えびす組劇場見聞録:第41号(2012年9月発行)

第41号のおしながき 

 今回は俳優特集 

舞台を何本見たかは数えても、舞台俳優を何人見たかを数えることはありません。
これまでに出会った無数の俳優達の中から、「あの人」を選んで語ります。

劇団フライングステージ 関根信一         早乙女太一
段田安則と「叔母との旅」の男たち         古河耕史

「ほんとうの関根さんを探して 〜ドラァグクィーンもお母さんも〜 関根信一 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「二十年後への期待」 早乙女太一 by コンスタンツェ・アンドウ
「これからもずっと」 古河耕史 by C・M・スペンサー
「お楽しみはこれから」 段田安則 by マーガレット伊万里
○●○ 劇場賛江 設置御礼かたがた ○●○  

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「ほんとうの関根さんを探して 〜ドラァグクイーンもお母さんも〜」     
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  ナチス強制収容所の極限状態における壮絶な愛を描いたマーティン・シャーマンの『BENT』や、作者のハーヴィ・ファイアスティーンの自伝的作品と言われる『トーチソング・トリロジー』など、セクシャルマイノリティを扱った演劇は数おおく存在する。
 中心的なテーマにしないまでも、設定のひとつとして劇中にゲイが登場することは珍しくない。物語を弾ませる「飛び道具」であったり、「あの人がゲイだったとは」と、登場人物の関係に複雑な影を落とす「隠し玉」であったり。演じる俳優については、前者ならオネエ路線全開の「オカマぶり」を、後者の場合は密やかで妖艶な造形を楽しむ。
 実を言うと「演じている俳優さんたちはみんな普通の男性なのだ」とずっと信じ切っていた。カミングアウトした作家やアーティストのことは多少知っている。
  しかし自分の現実から遥か遠い別世界、いわば架空の存在のようなもので、まことに単純で幼稚な思い込みだが、まぎれもない実感であった。
 これを揺さぶる強烈な存在となったのが劇団フライングステージを主宰し、作、演出、出演も兼ねる関根信一である。一九九二年に『NOT ALONE』で旗揚げ以来、今年七月の第三十七回公演『ワンダフル・ワールド』まで、セクシャルマイノリティにこだわった舞台を作りつづけている。
 関根は自身がゲイであることを公言しており、劇団員や客演陣もすべてではないがゲイの方が多いようだ。敢えて失礼な言い方をおゆるしいただければ、「ゲイの芝居を、ほんもののゲイがやっている」という図式なのである。観劇仲間からは「まんまですね」と言われ、返すことばがなかった。
 劇作家関根信一はいわゆるウェルメイド劇の名手であり、演出家としては、その人物の作品ぜんたいにおける位置づけやバランスを的確に把握した上で俳優の個性を活かす。つまり極めてオーソドックスな劇作家であり、演出家なのである。
 俳優としての関根信一を考えるとき、大きくわけて次の二つが思い浮かぶ。
 まず「ドラァグクィーン」。これは主に男性の同性愛者が厚化粧に派手な衣装で歌い踊るもので、女性の性をパロディ化して遊ぶことを目的としたパフォーマンスだ。関根はしばしば、極彩色の羽飾りをからだじゅうにつけたドラァグクィーンに扮して、大いに気を吐く。
 もうひとつは最近の数作における、非常に地味な人物である。たとえば昨年の『ハッピー・ジャーニー』ではゲイの息子を亡くした母親、今回の『ワンダフル・ワールド』ではゲイのカップルに部屋を貸している大家さんで、どちらもエプロンが似合う面倒見のよい「おばさん」だ。とくに前者では、息子をじゅうぶんに理解できなかった後悔をにじませながら、札幌で行われるレインボーマーチ(注:セクシャルマイノリティの人々が社会との共生を訴える催し)に参加するゲイたちが、「みんな自分の息子みたいに思えてね」と語るしみじみとした風情に圧倒的な説得力があった。
 しかしこの役は同じ年ごろの女優が演じてもかまわないのではないかという疑問がわく。期待するほど派手な女装もしないのに、わざわざゲイの俳優が演じる必然性は、そしてそもそも自分は俳優の関根信一に何を求めているのか?
 たっぷりの女装とめいっぱいのオネエ演技で舞台を盛り上げ、「今回もやはり出たか」というフライングステージならではの、いわば「お約束」であるドラァグクィーンは観劇の大きな楽しみである。
 いっぽうで、劇世界というより関根さんそのもの、まさに「まんま」を見せられている印象は否めない。「ぼくはゲイです」と公言する関根信一その人だけが強烈に存在する。そこから先に想像は及ばない。
 対してゲイの息子を亡くした母親役の場合、関根を通して母と息子りょうほうの思いが想起させられるのである。目の前にいるのは、母親であると同時に息子なのだ。
 セクシュアリティにまつわる自分の単純で狭量な既成概念がゆるやかにほどけ、セクシュアリティに特化されない、普遍的な家族の物語として自然に受けとめ、考える。
 ゲイの男性が女性を演じる。ある意味で無理があり、不自然だ。家族のなかにゲイがいる。平凡とは言えない。
 しかし舞台における関根の存在は自然不自然、平凡非凡の表層的な感覚を越えて、ニュートラルな地点へ観客を運んでゆく。その造形はセクシュアリティがもつ特殊性を戦略のひとつとして巧みに用いながら、決して小手先の手法に陥らない。誰かを演じる、ふりをするという演劇の虚構性を逆手にとりつつ、劇世界を通して観客をみずからの心の奥底へ導くのだ。
 ゲイである人が、ゲイの世界を舞台で描く。なるほど「まんま」であるが、そこにいるのはむき出しの俳優自身ではない。ドラァグクィーンもお母さんも関根信一の一部であって、すべてではないのだ。「まんま」とみせておきながら「まんま」でない俳優関根信一には、まだ違う顔があるはず。 
 舞台においてどういうあり方が彼にとってもっとも自然で自分らしいのか、それを知りたい。
 ほんとうの関根さんを探そう。
 フライングステージの舞台に通いつづける自分の課題である。

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「二十年後への期待」
コンスタンツェ・アンドウ
 星の数ほどある劇場の、どこに足を運ぶかを選ぶとき、「この人が出るなら必ず」という俳優が数人いる。昨年、その中に加わったのが、早乙女太一だ。
 きっかけは劇団☆新感線『髑髏城の七人』(二○十一年八月・梅田芸術劇場、九月・青山劇場)、無界屋蘭兵衛イコール森蘭丸という設定の役を演じていた。
 かつて信長オタクだった私は、「信長役」や「蘭丸役」に対して無駄に厳しいのだが、早乙女は、やや作り物めいた、中性的で怜悧な美貌と厭世的なムードで、「本能寺で死ねなかった蘭丸」像を納得させてくれた。更に、天魔王(森山未来)との、優雅かつスピード感溢れる立ち回りが絶品で、俄然、早乙女太一という俳優に興味が湧いた。
 調べてみると、十月にかつしかシンフォニーヒルズで「劇団朱雀」の公演がある。珍しく予定がない週末だ。「百年に一人」と謳われる女形にも期待して、チケットを取った。
 一本目の『天保水滸伝』は、江戸のやくざ物。面白くない…を通り越し、どうしたらこんなにスカスカな芝居になるのか、不思議だった。脚本も演出も装置も創意工夫がうかがえず、出演者には素人くささが残る。場所や料金を思えば、「大衆演劇だから」では済まされない。早乙女は、義理と人情の間で揺れる剣の使い手を演じたが、『髑髏城』では魅力的だった「陰」な雰囲気が、主役となると悪い方へ働き、ボソボソとした台詞も手伝って単調な出来。見どころは最後の立ち回りのみだった。
 二本目は舞踊『絵島』。早乙女扮する大奥御年寄・絵島は、こってりとした色気と刺すような冷たさを湛え、あたりを払う美しさ。これは想像以上で、一挙手一投足全てに目を奪われた。台詞や歌はなく、舞踊というより、女形をいかに美しく見せるか、という一点に集中したパフォーマンス的な要素が強い。絵島の相手役・生島も演じ、ダンスやアクションも披露したが、早乙女が出ない場面は野暮ったく退屈で、作品としては不満も残った。
 が、結局、綺麗なものには弱い。ロビーで微笑む早乙女を見ながら、次の公演の算段を始めた。(翌年から、終演後のお見送りは実施されなくなった。)
 一月は『龍と牡丹2012』(銀河劇場)。一部は女形舞踊。ストーリーはなく、早乙女と、その他の出演者の場面の繰り返しだが、お屠蘇気分で美しい姿を堪能した。二部は素顔で、男姿の舞踊の他、タップや和太鼓等、芸達者ぶりを見せた。「YouTube再生二百万回超」なる「影絵」は、早乙女が、幕と同じ大きさの白いスクリーンに映る様々な「影」(自身の影も含む)と剣を交える趣向。完成度も高く応用もきくので、財産演目となるのも頷けた。
 四月は明治座での座長公演。一部『GOEMON』は、定番化した感のある無国籍風時代劇で、大劇場に慣れた岡村俊一の演出、波野久里子・山本亨らの助演を得て、娯楽作になっていた。早乙女は、多彩なアクションをこなし、その身体能力に驚かされたが、やはり台詞が弱い。二部の舞踊は一月に近い内容で、「影絵」も上演されたが、左右の客席からも楽しめたのだろうか。
 五月は再び劇団公演で群馬音楽センターへ。芝居『伴天連鬼十郎』は、盗賊の親分と生き別れた姉妹の人情話だが、十月の芝居よりも更に内容が悪く、やっつけ仕事のよう。「芝居」に接する機会が多くはない各地の観客に、「芝居」そのものに失望されそうで、不安になった。舞踊も、二千人近くを収容する大空間では、よほど前方に座るか、オペラグラスを使わない限り、早乙女の容姿だけで五十分前後は持たないだろう。
 七月はGACKT主演の「義経秘伝」(赤坂ACTシアター)。当て書きと思える役どころで、「影絵」を取り入れた場面もあり、求められたものを粛々と演じている、という印象だった。
 色々書いたが、劇団公演を否定はしないし、私はまた行く予定である。しかし、今後も全国の大ホールを回るのなら、力量のある作家や演出家を呼んで演目を吟味し、客演も視野に共演者のレベルを上げなければ、観客の期待を裏切ることになる。
 早乙女には、常に正面を切るスターの明るさと、力強く的確な台詞術が欲しい。それらを自在に操れるようになれば、俳優としての存在感が増すはずだ。「今すぐ」とは思っていない。まだ二十一歳。普通なら、舞台俳優としてのスタートラインに立つ年齢だ。ゆっくりと、変化を見続けたい。
 そして、あと二つ、期待を抱いている。
 一つは、ジャンルとして先細りの状態にある「和物のショー」の復権。早乙女だけでなく、作品全体を楽しめる、洗練されたショーが見たい。現在の舞台をグレードアップするには、やはり、スタッフが要となる。
 もう一つは、純粋な「舞踊劇」の創作。今まで、面白い舞踊劇に出会ったことがない。壁が高いことは百も承知だが、大衆演劇と日本舞踊がコラボし、お互いの特性を上手く融合させれば、何かが変わると思う。
 十年、二十年先で良い。見届ける自信もない。しかし、期待を託せる俳優を見に、劇場へ通える楽しさは、また格別である。

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「これからもずっと」     
C・M・スペンサー
 特定の俳優に着目するきっかけとして私の場合、初めて観た芝居でその資質から目が離せなくなる場合と、幾度となく観ているうちに、その努力から成長する姿を見守りたくなる場合とがある。今回は前者について、中でもかなり早い時期から注目している俳優について書こうと思う。
 十年ほど前のこと、古くからの友人が文学座附属研究所の研修生になった。そんな縁で、その前の、入所してわずか一年の本科で学ぶ俳優たちに関心を持った。○五年二月の卒業発表会。丸めた背中が語る姿に一目置いた青年がいた。しかしその後、あの青年を劇団で見ることはなかった。それでも長いこと観客として磨き培った自分の感性を信じて、いつか必ずどこかの舞台で出会えるだろうと思った。
 三年余りを経た○八年五月、新国立劇場で『オットーと呼ばれる日本人』を観た。演出は鵜山仁。一九四一年のスパイゾルゲ事件をモチーフにした、緊迫感のある作品である。登場人物の、上海で活動する学生、その彼に見覚えがあった。プログラムに目を落とすと、三年前に一目置いた、あの青年だ。再び目の前の舞台に現れた彼は、より繊細な演技者となっていた。
 その俳優の名は、古河耕史。プリッシマ所属。卒業発表会を終えると、新国立劇場が開設した演劇研修所に一期生として入所していた。その間のことは知る由もないが、三年間を研修所で過ごし、新国立のこの作品でデビューした。
 誰が見ても演技者としての資質は明らかだったようだ。それから間もなく、前川知大が作・演出するイキウメ『図書館的人生vol・2 盾と矛』に出演する。オムニバスで構成される作品の一話、やさしい人の業火な「懐石」。同情心から、路上で袋叩きにされた見ず知らずの青年を自宅に連れ帰った男性。案じるその男の妻。古河の演じる傷ついた子犬のような青年が、妻の懸念どおりに犯罪者に豹変する。招き入れた夫婦に移入して観ていると、徐々に抱く不安が現実のものとなっていくその過程、怖さを味わった。あり得ることかもしれない。イキウメのカルトとは、この心理的な怖さなのか。古河の、静かに、そして冷徹に、人の奥に潜む凶暴性が引き出されていく表現の力に圧倒された。と同時に、初めて観るイキウメの世界観にハマった。
 ○九年、イキウメの『関数ドミノ』にも続いて出演。世界はある特定の人間を中心に回っていると考え、他の人間の運命はそのために調整されているに過ぎないという「ドミノ幻想」。架空の設定だ。中心のドミノが思うことにより結果が現れる。誰がそのドミノなのか、次第に犯人探しとなっていく。古河は、その力を妬み、執拗に追求する人物を演じた。しかし自身が実はドミノなのだと自覚する瞬間の怖さ。描かれていない「それから」を想像し、背筋が凍った。観客の思考をワシ掴みにして、パッと掌を返す前川知大の世界を、古河はここでも見事に体現した。この作品で、世間にもその存在を知らしめた感がある。演劇雑誌「悲劇喜劇」に彼の演技を称える評が掲載されていた。
 そして、鴻上尚史が主催する虚構の劇団へ客演。一○年の『監視カメラが忘れたアリア』再演では、主演に抜擢されていた。ここでは等身大の青年の姿を見ることができた。その後も『エゴ・サーチ』『アンダー・ザ・ロウズ』と、虚構の劇団での主演が続く。彼に期待されるのは、胸の内に想いを秘めた人物だ。秘め事があるほど、色気が漂う。新たな一面を見せた。
 ところで、古河の所属する事務所のサイトに所属俳優のブログがある。彼が発する言葉は詩的だ。文章には無造作に見えて、その実、選ばれたであろう短い言葉が並ぶ。静かな口調の奥にある想いが、単語ひとつひとつに込められている。まるで彼の演技そのものだ。時には俳優とは別の仕事について語られるが、その感性から、表現者として存在することを認識する。生活も、見つめる彼の視点の全てが演技の糧になっているのだ。
 昨年九月には、こまつ座の『キネマの天地』への出演を果たした。プライド高き大女優たちが登場する物語である。実際に名を連ねる出演者も凄かった。そこでの役どころは助監督。どんでん返しの作品に、何事も無かったかのような顔をして少々疑惑のスパイスをふりかける。それは言うなれば彼の得意技、いや魅力の一つなのだ。
 映像にも活動の場が広がる。テレビの二分間のショートストーリードラマ『階段のうた シーズン6』を見た方はいるだろうか。市川実日子が扮する詩人の夫役。何も語らず、妻とともに旅をする。妻は詩を書いてはその紙を夫のポケットに滑り込ませる。友人同士のような二人の関係が、毎回観る者の想像力をやんわりと刺激する。そんな癒しの表情を見せていた。
 今年は既に舞台を二本終えた。十月末に虚構の劇団公演を控え、出演する映画も公開されるという。さらに来年三月、新国立劇場演劇研修所の修了生として『長い墓標の列』に出演する。新国立劇場のシリーズ企画だ。彼が発する言葉もまた彼自身であるように、じっくりと独自の思考を通して演じられる人物像とこれからも出会えることが喜びとなった。
※ 演劇研修所修了生の活動は、新国立劇場の研修所サイト「修了生情報」で知ることができます。

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「お楽しみはこれから」
マーガレット伊万里
 シス・カンパニー公演「叔母との旅」を観る。二〇一〇年に上演され、読売演劇大賞優秀作品賞他を受賞。今回は同じスタッフ・役者による再演である。残念ながら初演を見逃しており初めての観劇。
原作はグレアム・グリーンの四十年以上前の小説で、演出は松村武。出演は、段田安則、浅野和之、高橋克実、鈴木浩介(劇化:ジャイルズ・ハヴァガル、翻訳:小田島恒志 八月二日〜十五日 青山円形劇場)。期待に違わない、演劇ならではの醍醐味が十二分味わえる作品だ。
 舞台はイギリス。銀行を退職した五十五歳の独身男ヘンリーは、のんびりとした引退生活を送っている。しかし母の葬儀の日、実は亡くなった母が実母ではなかったことを叔母のオーガスタから知らされる。
 数十年ぶりに出会った七十六歳の叔母は旅のお供をさがしており、身の回りの世話を焼いてくれた男が叔母の家を出て行くというので、ちょうどいいといわんばかりにヘンリーに白羽の矢がささる。彼は引きずられるようにして、オーガスタと共に、ブライトン、ベニス、イスタンブール、ローマ、パリ、最後は南米のパラグアイまで各地を飛びるハメになる。
 オーガスタは愛嬌があるものの猪突猛進で後先考えず行動するタイプ。銀行員人生を勤め上げたヘンリーとはウマが合うはずなく、これまでの価値観を覆す犯罪すれすれのアドベンチャーとなる。
 何もない円形の舞台上で、二十以上の役を四人の俳優だけで演じ分ける。全員スーツ姿のまま衣装やメイクを変えることもない。ちょっと気を抜くと置いていかれそうになるスピーディーな展開で、小野寺修二のステージングが効果的。装置や小道具もほんのわずか。観客の想像力をフルに働かせる劇世界を構築し、油ののった男優それぞれが持ち味を発揮、堂に入った演技がたっぷり味わえる。
 自宅の本に挟まっていた写真を見つけたヘンリーは、実はオーガスタが生みの母であるとうすうす気づいている。最後のパラグアイの地で、二人は確信をもって近づくのだが、そこに観客が期待するような親子の感傷的な告白はなく、物語が流れていくあたり戯曲のユニークなところ。オーガスタがダンスを踊るラストは、自分の信じるままに人生を謳歌してきた人間の喜びに満ちていて忘れられないシーンとなった。
 結局、実の母との旅は、ヘンリーにとって第二の人生へのまさしく旅立ちとなる。
 ヘンリー役は四人がかわるがわる演じるものの、叔母のオーガスタは、段田安則一人が演じる。身ぶり手ぶりは老女を模し、声のトーンも上げているが、もちろんスーツのまま。最初はヘンリー役も演じているが、しだいにオーガスタの比重が大きくなってゆく。かといってオーバーに女性を演じているふうでもなく、自然といったらちょっとそぐわないかもしれないが、役の切り替えが瞬時かつ観客に考える間をとらせないほど早いのは見事だった。
 四人の出演者は、どこかの劇場へ足を運べば必ずお目にかかるほどの人気と実力を兼ね備えた役者ばかり。段田もこの公演の直前まで、別の作品に出演していた。再演とはいえ、二年前の公演であるから、それなりの稽古期間をとっていたであろう。かといって必要以上に汗の部分を感じさせないところがまた憎い。
 段田は今年ヘンリーとちょうど同い年の五十五歳。八十年代劇団夢の遊民社での活躍以来、三十年以上のキャリアを積んでいるが、いい意味でその当時の印象とあまり変わらない空気感と雰囲気を持ち続けている人。二〇〇七年には第十四回読売演劇大賞グランプリおよび最優秀男優賞、第六回朝日舞台芸術賞を受賞し、日本を代表する役者の一人といえる。
 数多くの舞台出演があるなかで、あまりに偏った感想になるかもしれないが、数年前に見たBunkamura製作の「どん底」(二〇〇八年)の段田を今も思い出す。地下の薄暗い木賃宿に暮らすさまざまな人間を描いた群像劇だったが、人々の前に突然やってくる巡礼者ルカ役を段田が演じていた。貧しいその日暮らしの人々に夢や希望を与えるという示唆にとんだ役で、下手をすると説教臭くなりがちなところを、押しつけがましくなく演じていてはまり役だと思った。
 今回の出演者の中で一番小柄で、たたずまいはどちらかというと控えめ。しかし一旦口を開けば、抑制のきいたせりふ回しに温かみや安定感がある。自分のカラーを明確に出すタイプではないようだが、観客の期待をいい意味で裏切るような面を今後もみせてほしい。
 ほかの三人の実際の年齢も調べてみる。浅野和之五十八歳。高橋克実五十一歳。鈴木浩介は彼らよりひと回り以上若くて三十七歳。
 五十代のおじさまが主人公の作品自体あまり見かけない。王子様や無敵のヒーローを演じる青年俳優に女子は目がいきがちだけれども、日本の演劇界を牽引するおじさま達が活躍する作品の上演がもっとあっていい。
(八月六日観劇)

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 『劇場讃江 設置御礼かたがた』  

◆【文学座アトリエ】
厳しくて怖いけれど大好きな先生。ここはその先生そのもののような場所です。先生にはもう会えない。でも行けば必ず、「よく来ましたね」と迎えてくださる懐かしい声が聞こえてくるのです。(ビ)



◆【京都芸術センター】
夜の早い京都で、観光の後に何度か展覧会(無料!)へ行きました。舞台も含めたアート全般のイベントが豊富で、どれも魅力的。家の近くにあったら、入り浸ってしまいそうです。(コン)



◆【神奈川芸術劇場】
通称KAAT。複数のスタジオとホール、多彩な才能と出会える場所。歴史ある建造物に囲まれて、異国の香りもするヨコハマにあります。劇場のテーマは「3つのつくる」。その内容はKAATのサイトで。(C)



◆【こまばアゴラ劇場】
もはや単なる劇場という存在ではありません。今活躍する何人もの若手演劇人を輩出し、この劇場抜きに演劇は語れません。(万)

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