデは、どんな声でどんな表情だったか、もっと確かに心に刻みつけ、目も耳も五感を総動員して一生懸命感じ取りたいと思う。欲とやる気を与えてくれた俳優井上芳雄とミュージカル『モーツァルト!』に感謝である。

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「電車を乗り継いで」
コンスタンツェ・アンドウ
 自慢にならないが「流行りモノ」に疎い。「セカチュー」も「韓流」も、売れ筋の音楽も良く知らない。そんな私が『電車男』には駆け込みで間に合った。
 キッカケは、武田真治。熱心なファンではないけれど、どこか浮世離れしたムードが気になって『身毒丸』も『夜叉ケ池』にも足を運んだ。その武田が、巷で話題の『電車男』の舞台版に主演するという。迷わず観劇を決め、映画→ドラマ→舞台→原作本という順番で『電車』を乗り継いだ。
 オタク青年(=電車男)が電車内で助けた女性(=エルメス)を好きになり、インターネットの匿名掲示板(2ちゃんねる)の書込みに助けられて恋を成就させる、というストーリー。私は書込みこそしないが、情報収集のため時々2ちゃんねるを覗くので、独特の用語やノリに違和感はない。しかし、排他的で攻撃的で悪意に満ちた言葉の乱舞に嫌気がさすこともしばしばである。
 六月に映画を見て、2ちゃんねるの世界でこんな「いい話」が本当にあったのか、と驚いた。実際には辛辣な書込みも多かった筈だが、映画は全体的に優しいつくりになっている。(監督 村上正則)
 その気になれば結構カワイイ電車男(山田孝之)と、あえて実在感が薄められているエルメス(中谷美紀)の関係は、姉弟に似てほほえましい。電車男のように頑張ることも、エルメスのように受け入れることも、現実には難しく、だから羨ましくて眩しい。秋葉原の電飾に彩られた映画版『電車男』は、一○○分のファンタジーだった。
 七月には伊藤淳史と伊東美咲の組合せで連ドラがスタート。エルメスの感情や、人間関係などを丁寧に描き、さほど目新しくない「イイ女とイケてない男の恋物語」になってしまったが、十回以上引っ張るためには、やむを得ないのかもしれない。
 そして八月、舞台版が登場。(脚本・演出 堤幸彦、共同演出 大根仁、脚本 三浦有為子)
 出演者は武田と、六人の毒男(書込みの常連でモテない独身男性)のみ。舞台中央に電車男の部屋があり、その左右に毒男達の部屋が縦に三つずつ組み上げられている。舞台奥に掲げられた大きなスクリーンには、リアルタイムの役者の姿や、部屋の外で起こった出来事が映し出され、同時に、台詞=書込みがそのまま文字で表示される。
 ストーリーはわかっていても、武田のダメ男っぷりや、個性の濃すぎる毒男達がエキサイトする様子が楽しく、予想以上に「笑える舞台」になった。観客も皆、揃って爆笑していたが、その「揃って」がちょっと引っかかった。
 私の席は最前列だったため二・三階の部屋は良く見えず、スクリーンを注視すると眼前にいる武田への焦点がぼやけてしまう。そこで、主に武田を目で追いながら、毒男達の台詞を聞いていたが、私の笑いは背後から聞こえる「揃った爆笑」とズレがあった。
 彼らの台詞=書込みは短く、スピードが早い。「会話」ではないので、いつ誰が喋るか、次に誰が喋るかわからず、表情を追いかけるのも難しい。パソコンにかぶりつくようなポーズで顔が隠れてしまうことも多い。しかし、スクリーンが「今喋っている人の表情や動き」をきめ細かく提示し、字幕が「聞き漏らし」を防止する。観客は、スクリーンさえ見ていれば、「見どころ」「聞きどころ」を確実に押さえ、同じタイミングで爆笑できるのだ。
 会場で起きた笑いは、自然で、気持ちのいいものだった。だが、笑いの源は、本来自由である筈の観客の視線を誘導し固定したスクリーン上にあると思うと、少し虚しい気分になった。
 電車男が美容院や洋服屋へ行く映像の前で、「語り」の役割も兼ねる河原雅彦のモノローグがあり、その最中、河原は役を離れ、観客に向かって「(自分の話を)聞いてる?」と叫ぶ。舞台役者としての意地、というより、作り手側は観客が映像に気を取られることを見越しているのだ。演出の二人は映像畑の人であり、映像を多用するのは当然で、客席に一体感が生まれたという点では効果的だったのかもしれない。
 電車男だけでなく、それぞれに悩みを抱えていた毒男達が一皮剥けるラストは爽やか。「変わるのは怖いが変わらないのはもっと怖い」とストレートにうたいあげるのは、ちょっと野暮ったいけれど、野暮ったいのが『電車男』の身上だ。
 武田は、オタク姿からの変身が鮮やかで、髪型と服装を整えて再登場した際は拍手が起きた。舞台役者として上手い、とは言えないが、コンプレックスにとらわれて中身までは変われないジレンマは伝わってきた。今後も是非舞台を続けてほしい。
 毒男達を見下していた筈がついついアツく応援してしまうサラリーマンの河原、孤独な五十男の哀愁をたっぷり演じたモロ師岡、二枚目俳優なのに汚いままを通した鈴木一真など、六人の毒男役者もそれぞれ「イイ奴ら」で面白かった。
 私はこの舞台を楽しんだ。百三十分飽きなかったし、後方の席からもう一度見てみたいとも思う。しかし、スクリーンが無かったらどうだろうか、スクリーン無しでもここまで盛り上がれる芝居を作れないのだろうか、と考えずにいられないのは、「芝居オタク」の性だろうか。
 最後に原作本(中野独人著)を読んだ。原作に近いものが優れているとは単純に決められないが、比較の意味で言えば、毒男達の羨望や妄想や動揺が大きなウエイトを占める点や、実はそんなにドラマティックではない点で、舞台版が原作に一番近いと感じた。映画版は、書込みをする常連達の性別やタイプが多様だし、ドラマ版は独自のエピソードを加えて別路線を走っている。エルメスも、中谷ほどお姉さんでもなく、伊東ほどお嬢様でもなく、結構軽そうな舞台版の優香(声の出演)が最もイメージに合っていた。
 この号が出る頃には、ロングヒットを続けた映画も、高視聴率を取ったドラマも、六都市を巡演した舞台も、終着駅に着く。やがてどれも「流行り」の一環として消えてゆくのだろうか。「流行りモノ」に乗るのは、楽しくもあり、どこかうら淋しい。
(八月七日観劇)

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「筋書きのない現実」
C・M・スペンサー
 「劇場という名の、戦場」チラシのこの一言が、とても気になっていた。
 劇場(紀伊國屋ホール)に入ると、最初の通路から後ろの客席に、観客が集められたように座っている。I列までは、まったくの空席。場内を案内しているのは、以前観た芝居に出ていた役者たちだ。開演前のアナウンスが聞こえてくる。「芝居の最中に警報が鳴りますが、非常時は係員が誘導いたします」
 そして、先程の役者が、セリフを話し出した。
 開演して間もなく、迷彩服を着てマスクを被り、マシンガンを持った人々が、劇場内になだれこみ、あっと言う間にテープで爆弾らしきものを客席に貼り付けてしまった。私たち観客は、どうやら人質という役割を与えられたらしい。
 チェーホフの『三人姉妹』が、二十年ぶりに上演されようとしているのに…
 このどこかで聞いたような事件、二○○二年十月二十三日にロシア連邦のモスクワ市の劇場で起きた「劇場占拠事件」がベースにあるようだ。 実際にはロシア初のミュージカル『ノルド・オスト』の第二幕上演中に、テロリストたちが乱入した。その時劇場にいて人質になったタチアーナ・ポポーヴァ原著の『モスクワ劇場占拠事件』(※)に、当時の様子が一部始終記されている。
 途中、自らの意志で侵入してきた酔った女性、子供の無事を確かめに来たと言って同様に侵入した男性。結局、名乗り出る者はいなかったため、テロリストの標的となった。そして、場内の照明が五分以上消えることがあれば、五人撃ち殺すと脅された劇場の照明係など、確かに前述の事件と、この芝居の設定が一致する。
 このままいくと、最期はガスで私たちも…
 しかし、作者(作・演出・坂手洋二)は、私たちに人質を体験させることだけを目的としてはいなかった。
 『三人姉妹』は、最初からテロリストとは無関係であるかのように、舞台で三人の女優だけで上演を始めた。女優なのか、姉妹なのか、私たちもその別世界に錯乱する。
 前方の席で人質になっているのは、実はその芝居に登場するはずだった役者や演出助手など、舞台の関係者だということが明かされていく。やはり私たちは、あくまでも観客として存在しているのだ。
 『三人姉妹』は、人質の彼らが加わることによって、登場人物をどんどん増やして上演を続けていく。
 時折、飲み物や薬品が差し入れられ、『三人姉妹』に参加していた役者は、その度に人質だったことを思い出したかのように客席に戻ってくる。
 外に連れ出される人。やがて銃声が聞こえてきた。それでも芝居のタイトルに反して、結局、『三人姉妹』は最後まで上演された。
 なぜ、何としてでも『三人姉妹』は上演されなければならなかったのか。捕われの身である私たちにとって、この芝居が上演される意味とは。
 『三人姉妹』といえば、彼女たちの「生きて行かなければ…」というセリフが頭に浮かぶ。本来ならば、上演されなかったはずのこの芝居。彼女たちは、この場面に辿り着くために、途中で舞台を見捨てることなく、投げ出さずに守り通したのではないか。この芝居は、私たちの希望、生きるための一縷の望みだったのか。
  その後、ガスによる作戦で、私たちはテロリストから解放されたようだった。
 しかし、そこでまた厳しい現実。
 人質救出のために使われたガスが、劇場内にいる全ての人の生命をおびやかす危険性があったという。そしてモスクワの事件のものと思われる被害者の数が、役者によって述べられる。
 七月八日観劇。帰宅したら、テレビがロンドンでの同時多発テロのニュースを報じていた。劇場の外では、生きるために私たちは何を守りぬけばいいのか。一度だけでは終わらなかったその事件に、筋書きのない現実の恐ろしさを感じている。
※参考『モスクワ劇場占拠事件─世界を恐怖で揺るがした4日間』小学館 
原著・Tatiyana Popova  翻訳・鈴木玲子、山内聡子

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「抑圧と反逆の後に残るものは」
マーガレット伊万里
 世界は、女性が抑圧される存在だという無意識のもとに成り立っている。ギリシア悲劇の成立から遙かに時を経た今も、これは決してなくなっていない。
 一つの役を〈語り〉と〈動き〉、二人の役者で支える手法を確立しているク・ナウカによる『王女メデイア』を観て、悲劇がただの悲劇として存在するわけではないことを感じた。(原作 エウリピデス、台本・演出 宮城聰)
 コルキス国の王女メデイア(mover 美加里、speaker 阿部一徳)は、自国を攻めてきたギリシアの王子イアソンを愛するがゆえに、祖国と親兄弟を裏切り彼についてゆく。さらには策略により二人はギリシアを追われて隣国に逃れる。しかし、今度はイアソンが自分の出世欲のためにメデイアを捨てて、領主クレオンの娘と結婚するという。
 夫の裏切り、さらには国を追われることになったメデイアは、ものわかりのいい様子をみせながら、夫イアソンへの復讐を決める。イアソンの新しい花嫁とその父を殺し、最後はイアソンとの間にもうけた実のわが子まで殺してしまう。
 かわいさ余って憎さ百倍──子殺しというショッキングな結末は、現代にして考えれば、狂っているようにしか思えない。ただ、メデイアの人格は完全に無視されている。
 イアソンだけを頼りに生きてきたメデイアにとって、夫の裏切りは堪え難いもの。イアソンには、死するより生きながらにして死の苦しみを与えたいということだ。
 女性の情念の強さを否定はしないけれど、結局は、ギリシア悲劇を生んだ紀元前の時と、現代の男女の関係は何一つ進歩していないのではないかと思う。
 さらに、同じような感慨にいたったのが、『四谷怪談』を観た時のこと。(原作 鶴屋南北、演出 ヨッシ・ヴィーラー、台本 アンドレアス・レーゲルスベルガー)
 地下鉄のホームを舞台に(美術・衣裳 渡邉和子)、古い戯曲そのままのせりふ回しで話が進む。現代の男女が「せっしゃ」とか「ぬしが」なんて言うので、はじめはかなり違和感があったが、慣れてくると不思議な調和をもたらし、すっかり引き込まれていた。
 貧しい生活を強いられている浪人・伊右衛門(笠木誠)は、高野家家臣・伊藤喜兵衛の娘婿の話が持ち上がり、あっさり妻のお岩(谷川清美)を捨てて婿に入る。挙げ句、目ざわりになったお岩は毒を盛られ、幼子をかかえたまま命を落とす。
 こうして、夫の身勝手に振り回された妻たちは、実子を殺したり、怨みをかかえて幽霊にまでなってしまう。自分の存在を無視した相手にすさまじいパワーをもって復讐を遂げるのだ。
 抑圧された女たちの伝説には圧倒させられると、世の男性は感心している向きもうかがえるのだが、無体な話である。
 穏やかな平和と幸せを願う女性の祈りはかんたんに踏みにじられ、その後に待つのは悲しみばかり。理不尽と思うのは女性だけで、男性にとっては、これこそが、世の道理だと言わんばかりに聞こえる。
 さらには、男女平等がいわれて久しいはずの現代社会は、むしろ逆戻りしているという問いを投げかけたのは、ドイツ・シャウビューネ劇場の来日公演『ノラ〜人形の家より』(六月十七日〜二十一日 世田谷パブリックシアター)。イプセンの原作では、妻のノラが夫を残して家出するラストシーンを、演出のトーマス・オスターマイアーはまったく書き換えてしまった。自分を一個の人として認めてくれない夫を、現代のノラは銃で撃ち殺す。
 つねに受け身を強要される女たち。「王女メデイア」は、およそ二千五百年も前の作品であり、鶴屋南北の書いた「四谷怪談」は、百八十年前の江戸時代。「人形の家」は百年以上前。遠く時を隔てているようで、さして世の中とは変わらぬものだということをたて続けに感じた三つの作品。女性の反逆エネルギーは、起こっては消え、現れては社会に埋もれていくことの繰り返しではないだろうか。むなしさだけがただただ残るのだった。
 (「王女メディア」七月三十日、「四谷怪談」八月十三日観劇)

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