えびす組劇場見聞録:第3号(1999年12月発行)

第3号のおしながき 

「かもめ」 シアターコクーン 10/8〜24
同じ時期に俳優座も本作を上演し、さながら「かもめの秋」となった。
「大正四谷怪談」 シアターアプル 10/14〜25
ご存じ「四谷怪談」の時代を大正に移して上演。お岩と伊右衛門の愛憎を17歳の藤原竜也と大衆演劇のプリンスが演じた話題作。
「夢の女」 シアタートラム 10/16〜24
久保田万太郎脚色版は、近年映画化もされている。(坂東玉三郎監督、吉永小百合主演。1993年製作)
「マレーネ」 銀座セゾン劇場 10/30〜11/28
銀幕の大女優マレーネ・デートリッヒを描いた翻訳劇。惜しくもセゾン劇場最後の公演。
「あんたが主役-『かもめ』のメドヴェジェンコ」 「かもめ」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「論より状況証拠」 「大正四谷怪談」 by コンスタンツェ・アンドウ
「沈黙が語るもの」 「夢の女」 by マーガレット伊万里
「黒柳徹子はマレーネ?!」 「マレーネ」 by C・M・スペンサー

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「あんたが主役- 『かもめ』のメドヴェジェンコ」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール

 今回は岩松了の翻訳・演出によるチェーホフの『かもめ』(シアターコクーン)より、印象的な場面を二つ上げてみる。
 まず冒頭、トレープレフ(岡本健一)が書いた戯曲を恋人のニーナ(千ほさち)が演じるも彼の母親で女優のアルカージナ(樋口可南子)が台無しにしてしまったあとだ。しらけた雰囲気のなか、そろそろお開きにしようやということになり、仮設舞台にかかった幕を開けるとそこにはメドヴェジェンコ(田口浩正)がさっきニーナが演じたのと同じポーズで横たわっている。びっくりした。
 二つめは後半、作家となったトレープレフが自分を捨てて出奔したニーナの消息について語るところ。部屋のラジオからジャズが流れていて、なぜかそこにいる皆が徐々にからだをスウィングさせはじめ(ベッドに横たわったソーリンまで)、メドヴェジェンコが「ヘイッ」と声を発してポーズを決める。
 どちらも戯曲にはない演技である。芝居の運びには何の関係なく、深い意味や意図もたぶんなく、しかしすごく笑える。敢えて意味を求めるなら、この二つの場面のおかしさには偶然だがどちらにもメドヴェジェンコが関わっている。これに気づいたことが本稿の出発点となった。
 メドヴェジェンコ。彼は貧しい教師である。
 風采もあがらないし、話すことといったらお金のこと、生活が苦しいことばかり。周囲の人々からあまり好かれていないようだ。だいいち見ていてうっとうしい。「メドヴェジェンコ」という長い名前までうざったく、彼の責任ではないがこうしてパソコンで「メドヴェジェンコ」と打っているだけであーもういらいらしてしまう。彼はマーシャという女性に片思いしている。いつも邪見にされる様子には多少同情するが、彼にしか好意を寄せられないマーシャにはもっと同情する。地鳴りが聞こえてくるような不幸ではないか。
 彼は『かもめ』の本筋には深くかかわらない。ニーナの転落、トレープレフの自殺、どちらにも関係ない。いわば周囲への影響力が全くないということで、では彼がこの作品に存在する意味はいったいどこにあるのだ?と考えてみたのである。
 トレープレフに片思いするマーシャは恋を忘れるために、なかばやけっぱちでメドヴェジェンコと結婚する。子どもまで産んだのに以前にも増して彼が嫌いになり、いっそうつらく当たっている。マーシャの母も婿を嫌う。
 つまり彼は『かもめ』というお話ぜんたいから、全く期待されていないというか、はっきり言うと、どうでもいい存在なのである。
 その彼が目立ってしまう前述の二つの場面だが、彼の気持ちになって考えてみよう。
 必然性がなくもないのである。
  まず冒頭の場面から。自作の舞台がぶち壊されて傷心のトレープレフはどこかへ行ってしまう。さすがに心配するアルカージナの様子に、マーシャは頼まれもしないのにトレープレフを捜しにいく。恋しい人を求めて駆けていくのだ。メドヴェジェンコは取り残されてしまうのだが、通常の『かもめ』の上演ではわたしはそれにさえ気づかなかった。今回、仮設舞台の幕を上げるとそこには太った醜悪な肉体を晒すメドヴェジェンコがいる。彼はマーシャに置いてけぼりにされて傷ついたのだ。
 だがそれに気づく人は誰もいない。身の置きどころがないとはこのことだ。その気持ちがあの演技となったのではないか。後半のジャズの場面にしても、彼としては早く家に帰りたい。それも妻のマーシャと一緒に、赤ん坊の待つ家へ帰りたいのである。なのに妻はトレープレフの側を離れようとはしないし、馬車も出してもらえそうもない。ここまでコケにされている亭主があろうか。ポーズのひとつも決めたくなるというものである。
 彼は戯曲にないこれらの行動によって、客席の笑いを誘う。もはや舞台にいる人物に対してではなく、観客に向かって自己主張しているのである。僕はここにいるのだと。
 千秋楽ということもあってカーテンコールはメドヴェジェンコ役の田口が俳優全員をいろいろコメントをつけて紹介する。小間使からアルカージナまで順に紹介したあと、最後に田口が「そして主役のメドヴェジェンコを演じましたわたくし田口浩正です」と大まじめに挨拶し、客席がどっと沸く。わたしも笑いながら、ふと考えた。
 待てよ、この人は(田口浩正の肉体を持った、この公演のメドヴェジェンコは、ということだが)もしかしたら本気で自分が主役だと思っているのではないか。妻やその母にどんなに嫌われようと、誰も自分の話に耳を傾けまいと、自分がこの世に存在している意味に確信をもっているのではないか。だからいくら無視されてもめげない。劇中の人物が無理なら最後はお客さんが相手だ。
 こういう演じ方もあるとは。もしかしたら美男のトレープレフやトリゴーリンやドールンとは別な意味で演じ甲斐のある、おいしい役にもなりうるのではないか。
 存在の徹底的な無意味さを具現化するポジションがメドヴェジェンコである。その悲しみが本役の核をなすものだが、田口メドヴェジェンコはただ妻に嫌われっぱなしではない。悲しみを軸にして立ち上がる。何とかして自己の存在を表現しようとする。悪あがきかもしれない。実際受けているのは客席だけで、舞台の流れは変わらないのだから。
深い諦めと悟り、そしてしたたかな計算。
 決して舞台ぜんたいの雰囲気を壊さない気配りと遠慮深さ。できた人間、いやできた俳優でなければ、こうはできない。
 田口浩正、お見事。
 田口メドヴェジェンコ、今回の『かもめ』では、あんたが主役だ。

(十月二十四日観劇)

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「論より状況証拠」
コンスタンツェ・アンドウ
 「美しい」という言葉は、濫発してはいけない。だが、一九〇〇年代最後の秋に、「美しい」を三つ重ねた舞台に出会った。『大正四谷怪談』である。
(作・岸田理生、演出・栗田芳宏、シアターアプル)
 第一に、藤原竜也。蜷川幸雄演出の『身毒丸』で舞台デビューを果たした、現在十七才の少年である。幕があくと、伊右衛門に扮した洋装の藤原が登場し、ひとり、踊り出す。そして、「一晩俺を貸してやるよ」と語りかける。活字で読むとキザ極まりない台詞である。藤原はそれをさらりと流すように軽く、しかし、まっすぐな視線は強く、客席に届けた。初めて見る生身の彼を追いながら、私はこう感じていた。彼は、主役として舞台の上にいるということを体得している…。教わってできることではない。初めからできたのだろう、と想像した。
 集中力がある。台詞をしゃべりながら、全身に「気」が入っていくのが手に取るようにわかる。瞳に力がみなぎり、うるみ、涙すら流す。照れや迷いはなく、きっぱりと潔い。役柄も作用しているのだろうが、舞台俳優にあるべき(と私は思う)傲慢さと孤独も映える。終幕、舞台中央の奥から前へ歩み出て、袴をはいているかのように膝を広げて座り、客席へ向かって一礼するゆったりとした動きには自信を感じさせた。
 舞台を見た後、数人から同じ質問を受けた。「藤原竜也は演技が上手いのか。」私はその度に言葉を濁した。上手い、と言うと、何か大きなものが抜け落ちてしまいそうな気がしたからである。「藤原竜也は」の次には「美しい」と続けたい。姿形ではない。舞台の上で、存在そのものが、である。
 次に、お岩役の松井誠。大衆演劇の一座を率い、男女ともに演じる俳優である。『大正四谷怪談』で、藤原と松井は正反対の場所にいる。藤原には、若さゆえの無作為の美しさがあり、その美しさには「表現」という言葉より「発現」の方が相応しい。松井には、男が女を演じるという作為の美しさがある。それはまさに、時間をかけて磨かれてきた「表現」である。伊右衛門に刺されたお岩は、驚いたような、うっとりしたような表情で、しばらくそのまま柔らかく立っている。実際にはあり得ない不自然なその佇まいは、舞台の上の美しい形として、瞼の奥に強く印象づけられた。
 伊右衛門が常にきつい表情をしているのに呼応するように、お岩は常に微笑んでいる。伊右衛門が何かにあらがって生きているのに対し、お岩は全てを受け入れて生きている。伊右衛門とお岩の距離感は、藤原と松井の距離感に通じる。しかし、二人には共通点がある。どぎつい「性」を感じさせないことである。伊右衛門は二十五才という設定だが、藤原にはギラギラとした男くささがない。松井にはベタベタした女っぽさがない。(このことは、お岩が伊右衛門の「母」に見えることを防いでいる。)二人の個性が、その一点での繋がりを切らず、両極へ向かったことで、作品の世界を広げ、お互いの存在をより鮮やかに際立たせる効果を生んだのではないだろうか。
 親子程に歳が離れた、白塗りの男性と現代的な風貌の少年が、思いあう男女として寄り添う姿は、冷静に考えれば異様であろう。現実では否定される筈のものが、得難い光を放つ、それが舞台なのである。
 最後に、言葉。どこか郷愁をそそる、その何割かは現代にいきづいていない、言葉の波。そんな言葉が重なり、シェイクスピア作品や唐十郎作品の独白を連想させる長台詞となる。伊右衛門とお岩が、お岩の父の死を物語るシーンと、お岩が、幼い伊右衛門と出会ってからの年月を物語るシーンはこの芝居の大きな見せ場と言えよう。
 舞台には、破れ傘を描いた背景と、回転する三本の柱(出番以外の時、俳優は袖に戻らずにこの柱の裏で控えている)があるだけで、具体的な装置がない。小道具も、新聞紙と短刀のみ。極端に「モノ」が排除された空間の中で、聴覚だけでなく、視覚にさえ訴えるように、言葉が溢れ、消える。ストーリーを運ぶ道具でもなく、役の心情を映し出す手段でもなく、言葉が言葉として美しく響くことを第一義にしたかのような言葉。それは時として一人歩きをし、対等であるべき俳優と台詞のバランスを崩す。小難しくて、装飾過多で、わざとらしいかもしれない。しかし、私は『大正四谷怪談』の言葉に、非常に強い魅力を覚えた。
 「美しい」という感覚の基準は、人によって大きく異なる。その対象が「人」である時は特に個人差が激しい。藤原には「カワイイ」という形容詞の方が合っていると思う人もいれば、何も感じない人もいるだろう。松井は、藤原の伊右衛門に相対するお岩としての美しさを備えていたのであり、それが俳優として、女形として普遍的なものとは限らない。「美しい言葉」には棘も毒もある。
 私は、約九十分の上演時間中、陶酔し続けてはいなかった。歌舞伎の『東海道四谷怪談』と比較したり、浮かんだ疑問に対して答を探しながら、批判的なことも考えていたのである。しかし、舞台が終わって残ったものは、頭の中で結んだ幾つかの思考ではなく、感覚的な刺激だった。その刺激が、この文章を書く原動力になった。舞台の出来を問う時、「美しさ」はさしずめ「状況証拠」なのかもしれない。だが私には、この舞台がどう評価されるかではなく、観客がこの舞台をどう体験したかの方が重要に思える。それを伝えるには、理論的な分析よりも主観的な印象の方が有効ではないだろうか。
 岸田理生はパンフレットに掲載されているインタビューで述べている。「私は、実は大正という時代はなかったんじゃないだろうかと思っているんです。明治と昭和に挟まれて、幻のようにあったけれど、実際にはなかった時代。」
 『大正四谷怪談』もまた、「美しい」というイメージだけを残して、幻のようになくなってしまうのかもしれない。
(十月十六日観劇)

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「沈黙が語るもの」
マーガレット伊万里
 松本修率いるMODEが今年で創立十周年を迎え、記念公演として久保田万太郎作『夢の女』(永井荷風の原作)を原案に松田正隆が書き下ろした新作の『夢の女』を上演した。
 病身の幸一(木之内頼仁)とその妻・紀子(美保純)は、アパート住まいから東京郊外の古い一軒家に引っ越してくる。そこへ夫とケンカした紀子の姉・美佐子(金沢碧)が転がり込んできて一緒に暮らし始めている。
 ある日、幸一の弟・隆司(平井真軌)が訪ねてくる。居間のちゃぶ台をかこむ紀子と隆司の場面が物語のはじまり。
    実は幸一夫婦は引っ越しのため、隆司に七十万円を借りている。仕事の忙しい義弟がわざわざ訪れてくれたので紀子は歓迎するが、借金のことでちょっとバツが悪い。隆司は隆司で幸一に頼まれやって来ている。幸一は自分が夜中に奇声を上げてアパートを追い出されたのではと不安にかられており、隆司から紀子に真相を聞いてほしいというのだ。(眠っている間のことで確認のしようがなく、自分では妻に聞けないらしい)隆司はその事をいつ切り出そうかとタイミングをねらっているが、紀子が借金のことを申しわけなさそうに延々と口にするので本題に入れないでいる。
 はじめは二人がなぜギクシャクしているのか、観ている方には理由がわからない。話を追うにつれ以上のような事実がみえてくるのだが、二人の心の葛藤がとまどいとなって会話の「間」に表れているのだ。
 登場するのは皆これといった個性もないふつうの人々。そんな彼らの日常生活。人は人と向かい合ったとき、それなりの距離を保とうとする。表面的には平静を装いながらも、心の内では相手を思いやったり疑ったり、本心を隠したり、計算ずくになったり。さまざまな思いが葛藤し、渦を巻いているというわけだ。
 そして二、三か月後。回復にむかったかにみえた幸一は容体が悪化し入院する。医師からは治る見込みがないと宣告され、紀子がその感情を抑えきれなくなる場面。
 夫の着替えをもって自転車で病院に向かうとき、自転車のチェーンがはずれてしまう。手を貸そうとする隆司をふりきり、紀子は指を軽くキズつける。
 その瞬間、堰を切ったように紀子の目からは涙があふれ出す。妻として気丈に明るくふるまってきた彼女だが、こらえきれなくなった感情が一気に押し寄せるのだ。昼メロにでもありがちな風景に思えるが、前半の抑制された「間」やとまどいがあってこそのしみじみとした場面だった。
 私がこの作品の中で心惹かれたのは何よりも会話の「間」に表れるとまどいだ。セリフとセリフのあいだに鎮座する沈黙。そこには場に応じた「間」を読みとる楽しみがあり、セリフよりも雄弁で大事なことが隠されているのではと興味津々になる。
 本当のこと、大切なことは一番苦しく辛い。「好き」だけど「嫌い」と言ってしまう、あまのじゃく。「嫌い」と言っては後悔し「分からない」とごまかしてしまう情けなさ。ストレートには表現できず、あまり要領のよくない人々が紡ぎ出す心の迷いが随所に表れていて耳が痛いというか、痛いところを突いてくるというか……。
 そんな日常のためらいやとまどいが静かに伝わってくるのに加えて、季節の移り変わりが人生と交差しながら流れていく様は残酷で悲しいが、いとおしくも思えた。
 梅雨明けの夏にはじまり満開の桜の季節まで。懐かしい記憶の引き出しが次々と開いて舞台の風景と結びつく。
 夏の縁側でゴクゴクと飲み干した麦茶の香ばしさや夜更けにむさぼるスイカの果汁の青臭さ。狂ったような蝉しぐれや夕立。
 都会で縁側のある家は減るいっぽうだろうし、いまは麦茶よりペットボトル入りの清涼飲料水が活躍する。現代の日常生活ではいささか当たり前ではなくなった風景がなんだか懐かしくて、鮮やかだ。
 ただ、病室の場面──紀子に「もう幸一との生活をやり直したくはない」と語らせている──は、幸一の弟と名乗る男・次男(つぎお・得丸伸二)の存在が飲み込めないせいもあり(このとき舞台では次男と紀子がセリフを交わす)、これが現実から逃れたいということを果たして言いたかったのか否か、判断できぬまま終わってしまった。
 今回の題名(夢の女)が意味するものもいま一つピンとこなかったが、現実的な場面の綿密な演出とくらべると、病室の場面や終幕で挟まれる紀子の暗喩的なせりふが唐突で、煙に巻かれたような残念な気がした。
(十月十六日観劇)

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「黒柳徹子はマレーネ?!」
C・M・スペンサー
 一九九九年十月三十日、十二年続く銀座セゾン劇場の最終公演、パム・ジェムズ作『マレーネ』が幕を開けた。
 主演はセゾン劇場を知り尽くしたと言える黒柳徹子。登場人物は三人で、一人は若手の舞台女優として実績のある久世星佳と、もう一人はベテランの磯村千花子。演出は劇場の芸術総監督である高橋昌也、美術は朝倉摂。と、セゾン劇場を見せることにかけてはお得意の人々の手で作られた作品である。
 七十歳を越えた往年の、そして現役で観客を魅了するマレーネ・デートリッヒ。彼女が世界巡業で久しぶりに訪れたパリでの公演初日に、楽屋入りしてからステージで歌い終わるまでの間を、劇場の空間を生かして観客を巻き込みながら進行していく。
 冒頭で彼女が楽屋入りした途端に自ら床に掃除機をかけ、四つん這いになって床を拭き始めるのだが、彼女の様子からいつものことであると伺える。それは舞台に立っても変わらなかった。自分の歩く場所にはほうきを掛け、衣裳のスパンコールが落ちたら自分自身で拾い集めるからと宣言する。そしてマレーネは言う、女優になってから好物の甘いものはずっと口にしていないと。一方友人のビビアンは忠告する、凍傷でダメージを受けた脚を痛めると切断しなければならないから、ハイヒールは止めるようにと。スクリーンの中の若くて美しい自分を見に来た観客の夢を壊さないことが自分の務めであるからと、マレーネは自分を犠牲にし続ける。ああ、極端に神経質なのも、これらのストレスから生じるものなのだ。
 裏(表というべきか)でも、彼女はステージで観客の期待を裏切らない「マレーネ」作りを怠らない。彼女自らカーテンコールで自分が受け取る花束の指示を出す。要はさくらを使うのだが、劇場の案内係を呼んで花束受け渡しの説明をしていた。そしてビビアンにそれから先の説明を続ける。劇場から車まで花びらの中を歩いて去るところから、ホテルでファンにサインをして部屋のドアを閉じるまで続く「マレーネ」でいる為の演出を。彼女は常に自らを演出し、マレーネを演じているのだ。
 世界中のファンを魅了するまでの道のりは、決して平坦ではなかった。マレーネはドイツで生まれたが、ナチスの台頭ヒットラーを嫌い、母国を捨ててアメリカにやって来た。彼女には口を利くことのできない付き人、老婆マッティがいる。マレーネがハリウッドにいた時に出会ったマッティは、子供を戦争で殺されたショックから口が利けなくなったのだ。その彼女を傍らに置くことにより、マレーネが戦争の悲しさを忘れることはないだろう。彼女の歌う歌とともに。
 さて、舞台のクライマックス。これからが私達の知るマレーネの登場となる。黒柳徹子は『マスター・クラス』でオペラ歌手のマリア・カラスとして歌う場面こそなかったが、ここに彼女はマレーネとして存在していた。表情も声も歌い方も、映画やテレビで見たことのあるマレーネ・デートリッヒのように堂々として妖艶な姿だった。更に私が驚かされたのは、マレーネが歌う歌のどれもがどこかで聞いたことのあるメロディーだったことである。原語で歌われてはいたが間奏中に訳が読まれるので、マレーネがどんな思いで戦争中にこれらの歌を歌ってきたのか、そして時代と国を越えて現代の私たちに歌い継がれているのかを考えた途端に、涙が出てきた。きっと黒柳徹子もユニセフ親善大使として出会った戦争で傷ついた子供達を思うと、同じ気持ちでいるに違いない。
 失った友のこと、戦友のことを思い出すかのようにしんみりとマレーネが歌い終わったところで、先ほどのドレスに着替えた案内係から、打ち合わせ通りの花束贈呈が行われる。彼女たちは一人ひとりスポットライトを浴びてマレーネと同じ舞台に上がり、マレーネは彼女たちに感謝の意を述べるのだ。最後の仕事をしたスタッフに接するかのように、黒柳徹子の姿が重なっていた。だがマレーネとしては「意外」なところで届けられる花束に大きく感激する姿が、心憎い演出であった。観客には泣いている暇がないではないか。泣き笑いのまま拍手を送っていると、それはもう芝居のエンディングであった。
 笑顔で観客から送られるマレーネこと黒柳徹子。トークショーでこっそり打ち明けたらしいが、これからも主演舞台を続けていくそうである。そして近い将来同じ場所に立つということも。
 幕が上がってから十二年間という短い間であったが、銀座セゾン劇場は、いつまでも私の好きな劇場ナンバーワンであることに変わりはない。こうやって芝居に関してペンを取ることができるのも、この劇場が残した作品によるところが大きかった。たくさんの思い出とともに。ありがとう。
 (十月三十日観劇)

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