えびす組劇場見聞録:第32号(2009年9月発行)

第32号のおしながき 

時間堂公演
「花のゆりかご、星の雨」
渋谷ギャラリー ル・デコ 6/2〜6/14
15minutes madeより
「パーフェクト」
池袋シアターグリーン  BOX in BOX THEATER
6/25〜6/28
「ブラックバード」 世田谷パブリックシアター 7/17〜8/9
ミナモザ
「エモーショナルレイバー
サンモールスタジオ 8/6〜8/9
「桜姫〜清玄阿闍梨改始於南米版」
長塚圭史 脚本 串田和美 演出
シアターコクーン 6/7〜6/30
コクーン歌舞伎 「桜姫」
串田和美 演出
シアターコクーン 7/9〜7/30

「真実と現実のあいだで」 時間堂公演 「花のゆりかご、星の雨」
15minutes madeより 「パーフェクト」
by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「立体化するセリフ劇」 「ブラックバード」 by C・M・スペンサー
「孤独と孤立」 ミナモザ 「エモーショナルレイバー」 by マーガレット伊万里
「次の一手は」 「桜姫〜清玄阿闍梨改始於南米版」
コクーン歌舞伎 「桜姫」
by コンスタンツェ・アンドウ
○●○ 今年上半期の一本 ○●○  えびす組メンバーによる100字コメントです♪

作品一覧へ
HOMEへ戻る

「真実と現実のあいだで」     
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 子どもを持つとは、親になるとはどういうことだろうか?
 時間堂の『花のゆりかご、星の雨』(黒澤世莉作・演出)は東京下町の骨董屋を舞台に、一本のソムリエナイフを巡って、登場人物が複数の役柄を演じながら現在と過去を行き来する物語だ。
 いつにも増してガランとしたル・デコの空間が、骨董屋から富山の花屋の店先、復員した軍人を出迎える港にもなる。俳優たちは小さな扇子を携え、それを骨董品修理の道具やティーカップ、ワイングラスや日傘に見立てて演技する。舞台奥には楽器や小道具が置かれていて、出番のない俳優はそれらを使ってドアの開閉、箒で床を掃く音などを出す。
 母に反発してうちを飛び出したミキ(花合咲)は、以来音信不通だった母が手術を受けると知る。骨董屋の店先で、かつて母から盗んで売り飛ばしたソムリエナイフをみつけたミキは定期預金を解約までしてそれを予約し、受け取りに来た。ところが店員(星野奈穂子)のミスのために、求める品は一足違いで近所のレストランのシェフ(鈴木浩司)に渡ってしまっていた。
 ミキはナイフが自分のものであると譲らず、対処のために店主夫婦(菅野貴夫、雨森スウ)は、出産の里帰りの出発を遅らせる。店に呼び戻されたシェフを交えてワインの味比べをしたのち、店主が骨董品の記憶を辿るという特技?を披露し、ミキはソムリエナイフにまつわる自身の母や祖母の人生を知ることになる。
 母(雨森スウ)もその母(ミキの祖母/星野奈穂子)に背いて年の離れた男(鈴木浩司)と駆け落ちし、地方の小さな町で花屋を営んでいた。出産を控えた自分を案じて訪ねてきた母を追い返したあと、おなかの子に向かって「大きな声だしてごめんね。おばあちゃん欲しい?」と問いかける姿に、ミキの胸は痛む。そして産まれてくる自分のために、母がノート一冊分も名前を考えてくれたことに心を打たれる。
 時はさらに遡り、戦争未亡人である祖母は、暮らしのためにからだを売ってすさんだ心身を義弟(菅野貴夫)のまっすぐな愛情によって救われる。義弟の求婚を受け入れた祖母の満ち足りた表情に、ミキは自分まで嬉しくなるのである。
 結局ミキはソムリエナイフをシェフに譲り、身一つで故郷に帰る決意をする。巡り会ったソムリエナイフは母子三代の人生を繋ぐ大切なものであった。モノは単純にモノではなく、それに関わる人の思いが宿り、人格と変わらぬ重たさを有する。しかしミキはその重たさの中の、目に見えず手にも触れられない愛情だけを頼りに、母に会いに行くのである。
 舞台に大きな布を広げることで違う時空間を作り、衣装替えもなく、小道具と言えば前述の扇子だけで複数の役を演じ分ける趣向には多少の無理もある。
 しかしそれを補って余りあるのは、当日リーフレットに記された黒澤世莉の思いが伝わってくるからであろう。「今回の脚本は、母になる、父になる、友人たちを思って書きました」。ある劇評サイトによれば、妊婦役の雨森スウさんは、ほんとうに出産を控える身なのだそう。女優を続けながらの出産、育児の大変さは想像もつかないが、その体験はきっと人生に豊かなものをもたらすはずだ。そうあってほしいと祈っている(六月五日観劇)。
 三週間後、劇団掘出者の『パーフェクト』(田川啓介作・演出)をみる(六月二八日観劇)。六つの劇団が十五分ずつの短編を連続上演する15 minutes madeの中の一編である。アパートに引きこもる若者(村松健)のところに突然若い女性(荻野友里/青年団)がやってきて「わたしはあなたの母親だ。」と言う。納得、推測できる前後の筋はなく、いきなりである。
 困惑する若者に自称母親は「母親なんだから、何でも言って甘えて」と迫る。しかしボディタッチはNGというあたり、息子を持て余した家族に雇われた母親代行業者らしい。そうこうするうちに自称母親のストーカーと化した元カレ(澤田慎司)や男が女装しているとしか見えない母親(工藤洋崇)が押しかけて、事態は混乱の極みに。
じっくり書けば見応えのある長編になることを充分に予感させながらも、田川啓介の筆には「敢えて示さない」冷徹な視点がある。
 彼らは皆孤独で不安だ。自分を無条件に受け止め、愛してくれる人が欲しいが、自分が誰かに対して無償の愛を注ぐのは何だか損だと思っている。だから他人にも自分にも夢は持たないし期待もしないが、誰かに愛してほしくてたまらない…という一種の無間地獄、「ありのままの自分を愛してスパイラル」に陥っている若者たちの姿はいささか腹立たしいが、ヒリヒリするほど痛ましい。
「抱きしめてよ」と懇願する若者に「ちょっと待って、やってみるから」と近づこうとする自称母親の、何とも情けない及び腰の姿をみせながら舞台はあっけなく終わってしまう。
 時間堂の舞台が人間は愛情で繋がっていることを描くものであるなら、堀出者の舞台は家族にすら投げ出された者が疑似家族に縋ろうし、縋られたものもまた自分ひとりでは歩けない姿をみせつける。
 言いかえれば、前者は自分を育んでくれた家族の存在を改めて実感し、仮に自分が新しい家族を与えられたなら「きっとそうであってほしい」と素直に願える真実が伝わってくるものであり、後者はもし自分が子どもを産んだとして、母親として至らないためにその子が陥るかもしれない現実を示すものである。
 演劇をみるのは一種の疑似体験だ。この調子でいくと自分は子どもを持ち、親になることはおそらく体験できないだろうが、夜ごとの疑似体験によって真実と現実のあいだを行き来し、豊かな幸福感と寒々とした寂寥感を、どちらも楽しみとして味わえる環境にあることを感謝している。

TOPへ

「立体化するセリフ劇」
C・M・スペンサー
 芝居の満足感とは何であろうか。
 この『ブラックバード』では、登場人物二人のセリフ劇に、どんどん引き込まれていった。
 さらに藪の中をかき分けながら進むような臨場感を客席で感じ、戯曲と演出の巧妙な舞台運びに驚嘆した。
 作者のデイヴィッド・ハロワーは一九六六年生まれ。この作品は約五年前にイギリスのグラスゴーで産声をあげたのだそうだ。
 オフィスビルのロッカールームが舞台。
 ドアを開けて入って来た男女に感じる不協和音。女性の方がはるかに若い。彼女は毅然として、陶器のように白く美しい顔立ちで、一方的に優位に立って言葉をまくし立てている。その態度に翻弄される男性。
 女性の名はウーナ(伊藤歩)。
 彼女の言葉の一つひとつを遮るように話を逸らそうとする中年男性(内野聖陽)。
 彼らの関係をじっと探る。
 発せられる言葉から遡る作業に、彼らの関係について多くの選択肢が与えられては消えていった。キーワードを聞き逃さずに、その関係を定めようと試みる。セリフの応酬が観客を捉えて放さない。
 それはまるでボールの投げ合いのようだった。関係の優位性を象徴するかのような目に見えないボールが、行ったり来たり。二人の関係を明らかにしていく。
 時にはそのボールは逸れ、地面を這い、話題が滞る。そのうちどちらか一方が掴んで放さない、そんな状況が訪れた。
 思いもよらない彼らの関係。二人は犯罪の被害者と加害者であることが判明した。
 未成年の少女を連れ出し性的関係を持った男性は、彼女を置き去りにし、逮捕された。そして刑を終えた男性は名前を変え、新天地、つまり現在の職場で別人として新しい生活を送っていた。
 十五年の時を経て、ウーナはその加害者の男性を探し当てたというわけだ。
 彼女はまず、自身の境遇を訴える。事件後もその地に留まった彼女は世間の目に晒され、必然のように荒んだ生活を送ってきた。
 しかし彼女が語る「あの日」、いやそれ以前から重ねられていた二人の関係について、彼女の口調はとても柔らかく、表情は穏やかなものだった。
 浮かび上がったのは、十二歳の少女と四十代の中年男性との恋愛関係。切々と当時の想いを語るウーナ。
 なかなか相手に渡らないボール。
 次第にウーナに涙と汗で泣き崩れたような無防備な顔が表われた。
 すると男性はその真っ直ぐな瞳に吸い寄せられるように彼女を抱き締め、彼女もそれを受け入れた。
 これが事の顛末かと思った瞬間、男性が我に返ったと同時に第三の人物の声がした。女性の声。
 現在平穏に暮らす男性の恋人なのか、その女性は事件のことを本当に知っているのか、逆上したウーナは、彼の仕事場での地位も疑わしく、再び優位に立って問い詰める。
 そしてドアを開けて現われた人物を見て、ウーナだけではない、我々観客は息を飲んだ。
 思考は凍てつき、ただ舞台を正視する。
 この作品は推理劇のごとく登場人物の語る状況が観客を導き、しかしながら次々と展開の可能性の糸口が断ち切られてくようなものだった。キレイごとでは済まされないほど赤裸々に語られる状況、それが客席に緊張と混乱を呼び、そして最後に雷に打たれたような衝撃が襲いかかった。
 今やピーターと名を変えた男性の名を呼び、嬉しそうに入って来たのは十二歳の少女だった。
 優勢という名のボールは、今どこにあるのか。
 大人になってしまった自分自身が悪いことでもしたような敗北感が、ウーナの顔に表われていた。
 冒頭に暗示された不協和音。ウーナの存在自体が過去であり、今ここにいる少女が現実の象徴なのか。「あの日」の二人の関係までも問いかける。
 男性がどんなに自らを正当化し、ウーナの描く状況を否定しても、十二歳の少女の存在が新たな疑惑の念を植え付けたのだ。
 ウーナを振り切って、少女と部屋を出て行く男性。追うウーナのドアの外の表情を見逃してはならない。
 ようやく見つけた棲み家を取り返そうとする獣のように、いやそれは復讐のためなのか、これから起こるであろう大波乱を予告するようにウーナの顔つきは険しく変貌していった。
 言葉から視覚へと訴える、なんとスリルと衝撃の展開の舞台であったことか。今の時代を生きる作家の作品に、同世代の感性を持って触れられることに、これから先の観客の楽しみを得たような興奮を覚えた。
 場面ごとに切り出されるウーナの表情が、芝居の展開そのものとして観客の瞼に焼き付いている。言葉と視覚的な衝撃が戯曲の描く世界を立体化しているような、舞台の醍醐味もたっぷりと味わった。
 演出・栗山民也、翻訳・小田島恒志
(七月十七日観劇)

TOPへ

「孤独と孤立」     
マーガレット伊万里
 ミナモザの公演を見るのは今度で四度目。毎回、主人公の饒舌なモノローグが印象的だったが、今回ヒロインが胸の内を吐露するのは最初だけ。
 ミナモザ第十回公演となった『エモーショナルレイバー』(作・演出 瀬戸山美咲)は、主人公の描き方やお芝居の構成などに以前と違う胎動が感じられた。
 幕開きはマンションの一室。自分に自信をもてない女性ケイ(木村キリコ)は、男性とは距離を置き結ばれることはないと一人告白する。だがそんな彼女が働いているのは男性ばかりの職場。しかも、それは振り込め詐欺グループのアジトだった。
 詐欺集団に属するメンバーは、ケイ以外全員男性。そんな中でケイは異色の存在だ。彼女は化粧っ気のない顔に眼鏡をかけ、一つに束ねた髪、着古したセーターにジーパンで出勤してくる。
 彼らはまるでサラリーマンのよう。決まった時刻に出勤し、電話が用意されたデスクに一人一人座り仕事を始める。あるときは、電話の向こう主の息子になったり、弁護士になりすましたり。あの手この手で騙しの手口が展開する。電話をかけて騙す役が「かけ子」、振り込まれたお金を口座から下ろしてくる係を「出し子」と言うそうだ。仕事は分業化されて組織的に動いており、リーダーの統率力もあっぱれ。そのエネルギーのベクトルを百八十度回転させたら、さぞかし社会に貢献できそうなのにと思わずにいられない。彼らの生態に妙にリアリティがある。
 ある日、エンジェル(名嘉友美)と名乗る若い女性が、自分も仲間に入れてほしいとやってくる。しかし、リーダーの茂木(宮川珈琲)は女には無理だと受け入れない。
 エンジェルは今風のファッションに身をつつみ、容姿や雰囲気などケイとは正反対。仕事はできそうもないが、なんだかんだと理由をつけてアジトに居座り、男達に愛想を振りまいている。
 対照的にケイは男達とほとんど口をきくこともなく、彼らから異性として意識されていないようだ。しかし、仕事のノルマはグループでも上位であり、皆から一目置かれている。
 またあるとき、トップの売り上げを稼いでいた青年は、家族が実際の詐欺被害にあうという身内の不幸を目の当たりにし、仕事ができなくなってしまう。彼は逃亡を図るが結局は捕まりリンチを受ける。そんないたたまれなさの中で死のうとした青年を、ケイはなぐさめようとするが、青年に「母親のつもりか」と問われ、ハッとなる。封印したはずの母性が無意識のうちに顔を出し、自分でも驚きを隠せなかったシーンに彼女の葛藤が透けてみえた。
 タイトルの『エモーショナルレイバー』とは、肉体労働、頭脳労働に続く第三の労働、感情労働の意味だそう。ちらしの言葉を借りれば、「究極の感情労働」をこなしている彼らは、人の弱みにつけ込んでお金をまきあげようと、自分の感情を抑制しているわけだ。ケイは労働においても、人生においてもコントロールしていたはずの感情を青年に指摘されてしまうというところが興味深い。母性を断ち切って孤独を選んだ女。自分で選んだはずの立位置が揺らいでいるのだ。
 そして遂には、父親のわからない子をお腹に宿したエンジェルから、この子を育ててほしいと持ちかけられる。思いもよらない依頼だが、ケイはそれを受け入れる。
 孤独を選んだはずの女性は、赤の他人の子供を育てる覚悟をする。女性として結婚も母親もあきらめたからこそ選んだ仕事のはずが、母性はあきらめることができず、母になる立場を選択する。
 男ばかりの詐欺集団の中で、ケイとエンジェル、二人の女性の対比が印象に残る。意外としたたかな女性の側面が垣間見えるあたりも納得。ただいくつか気になったのは、ケイが何を思ってエンジェルの申し出を受け入れたのか?又、そんな異色なケイの存在を男達がどう感じているかをもう少し詳しく聞いてみたかった。
 これまでのミナモザの作品では、抑圧された時代や状況の中で必死にもがく女性を見てきたが、あえて孤独を貫き通そうとしたポジティブな心が扉を一つ押したという印象を受けた。言い過ぎかもしれないが、ある種の清々しさが残る公演であった。
(八月八日観劇)

TOPへ

「次の一手は」
コンスタンツェ・アンドウ
 歌舞伎を選ぶ優先順位はまず、役者である。第一回コクーン歌舞伎を見た理由もそうだ。やがて、その特殊性に気付くと、公演自体が理由になったが、様々なスタイルの歌舞伎が生まれてくるにつれ、「コクーンは外せない」という思いは弱まっていった。驚くようなことはもう起きないのではないか、と「わかった気」になっていたのである。
 だが、今年の企画は斬新だった。四世鶴屋南北作『桜姫東文章』を現代に書き換えた作品と歌舞伎版とを、串田和美演出で連続上演するという。現代版のみ、または、○五年コクーン歌舞伎『桜姫』の単独の再演だったら、他の芝居を選んだかもしれない。
 姫から罪人へ、女郎へと身を落とし、妻でも母でもなく、再び姫として生きる道を選ぶ桜姫。その波乱万丈な人生を美しく演じる役者と、堕落する高僧と色っぽい小悪党(実は兄弟)を演じ分ける役者。『東文章』は、二人の役者の魅力と、ジェットコースターのような物語展開を、理屈抜きで楽しむ作品だと感じていた。私が見たのは、雀右衛門・幸四郎、染五郎・幸四郎、玉三郎・段治郎、福助・橋之助の組合せだった。
 『桜姫〜清玄阿闍梨改始於南米版』(脚本・長塚圭史)の配役は、マリア(桜姫)大竹しのぶ、セルゲイ(清玄)白井晃、ゴンザレス(権助)勘三郎。初めは、歌舞伎と比べていたが、途中でやめた。設定や人間関係を借りた、別の作品だと思ったからである。
 舞台は現代より少し前の南米。無国籍なムードや、楽器の演奏など、串田演出の色合いが濃い。大竹は、その若さや独特の浮遊感が桜姫を髣髴とさせるが、狂言回し的な役も兼ねており、揺るがぬヒロインとしての存在感が薄い。セルゲイとゴンザレスは別の役者が演じ、その他の登場人物も深く書き込まれているので、主役だけが際立つことがない。特に、ココージオ(残月・古田新太)とイヴァ(長浦・秋山菜津子)の可笑しくも切ないエピソードは、脇筋におさまらない強烈なインパクトがあった。
 現代版『桜姫』は、愛憎・生死・貧富・清濁の狭間で彷徨う人間達を描いた群像劇だと思う。単に時代を置き換えるのではなく、『東文章』から何を掬いあげ、そこから何を創造するか、と考えた時、一人の劇作家の答えとして、納得のゆくアプローチだった。しかし、多くの要素を詰め込みすぎ、かえって印象が散漫になったきらいもある。
 一ヵ月後、歌舞伎版を見た。配役は、桜姫・七之助、清玄・勘三郎、権助・橋之助。
 シンプルに刈り込んだストーリー、盆回しや可動式の装置によるスピーディーな場面転換、客席からの入退場、洋楽の使用…コクーン歌舞伎の特色は盛り沢山ながら、想定の域を出ない。舞台に対して「進化」や「深化」という言葉が使われるが、現在のコクーン歌舞伎は、「表現や手法の多様化」という段階にあるのではないだろうか。
 ただ、『桜姫』に関しては、ラストシーンにおいて、作品のあり方に深く食い込む形で演出家の解釈が提示される。
『東文章』の桜姫は、親の仇だった権助と、二人の間の子供を殺し、姫の身分に戻る。どこかあっけらかんとして、投げやりな雰囲気さえ漂う結末だ。串田が描く桜姫は、○五年版では、子供を殺すことを逡巡して狂気に陥り、今回は、子供の存在を受け入れて優しく抱く。狂乱の悲劇や因果を越える愛は、観客の生理を裏切ることなく、感情を高揚させて一つの方向へ導く。
 結末の前に全ての見せ場が終わる歌舞伎と、結末で全てを昇華させるコクーン歌舞伎。この違いに対する是非は、『桜姫』に限らず、今後も問われ続けてゆくだろう。
 七之助の桜姫は、何も考えず、ただ運命のままに流される少女という風情だったが、オペラのアリアが流れ、花びらと光が降り注ぐラストシーンでは、息をのむほど美しい女性として輝いていた。
 話題性に富む企画に惹かれて見た二つの『桜姫』。現代版は、新たな創造としての意欲を買いたい。しかし、「別物」すぎるために、歌舞伎版と並べた効果があったのかは疑問が残る。また、歌舞伎版の収穫は最終的に役者(七之助)で、コクーン歌舞伎を「わかった気」が変わることはなかった。
 この連続上演に充分満足したとは言いがたいが、芝居は、見ないことには始まらない。コクーン歌舞伎の次の一手は、私の足を劇場へ向かわせるだろうか。
 (六月二十七日・ 七月二十六日観劇)

TOPへ

 『今年上半期の一本』  

◆elePHANTMoon『成れの果て』(マキタカズオミ作・演出) 過去の事件でこじれた人間関係がいよいよ修復不可能になっていく泥沼の過程を、救いのない結末まで息もつかせず描き抜いた舞台で、悪寒が快感に変わっていく感覚を体験できました。(ビ)



◆七月上旬、秋田・康楽館へ。外観は洋風・内部は純和風の芝居小屋で楽しむ「沼津」「奴道成寺」。おいしい食事と、十和田湖や奥入瀬の美しい自然。舞台と旅の組合せは、素敵な思い出を作ってくれます。さて、次はどこに行けるかな…(コン)



◆三月末にロンドンで観た『NINAGAWA十二夜』。歌舞伎を異国の地で観るという得難い経験の中、ご当地の観客から、この作品に何を期待し、何を疑問に思っているのかを客席で聴けた事が一番の収穫でした。(C)



◆「初心忘るべからず」。はえぎわ十周年公演『寿、命。ぴよ』で彼らの一途な舞台を見て、演劇というものに初めて出会ったときの気持ちをなんとなく思い出しました。この気持ちを忘れないでいようと再確認。(万)

TOPへ

HOMEへ戻る