えびす組劇場見聞録:第5号(2000年9月発行)

第5号のおしながき

「Naked−裸」 ベニサン・ピット 5/26〜6/6, 7/7〜16
「キレイ 神様と待ち合わせした女 シアターコクーン 6/13〜30
「オケピ!」 青山劇場 6/6〜7/9
「Naked−裸 〜中嶋朋子の持ち味 「Naked−裸」 by C・M・スペンサー
「あの場所に戻らなければ」 「キレイ」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「松尾スズキの心意気」 「キレイ」 by マーガレット伊万里
「観客の理想と現実」 「オケピ!」 by コンスタンツェ・アンドウ

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「Naked−裸〜中嶋朋子の持ち味
C・M・スペンサー
 tptで六月と七月に上演されたルイジ・ピランデッロ作、デヴィッド・ルヴォー演出の『Naked-裸』。作品のタイトルからして、この斬新な響きはいかにもルヴォーの演出そのものだと感じた。
  自殺未遂をしたエルシリアが小説家ルドヴィゴに引き取られて彼のアパートにやって来た。彼女の身の上話を聞いた大家のオノリアは、できるだけ彼女の心の傷が癒えるよう、協力的に振る舞っていた。そして彼女を取り巻く人々は皆、彼女に手を差しのべているかのように見えた。
  しかし、結局周囲の人間が、彼ら自身も気づかぬうちにますます彼女を追いつめていった。人々は彼女にいろいろなもの、つまりは噂・罪・憐れみなどを着せて彼女を見ていた。
 ルドヴィゴ(三木敏彦)は自殺未遂したエルシリア(中嶋朋子)の境遇と美しさからインスピレーションを受け、彼女を小説のモデルにしようと病院から連れて来た。
 彼の大家のオノリア(大森暁美)は、新聞の記事を読んで彼女を憐れみ、悲劇のヒロイン扱いしていた。
 彼女の記事を書いた新聞記者(山本亨)は、彼の書いた記事に圧力がかけられるのを知って、執拗に彼女につきまとっている。
 彼女のかつての恋人であった元海軍大尉のフランコ(岡本健一)は、彼女は自分が原因で自殺を図ったのではないかと思い込み、自分のメンツのために彼女に会いに押しかけてきた。
 彼女の雇い主であった領事のグロッティ(堤真一)は、自分の評判に傷がつくことを恐れながらも彼自身の欲望から彼女に近づこうとする。彼女が自分の思うままになると信じて。
 果たして彼女の本心は…。
 彼女は周囲の人間から、これだけ多くの「衣」を着せられていた。最初の自殺の時から、彼女は死をもって自分の本当の姿を世間に知らしめようとしていた。しかし未遂であったため、記事になった彼女の姿は皮肉にもより彼女の本心とは遠い姿で世間に知れ渡ることになった。
 現実には他人にこんな風に見られたいと自分自身を誇張して、あるいは作って見栄を張る人々のなんと多いことか。彼女はあまりにも純粋で正直だったのかもしれない。誰一人として本当の彼女を知ろうとしないことが、彼女を苦しめていた。
 そんなエルシリアの苦しみと寂しさを、中嶋朋子はよく伝えていた。一見すると、か弱い印象のある彼女だが、彼女の心に触れた途端に苦悩や決意が伝わってくる。もちろん役の上のという意味だが、エルシリアが何を考え、どうするのか、常に彼女の行動から目が離せなかった。
 彼女は二月に世田谷パブリックシアターで上演された『ロベルト・ズッコ』でも、観る者を惹きつけて共感させる存在であった。特別なようで、実は等身大の人物。これが中嶋朋子の演じる人物の特徴とさえ私は思う。彼女はいつも神秘性を秘めて私達の前に現れるのである。
 tptのデヴィッド・ルヴォー演出作品には、一九九七年『燈台』、一九九九年『愛の勝利』、そして本作品に出演し、その感性にますます磨きをかけていった。
 最後に、エルシリアは再び死を選んだ。以前の彼女を知るにつけ、自殺未遂後に出会った人々は、最初の自殺が彼女の狂言だったのではという疑いまで持ち始めていた。最初から彼女は自分がどういう人物なのか訴えていたのだが、周囲は自分達が納得するのに都合のいいエルシリア像を作り上げていたに過ぎないというのに。そして彼女は再び死をもって自分の意志を表現した。
 その場面ではスクリーンに全裸(Naked)の女性が浴槽に入る後ろ姿が何度も何度も繰り返し映し出された。人間の飾らない本当の姿を私達に記憶させるかのように、繰り返し繰り返し。最後はルヴォーらしい、美しい舞台で幕を閉じた。
  作品全体について述べると、開幕してから間もなくの観劇であったためか、ルヴォー作品には珍しく、狭い舞台上の一部屋で人物が行き交っているだけなのに、誰もかれもが相手の芝居を受け止めていないのではないかと思ったほどだった。個々にはそれぞれの演技をしてはいたのだが、それが誰に対してなのか相手の存在が感じられなかったのが残念だった。しかしその分、中嶋朋子のエルシリアとしての存在が強く印象に残った。

六月五日観劇)

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「あの場所に戻らなければ」
ビアトリス・ドウ・ボヌール
 今回わたしは舞台をみながら話の筋を追ったり、意味を考えたりすることをやめてみた。目の前で起こっていることをただただ楽しみ、おもしろがるだけにしたのだ。おかげで三時間半の長丁場でもそれほど疲れなかったし、新聞評にあった「脇筋が多くてわかりづらい」とも感じなかった。筋を追わないのだから。文学座やtptの観劇よりうんと楽だった。何も考えないのだから。
 しかしあろうことか、わたしはこの舞台について何か書こうかなどとつい、思ってしまったのである。結局戯曲を読むことになった。
  舞台は架空の日本。三つの民族が百年も紛争を続けている。ある集団に誘拐されて地下室に十年間監禁されていた少女(奥菜恵)はそこを脱出してケガレと名乗る。過去の記憶はない。死体回収業者のカネコ一家(片桐はいり、阿部サダヲ、宮藤官九郎ほか)の仲間になり、新しい人生を歩き出す。成長したケガレはミサ(南果歩)と名を替え、数奇な運命ののち再び地下室へ戻って過去の自分と出会い、もう一度生き直す決意をする…状況設定こそ荒唐無稽なSFのようだが、話の核の部分は実に奥深いではないか。松尾スズキのくねくねした動きだの、荒川良々の妙な雰囲気だのにバカ笑いしている場合ではないぞ。
 わたしは戯曲を繰り返し読み、劇場で感じたおもしろさを反芻するとともに、松尾スズキが描こうとしたことの深さに心を激しく揺すぶられた。
 これはある一人の女性が自己を再構築する物語なのである。人が生きていくことは、それだけで美しさも醜さも強さも弱さもぎっしり詰まった劇的なことなのだ。それをそのまま舞台に乗せても演劇としてじゅうぶん成立する。しかしそこに迷路のような脇筋を加え、さまざまな仕掛けを作り、ストレートな表現から距離を置いている点が松尾スズキの手法であるといえよう。
 いろいろな点で正攻法ではない。
 ミュージカルと銘打っているのに、出演者のほとんどが歌もダンスもいまひとつである。
  歌で聴かせるところは阿部サダヲのソロによる「俺よりバカがいた」のみではないか。
  阿部が達者なのには驚いたが、このナンバーはいかにもさぁこれからミュージカルっぽいものをご覧にいれましょうという意図ありありというか、目的はそれだけで一種のギャグの変形であり、ミュージカルの歌として機能しているかどうかは疑問である。
 そして何より、主人公ケガレを演じた奥菜恵の起用であろう。台詞は舌足らず、歌も音程が危なっかしい。なのにそれがちっともマイナスに感じられなかったのだ。
 キネコ(片桐)から「死体を見つけたら千円やる」と小銭を投げられ、「キレイ!いい匂い」と叫ぶ。そのひと言がほんとうに無垢で幼くて、胸をうつ。「千円!千円!」と叫びながら死体を探して荷車をひく姿。「わたしのケチはねえ、汽車を停めるよ!」。意味不明だがわたしは涙が出そうになった。
 自分が偽善者であることに苦しむ令嬢カスミ(秋山菜津子)との堂々としたやりとりは特筆ものである。
 秋山は台詞も明晰で、すらりとしたなかなかの美形だが、激しい三枚目的演技もこなす曲者である。そういう相手に対し、負けてなるものかと自分も技術を総動員して立ち向かうという方法もあるが、奥菜にはそういう様子がほとんどない。自分のペースを崩さない。
 それが今回の舞台にアンバランスなおもしろさを醸し出しているのである。
 奥菜恵は共演した南果歩や片桐はいり、秋山菜津子と比べれば女優として明らかに未熟である。まず年齢が若いし、舞台女優としてのキャリアも違う。なのにその違いがマイナスどころか、むしろプラスに作用していることに驚く。こういうこともあるのか。
  奥菜は大まじめの熱演である。こんな可愛らしい女の子が、よりによって松尾スズキの舞台にでるなんて、よく頑張っているというか、大丈夫なのかと思う。涙がでるくらいである。一生懸命な感じがとても可愛い。
  しかもそれが押しつけがましくならないのはなかなか貴重な芸質であろう。
 ケガレが未来の自分を想像する場面がある。
 こんな世の中では未来の私は大変だろうな。おばさんになった私はへたりこんでんじゃないかな。
 「未来のあたし、よしよし、へたりこんでも、とりあえず。よしよしってしてやるよ、って。」と頭を撫でる動作をする。わたしはこのときの奥菜の「よしよし」という台詞の言い方がとても好きだ。子どもっぽい言い方なのに大きく温かい。舞台には大人になって実際へたりこんでいるミサ(南果歩)がいて、自分の未来を知らないケガレと疲れきったミサとが交差する、美しいシーンとなっている。
 やがてミサは地下室に戻って少女ミサと再会し、新しく歩き出す決心をする。
 胸をうつのは彼女が他者との関係ではなく、まず自分ひとりの足で立とうとしていることだ。子どもまで成したダイズ丸(古田新太)や夫となったハリコナ(阿部サダヲ。長じて篠井英介)など人生の同伴者を得て、その相手との交わりにおいて生きるのではなく、あくまで自分ひとりで歩こうとしていることだ。自分が自分の人生を歩くこと。人間の絶対的な孤独を突きつけられて慄然としながらも、そこから始めてこそ、他者との共存も可能になるのではないか。
 さぁ今度はわたしの番だ。客席で無責任に笑っていた自分に再会するため、あの場所に、シアターコクーンに戻らなければ。
 随分時間がかかってしまった。奥菜恵はこんなわたしを「お帰り、よく(もまあ)戻ってきたね。」と迎えてくれるだろうか。
(六月二十五日観劇)

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「松尾スズキの心意気」
マーガレット伊万理
 ここのところミュージカル公演が目白押しで、ミュージカル・ファンも驚きだが、たぶん馴染みのない人は、もっととまどったであろう。ミュージカルとは縁のない人だとばかり思っていた大人計画の松尾スズキや三谷幸喜までがオリジナル作品を作るという。
 ミュージカルはもともと欧米から輸入されたものだが、今や日本一の規模を誇る劇団四季や、宝塚歌劇、東宝ミュージカルなどでは、一部熱烈なファンを生んでいる。
 しかし、かたやミュージカルは気持ち悪いと毛嫌いするタイプの人も存在する。セリフをしゃべっていたと思うと、いきなりどこかから曲が流れ、役者にスポットライトが当たり歌い踊り出す。通行人だったはずの人までもが踊り始め、ついには全員が同じ振りで踊り上げる。
 冷静に見たら、気持ちが悪い。変じゃない? こう言われると、普段ミュージカルになんの疑問も抱いていない者は返答に困るだろう。
 そこへ登場したのが、松尾スズキ作・演出によるミュージカル『キレイ─神様と待ち合わせした女』だ。
 これには、誰のものとも違う、松尾スズキのミュージカルへの心意気を強く感じることができた。
 なんと言っても作者の独創的な視点が圧倒的だ。せりふ劇と比べたときのミュージカルの不自然さや違和感というものを、松尾スズキは自分の中できちんと捉えていて、それを一見あっけらかんと観客の目の前でやってみせた。そこが非常に笑える。
 しかし、ただミュージカルをばかにしているわけではない。
 たとえば、『マイ・フェア・レディ』の花売り娘イライザは、世界は私のものといわんばかりに「一晩中踊り明かしたい」を熱唱する。ところが、こんな陶酔のひとときも、本当はこんなことあるはずないよという思いが頭をかすめる瞬間があるはずだ。松尾スズキはここを見逃さない。
 スポットライトを浴びて、ばからしい歌詞を真剣に歌う『キレイ』の出演者達。真剣になればなるほど、その姿はけなげでおかしい。ミュージカルのウソの世界に浸っている観客の自分自身をも笑っているのに気づく。
 こんな世界、実はおかしい、笑っちゃうんだよ、ということを彼は大まじめに考えているのだ。
 フィナーレには舞台の真ん中で一人たたずむケガレ(奥菜恵)の前に、松尾スズキが正面を向いて堂々と立ちはだかった。小柄な奥菜は彼の陰にスッポリ隠れて全く見えない。
 主役をただただ邪魔するかのようにふさぎ、スポットを一人占めする松尾スズキ。
 奥菜恵は毎週のようにあらゆる雑誌の表紙を飾りTVドラマでも引っぱりだこ。そんな売れっ子ヒロインの邪魔をするとは。芝居を観ていることを忘れるほどに驚いてしまった。かつて朗々と歌うヒロインの邪魔をする演出家がどこにいただろうか。
 日本で観られるミュージカルは、欧米のスタイルを踏襲というよりは、あちらで上演された作品をそのまま翻訳上演することがほとんどだ。
 日本にオリジナル作品をという声の中から、音楽座などが生まれたりもしたが、そのスタイルはやはり欧米産から抜け出すにはいたっていない。
 タイトルにオリジナルとうたった作品も、これまで数多く試みられたけれど、オリジナルというからには、これぐらいの覚悟と潔さが必要なのではないかと思わせた。あまりの大胆さと潔さには恐れ入ってしまった。
 ただ、あちら側における迫力の群舞や歌唱力は望めるべくもないが、『キレイ』の作品上、その事には何の違和感もないし、考える必要もない。
 当然ながら、これまで多くの人々に支持されてきたミュージカルの存在があればこそ生まれた松尾スズキ・ミュージカル。
 現に彼はミュージカルが好きだというようなことをインタビューで言っていたし、大人計画では、過去にも同じような作品を上演しているということだ。作者の中にはミュージカルに対する笑いとともにあこがれや嫉妬が同居しているようにも感じるのだ。
 そして欠かせないのが音楽の存在。
 これは伊藤ヨタロウの起用が成功している。タンゴやロック、レビューに、アニメソング風など様々な音楽のスタイルが並べられ、言ってみれば節操がない。ところが、物語からすぐに脱線してしまう台本とうまくマッチし、バランスがとれていた。
 この「ゴッタ煮風」の音楽は、装置のデザインも手伝って、どこか懐かしい雰囲気で舞台全体を包み込む。
 どんな音楽のスタイルをも違和感なく取り込む日本人のセンスに通ずるものがあるのかもしれないと思った。
 今回の作品が新しいミュージカルの様式とは誰も思わないはずだが、スタイルをパロディーとして取り入れつつも、これは単なるアンチ・ミュージカルなどではない。
 松尾スズキ独自の世界を歌と踊りで構成した正真正銘オリジナル・ミュージカルと呼びたい。
六月十七日夜の部観劇)

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「観客の理想と現実」
コンスタンツェ・アンドウ
  『オケピ!』を三回見た。一度見た後改めてチケットを取ったのではなく、前売を三枚買った。「舞台全体を見る日」「真田広之を見る日」「山本耕史を見る日」を分けたかったからである。
 私は十数年来の真田ファンである。山本には、ごく最近、舞台俳優として興味を抱くようになった。自分の好きな俳優が出る舞台は、「見られただけで嬉しい」というミーハーな感想で終わりがちなので、内容を深く考えないのだが、今回は観劇数が多かった為か、意外と冷静に舞台そのものについて考えることができた。
 面白かった、と思う。まず、ミュージカル上演中のオーケストラピットで起こる数時間の出来事をミュージカルにする、というアイディアが良い。珍しく男性も多い観客は、笑って、少しホロっとして、台詞や歌に元気付けられる。カーテンコールでは、初日や千秋楽でもないのに立ち上がって拍手をする人もいた。これも珍しい。観客を長時間惹きつける三谷幸喜(脚本・作詞・演出)のテクニックは見事だった。
 音楽は生演奏(作曲・編曲・指揮、服部隆之)。帰りに口ずさめる曲も幾つかあり、全体的な歌唱レベルも高い。ダンスシーンはわずかだが、ミュージカルとしての形は整っていた。しかし、この作品が目指していたのは、今までのミュージカルとは一線を画したミュージカルではなかったのだろうか。
 私はあまりミュージカルに足を運ばないが、「見ず嫌い」ではない。それなりの数を見た上で、今の自分には合わないと思っているだけである。そこへ鳴り物入りで登場した『オケピ!』。新しいスタイルの作品に出会えるかと期待した。だが実際に舞台を見た感触は、普通のミュージカルと大差なかったのである。
 ジャズを本業とするトランペッターが「ミュージカルは嫌いだ」と歌う。普通に話せばすぐ終わるのに、何故歌うのか、普通に歩けばすぐたどり着くのに、何故踊るのか、と。ミュージカルの不自然さとして良く取り沙汰される点である。『オケピ!』でもそれは変わらない。オーケストラピットは音楽に満ちている場所だから、そこでなら人間が歌っても自然である、とは言えないだろう。
 逆に問おう。歌えない俳優が何故歌うのか。それも日本のミュージカルが抱える問題ではないのか。歌を否定する歌を抜群の歌い手が歌い上げれば、パロディーめいて面白かったかもしれないが、伊原剛志にそれは望めなかった。三谷は、自分がミュージカルを好きであることの照れ隠しにこの歌を書いたのか。それとも、言われる前に言おうという開き直りなのか。
 「ブロードウェイでミュージカルを見て、これくらいなら僕らでもできそうと思った」という三谷の談話が雑誌に載っていた。三谷流の言い回しで本心でもなかろうが、それを読みながら私は、以前通っていたシナリオ教室の講師の言葉を思い出した。「テレビドラマを見て『これ位なら自分にも書ける』と思ってシナリオを書き初めようとしている方がいたら、その考えは忘れて下さい。それ位のものしか書けませんから。」
 『オケピ!』と普通のミュージカルとの違いをあげるとしたら、芝居が多い、という点だろう。その芝居の部分はどうか。キャストには粒ぞろいの俳優達が名を連ねている。期待を寄せない方がおかしい。彼らには確かに楽しませてもらったが、キャラクターの瞬発的なぶつかりあいの面白さに終始し、正直言って物足りなかった。メインとアンサンブルを分けず、全員に少しずつ見せ場を用意した為、「広く浅く」なってしまったのだろう。歌がなければもっと突っ込んだ芝居が見られたのに、勿体ない、と思わずにはいれらなかった。
 登場人物達は様々な悩みや痛みを抱えている。観客は自分に似た者を見つけ、共感する。「問題が一度に解決するような事件は起きないし、人間はそう簡単に変われない。でもいつかは…。」舞台から前向きなメッセージが伝わってくる。後味は悪くない。しかし、仲間同士で愚痴りあい、励ましあった時の様な印象に近かった。複数の悩みを羅列し、ひとまとめにして同じ方向へ持っていくのではなく、描くべき人間を絞り、その内面へ切り込むべきだったのではないだろうか。
 私が劇場で得たいのは、日常生活でも手に入る表面的な安心感ではない。普段覗くことの少ない、自分の中の深い部分で登場人物に共鳴したり反発したりすることが、舞台を見た手応えになる。『オケピ!』は、そんな手応えを感じられないまま、「何となく」終わってしまった。プロジェクトの大規模さや、スタッフ・キャストの充実度に比べると、舞台作品として訴えてくるものが稀薄だったと思う。
 最後に、「真田ファン」の目から見た印象も添える。縦横無尽に動き回り、しゃべりまくり、一見大活躍の真田だが、最終的に、これといったインパクトがなかった様に感じた。情けない男もコメディーも経験済なので、今回の役柄は特に目新しくはない。「こんな真田が見たかった」という満足感も、「こんな役もやるのか」という驚きもなかった。勿論、いつも通りミーハーに「見られただけで嬉しい」とも思った。しかし、仮に『オケピ!』が再演されるとしても真田には別の舞台に立って欲しい、というのが本音である。
 繰り返しになるが、『オケピ!』は面白かったと思う。観客が楽しんでいるのを肌で感じたし、各種メディアでも好意的に取り上げられていた。しかし、そんなムードに巻き込まれ、浮き足立ってはいけないような気がする。初日前から再演をほのめかすような作品である。一夜のお祭で片づける訳にはいくまい。アイディアやテクニックに頼って、抜け落ちた部分がなかったか、考えるべきだと思う。
 私は『オケピ!』をミュージカルとしてとらえている。登場人物の心象を伝える役割は、台詞よりも歌に担われているからである。しかし、ミュージカルである以上、どんな理由にしろ「歌がなければ…」と思わせてはいけない。優れたミュージカルは、その作品の表現方法としてミュージカルこそ最もふさわしいと感じさせる強い説得力を持っているのである。
 劇中、「パーカッションの理想と現実」という歌がある。観客の理想と現実の舞台もまた、折り合うことは少ない。
六月十五・二十五・七月二日観劇)

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