えびす組劇場見聞録:第38号(2011年9月発行)

第38号のおしながき 

今回はミュージカル特集
新旧話題作、現在進行形の観劇評に、ちょっと複雑なミュージカル論も合わせてお届けします。

ビクトル・ユゴー原作 「レ・ミゼラブル」 帝国劇場  4/8〜6/12
劇団四季 「キャッツ」
オフィス3○○ 音楽劇
「ゲゲゲのげ 〜逢魔が時に揺れるブランコ〜
座・高円寺1 8/1〜8/23

「賞賛でも酷評でもなく 〜持ち時間の課題〜」 「レ・ミゼラブル」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「未来の観客のために」 「キャッツ」 by コンスタンツェ・アンドウ
「ようこそ小劇場へ、その声がカリスマ」 「ゲゲゲのげ 〜逢魔が時に揺れるブランコ〜 by C・M・スペンサー
「私がミュージカルを見なくなった理由」 by マーガレット伊万里
○●○ わたしの好きな劇場 ○●○  えびす組メンバーによる100字コメントです♪

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「賞賛でも酷評でもなく 〜持ち時間の課題〜」     
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 一九八七年の初演から二五〇〇回以上の上演を重ねた東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』(以下『レ・ミゼ』)が六月十二日をもって閉幕した。本国・イギリスのプロデューサーの意向により、世界各国で上演されている現在のオリジナル版を順次終わらせ、新演出に切り替えるためだという。
 五月中旬に大学時代の友人たちが同窓会さながら久しぶりに集い、初演からの主要メンバー(ジャベール/鹿賀丈史、ファンテーヌ/岩崎宏美、エポニーヌ/島田歌穂、テナルディエ/斎藤晴彦、マダム・テナルディエ/鳳蘭ほか)による「スペシャル・キャスト版」を、六月には家族を誘って見納めにもう一度観劇した。日本でのファイナル公演が行われる帝国劇場が開場一〇〇周年を迎える慶事に、東日本大震災被災地への復興エールも加わり、舞台はもちろん客席やロビーも大変な熱気である。「好き」「感動」という言葉は極力避けたいが、本作は例外中の例外であろう。自分が愛してやまない感動のミュージカル、それが『レ・ミゼ』なのだ。
 一方で痛い思い出もある。初演の翌年だったか、ふたりの友人から大変な酷評をぶつけられたのだ。まず声楽の心得を持つK女は出演者の発声が統一されていないと手厳しく、原作を読破した強みもあって、人物造形が単純すぎると一刀両断。もう一人のT氏はそもそもミュージカルに不向きの体質なのか、いったいあれのどこがいいのかわからぬと言う。誰にでも好きずきはあるとはいえ、「忌憚のないご意見をありがとう」と鷹揚に受けとめられず、自分はたいそう落ち込み、傷ついた。しかし冷静に考えてみれば、K女指摘の発声や人物造形の問題は、自分がいまだに『レ・ミゼ』に対してものたりなく感じる点と少なからず合致するし、これだけ絶賛される作品に対して「どこがいいのか」という単純明快なT氏の疑問と不満はむしろ貴重である。
 心を共有できる人とできない人がいる。
 まさに水と油であり、その水同士もよくよく吟味すれば同じ味ではないはず。油ならなおさらだ。その両方を得たことに、自分はもっと感謝しなければならないだろう。
 さて自分にとってのファイナル公演は、カーテンコールのあとにもお楽しみがあった。
 その日出演した別所哲也、駒田一、阿知波悟美によるトークイベントが行われたのだ。アンサンブルの若手俳優も数名加わったイベントの目玉は、客席から希望者を募ってステージに乗せる『レ・ミゼ』体験ツアーである。まず回り舞台の上で、暴走する馬車から群衆が逃げまどう場面を出演者が実演してみせ、参加者にも同じように動いてもらう。演技の初歩かと思うほど難なくクリア。続いて巨大バリケードで革命の戦士たちが銃撃に倒れる場面を「さあ、これも皆さんで」となったときにはいささか不安になった。バリケードは本作を象徴する舞台装置だ。相当な高さがあり、凹凸もある。そこに立ったり登ったりするだけでも困難が予想される上、音楽に合わせてスロモーションで動く演技は複雑で難易度も高い。しかし的確な演技指導が行われた結果、参加した三人の方々は短時間でこつを習得し、見事にやってのけたのである。
 客席は大喝采だ。
 司会進行をつとめた駒田一の手際のすばらしいこと。当初二名参加の予定が「どうしても」とひとり増えるアクシデントも何のその、こちらが気おくれするほど積極的な方は適度に諌めつつ、控えめな方からは隠れた冒険心を引き出す。ベテラン出演者による感慨深い思い出話から爆笑ものの失敗エピソードまで披露され、たゆまぬ精進の賜物であろう、ほとんどアクロバットに近い演技を軽々とこなす若手俳優たちが、作品への思いを語るすがたも清々しく、大変楽しかった。
 とはいうものの、ここまで賑やかに盛り上がり、『レ・ミゼ』がエンターテイメント化、イベント化することには違和感がある。創作の裏側を知れば作品を多面的に味わうことができるし、ファンサービスも大切だ。しかし舞台成果においてすべてをみせてほしいと願うのはないものねだりなのだろうか。
 率直に言ってこの日の舞台は、これまでの『レ・ミゼ』観劇歴のなかで最も不満が残るものであった。歌や演技が回を重ねるごとに成熟し、昇華したかのような島田歌穂のエポニーヌに、自分は賛辞を惜しまない。しかし別の女優が演じたとき、なぜこうも印象が薄れるのか。ある演劇評論家は「島田歌穂のエポニーヌは世界一だ」と絶賛したが、これは見方を変えれば、世界レベルで通用する俳優が日本には島田しかいないとも言えるのではないか。
 俳優の技術や意識は確実に変化し、日本のミュージカル界に多大な影響を及ぼした作品であることは間違いないが、さまざまな面において未到達の部分がある。もっと高みを目指し、さらに深く掘り下げてほしい。具体的には日本語の歌詞とメロディがもっとしっくりくるような訳詞(作詞)の工夫と、俳優の歌唱技術の向上を強く望む。
 ヨーロッパではすでに上演されている新演出版が日本でいつお目見得するかは未定とのこと。いまは言わば新版『レ・ミゼ』待ちの日々である。どう過ごすか。
 実を言うとオープニングの音楽を聴くだけでぞくぞくして涙が出る。骨抜きとはこのことだ。過剰な思い入れを抑制し、冷静で客観的な視点を探りつつ、本作に対する愛着、愛情には素直に。手放しの称賛ではなく、頑なな酷評でもない『レ・ミゼ』論に取り組むこと。これが自分の課題である。
 『レ・ミゼ』ファンの友人たちとの共感がいよいよ深まり、そして願わくはK女とT氏にも納得してもらえるものを目指して。

(五月二十一日&六月三日観劇)

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「未来の観客のために」
コンスタンツェ・アンドウ
 「二十一世紀に届くただ一つのミュージカル」・・・劇団四季『キャッツ』の、かつてのキャッチコピーである。(おそらく)世界一有名なミュージカル『キャッツ』の日本公演は、一九八三年十一月、新宿に建てられた仮設の劇場でスタートした。当時では驚異の一年ロングランを達成後、猫達は全国各地に出没し、昭和から平成へ、そしてコピー通りに世紀を越えた。
 数十年前の東京では、小学校の行事に組み込まれた四季のミュージカルで、「劇場」や「プロの舞台」に初めて触れた子供が多かったのではないだろうか。私の学年は、日生劇場へ『ふたりのロッテ』を見に行った。
 宝塚の『ベルばら』ブームにも影響され、劇場へ通う楽しさを知ってしまうと、次第に、東宝ミュージカルや、四季の大人向ミュージカルへと興味が広がった。いつも一番安い席だったが、充分満足。ミュージカルファンを自認していた。
 そして『キャッツ』が登場。少々出遅れた私が観劇したのは一九八四年の三月。正直なところ、具体的な舞台の感想は覚えていない。物語性の強い『エビータ』や『コーラスライン』ほどには、魅力を感じなかったのかもしれない。
 一九八六年二月には、ロンドンのウエストエンドで本家『キャッツ』を見た。この頃から、私のミュージカル離れが始まる。歌で物語を進めることにまだるっこしさを感じたことや、必ずしも見たい俳優が出演するとは限らないことが理由だった。
 四季は徐々にスターシステムを廃し、出演者を公表しなくなった。「誰が演じても、作品のクオリティは保たれる」という前提だったが、「あの人が出ていれば…」という失望感を何度か味わうと、次の舞台に期待できなくなる。見たい俳優も退団してゆき、私の観劇傾向は、ストレートプレイと、役者本位の歌舞伎に移っていった。
 ミュージカルと縁遠くなった私だが、二十一世紀を迎えるにあたり「二十世紀に見た舞台をもう一度」という個人企画を実行した。当然『キャッツ』も候補だったが、猫達は東京にいなかった。
 猫達が戻ってきたのは、二○○四年七月。今度こそ、と思いつつ時は過ぎ、東京公演の終了を知ってから慌てて、二○○九年三月のチケットを取った。後で気づいたのだが、観劇日が前回と全く同じ。二十五年前と同じ日に同じ舞台を見るというのは、かなり稀なケースである。
 五反田の「キャッツ・シアター」は、黄色と黒のキャッツ・カラーをまとい、猫の目が光る、二階建ての劇場。二度しか見ていない作品なのに、美しい音楽や様々なダンスには「お馴染み感」があった。『キャッツ』の世界が、「スタンダード」として広く浸透しているからだろう。
 この時は、いつもこだわっている「誰が演じているか」を忘れ、単純に作品を楽しんだ。カーテンコールでは、一匹の猫に握手をしてもらった。俳優の名前はわからない。
 客席で印象に残ったのは、父親と子供のペアが多かったことである。ショーアップされた短い場面が続き、男性も飽きずに見られそうだし、T.S.エリオットの詩に基づく世界観は大人向と言える。他の大劇場ミュージカルと比べるとやや低価格なので、足を運びやすいのかもしれない。
実は、私も前回は父親と一緒だった。舞台には無関心の父親が、中曽根首相(当時)の観劇を知り、『キャッツ』に興味を示した。私はすっかり大人だったが、「キャッツTシャツ」を買ってもらい、長く着続けた。その後、父親とツーショットの観劇も、「おねだり」も殆どなく、懐かしい思い出である。
 また、ロビーで聞いた母親同士の会話も印象的だった。「うちの子は、ディズニーのアトラクションは大丈夫なんだけど、劇場はまだ怖がって…。」という内容だ。
今の子供達が「生のパフォーマンス」に最初に触れるのは、ディズニーランドなのだ。パレードや屋外ショー、次に室内の芝居仕立てのショーを経験し、やがて、『キャッツ』や『ライオンキング』によって、「本物の劇場」「プロの舞台」へと繋がる。家族と過ごす時間の一環として、学校行事よりも自然に受けとめられるだろう。
 劇団四季は、日本の演劇界に様々な功罪を残してきたが、これまでも、これからも、子供達と「舞台」の最初の接点として機能していくことは間違いないと思う。
二○一一年七月、それを再認識させられる出来事があった。『ユタと不思議な仲間たち』の被災地公演である。
会場は体育館。凝った照明も仕掛けもなく、装置は最小限だが、ニュースで紹介された舞台の一端は、本格的なものだった。
床に座り、「いつもの体育館」が違う世界に変貌する様を体験した子供達の中には、初めて「プロの舞台」に触れた子も多い筈だ。そしていつか、「本物の劇場」へ入ってほしいと願っている。
もちろん、地元密着型の劇団も精力的に活動しているのだろうが、日本各地に散在する劇場の公演を維持しつつ、被災地を巡回し、子供達を招待できるのは、四季ならではの、人的・財政的な底力あればこそだと考える。
『キャッツ』の休憩時間、父親と手を繋ぎ、壁に作られたゴミを楽しそうに見つめていた子供達。目の前で歌い踊る俳優たちの姿に少し驚いていた子供達。彼ら・彼女らの中から、未来の観客が育つ。四季には、大人になっても楽しめる受け皿も用意されている。その先は、自ら選んでゆくだろう。
二十二世紀まで…は難しいかもしれないが、『キャッツ』や『ライオンキング』が未来の観客を生み出す場、かつての子供達が思い出をよみがえらせる場として、あり続けてほしいと思う。

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「ようこそ小劇場へ、その声がカリスマ」     
C・M・スペンサー
 今号ではこの見聞録にテーマが設けられた。「ミュージカル」に関連したことを書いてみようという試みである。「音楽劇」とタイトルにあえて表記する作品をよく目にするが、例えば最近観た作品でも音楽劇『リタルダンド』、音楽劇『ゲゲゲのげ』。そして企画制作・ホリプロの『ピアフ』は仮チラシの段階では音楽劇であったものの、最終的にはミュージカル『エディット・ピアフ』に改題されていた。その境界線は作り手には確固たるものであろうが、ここでは同等に扱わせてもらうことにする。
 ミュージカル『モーツァルト!』で舞台デビューし、日生劇場や帝国劇場という大劇場で初演(〇二)から〇七年までダブルキャストの一人としてタイトルロールを演じていた中川晃教。今でこそ珍しくはないが、シンガーソングライターとしてデビューした彼は、すぐさまミュージカルの舞台に登場。ほとんど無名だった十代の少年は、優れた歌唱と勘の良い演技、その実力であっという間にミュージカルの観客を虜にした。
 何よりも人々を魅了し驚愕させたのは、その歌声。クラシックのそれではないが、ミュージカル作品ではその飛び抜けた歌唱が、ことに『モーツァルト!』では、世間が認める天才と相まって適役となった。さらに歌声の魅力とともに嘘のない表現力は、芝居好きの観客の心を鷲掴みにした。
 ところで、この八月に座・高円寺で上演された、渡辺えりの代表作『ゲゲゲのげ』。オフィス3○○(さんじゅうまる)の公演である。オフィス3○○と言えば、遡れば八十年代に小劇場界では名を馳せていた劇団3○○が前身である。八十二年に初演された『ゲゲゲのげ』は岸田國士戯曲賞を受賞、今回はキャストも新たにしての再演である。
 物語は、病院のベッドで昏々と眠り続けて
いる女性を囲んで交わされる家族の会話から始まる。そして場面は変わり、ある地方の空き地へ。その土地で起こる何かを待つ中年の男。その何かを目撃しようと一緒にテントで張り込みをする塩原少年。少年は何もない空き地でブランコを漕ぐ音を耳にする。すると夢か幻か二人は妖怪に襲われ、男に逃がされた少年は鬼太郎に助けを求めて駆け出した。 
 一方、東京は池袋。小学校のクラスでは、マキオは担任からもいじめの標的とされている。心の中で必死にもがき、助けを求めてマキオは叫んだ。鬼太郎、きたろぅー!
 そこに歌声と共に鬼太郎の登場。扮するのは中川晃教。小柄な彼が下駄を履き、ちゃんちゃんこを羽織って、攻撃してくる相手をかわしてマキオを救い出す。天性の歌声と称されることもある突き抜けた中川の歌声は、鬼太郎のカリスマを象徴するのに存分に発揮されていた。
 劇中の歌の効果とは不思議なものだ。鬼太郎の歌声が、まるで彼の妖術の一つであるように、力強さと安心感を与えるのだ。 そしてマキオの泣きべそに、鬼太郎は優しく応じる。「俺、いじめてないぞ」。
 話を戻そう。時も場所も異なる状況で、助けを求める人々。唯一の共通点は鬼太郎、のはずだった。さらにマキオが過去に信頼を寄せたただ一人の友人、中川が鬼太郎と二役を演じる時彦が現れる。ブランコでマキオのためにケガを負った時彦を置き去りにしたあの日。記憶の彼方にマキオの想いがブランコに乗った時彦を登場させて、
後悔と喪失という深い心の傷口を抉った。
 この物語に決着をつけることは難しい。いつの間にかそれぞれの登場人物がつながり、さらにそれらは全て最初にベッドに横たわっていた女性が見た夢、妄想にすぎないのではないかという見方もできるからだ。土壇場のどんでん返しのように演じる役者も役も入れ替わり、何が悪で何が善か、どれが虚で実か、場面ごとに作者の想いが断片的に込められているように見える。それらは刺すように、訴えかける心の叫びとして感じられるのだ。
 鬼太郎なんて、やはり存在し得ないのではないか。いやあの耳に残る力強い歌声は彼が居たという証でもある。しかし稀なほど美しい歌声だからこそ幻想なのではないのか・・・。その声の存在は、やはり特異だ。現実にはそこに居た人々の想いが残像として観客の目に、そして歌声が鮮やかに耳に残っている。
 ところで、小劇場の魅力の一つに、見知らぬ魅力的な役者との出会いが挙げられないだろうか。帰り道、小劇場ファンらしい男性の観客の声が背後から聞こえてきた。「あの鬼太郎、ネットで調べちゃうよ」と、興奮気味に話していた。きっと私がマキオくん(吉田裕貴)が気にかかるように、どうやらその観客にとっては見知らぬ鬼太郎の存在に魅力を感じたようだ。大劇場で、そしてライブやミュージカルの舞台を中心に歌声を披露してきた中川晃教。ようこそ、小劇場へ。観客はきっと、虜になる。
(八月二十日観劇)

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「私がミュージカルを見なくなった理由」
マーガレット伊万里
 とんとミュージカルを見ていない。最近見たのは…と思い出そうとしたが、まったく浮かんでこない。えびす組の集まりで最新のミュージカルに話題が及ぶと完全にアウェイの気分。ミュージカルに詳しいメンバーの話に耳をかたむけると興味がわくものの、実際足を運ぶことはなかなかない。
 なぜこんなにミュージカルを見なくなってしまったのだろうとしばし考えた。数年前までは帝劇や日生劇場などの東宝ミュージカルや、海外からやってくるミュージカル作品にもひと通りチェックを入れて足を運んでいたのだが……。
 そもそも私の人生を決定づけたのは、幼少に見たミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」だった。あれを見たときの衝撃は今でも忘れられない。心地よい音楽のメロディにジュリー・アンドリュースの美しい歌声、ロマンティックなダンスシーン、ドラマティックなストーリー。こんな世界があったのかと、その晩はあまりの興奮でなかなか寝付けなかった。
 小学生の頃、ミュージカルというのは映画でしか見られないものだと思っていて、「ウエスト・サイド・ストーリー」や「マイ・フェア・レディ」などの名作、さらに古いフレッド・アステアやジーン・ケリーが活躍するMGMの映画などミュージカルと名のつくものがテレビで放映されると片っ端から見ていた。そんな趣味の同級生など皆無だったが、一人でもくもくと見ているだけで幸せだった。
 この出会いはミュージカルだけでなく映画を始めとする外国文化への興味、また音楽やファッションなど今にいたる自分の嗜好の土台を形づくっているように思う。十代も後半になると、いよいよ直接劇場へ足を運ぶことを覚え、宝塚や劇団四季などに味をしめた。海外発のミュージカル作品も日本にやって来るようになった。
 時代はバブル。「オペラ座の怪人」や「ミス・サイゴン」といった豪華なセットや大掛かりな仕掛けで話題の作品が日本でもすぐに翻訳上演された。ブロードウェイやウエスト・エンドのミュージカルが出演者もそのままにやってくることも珍しくなかった。間近で見る欧米の俳優達の長い手足や躍動する身体、その歌唱ぶりは、日本人が演じていたものとはまるで違う切実さをまとい、その説得力のようなものに敗北感を覚えた。今まで日本で見ていたミュージカルは何だったのかという虚しさのようなものが自分の中に巣くってしまった。
 とはいえ、劇団四季の隆盛を見ればわかるとおり、年を経るごとに世間でのミュージカル認知度は上がり、ミュージカル人口やミュージカルを志す人々も増えている。現在は欧米人にひけをとらない歌唱のすばらしい俳優や身体能力の高いダンサーもめずらしくない。
 けれど、欧米で製作された作品をそのまま演じたり、見たりするだけではダメなんじゃないか…という漠然とした思いがいつまでも、そしてだんだんと強くなっている。
 日本の舞台芸術は分野によってさまざま住み分けがなされており、ミュージカルや歌舞伎、座長公演といわれるような大衆向けの娯楽的作品から、新劇や小劇場と呼ばれるもっと小規模な存在のものまで多種多様だ。つねに音楽とダンスに収束されなければならないミュージカルと違う、あらゆる表現を追求した自由な舞台芸術の広野があることに遅まきながら気づいた。
 客席に座っている瞬間のみ、現実逃避的に心をなぐさめ楽しませてくれるものではなく、時には目を覆いたくなる描写や直視できないような汚くグロテスクな世界の提示。生身の人と人がぶつかり合う舞台芸術だけの表現の可能性や奥深さをもっと見てみたいという気持ちが収まらない。今を生き、未来を考える私たちにとって、その場限りの逃避的快楽に浸るだけでは物足りないのだ。
 そうこうするうちに、自分の興味は帝劇や日生などの日比谷界隈から下北沢や新宿・渋谷エリアへと移って今日に至る。
 それでも昔の恋人をすっかり忘れてしまったわけではない。過去の記憶を取り出せば、私の舞台芸術との出会いのきっかけはまぎれもなくミュージカル。
 しばらくぶりに音楽とダンスと物語が渾然一体となった世界を訪れてみようか。あの日から自分がどれだけ成長したか否応なしに試される。以前のような違和感を冷静に捉えて再び対峙したとき、この不可思議であやうい魅力をもったミュージカルの理解により近づくことができるかもしれない。にわかに楽しみになってきた。

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 『わたしの好きな劇場』  

◆新宿タイニイアリス
劇団印象公演で二十年ぶりに足を運んで以来、隣家のごとく親しい場所に。?若い演劇人が腕を競い合い、見る者も鍛えられ、舞台と客席に同時多発的な出会いを起こす、まさに演劇の磁場です。(ビ)



◆世田谷パブリックシアターがなかったら、「えびす組劇場見聞録」も、長年にわたるメンバーとの交流も、生まれませんでした。素敵な舞台と、劇場外での豊かな時間を提供してくれたことに感謝します。(コン)



◆まつもと市民芸術館 
二年前に小ホールで観劇の際、市内を隈なく観光しました。愛のある町づくり、愛される劇場づくりにすっかり魅了され、この夏は大ホールでサイトウ・キネン・フェスティバル松本のオペラを鑑賞。ますます好きになりました。人も街も劇場も。(C)



◆日暮里d-倉庫 
倉庫と聞いてがらんとした空間を想像しましたが、訪れてみればロフトと呼びたい明るい雰囲気。どんな舞台が待っているか客席へ通じる階段を下りる瞬間がワクワクします。(万)

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