えびす組劇場見聞録:第4号(2000年5月発行)

第4号のお題/「ロベルト・ズッコ」

上演情報
作●ベルナール・マリ・コルテス       訳●石井惠       演出●佐藤信
出演●堤真一 犬山犬子  中島朋子  今井和子  天衣織女 他
2000年3月8日〜23日●世田谷パブリックシアター
「遮られた陽光」 by コンスタンツェ・アンドウ
「乾いた欲望」 by C・M・スペンサー
「青年Zの妖しい輝き」 by マーガレット伊万里
「ロベルトを探せ」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール

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「遮られた陽光」
コンスタンツェ・アンドウ
  終幕。ロベルト・ズッコは、脱獄を図った刑務所の屋根から落ちる。すると、屋根を模した装置は取り払われ、まばゆいばかりの光が、裸になった舞台をホリゾント一杯に包みこむ。ロベルト・ズッコを何かに喩えるとしたら、「太陽の光」なのかもしれない。
  太陽の光が持つ意味は、それを受ける側によって大きく異なる。田園では生産を象徴し、砂漠では死を暗示する。北国に住めば追い求め、南国に暮らせば避ける必要がある。一方、太陽の光は相手を照らすことに何の意図も持っていない。照らす相手の変化を誘発しながら、自分では何も変化しない。
 ロベルト・ズッコも同じである。彼に心をゆさぶられた多くの人々が、舞台の上に現われては消えていった。しかし、客席の私の心は動かなかった。太陽の光が届かなかったのである。何故だろうか。
  私はこの作品に対して、ロードムービーを見る時のような態度で臨んだ。ロベルト・ズッコは、刑務所からの脱走を出発点に、場所を移動しながら様々な人と出会い、再び刑務所へ連れ戻される。その流れはロードムービーに似ている。しかし実際は、全く異なった性質を持っていたのである。
  ロードムービーの主人公は、旅を通じて何かを得たり失ったりし、変化してゆく。観客はその過程と結果に興味を抱くのだ。だが彼は、旅を終えても変わることなく、幕開きと全く同じ方法で再脱獄を試みる。その姿は、同じ舞台がまた初めから繰り返されるのでは、という錯覚すら呼び起こした。彼が這い登って行く屋根は、舞台上部を斜めに横切る長い鉄板である。それが、大きなメビウスの輪の一部に見え、少し寒気がした。
 最初の段階で、私は作品に対するアプローチ方法を間違えた。ロベルト・ズッコの内面の変化を探っても何も得られない。舞台が進むうち、それに気づいた。しかし、気づいた時すぐに方向修正をする柔軟性がなかったのである。
 この作品は、一つの大きなストーリーではなく、複数の小さなエピソードの並列によって成立している。ロベルト・ズッコから影響を受けた人々のエピソードである。
 それぞれのエピソードの関連性は、無ではないが、薄い。二人芝居的だったり、シュールなコント風だったり、映像を利用したり、場面ごとの印象がバラバラで、統一感がない。佐藤信は公演パンフレットのインタビューで、場面やおかしさのトーンがたくさんある方が面白い、と語っているので、故意にバラバラにしたのだろうが、私にはそれが負担になった。
 各々の場面がつまらない、というのではない。自分を強姦したロベルト・ズッコを追い続ける少女を演じた犬山犬子の、浮遊するような芝居は特筆ものだった。また、公園の真ん中で、ロベルト・ズッコが裕福そうな婦人に拳銃を突き付け、車を奪おうとする場面がある。ここでは、ロベルト・ズッコ、婦人、その息子、警官、野次馬達、それぞれの言い分が食い違ったままグルグル回り、ズレ具合が非常に面白かった。娼館の場面では、モニターカメラが舞台の袖に置かれ、そのカメラがとらえる舞台の映像が、舞台後方のスクリーンに映し出される。観客は、肉眼に映るものと映像が映すもの、同じ舞台を異なった角度から二重に見ることになる。小技の効いた手法だった。
 しかし、場面が一つ終わると、高まった集中力と緊張感が緩み、次の場面で再びゼロから始めなければならない。場面ごとにスイッチを切りかえるのは、意外とつらい。
 私は、リズムに乗りきれなかった。乗り切れないことを逆に楽しむ余裕も、なかった。
堤真一は、演技の中に陽と陰とを内包する、数少ない俳優だと思う。陽も陰も両方表現できる俳優は多いが、彼(彼女)らの芸質は陽か陰か一方に傾いているのが普通で、その反対側を表現する時は、ごくわずかに「作られた」雰囲気が漂うものである。しかし、堤はどちらを演じても「作られた」雰囲気をまるで感じさせない。また、陽の時は陰が、陰の時には陽が、いい意味で見え隠れし、それが堤独特の魅力を醸し出している。
 では、今回の堤はどうだろうか。ロベルト・ズッコの行動は人間の「陰」の面そのものだが、堤は徹底的に「陽」の表現で押していた。「陽の中の陰」をも排除して「陽」であろうとし、達成していた。ロベルト・ズッコという人物の表現には、それがふさわしいのだろう。凶悪犯でありながら他者を惹きつける何かを持つ人間に見えたからである。堤はロベルト・ズッコとして成功した、と私の中の理屈が言う。しかし、堤個人としては何か足りない、と私の中の感覚が呟く。おそらく、それは筋違いの感覚だろう。劇場は、「いつもの」の一言でお気に入りのカクテルが出てくる馴染みのバーではないのだ。ただ、舞台は理屈だけで終われないというのもまた、事実ではないだろうか。
 太陽の光を遮ったものは、知らずに身に付けていた「頑なさ」だったと思う。舞台に向かう態度も、堤真一に対するイメージも、自分の中で固定化し、それに縛られ、当てはまらないものには、違和感を覚えてしまうのだ。いつの間に、こんなに不自由になってしまったのだろう。ロベルト・ズッコが無意識のうちに手に入れていた自由。彼は、それを見せびらかしただけで、去っていった。
  太陽の光は、自分自身で浴びに行かなくてはならない。       
(三月二十日観劇)

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「乾いた欲望」
C・M・スペンサー
 フランス現代演劇の作家、ベルナール=マリ・コルテスの遺作である『ロベルト・ズッコ』。
 演出は佐藤信、ロベルト・ズッコは堤真一で上演された。前評判ではフランスを震撼させた連続殺人犯がモデルという話題が先行し、どんなにかおどろおどろしい舞台かと思っていた。まずは舞台美術が斬新なことに驚かされた。
 美術・衣裳のレギーナ・エッシェンベルグは、昨夏に同劇場(世田谷パブリックシアター)で上演された『ネネム─おかしなおかしなオバケのはなし─』をも担当し、宮沢賢治の童話の世界を美しい色彩と絵本を見ているかのような舞台美術で観客を魅了した。今回はロベルトの心を反映した乾いた印象の舞台となり、光と影がより象徴的に現れ、余計なものを一切排除した美しさを感じさせた。
 ロベルトについて言えば、彼はいつもあっけらかんとしていた。父親殺しの罪で逮捕されたその晩に脱獄し、怯える母親のいる家のドアをたたき破って帰ってくる。自分のお気に入りの戦闘服を取り来たという理由しか持たなかった彼は、目的を達成した途端に用の済んだ母親の首を絞めて夜の街に消えていった。親を殺害し、通り魔的な殺人も犯し、それが若者一人の行動となると、現代の日本において逮捕された直後は名前を公表されない精神異常者の犯行かと懸念される事件が、彼によって引き起こされていく。
 彼に初めて出会う人は皆、彼を信頼し、ついには愛してしまう。もちろん出会った時は彼の過去を知る由もないのだが。自宅を離れ行き場を失った彼は、自分が強姦した少女の家に、少女の手引きによってかくまわれる。信じられないような状況だが、彼女は彼を慕っていた。二人の会話は幼い友達同士のように無邪気だった。彼女は家族から大切にされていたが、刺激もなくいつも乾いていた心の中に突然ロベルトが現れたのだ。そしてまた彼も言う。「この街は暑すぎる。雪の降るアフリカへ行きたい」と。
 終電後に地下鉄のホームで偶然ロベルトと居合わせた老紳士。話し相手はロベルトしかおらず、話に疲れた老紳士は凶器を持った彼の傍らで、始発が出たら起こしてくれと言って眠りにつく。もうこの老紳士の目が開くことはないのではないかという緊張感が舞台に張りつめ、そして始発電車が出る頃、ロベルトは約束通り老紳士を起こした。二人は寄り添うようにホームから去っていった。
 彼は本能的に自分と同様に「乾いた心」を潤わせて欲しいと願う人々を選り分けていたのだろうか。このような複雑な状況を観客に納得させてしまうのに、ロベルトの堤真一は適役だった。
 殺人を重ねていくが、初めて出会う人々は彼の無邪気さを受け入れてしまう「正当性」が常に存在していた。
 中嶋朋子の演じるロベルトに強姦された少女の姉の存在は、非日常的な話の中で唯一現在の私達とつながっていた。妹をかわいがるあまり、カゴの鳥のごとく家から外へ出さずに兄姉ともに監視する。だが事件が彼女の本心をあからさまに映し出してしまった。妹への愛情というよりも、実は彼女自身のエゴでしかなかったのだ。ロベルトとの事件によって妹が急に大人になってしまったと感じる疎外感、自分だけが置いて行かれたと思う孤独感だけが残り、彼女は他にぶつけようのない寂しさを感じる。同様の寂しさは、自分より年の若い家族を持つ者は味わったことがあるだろう。妹を持つ姉の身分としては、この「姉」の心理は身につまされる思いだった。
 ロベルトは逃亡を楽しんでいるのか、それとも殺人を…?彼は父母を殺害した後に、彼自身を受け入れてくれる人が欲しかったのか?我が子を目の前で彼に殺され、逃走のために人質に取られる上流階級の婦人は、彼を非難しながらも気持ちとしては彼を受け入れ、退屈な日常にはないスリルを楽しんでいたかのようだった。彼を恐れない婦人は、無傷で解放された。 
 地下鉄のホームで出会った老紳士も同様に、ロベルトの気持ちを受け入れた人間を彼は傷つけることはなかった。とても歪んだ形ではあるが、彼もまた自分への信頼を得たかっただけなのか?
 彼が接して傷つけなかった人々は、皆彼と同じ「乾いた心」を潤す何かを欲っしている人々だった。
  複雑な題材に考えさせられる事が多かったが、終盤、彼は天に昇ろうとして、空に向かって監獄の屋根から飛び立った。彼が自殺するつもりのないことは明らかだった。結局落下して彼の体は死んでしまった。きれいな幕切れであったが、宗教的な背景を感じさせないストーリーの進行に、その理由さえ私には知る由もなかった。観た者それぞれにロベルトの気持ちを察してくれということか。        
(三月十一日観劇)

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「青年Zの妖しい輝き」
マーガレット伊万里
 この芝居の最中、めまいに襲われたような感覚を何度も覚えた。
 舞台上で起きていることとそれを観る者との間で共有できるものが生まれた瞬間、劇場はとても幸せな空気につつまれるものだ。
 ところが青年ズッコのやることなすこと全く感情移入ができない。共有できる感情や理解といった言葉からは遠いものが目の前で繰り広げられる。ズッコが生きたその瞬間、瞬間に観客はさらされているだけともいえる。
 青年は父親を殺し投獄されるもすぐに脱獄。逃亡を続けるなかでさらなる殺人を繰り返す。しかし最初の殺人、父親殺しの動機が語られることは最後までなかった。親殺しという重い罪を背負わされながら、観客にその動機が明かされないというところにまず面食らってしまった。
 脱獄直後には母親も殺し、警察官や通りすがりの子供までを次々と殺す。しかし、とうとう殺人のはっきりした動機や悔いなどが彼の口から語られることはなかった。
 目の前にいる人間と一緒に話をしているはずが、意思の疎通が全くはかれないとしよう。自分に対して相手はどう思っているのか、どう願っているのかわからないとき、強い恐怖を感じるだろう。ズッコに対しても同じように、共感どころか理解できない者への恐怖を感じるばかりなのだ。
 青年は逃亡中、いろいろな人々と出会い話をする。しかし彼と出会った人々は、場所と時間を共有してはいるが、その会話はほとんどかみあうことがない。お互いの状況を把握しようとか、自分を理解してほしいという葛藤はみられない。ただ、顔を合わせ、互いの言葉をしゃべるだけ。
 たとえば、ズッコにレイプを受けた少女にしてもそうだ。彼女は家族の目を盗んで青年を家に入れ、彼と無邪気に話す。そして出ていってしまった青年を探し出そうと追い求める。まるで恋人を探すかのように自分をレイプした犯人を追い求めるとは、どう考えても普通じゃない。
  そして、子供を目の前で殺された母親も犯人のズッコについて行こうとする。息子の死を嘆くことも、犯人をなじることもしない。いったいどうなってしまっているのか。
  彼女たちは皆、青年に好意をもつどころか、彼を愛してしまっているかのようにさえみえてしまうのだ。
 これを真っ向から受け止めることなどとうていできない。現代社会が抱える青少年の凶悪な犯罪がかんたんに連想できる。人を殺してはいけないというモラルなどもはや通用せず、それを受け入れなければならないのだろうかという考えがふつふつと湧き出てくる。足元の砂がさらされとこぼれていくような、どうにもならない絶望感におそわれ背筋がゾッとなった。
 青年や女性たちの存在は、自分をだんだん空しい気分にさせる。芝居を観ているという確信がもてなくなるような、自分が信じられない気分に陥るのだ。
 何事もなかったような、あっけらかんとしたズッコのほほ笑みは不気味だった。舞台いっぱいに現れた太陽にも眼がくらんた。
  でもそれ以上に、めまいの原因は理解できない者たちへの恐怖なのだ。
 ズッコにしろ、少女にしろ、母親にしろ。彼らのあっけらかんとした言動は私たちの社会から大きく逸脱している。彼らの存在を目の当たりにしたとき、全く共感できないことへのあまりの恐怖にめまいを覚えることしかできなかったのだ。と同時に、記憶に鮮烈な印象を残した作品であったことは間違いない。        
(三月十六日観劇)

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「ロベルトを探せ」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 わたしたちは多くの公演のなかから、何らかの理由によってみにいくものを決める。
  それがアンケートの「この公演をご覧になったきっかけは?」という質問の答である。    
  たいていは「今回の公演を何によってお知りになりましたか?」と同義になっていて、チラシやポスター、雑誌の記事などの項目が並ぶ。この質問は、実を言うとわたしにとってあまり重要ではない。あくまでチラシが知らせている内容が決め手であって、たとえばチラシのデザインが素敵だったのでこのお芝居をみようと決めることにはならないからだ(これは公演を行う側がどんな手段がより効果的であるかを知るために必要な項目であろう)。
 ときには「この公演を選んだ理由は?」と少々突っ込んだ質問が続くときもある。俳優、演出家、戯曲、劇場など「あてはまるものはいくつでもどうぞ」とあるのだが、ここでわたしははたと困惑してしまうのだ。
 たしかに主演俳優の堤真一には以前から関心があって、彼が出演することは大きな理由だが、それだけではない。彼が演出家の佐藤信と組むのは今回が二回めだ。最初の『ライフ・イン・ザ・シアター』のときはこうだったし…と考えはじめるともうだめだ。
 簡単に理由を限定することなどできない。少なくともここ数年、ひょっとすると自分の演劇歴ぜんたいにかかわる問題になるからである。
 もっと困るのは「今回の公演はいかがでしたか?」という質問だ。
 とてもよかった・よかった・普通・あまりよくなかった・よくなかった。旅館に置いてあるアンケートじゃあるまいし、だいたい「普通」なんて、どういう意味でしょうか。
 舞台を見終わったあとの感覚は日常と非日常との狭間にあって混沌としている。だからこんなに大ざっぱな区別の仕方で自分の感覚をあるひとつの方向に位置づけることは難しいし、したくないのである。
  仮に「とてもよかった」と感じたとしよう。
  ここにまっさきにマルをつけたい。しかしそうしたら、どんなところが、どのようによかったのかも書きたいではないか。
 今回もわたしはアンケート用紙には記入しなかった。だが気がつくと「なぜこの舞台をみにきたのか?」「何をみたかったのか?」「どう思ったのか?」と頭のなかがアンケート状態になっている(注*今回の公演は世田谷パブリックシアターとシアタートラム専用のアンケート用紙なので、前述の質問事項とは内容が少し異なっている)。
 主演の堤真一はよかった。このロベルト・ズッコはなかなかやっかいな人物である。なにしろはっきりした動機もないのに次々と殺人を繰り返しながら逃走するのである。かといってひたすら捕まりたくないということでもなさそうだ。人物の心理を深く読み込んだり、真っ正面から人物像の造形に取り組んでも失敗するだろう。これまで彼がtptなどの公演で経験してきた役作りの方法が通用しない難役ではないか。
 しかし堤はあくまで軽く、演じる側の苦労など(おそらく相当なものだったと察するが)あからさまに感じさせることなく、休憩なしの一時間四十五分の舞台を疾走した。
 思いつきや偶然の産物ではなく、これまでの積み重ねがあってこそ、こういう「突き抜けた」感じが出せるのである。また考えてみると彼は舞台でこそ二枚目的な役柄が多いが、たとえばサブ監督の映画『ポストマンブルース』や『アンラッキーモンキー』では、これといって特徴のない人物がエキセントリックな行動をしたり、奇怪な事件に巻き込まれたりする様子を飄々と演じている。不条理な展開や結末のわかりにくい話という点で、映画の堤と今回のロベルトは共通点が感じられる。
 このように堤真一だけをみている分には退屈する間もなく、しかもわたしは最前列での観劇だ。表情の微妙な変化も見逃さず、かすかな息づかいまで感じられる近さで、そういう意味では堪能したと言ってもよい。しかしそうすると、もし主演が堤でなかったらいったいわたしはこの作品をどうみたのかと自問してみても、もはや想像することさえできないありさまなのであった。
  演出家の佐藤信は『ロベルト・ズッコ』を「コミックス的展開をやれる」とパンフレットで述べているし、「上質のコミックスのよう」とした劇評もあったが、わたしにはよくわからない。
  コミックスと漫画の違いは?
 このように、演出家や批評家の弁にもほとんど手がかりはなさそうである。
 観劇してから一ヶ月以上たってもわたしの『ロベルト・ズッコ』考は明確な形にならず、この舞台がわたしの演劇歴にどのような意味を持つのか、どんな位置づけになるのかという答はいまだに出てこない。
 しかしわたしは「お目当ての堤真一がよかったからそれでいいわ」と納得できず、じたばたしている。
 たったひとつわかったのは、、一度きりの『ロベルト・ズッコ』を活かすも殺すも今後の自分次第であるということだ。
 なぜこの芝居を選んだのか。常に自分の内部に理由を、いや、よりポジティブな「動機」と言ったほうがよい。その「動機」に対して実際の舞台が自分の心にどう響いたかを探ること。それにはやはり堤真一のロベルトから始めるしかないだろう。
 ロベルトを探せ。ロベルトに強姦されながらも彼を追い続ける、あの少しおつむの弱い少女(犬山犬子)のように。
  舞台のロベルトは再逮捕の後また脱獄を図って転落死した。しかしわたしの中で彼は今も「脳みそを走る電気のよう」に(朝日新聞掲載の堤真一のコメント)逃走中なのである。        
(三月九日観劇)

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