えびす組劇場見聞録:第26号(2007年9月発行)

第26号のおしながき 

ブラジル 「天国」 ラジリィー・アン・山田脚本・演出 中野ザ・ポケット 7/18〜22
「エレンディラ」 彩の国さいたま芸術劇場 8/9〜9/2
愛知厚生年金会館 9/7〜9
シアターBRAVA! 9/14〜17
Noism 「PLAY2PLAY」 THEATRE1010 5/8〜10
劇団ダンダンブエノ 双六公演  「砂利」 スパイラルホール 7/21〜31
「心を知りたい 『ごあいさつ』 深読み考」 ブラジル 「天国」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「欲望と絶望の果て」 「エレンディラ」 by C・M・スペンサー
「Noismとの3年」 Noism 「PLAY2PLAY」 by コンスタンツェ・アンドウ
「複雑な人々」 劇団ダンダンブエノ 双六公演  「砂利」 by マーガレット伊万里
えびす組2007年前半の一本!

作品一覧へ
HOMEへ戻る

★ えびす組劇場見聞録 新聞版のお詫びと訂正 ★
新聞版に記載した、ブラジルの公演日程に間違いがありました。正しくは、上記の通り、7/18〜22です。
また、「PLAY2PLAY」が上演された劇場は、「THEATRE1010」です。
ここに訂正させていただくとともに、深くお詫び申し上げます。

「心を知りたい 『ごあいさつ』 深読み考」     ブラジル公演『天国』より
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  当日リーフレットに掲載されている作・演出家の挨拶文を読むのが開演前の楽しみである。なぜ今回の話を書いたのか、創作のきっかけや完成までのいきさつは興味深く、芝居とは関係のないひとりごとも新鮮だ。小さなスペースにその人の演劇観、思想が凝縮されており、これから始まる舞台への期待が高まる。
 今回のブラジリィー・アン・山田の「ごあいさつ」は、「期間工」と呼ばれる労働者についての簡潔明瞭な説明に始まる。期間工とは、ある一定期間住み込みで働く期間労働者のことだ。給与や待遇は悪くないが、単純作業なのでいくら働いても技術の習得にならず、体力はもちろんそれ以上の精神力が必要とされるとのこと。
 これを読んだ限りでは、アン・山田が期間工についてある程度の取材を行い、そこで得た実感に基づく話が展開するらしいことは予測できるが、どこに視点を置いたのかまではわからない。
 たとえば彼らに徹底的に寄り添い、労働の現状をつぶさに描くことによって何かを訴えようとする、一種の社会問題劇なのか。 それとも期間工はあくまで設定に過ぎず、生きている人は程度の差はあれ、未来への保証がない不安を描きたいのか?
 物語はどこか地方の町の自動車工場の期間工たちが、美人女将(山田佑美・無機王)を目当てに夜な夜な集う居酒屋で展開する。
 日頃の憂さを安酒と女将の手料理で晴らす男たちの会話はテンポよく、開幕してあっと言う間に客席を掴む。
 ブラジル看板俳優の辰巳智秋は相変わらず一度見たら忘れられない愛嬌溢れる巨漢ぶりだし、客演陣も生き生きした演技を見せる。人物ひとりひとりのキャラクターが粒だって、どこかの居酒屋にふらりと入って目にした光景のようだ。ちょっと騒々しく汗臭そうだが、この雰囲気はなかなかいいぞ。
 しかしアン・山田のことだ。このまま飲み屋のヨタ話が続くはずがなく、彼らのやりとりに笑いながら、事件の始まりをわくわくと待つ。
きっかけは唐突にやってきた。 
 女将がふと口にした「靴(くつ)」という言葉のアクセントに期間工のひとりサトウ(西山聡)が実に奇妙な反応をするのである。「くつ?くつ、って言った」と甲高い声で何度も叫びながら、目をむいてからだを強張らせ、その異様な動きと台詞を、いささか困惑するほど繰り返す。
 たったひとつの台詞が舞台の空気を変えることがある。客席までしーんと静まり返り、息を詰めて次の展開を待つ。舞台と客席の呼吸がひとつになるかのような、ぞくぞくする一瞬である。
 まさにサトウの反応がそれに当たるのだろう。
 しかし自分はここで早々と躓いてしまった。そこまでは馬鹿話だったのが、この場面を分岐点に話はとんでもない方向へ暴走していくのであるが、その期待よりもサトウの異様な反応を受けとめることに、思いのほかエネルギーを要した。
 なぜ彼がここまで驚くかは彼にしかわからない。展開が簡単に読めるようなありきたりな台詞ではおもしろくないし、「この台詞でなぜ?」と意外に思わせるほうが効果的なこともある。しかしサトウの反応には、興味を掻き立て、からだが前のめりになるような何かは感じられず、困ってしまったのである。
 なりたくて期間工になった者はひとりもいない。彼らはなぜ期間工として働くことになったのか、それじたいが、一筋縄ではいかない重たさと複雑さを持つ。
 加えて、女将に惚れ込んで今まさに身を持ち崩そうとしているベテラン期間工(本間剛)、プロ野球選手だったが事件を起こして辞めた者(諫山幸治)、病身の婚約者のために腎臓の生体移植手術費用を稼ぎたい者(若狭勝也・KAKUTA)、人妻に子どもを生ませてしまい、養育費のためにこの仕事についた者(山本了・同居人)、女性の格好をしているが、実は男だという者(こいけけいこ・リュカ)などなど、それぞれに芝居が一本できそうなほどの彼らの背景が次々に明かされる。
 舞台は重たくなる一方だ。
 誰に焦点を合わせて見ればいいのか。
 さらに女将とサトウの過去や、途中から登場する謎の客(中川智明)と女将の関係と、話はどんどん迷走する。小さな居酒屋は血まみれの修羅場と化し、期間工たちのささやかなコミュニティは崩壊していく。
 いったいどう終わるのか、期待より不安が募るが、終幕はその気持ちを受けとめるには、拍子抜けの印象であった。
 ここでこういう終わり方とは。
 結論が必要、オチを知りたいというわけではないが、重たい荷物を次々と持たされた挙げ句、中身が何か、どこまで、なぜ運ぶのかも知らされずに作業の終わりを告げられたようで、これでは帰るに帰れず、客出しの場内に流れる越路吹雪の『サン・トワ・マミー』を意味もなく口ずさむ。
 ああ困ったな…。
 前述の「ごあいさつ」には、期間工に寄り添う優しさでもなく、冷徹な観察眼とも違う何かがあることを感じ取れただけに残念だ。期間工という存在を生んだ社会状況に対する関心が、この舞台からはほとんど感じられなかった。それは舞台が通俗的な社会問題劇になることを防いでいる一方、物足らない印象が残る。
 今回の『天国』で実感したのは、自分は事件が見たいのではないということだ。何が起こるかよりも、登場人物たちの心模様がどう変ったか、あるいは変らなかったかを知りたかったのだ。
 そして何より、淡々とした「ごあいさつ」に秘められた、ブラジリィー・アン・山田の心がどこにあるのかを。
(七月二十一日観劇)

TOPへ

「欲望と絶望の果て」
C・M・スペンサー
  原作・ガルシア・マルケス「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」。舞台の上には、砂漠に住む人々の生活、そして時の流れがくっきりと目に見えるようだった。それは砂漠で出会い、恋に堕ちたウリセスとエレンディラの孤独な魂の物語。劇中、「欲望と絶望は似ている」という言葉が語られるが、その想いはとてつもなく大きなものだった。
 八月九日に幕を明けたこの舞台は、一九二七年にコロンビアで生まれた作家が書いた小説が、まるで今ここにいる私たちにまで続いているように思えた。
 演出・蜷川幸雄、脚本・坂手洋二。
 運命の恋人たちは、ウリセスに中川晃教、エレンディラに美波。中川は震える心を繊細な表情と歌声で、そして美波はその美しさを一糸まとわぬ姿で挑み、舞台の出来事を信じさせてくれた。
 初日は大作の舞台作品ゆえに、深夜に及ぶその結末を観ることができなかったという無念の想いをした。これは、単なる小説の舞台化ではなかったのだ。
 風を感じ、砂の匂いを感じ、水を感じ、エレンディラの叫びに砂漠の孤独を感じ、ウリセスの眼差しに一途な愛を感じ・・・それら全てが持つメッセージに耳を傾けた。
 タイトルロールのエレンディラと祖母の関係に投じられたウリセスという青年。彼を通して私たちが知るのは、初めて知る愛の喜びだけではない。
 彼らが出会った理由と終わりの見えない戦争、誰がその勝敗を決めるのか、人々がどんな想いでそこにいるのか、現実の世界に繋がっていることを感じずにいられなかった。
 脚本は原作の物語を越え、ガルシア・マルケスの作品の垣根を取り払ってしまった。堕ちてきた老天使、毒蛇に噛まれて死んだ薬売りなど、同じ色を持つ様々な物語の登場人物を描いたそのエピソードは、ひとつの物語として終わりを目指すのではなく、その先までも見通した物語へと続いていく。
 ウリセスとエレンディラ、それは風が運んだ伝説の物語。
 翼のある老人を前に、語り部がその伝説について口を開いた。
 自分の過失から祖母に多額の損失を与えてしまったエレンディラ。その損失を彼女の借金として体で償うことを祖母から課せられた時、彼女はまだほんの少女に過ぎなかった。秤の上で彼女の処女と代金を、文字どおり秤に掛けられている意味もわからず、触れられて無邪気に笑い声をあげた少女は、いざその時に恐怖で逃れようとするが、それは叶わない。
 エレンディラはその美しさから、瞬く間に砂漠で評判の娼婦となり、彼女のいるところに集う人々で、テントの周りはいつもお祭り騒ぎとなった。
 マルケスの作品では、人は純粋なまでに「欲求」という人間の性を露にしている。青年ウリセスとエレンディラの出会いもそうだった。互いに無いものを求め合うようにして、そうしているのが自然なほど二人は惹かれ合っていく。感情の高まりをマイケル・ナイマンの音楽に乗せて歌われるその歌は、どんなセリフにも増して沸き起こる彼らの想いを伝えている。心の弦に想いが触れる瞬間の、言いようもなく美しい情景だった。
 舞台では、私たちの目に映るもの、それが信じられなければ、その役割は果たされないものである。ウリセスとエレンディラの関係と同様に、鯨のように巨大で無情な祖母の存在も、舞台の上で信憑性を帯びていた。
 エレンディラの祖母は、無情で強欲でありながら永遠に思い出の中で生きる哀れな女性という極端な人物像である。歌舞伎で言えば女方のように男性の俳優(瑳川哲朗)が演じることで、その特性が際立つものとなった。「エレンディラの祖母」の存在により、ここにマルケスの世界が出来上がったのである。
 エレンディラが一番恐れているのは、砂漠の中の孤独。そして自らの意志で祖母と離れたくないと望んでいたはずだった。
 しかし、再会したウリセスと彼女は逃亡を試み、その結果二人は永遠とも思われる引き裂かれ方をした。
 舞台の上に広がる絶望。
 さて、脚本家は、翼のある男の物語を書いた作家(國村隼)を登場させ、ここからは彼を語り部として伝説が真実であるのかを確かめる旅をさせた。
 引き戻された後にベッドに鎖でつながれ、屈辱を知ったエレンディラは、いつしか孤独にも勝る終わりの無い束縛に絶望していた。
 どうやって現れたのか、エレンディラの元に帰ったウリセス。彼女は至福の時と引き換えるように、ウリセスに祖母を殺させ、泣き叫ぶ彼を残したまま財産の全てを抱えて姿を消してしまった。
 これは私たちが知る小説の結末である。 その先の物語を思い描いてみたことがあるだろうか。
 時を経て作家が知った真実とは。それは、全てはエレンディラ、その当事者が解決すべき問題であったこと。「未完の大作」と評する記事もあったが、あとは私たちの想いで完成させたいと思う。
 海を渡るエレンディラと、その頭上を自らの翼で羽ばたくウリセス。出会った頃に、「飛べると思ったら飛べる」と語っていた彼らが再び触れ合うことができるのか。今度は私たちの「希望」としてその姿を見送った。
 マイケル・ナイマンの、人の鼓動が脈打つような音楽のリズムに、その物語が生き続けていることを感じながら。
(彩の国さいたま芸術劇場にて観劇)

TOPへ

「Noismとの三年」     
コンスタンツェ・アンドウ
 自他共に認めるミーハーである。ダンサーの金森穣に関心を持ったのも、雑誌の写真がキッカケだ。実際に踊る姿を見たいと思っていたところに、ニュースが入ってきた。
 りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館の舞踊部門芸術監督に金森が就任し、劇場専属のダンスカンパニー「Noism」を設立する、という。税金で雇ったダンサーを率いて作品を世に送り出し、全責任を負うことは、並大抵の覚悟ではできない。私の頭に浮かんだのは、「戦い」のイメージだった。
 Noismの第一作は『SHIKAKU』(○四年六月)。白い壁で仕切られた複数の部屋をダンサー達が踊りながら移動し、観客は思い思いの場所で見るという演出が話題になったが、個人的には、開場直後、突然現れた金森が、私の体すれすれのところで踊ったことが強烈な「体験」として残っている。ほんの数十秒だったが、何がどうなっているのかわからず、恐怖に近いものを味わった。
 アフタートークの金森からは、経験に裏付けされた自信と、無防備なストレートさが感じられ、「物を作る人として、この人は信用できる」という手応えを得た私は、Noismを見続けようと決めた。集団の発足から立ちあえる機会は稀だし、日本初の試みの行方が気になるという理由もあった。
 それから三年。Noism以外のダンス公演は殆ど見ていないので、「批評」にはならないが、感じたことを書いてみたい。
 第二作『black ice』(○四年十月)は、どこか陰鬱で、人を不安にさせるような、精神を追い詰めるような雰囲気に覆われていた。「難解」とも少し異なり、心に鋭く切り込んでくる感覚は、金森作品の多くに共通するものである。
 ○五年二月、『no・mad・ic project』をNoismメンバーで再演(初演は○三年)。七月の『Triple Bill』は、三名の振付家を招き、金森もダンサーとして出演した。中でも、舞台下手のわずかなスペースで金森が四十分近く踊り続ける『ラストパイ』(振付 黒田育世)は壮絶だった。見ているだけなのに体が熱くなり、やがて寒気をもよおし、最後には震えがきた。金森の底知れぬパワーを、とことん思い知らされた作品である。
 同年十一月の『NINA』も忘れがたい。マネキンにも似た姿態の女性ダンサーと、彼女達をモノのように扱う男性ダンサーが絡み合う。作品の意味を考えるその前に、ダンサー達の体と動きに眼を奪われた。
 ○六年二月には能楽堂、五月には稽古場(共にりゅーとぴあ)という、劇場とは異なる空間で公演が行われ、十一月の『TRIPLE VISION』では、外部振付家二名と金森作品の三本を上演。○七年一月には、『NINA』の北南米ツアーを敢行した。
 Noismの公演には毎回、質疑応答が中心のアフタートークが付く。金森は、時々、「語録」を作りたくなるような独特なフレーズを発するが、総じて、理知的でクールな受け答えをする。大学教授や能楽師との対談(○七年七月)では、専属カンパニーの意義や、Noismと能の関わりなどについて、整然と、アカデミックに語っていた。
 文章も達者である。新潟日報やダンス雑誌「DDD」の連載で、Noism設立の経緯や目的、自らのダンス論などを綿密に書き綴っている。そして、金森は言うだけ、書くだけではなく、行動する。考えを伝える能力と、実践する姿勢が揃っているからこそ、人々を説得し、動かし、戦ってゆけるのだろう。
 また、「Noismサポーターズ」というファンクラブでは、公演の感想を集めた会報を発行している。短いメッセージから、批評・芸術論レベルまで、内容は様々。アフタートークやアンケートの感想は、終演直後のストレートな声だが、活字化を前提とした感想は、熟成された声となり、書き手の責任意識も高い。否定的な意見が出づらいという問題はあるにしろ、作る側と見る側の双方向のやり取りを促進するという面で、自前の紙媒体が果たす役割は大きいと思う。
 当初、三年を予定していたNoismの活動は、更に三年、一○年八月まで延長されることが決まった。○七年四月の『PLAY 2 PLAY』は、新しい実験を進めつつも、過去の作品のエッセンスが盛り込まれ、それまでの年月を凝縮したような舞台になった。金森作品には珍しく、最後のパートで大きな暖かさを感じられたことが印象的だった。
 ○八年にワシントンで開催されるジャパンフェスにも招聘されており、「新潟から世界へ」という構想も、現実味を帯びつつある。
 メンバーは既に半数以上が入れ替わった。その変容が手に取るようだったダンサー達が次々と去るのは淋しいが、集団の宿命として我慢し、新メンバーに期待したい。
 昨今、自治体の劇場や芸術監督に関する議論が盛んだが、地域ごとに事情は異なるので、単一の正解は出ないだろう。舞台芸術の浸透には時間がかかり、評価も難しい。Noismの知名度や集客力はまだ充分ではないし、逆に、注目が集まれば、反対する者も増えるのが常である。政治家の判断としてではなく、市民の総意として存続できるのかどうか。先行きは不透明だ。
 この三年、私は、Noismの舞台と、金森がNoismに注ぐエネルギーに圧倒され、影響され続けてきた。新潟市民でもない。コンテンポラリーダンスに開眼してもいない。結局、黙って客席に座ることしかできないが、もう三年、金森の戦いを追いかけてみたい。
(文中には初演の年月を記載)

TOPへ

「複雑な人々」
マーガレット伊万里
  昨年、演劇界の賞レースをにぎわせた劇団、本谷有希子の「遭難、」を観たとき、主人公の女性が、自分に都合のよい妄想を次から次へと思いつく姿にあっけにとられたものだが、今回、本谷有希子が劇団ダンダンブエノに書き下ろした「砂利」(演出・倉持裕)で、坂東三津五郎演じる蓮見田の被害妄想は逆のベクトルをなしていて、なかなかに辛いものだと思った。
 蓮見田は、妻の有里(田中美里)と弟(近藤芳正)、肺を患って療養中の居候(山西惇)と暮らしている。
 あるときから、蓮見田のもとへ血文字で書かれた脅迫めいたハガキが届き始める。その内容は、小学生のときにいじめた女子生徒が、蓮見田の幸せを許すまいと呪うかのような言葉がしたためられているのだった。蓮見田はノイローゼ気味、ストレスから摂食障害にも陥り、毎日おびえた生活を送っている。
 そこへ突然、有里の姉・際(片桐はいり)がやって来る。彼女は、身重の有里を気遣ってしばらく滞在するが、この際が、実は蓮見田がいじめていた女子生徒だったということがあっさり判明する。
 ここからどんどん話がややこしくなるのだが、際は脅迫状など出しておらず、蓮見田のことを恨むどころか、いじめられたことすら覚えていない。ただ、脅迫状の差出人が誰なのか謎は残るものの、ここで蓮見田が無罪放免となるのかと思いきや、(そこが悩ましいところなのだが)父の死後、自分の生きる希望を無くし抜け殻となっていた彼は、脅迫状が届くようになってから、その悩みが彼の生を支える存在となっていた。際の出現により、再び生きる糧を失ってしまう蓮見田。
 いくら妻や弟が元気づけようとしても、二人の思いが彼を立ち直らせることはできない。身重の妻を気遣うこともせず、生まれてくる子供に感心ももてず、自分のふがいなさをどうすることもできないまま毎日を過ごすばかり。
 そんな兄にしびれを切らし、弟は告白する。蓮見田がいじめをしていたというのは嘘で、際をいじめていたのは自分だし、偽の脅迫状を出したのも自分だと。兄の無気力をみかねた弟がいじめを兄の記憶として植え付けているだけだった。兄に父の介護を押しつけているという負い目や、有里を最初に好きだったのは、弟のほうだったという事実などが明るみになる。
 初めは蓮見田の病的な心情だけがつづられていたストーリーだったのだが、一つ屋根の下には、心の闇を抱えた人間ばかりが集っていた。
 「遭難、」で、自殺未遂を図った生徒からのSOSを無視した女性教師が、自分の立場が危うくなるまいと他人への妄想をふくらませたり、転がる石のように嘘の上塗りでとまらなくなる。とんでもない誇大妄想がつづくのだが、次から次へと繰り出される妄想には、ありえないと突っ込みを入れつつも、どこかギクリとする部分があったりした。人ごとでないと思うのは(作者と同じ女だからなのか)どこかひとつくらいは自分にも思い当たる節があるからではないか。
 自我の深さは計り知れないが、一人の人間の自我がものすごいスピードで加速していく様は、爽快とも思えるものだった。
 そこへいくと蓮見田の無気力というのが、どこからやって来て、どこへ行こうとしているのか? 今ひとつ歯切れが悪い。
 三津五郎がノイローゼ気味の疲れた男を好演していると同時に、片桐はいりの演技が異彩を放っている。登場から彼女の独壇場。田中美里と姉妹という、一見リアリティのない設定もなんだか納得させられてしまうようなところや、蓮見田を誘惑したのがばれて窮地に立たされ、再び復讐にやってくるまで、一気に芝居を引っぱっていく。
 「世代、枠組みを超えた今年最大の異種格闘戦!」とちらしにもうたっている通り、三津五郎がアフロヘアにド派手な衣装で歌い踊る姿は、歌舞伎俳優のイメージとのギャップがユーモラスだし、小劇場の俳優とのコントラストも新鮮。さまざまな痛みを箱に入れて、箱の隠し場所を探しさまよう男(酒井敏也)なんて変わったキャラクターまで飛び出し、人気の若き作家と演出家、そして個性豊かなキャスティングは見ごたえ十分の作品であった。
 (七月二十一日観劇)

TOPへ

えびす組2007年前半の1本!
◆studio salt公演『7』(椎名泉水作・演出)。
生きるためには働かねばならない。自分の仕事の喜びや誇りをいかに見出すか。重たい問いかけは、最後に微かな救いを示して終わります。二度見て得られた確かな手応えでした。(ビ)
◆本気で思った。「見ないと死ねない」。『女殺油地獄』仁左衛門の与兵衛。十八年前、人生を変えた一本である。自分でも驚く即断即決で、台風の中、大阪へ飛んだ。見終わって思った。「見逃したら死に切れなかった」。(コン)
◆日本版『TOMMY』。三重苦のトミーの生き様を歌のみで綴った作品に演出家のロマンを感じ、観客なりにそのメッセージを汲み取ることに快感を得た作品でした。(C)
◆外見に似合わずイノセントな雰囲気。舞台を自由自在に動き回り、その個性は他に類を見ない…と思う。「砂利」の片桐はいり。芝居が終わってもなお、その演技をずーっと見ていたい気持ちになります。(万)

TOPへ

HOMEへ戻る