えびす組劇場見聞録:第35号(2010年9月発行)

第35号のおしながき 

劇団印象第十三回公演 「匂衣」
劇団印象第十四回公演 「霞葬」
鈴木アツト 作・演出
下北沢シアター1711  4/16〜4/25
吉祥寺シアター  7/16〜7/19
維新派
「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」
松本雄吉 作・演出
犬島アートプロジェクト「精錬所」内野外特設劇場
7/20〜8/1
ナイロン100℃
「2番目、或いは3番目」
下北沢本多劇場 6/21〜7/19
unks 第2回公演
「1960年のメロス」
サイスタジオコモネ Aスタジオ 7/1〜7/11

「方向音痴の演劇的楽しみ」 「匂衣」 「霞葬」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「『流れ』を感じる夏」 「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」 by コンスタンツェ・アンドウ
「私たちの幸せさがし」 「2番目、或いは3番目」 by マーガレット伊万里
「1960年のミリョク」 「1960年のメロス」 by C・M・スペンサー
○●○ 納得のいかない一本 ○●○  えびす組メンバーによる100字コメントです♪

作品一覧へ
HOMEへ戻る

「方向音痴の演劇的楽しみ」     
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 劇団印象(いんぞう)の舞台をみるようになって三年あまりになる。初見は二〇〇七年六月、新宿タイニイアリスの『父産』(とうさん)だ。作・演出の鈴木アツトと印象をずっと応援していたと思われる観客で満杯の劇場は温かさに満ち、照明や小道具小物にいたるまで細やかに作られた舞台美術(坂口祐)は持って帰りたいくらい可愛らしく、台詞はもちろん歌やダンスまできちんと稽古の入った俳優の懸命な演技も好ましいものであった。その後『青鬼』、突然番外公演『空白』(そらしろ)、続いて『枕闇』(まくらやみ)、横浜相鉄本多劇場の『青鬼』再演、吉祥寺シアターの『父産』再演と、印象の舞台は自分の演劇スケジュールに欠かせないものになった。
 二〇〇九年三月に『青鬼』が再演されたとき、「初演とずいぶん変わったなあ」と驚いたものの、偶然同じ日に観劇した知人と、「鈴木さんには、書きたいことがまだまだたくさんあるのでは?」と話すに留まった。さまざまな感覚を言葉にできず、もどかしい思いが蓄積してゆく。
そんな中、今年四月下北沢シアター711での『匂衣』(におい)にちょっとどうかと思うほどの衝撃をうけ、続く夏の吉祥寺シアターでの『霞葬』(かすみそう)は、その衝撃をさらに強く確実にするものであった。
 まずは『匂衣』から。本作は日韓国際交流公演と銘打ち、韓国小劇場界で活躍する女優のベク・ソヌを客演に招いた。舞台はある裕福な家庭の応接間である。目の見えない娘(龍田知美)が可愛がっていた犬の「よそべえ」が事故で死んでしまった。母親(高田百合絵)は娘を案ずるあまり、常軌を逸した対策に出る。よそべえはいまも生きていると娘に思わせるため、本人そのまま韓国から来日して小劇場で活動しているという設定の韓国人女優ベク・ヨンジュ(ベク・ソヌ)に、犬の演技をしてほしいと依頼したのだ。よそべえの遺体から毛皮や尻尾を採り、体臭までスプレーにして準備する念の入りよう。
 ベクは戸惑いながらもあれこれ工夫していくうちに、犬の演技にのめり込んでいく。
 しかし聡明な娘は演技を見抜き、母親の気持ちを思いやって信じたふりをしつづけ、ベクもそれに気づきながら彼女とは言葉を交わさず、よそべえでありつづけようとする。目が見えないもの、言葉を発することができないものがぎりぎりまで近づきながらも、敢えてそれ以上相手との距離を縮めようとしない。特に娘が子どものころによそべえと覚えたというダンスをベクと狂ったように踊る場面は胸をうつ。それはダンスというより子どもが感情のままに足を踏み鳴らしたり頭を振ったりするむちゃくちゃな動きなのだが、軽快なマーチにのせた二人のダンスは、心の奥底に秘めてきた怒りや悲しみをぶつけあい、何とかして互いを知ろうとする切ない願いの表れのようであった。
 劇中、ベクと日本人の恋人との楽しげな会話の場面が何度か挿入されるのだが、二人はすでに別れており、幸せな恋人たちの姿がベクの幻想であることが示されてゆき、予想外に苦い結末となった。ベクがどこまで犬役を演じ通せるか、騙しだまされのコメディではないかという予想はみごとに裏切られたのだ。
 続く『霞葬』は、人間とそうでないものがともに暮らす九十年間を描いた作品である。雨を降らせたり星を生みだしたり、天空を支配する神々のひとり「石長」(いわなが/龍田知美)が、死んだ鴉を葬りに飛び立って下界におりたところ、人間の母親が赤ん坊を捨てる場に居合わせてしまった。
 泣き声を聞き、笑顔をみているうちに石長はその子を手元に置きたくなり、天界の決まりでは神々と人間は一緒に暮らせないのだが、裁判長の許可を得て赤ん坊を育てはじめる。赤ん坊は裁判長に「ミカ」と名づけられた。
 神(カミ)を逆さに読んだだけなのだが、物語が進むうち、その名の意味するものが深く感じられてくる。
ミカを演じるのはベク・ソヌである。
 よちよち歩きの幼子が、やがて石長をママと呼び、パパに会いたいと石長を困らせたり、成長して「自分にしかできない、クリエイティブな仕事がしたい」といっぱしに主張したりする。神たちが交替でミカを世話する様子もおもしろい。しかしいつまでも年をとらず休息も必要ない神々に対し、ミカは次第に年老いてゆき、やがて死を迎える。
 石長はミカの遺骨を背負い、大空に飛び立つ。ミカを葬るためだ。冒頭も同じ場面があった。しかし終幕の飛翔は、神々と人間の絶対的な違いを冷厳に示す。大きく翼を振りながら、石長はミカの名を呼ぶ。その台詞で終わりである。別れが必ず来ることは最初からわかっていた。しかし石長の力強い飛翔に後悔は感じられない。二度と会えないからこそ共に過ごした年月をかけがえのないものとしてミカを慈しみ、永遠に死なずに(死ねずに)ずっと生きていく神としての決意が伝わってくる。
 折しも超高齢者の所在不明が次々に発覚しているが、捨て子のミカはおそらく地上の世界では出生届はもちろん死亡届も出されず、「存在しない存在」といえよう。
 神々も現実社会ではいないも同然だ。けれどミカも神々も一時間半の舞台で確かに生きていたのである。『霞葬』は奇想天外なSFとひとくくりにできない、自分の生きているこの世にどこかでひっそりと繋がっている、もうひとつの世界の物語であった。
鈴木アツトはこれからどんなことを書いていくのだろう?劇団印象の舞台は、毎回どこへ行くのかわからない不思議な旅になりそうだ。方向音痴と道覚えの悪さは地上を歩くときは不便で不安だが、演劇という旅においてはそれらの欠点を楽しみに転化できる。もっと迷って途方に暮れ、そこからまた歩き始めたい。
(四月二十二日・七月十八日観劇)

TOPへ

「『流れ』を感じる夏」
コンスタンツェ・アンドウ
 荷物の中には、日焼け止め・汗拭きシートに虫除けスプレー。旅の目的は山登りでも海水浴でもなく、観劇だ。作品は、維新派『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』。梅雨明け直後の酷暑の中、飛行機とバスと船を乗り継ぎ、「えびす組」マーガレットと共に、瀬戸内海に浮かぶ「犬島」へ。
  犬島には、近代産業遺産に指定された銅の精錬所の遺構があり、アートスポットとして公開されている。船を降り、青く輝く海を眺めながら、綺麗に整備された道を数分歩くと、維新派名物「屋台村」が夕方からの営業開始を静かに待っている。そして、公演のために建築された野外劇場へ向かう大きなスロープが見えてくる。
  まずは、精錬所を見学。闇と光と鏡を利用した不思議な通路や、三島由紀夫をモチーフにした作品が展示されている。建物裏手の丘へ登ると、場所と時間を超越したような風景が続く。鬱蒼とした木々の中に散在する、朽ちかけた煙突。壁だけが残る発電所の廃墟。「東南アジアに行きました」と写真を送れば、友人は信じるだろう。
  その途中に、劇場を見下ろせる箇所があった。劇団員自らが、四千本の丸太を使って作り上げた舞台には、高低差を利用した複数の演技スペースが設けられ、無数の電柱が立っている。「装置」を通り越し、「町角」が出現したような雰囲気だ。遥か向こう側に見える客席に座った時は、どんな情景に出会えるのかと心が躍る。
  島に上陸してから、人工のクーラーはどこにもない。汗だくの散策の後は、かき氷で涼を取った。開演が近づくと、屋台村が賑わい始め、ミニライブの歌が流れてくる。スロープを昇って客席の天辺に立つと、先ほど歩いた丘が正面に見え、まるで書き割りのように煙突が聳える。奥行きはかなり深いが、左右は比較的狭いのが少し残念だった。十二月に予定されている劇場公演を意識した作りなのだろうか。
  『台湾の…』は「〈彼〉と旅をする20世紀三部作」の完結編。第一部「nostalgia」(○七年)は、日本人移民をテーマにした南米篇で、私はさいたま芸術劇場で観劇した。第二部「呼吸機械」(○八年)は、第二次世界大戦下のポーランドを舞台にした東欧篇で、琵琶湖畔での野外公演だったが、週末のチケットが完売し、見ることができなかった。そして、今回描かれるのは、黒潮がうねるアジアの海と沿岸諸国と島々である。
  顔を白く塗った役者達が、横向きにステップを踏みながら、短い言葉を並べた歌詞のような台詞を、独特のリズムに乗せて、歌うように語りだすと、維新派を見に来たなぁ、という実感が湧く。
  男の子が大きな声で呼びかける。「そこはどこですか?」それに応えて、20世紀にアジアへ広がっていった日本人達の姿が、舞台のあちこちに浮かび上がる。働いて成功した者、幸せな結婚をした者、仕事を求めて転々とする者…。国も年代もバラバラだが、皆、海を渡った人々だ。今日、自分も旅に出て、船に乗ってこの島へ来た、という小さな事実が、彼らに親近感を抱かせる。
  青空が、ほんのりとピンクに染まり、ゆっくりと暮れてゆく。海からの風が暑さを和らげ、気がつけば、上手奥の煙突の近くに、明るい星が一つ。下手側に月も出ている。こんなふうに、光や風や緑や海を、自然を肌で感じたのはいつ以来のことだろう。
  舞台では、彼らが過ごした日々が、断片的に演じられる。特定の主人公はいない。一所懸命で、朗らかで、時々滑稽で寂しげな、普通の人々。彼らの運命は、戦争・原爆・日本の敗戦により、大きく変わる。そこがクライマックスなのだが、終わりではない。20世紀末まで一気に時が刻まれ、現代への繋がりを印象付ける。
  ラスト近く、三部作全てに登場した、身長4メートルの人形〈彼〉が、迷彩服を着て現れる。「〈彼〉は、20世紀に、あちこちを漂流した人たちを複合した存在」だ(パンフレットに掲載された松本雄吉のコメント)。漂流者の行く先に戦争があるのか、戦争が漂流者を生むのか。海が流れ、人々が流れ、時が流れる。21世紀が十年過ぎても、傷を負った人々の体と心は癒えることなく、日々あらたに人々が傷ついてゆく。その現実に対し、何もできないのかもしれないが、思いを寄せることだけは続けたい。
  「戦争」を描くという意味では重い作品と言えるのだが、全体的なイメージは、ゆるやかでかろやかだ。観客の頭に訴えるのではなく、体と心に触れ、何かを呼び起こすような舞台。何を感じ、そこから何が生まれるかは、ひとりひとりに委ねられている。また、観客の「好み」も分かれるだろう。
  私は、十二月の公演も見るつもりである。さいたま芸術劇場の舞台の奥行きは40メートルだが、当然、木々も、空も、風もない。単に「野外」と「屋内」を比較するだけではなく、また新しい何かを感じてみたい。
  私と維新派の出会いは、○一年七月、奈良の山中での野外公演『さかしま』だった。その後、劇場公演へ二度足を運んだが、今回ようやく、維新派に再会できたように思った。そして、いい意味で、自分があまり変わっていないことを感じた。前回同様、深呼吸をするように舞台を見つめ、穏やかな驚きと喜びに包まれた。その間に流れた九年という時が、ひとつになって繋がった…そんな気がした。長い間変わらず、舞台を見続けられていることに、感謝したい。
  しかし、「次回」への想いは大きく違う。私は、『さかしま』を取り上げた「えびす組劇場見聞録」第八号に「何がなんでも維新派の次回作を見ようと計画を練ってはいない。」と書いたが、今は、次回の野外公演にも駆けつけたいと強く願っている。「いつか」や「また」が実現する可能性は、年とともに下がる。未来に向け、時の流れがどこまで続いているのか、自信がないのである。
(七月二十三日観劇)

TOPへ

「私たちの幸せさがし」     
マーガレット伊万里
 ケラリーノ・サンドロヴィッチの描く女性はたくましい……と感じるのは、私だけであろうか。松尾スズキ作品に登場する女の剥き出しの欲望にギョッとしたり、本谷有希子の底なしの自意識過剰女に出会うのも演劇の醍醐味だが、今回ナイロン100℃ 35th SESSION「2番目、或いは3番目」(作・演出 ケラリーノ・サンドロヴィッチ)を見て、ナイロン100℃に出てくる女達には、いつも元気をもらうなと感じた。
 お話の舞台は、災害か何かでひどい被害を受けたある町。そこへ町を救済する目的でボランティアの一行、コッツオール(マギー)、ヤートン(三宅弘城)、ジョゼッペ(小出恵介)、フラスカ(緒川たまき)、ダーラ(峯村リエ)がやって来る。
 しかし、地に足のついていない彼らは、救済どころか、到着した町に住む初老の双子の姉妹(犬山イヌコ、松永玲子)に何から何まで世話になるハメに。
 舞台は画面がゆがんだような装置で、陰鬱な空気がたちこめている。町としてもはや機能せず、復旧もままならぬ場所である。救済の使命に燃えるボランティア一行だが、彼らが住んでいた町も実は同じような被害にあっているのに、何が原因か語られることはない。地中にもぐりこんだ正体不明の奇妙な生き物が出てきたり、どこか謎めいて怪しげな雰囲気の作品だ。
 そんな一行の中で特にフラスカは、なんとしても自分たちの町よりひどい目にあっている人々を見つけ出し、自分よりも不幸な人を助けることによって、自分の安心を得たいというゆがんだ善意をもっている。緒川たまきの無垢なイメージとは裏腹なねじれっぷりがすごく、観客の笑いを大いに誘う。
 ただ、町は壊滅的だというのに、町の住人は自分達の身におきていることを、なぜかあまり気にしていないふう。姉妹の家は傾き、食料にも困っているはずなのに、明るく朗らか。親切でユーモアにあふれている。 フラスカの親切の押し売りなど、全く意に介さない。
 そんな姉妹の姿を見ていると幸せってなんだろうと頭をもたげてくる。自分達がつらく苦しい状況にあって、「くじけず健気に頑張って生きる」というのとは少しちがう。不条理な状況に抗わない。町の住人の言動は設定となんだかかみ合わず不条理な気がするが、姉妹を演じる犬山と松永の丁々発止のかけ合いからは、かえって人間が生きるヒントやしなやかな生命力を感じてしまうほどなのだ。
 また、フレスカは兄の死という不運に遭遇しており、他人の不幸にすがらなければならないほどに心の傷を抱えている。だとすれば、ゆがんだ善意もなんのそのではないか。それで自分が幸せになれるのであれば、安いものなのかもしれない。絶対的な幸せなど、この世に存在しないのだから。
 幸せを追い求めるだけの人生では不幸だ。彼女は救済してあげるはずの町の人々の世話になり、交流をはかり、癒されて、心の軌道は修正していくと私は読んだ。
 フレスカに限らず、ボランティアの一行だれもが心に闇を抱えている。いつものスラップスティック・コメディに大笑いしつつも、こんな不確かな状況下の中で、人はどういられるか?と反芻することになる。
  物語後半には、救済云々の話はいつのまにかどこかへ行ってしまい、登場人物の小さなエピソードが細かく展開していく。ところが、それが大きなうねりとなって結末を迎えるかというとそうでもない。最後は、この町も政府によって立ち退きを命ぜられ、全員が町を捨て、さすらう運命だ。
 男性の登場人物が状況に一喜一憂しているのに対し、姉妹にしても、フレスカにしても、ヤートンと恋仲になるハンナ(村岡希美)にしても、女達のぶれない立位置というものは圧倒的だ。
 現代の不確かな世界に照らし合わせてみると、幸せとは何かを教えてくれるのは、彼女達のような存在ではないかとつくづく考えてしまう。
(七月十七日観劇)

TOPへ

「1960年のミリョク」
C・M・スペンサー
 一七才の少年を通して描かれる日本。彼らの葛藤と言う名の青春の日々。 
 劇団文学座の若手、四十一期の劇団員で結成された演劇集団unks(アンクス)。メンバーの斉藤祐一が脚本を担当し、今回が第二回目の公演となる。
 それにしても、まだ三十代初めの若い世代で、よくぞここまで1960年の風潮から少年少女の会話まで関心を持って描いたものだと思う。後で知ったのだが、作者が参考にした文献は二十数冊に及んでいた。
この物語はフィクションであるが、概ね史実から得られた発想であることは1960年の事件から察しがつくだろう。ここでは、あの年に遭遇した一七歳の彼らが青春という名の時代の記憶として語りかけている、そんな想いでこの作品を観た。
作品のタイトルは『1960年のメロス』。 メロスとは、太宰治『走れメロス』のあのメロス。メロスの苦悩を主人公の少年と置き換え、しかもこの時代に生きるメロスとしてもがき苦しむ少年の姿を見せていた。物語は大きな思想に飲み込まれそうな少年の自己への目覚め、その終局が切なく心に響くものだった。
 1960年、世間では様々な志を掲げた学生による闘争が盛んな頃。父と兄が右翼の党員ということで、その思想の影響を大きく受ける高校生の時生(亀田佳明)。彼もまた明日の日本を考えるエネルギーをどこへぶつけていいのか悶々とした日々を過ごしていた。
 ある日、時生は卒業生を送る予餞会で上演する『走れメロス』のメロス役をやることになった。原作は、暴君ディオニスの暗殺に失敗し捕らえられたメロスが、親友を身代わりにして故郷の妹の結婚式に出席し、困難を乗り越えて約束通り戻ってくる。そしてメロスと親友、二人の友情にディオニスが感銘を受けて改心する、というものだ。
 しかし時生は、原作一行目の「メロスは激怒した」まま走り続け、戻ってディオニスを刺し殺す、という結末の変更を申し出た。暴君が改心するはずなどないと言うのが彼の言い分だ。
 時生の発する言葉は、今の私たちには少々過激に映る。安易に時生の言葉を真似た生徒に彼は「信念と覚悟」があるのかとたしなめた。それほど考えた上でのものなのだ。それは、そのまま作り手の気概だと受け取れる。
 時代の不平等、情熱、思想がくっきりと描かれている中で、渦中にいて試行錯誤し、正しい道を模索しながら生きる少年少女。彼らの生き様は、現代へと繋がっていた。
 演出を手がけたのは、三十一才の高橋正徳。思想の異なる教師と時生。この年代に代表される思想を平等に描き、何に怒り、どうしたいかを明確にして、時生の進む道を浮き彫りにしていった。
 二つに割った饅頭の大きさが不平等を語り、ダッコちゃん、フラフープ、美しく物静かな青年の姿が懐かしさを呼ぶ。大きさの選択が権力の象徴であったことが、感覚的に理解できた。二つに割った饅頭。大きい方を、兄と時生の場合、先に手を出した兄が当然のように取って食べた。当時の日本の外交関係もしかり、である。
 時生が党の中で生活する場では、君が代の斉唱、集団での食生活の光景を、テンポをつけて軽快に見せる工夫を施し、くどくど状況を説明しないところが主題を明確に導いて分かりやすい。
 プログラムによると、演出家から渡された文庫本から「青春を感じないか」と言われて、あしかけ三年、この作品が生まれたのだそうだ。思想を露わにした内容は一見過激だが、軽妙に描く演出が、葛藤しながら生きる若い彼らの姿から観客の注意を逸らさない。彼らの生きた証を青春と呼ぶならば、それは自らの手で掴む行為のような気がする。 
 時生の生き方は、時には一途に走るメロスと重ね合わされるが、次第に時生の描きたい結末のメロスへと変貌していく。メロス(細貝光司)は最初から時生の傍らに居たのだ。葛藤の度、寄り添うように現れるメロスに時生は導かれていった。
 そして事件は起こった。まるで暴君ディオニスを殺害するように、時生は彼の定めた標的に向かって刃を向け、突き進んだ。果たして彼は本当に想いを遂げられたのだろうか?最後に時生は自らの手でメロスを消し去る。それは時生自身の死を意味していた。
 2010年。
場面は変わり、年老いて車椅子に乗って走れなくなったメロスと思しき人物に、時生を演じていた俳優が車椅子を押しながら現代を生きる青年として声をかける。「今とこれからの話をしましょう」。
時生ら彼らの想いを賭けた熱い時代の青春の日々。潔さと愛しさを感じ、心の中に一つ物語が生きているような感覚だけが残った。
 (七月九日観劇)

TOPへ

 『納得のいかない一本』  

◆演劇集団円公演『ホームカミング』。一度の観劇で全てを理解できなくてもいい、台詞に内在する深い意図を、不条理劇と呼ばれる(呼ばれてしまう)ピンター作品に潜む条理をもっと感じ取りたい。戯曲に真っ向勝負を。(ビ)



◆シアターコクーン『ファウストの悲劇』。ベンチ形状に変更された座席は、前列との間が狭く、足を伸ばすことも組むこともできず。芝居の内容を忘れそうなほど体が痛んだ。9500円も出して味わった悲劇。(コン)



◆コクーン歌舞伎『佐倉義民伝』。すっきりとした芝居やラップを挿入する演出の斬新さには敬服しましたが、カーテンコールで現代の諸問題をラップに乗せて訴えるのはどうも。作品として芝居の中で語り尽くして欲しかったという想いが残ります。(C)



◆青年の自宅にちょっと違和感。もちろん劇場の広さは変えようがないが、空間の雰囲気作りといい、平凡な会社員の家というよりは社長の豪邸に見えてしまった。(万)

TOPへ

HOMEへ戻る