えびす組劇場見聞録:第6号(2001年1月発行)

第6号のおしながき

「2.5 Minute Ride」 紀伊国屋サザンシアター  2000年9/13〜17
俳優座劇場プロデュース公演・53より
「釣堀にて」
俳優座劇場  2000年11/24〜12/3
A.G.S
「ゴッホからの最後の手紙」
世田谷パブリックシアター  2000年11/14・15
「欲望という名の電車」 新国立劇場中劇場  2000年10/20〜11/11
「同じ方向へ、一つ一つ。」 「2.5 Minute Ride」 by コンスタンツェ・アンドウ
「歳の瀬の贈り物」 「釣堀にて」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「哀しき芸術家たち」 「ゴッホからの最後の手紙」 by マーガレット伊万里
「内野聖陽のスタンレー」 「欲望という名の電車」 by C・M・スペンサー

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「同じ方向へ、一つ一つ。」
コンスタンツェ・アンドウ
  「女、それとも男?」…舞台のチラシに篠井英介の名前を見つけた時、最初に考えるのは、彼がどちらを演じるかということである。そして大体は、答えがどちらであっても、チケットを買う。『2.5 Minute Ride』(作・リサ・クロン、演出・坂手洋二)は、アメリカの女優が自作自演する「モノローグドラマ」の翻訳版だという。すると、今回は女性役…の筈だった。
  篠井は、紺のパンツスーツで登場。特別な化粧はせず短髪のままなので、黙って立っていれば男性に見える。しかし、篠井が話しはじめると同時に「リサ」という女性があらわれる。
  リサは、レーザーポインターを片手に、舞台奥に掲げられたスライドスクリーンを指し示しながら、「講演会」風に家族のことを語る。基本的には、過去の出来事をリサの言葉で再現して観客へ聞かせるのだが、それだけではなく、篠井は実際に演じて見せる。登場人物全てに扮するのである。リサ自身はもちろん、父、母、兄弟、恋人、親戚。車を運転したり、ビデオを撮ったり、博物館を見学したり、ジェットコースターに乗ったり…。(作品タイトルは、ジェットコースターに乗っている二分半のこと。)
  装置は、簡素な椅子が二つ。この椅子が、車やジェットコースターの座席、時には車椅子にもなる。人も物も、これ以上は少なくできないという状況の中、篠井の演技は想像力を喚起し、観客それぞれのイメージを真っさらなスクリーンに結ばせる。スクリーンには、次々と四角い光があたるだけで、写真は一枚も映されないのだ。
  一般的な一人芝居には会話がない。言葉のやり取りを伝える為に、まず相手の話を聞く仕草をしてから内容をやんわりと復唱し、それに対して答える、という方法が多用されるが、見る側としては結構まだるっこしい。この作品では、そんなまだるっこしさがなかった。篠井なら「両方やる方が早い」のだ。俳優は一人でも、登場人物全員が台詞を言い、会話が成り立つ。自分の気持ちを延々と述べる「独白」の印象は薄く、観客へ直接的に語りかける場面も多いので、俳優だけが先走る感じもない。一人芝居や朗読劇とは違う今回の形式は仲々新鮮だった。
  篠井は、衣装や化粧の力を借りずに、老若男女の体全体の雰囲気を、一瞬で自在に変えることができる。特に、表情の変化は極めて豊かである。女性役と男性役では、目が違う。喜怒哀楽の表現も、それぞれ異なる。歩き方、立ち方、座り方、動きの全てに、性別と年齢と個性が反映されている。鮮やかで、神経のゆき届いた演技である。
  とらえ方によっては過剰に見えるかもしれない表情の変化と比べると、声の変化は少ない方だろう。篠井は女性の声を高音で出すことはしない。男性の姿のまま女性を演じているという状態にふさわしい声を選び、不自然さを感じさせないのと同時に、篠井ならではのムードを醸しだしている。
  私が観劇した初日には、カーテンコールでリサ・クロンが舞台へ上がり、篠井に花束を手渡した。彼女は、女優というより、どこにでも居そうな中年女性に見えた。この普通の女性が、どんな風に『2.5 Minute Ride』を演じるのか、全く想像できなかった。篠井の様に人物を細かく演じ分けるのか、それとも、語りの要素が強いのか。また、篠井の演技をどう感じたのかも聞いてみたい。彼女は、自分以外の人間が上演することを想定していたのだろうか。
  この作品には、彼女自身とそのバックグラウンドが色濃く投影されている。重要なポイントとなる「ユダヤ人」「アウシュビッツ」「レズビアン」「家族」「一族」などに対する考え方は、欧米と日本ではかなりの差があるだろう。アメリカに住んでいなければわからないような部分も多いのかもしれない。そんな理由からか、私個人としては、作品そのものにあまりのめり込めなかった。正直な所、篠井の演技ばかりに目を奪われていたのである。機会があれば、彼女自身の舞台を見て、もう少し積極的に作品へアプローチしてみたいと思う。
  私が篠井を初めて意識したのは、何年も前、沢田研二の『ACTサルバドール・ダリ』だった。演じた役は、詩人ロルカと、ダリの妻。今回と同じく短髪にパンツルック姿の篠井は、ロルカ青年として話していたかと思うとすっと後ろを向いた。そして、手にしたショールをふわりと巻いて振り返った時には、美しい女性に変貌していたのである。わずか数秒。感動的だった。それ以来、篠井を目的に劇場へ行く回数が増えた。『女形能晨鐘』、『女賊』という一人芝居も見たが、篠井一人の舞台としては、『2.5 Minute Ride』に一番心をひかれた。出会いの時に最も近い体験ができたからなのだろう。
  そんな体験は、劇場でしかできない。写真や映像や文字から得られるものではない。だから、劇場には魅力がある。篠井の魅力もまた、劇場でこそ、際立つ。
  私にとって「男性が女性を演じること」は常に興味の対象だった。性別を越える理由・意味・効果・問題…。追い続けたいテーマの一つである。篠井はこれからも、彼なりの方法で女性を表現してゆくだろう。私は、篠井の舞台から刺激を受け、自分なりの考えを深めてゆこうと思う。篠井は「いろいろな要素を削ぎ落とした女方」を演じたいという。私も見たい。その「女方」の世界は『2.5 Minute Ride』を越えて、まだ先にあるに違いない。
  一人の俳優が目指す方向と、観客としての自分の欲求がピッタリと合致するのは希なことである。篠井が選ぶ舞台の一つ一つが、彼の目的(=私の望み)へ繋がっているのだとしたら、私はできるだけ多く彼の舞台に触れよう。「次は女、それとも男?」と問いかけながら。
(九月十三日観劇)

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「歳の瀬の贈り物」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 十二月は行きたい公演が多く、予定のやりくりに苦労した。そのなかで今回の『かどで』・『釣堀にて』(久保田万太郎作・坂口芳貞演出)は、それほど優先順位が高いものではなかった。
 『釣堀にて』をみるのはこれが二度めになる。
 最初は九六年十二月の演劇集団円の公演(俳優有志の勉強会的なもの)で、俳優諸姉の真摯な取り組みの姿勢は感じられるものの、いまひとつ舞台の印象がはっきりしなかった。昔の東京弁を生活実感をもって話すのがことのほか難しいのであろう、舞台の世界になかなか引き込まれないのである。
 戯曲を読みながら、杉村春子や龍岡晋や中村伸郎など、かつての名優を心のなかで自在に操る楽しみは大いにある。しかしそれは同時に、いま久保田万太郎の世界を味わうことが、もはやないものねだりだと半ば諦めた上での対処であることも確かであった。
 だから今回の公演も、勉強のためにみておきましょう程度の気持ちだったのである。
 ところがわたしは台詞ぜんぶを聞き取ろうとせんばかりに身を乗り出してみてしまった。
 久保田万太郎の作品は「語られない部分」が多い。日常のさりげない場面、どうということのない会話のなかに登場人物たちの事情やほんとうの気持ちが隠されていて、ぼんやりみていると眠くなり、何も起こらない(とこちらが思っている)うちにいつのまにか終わってしまうのだ。それがなぜ。
 十二月はじめの静かな昼下がりの釣堀に、老人・直七(浜田寅彦・俳優座)と青年・信夫(浅野雅博・文学座)がいる。二人はここでよく居合わせる仲らしい。元気のない信夫を見かねた老人が声をかける。
 信夫は「自分には父親が三人いる」と身の上を語りはじめる。母親は一度どこかに嫁いで自分を産んだのち離婚し、生活のため芸者になった。自分は里子に出され、養父母に育てられたが、じきに母親が再婚して新しい父親ができた。将来について決めかねて悩むうち、母親が「ほんとの、生みの父親に逢わせてやる」と言い出した、というのである。
 この場面の浅野がよかった。老人との会話というより、けっこうな長台詞をほぼ一方的にしゃべらなければならない。
 しかし信夫の複雑な生い立ちをはじめとした話の流れがちゃんとわかるし、彼の心のうちや、彼をめぐる人々の様子がよく伝わってくる。浅野には「うまく演じよう」という気負いがなく、台詞の基本をきっちり押さえた上で、サラサラと自然に話している。
 実の父親のことを母親がどんな様子でしゃべったか、それを聞いた自分が心ではこう思ったけれど、「ついむらむらして」母親には別のことを言ってしまったなどなど、そのやりとりが目に浮かぶようであった。
 浅野の台詞を聴いているうちに、彼の母親のイメージが観客の心のなかにいつのまにか浮かび上がり、この母子の感情の行き違いがまざまざと見えてくるのである。
 暗転して次の場は広小路のレストランである。信夫の母親おけい(山本道子・文学座)が芸者仲間の春次(吉野佳子・文学座)相手に同じ話を、今度は彼女の視点から盛大に愚痴っている。
 この母親の役に山本道子、なのである。
 さっきまで息子がさんざんに悪口を言っていた「あのおふくろ」というイメージが観客の想像のなかでだんだん膨らんできたところに、場面が変わってそこにいるのが山本道子。
 「おお、あのおふくろがこの人!」と吹き出してしまう。山本は生活感溢れた愛嬌たっぷりのキャラクターで、芸者を演じるにはいささか垢抜けないと思ったのだが、なかなかどうして。
 見栄を張って息子に嘘をつき、収拾がつかなくなって混乱している様子。当たりはばからず泣き出すかと思えば、一転強気になって啖呵を切るところ。
 母親らしさと芸者らしさがくるくると目まぐるしく表れて、このおふくろなら息子が辟易するのも無理ないと思わせる。
 おけいと春次の画策で息子と実の父親を対面させるはずだったが、父親の気が変わり不首尾に終わったところで、場面はまたさっきの釣堀に戻る。
 数日が経過しているらしい。結局父親には会わなかったと少し晴れ晴れとしている信夫に、老人は「自分にも同じようなことがあった」と話し始める。もしかしたらこの老人こそが、信夫の実の父親ではないのか?という雰囲気が漂うなか幕が降りる。
 この『釣堀にて』は場面転換が二度もある。
 また釣堀という場所は舞台で表現するには難しく、本水を張るほどでもないし、かといって作りものの草木ばかりでも空々しい。上演時間はわずか四十分だが、なかなか大変な作品なのだ。
 釣堀とレストラン、ふたつの場面の感興を損ねることなく、ふたつの場面の登場人物が直接絡むことこそなくても、互いの台詞のなかで、その場にいない人物の姿を浮かび上がらせることが大切になってくる。
 さらに、冒頭の場面で浅野の台詞に引き込まれるのは、浅野自身のよさもあるが、彼の長台詞を黙って受ける浜田の老練さによるところが大きいことも忘れてはならないだろう。老人の長い沈黙の意味が、最後になってわかるからである。
 ないものねだりではなかった。
 久保田万太郎はいまでもみることができる。それもベテラン俳優の老練の演技だけではなく、むしろ若い俳優の生き生きした台詞に久保田万太郎作品の息づかいを確実に感じとることができたのだ。
 これがいちばんの収穫であった。
 秋に蜷川幸雄演出の『グリークス』の通し上演をみたとき、からだじゅうが震えるようであった。
 『釣堀にて』にそういう感覚はない。
 しかし胸の奥がほんのりと温かく、その温かさを誰にも知られずにひっそりと抱えて家路につきたくなった。ささやかな幸せ。
 声高に言えない、言わないほうがいい。
 歳の瀬に思わぬ贈り物を与えられた。
  この日が空いていてよかった。
(十二月三日千秋楽観劇)

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「哀しき芸術家たち」
マーガレット伊万里
 印象派の巨匠ゴッホ(一八五三〜一八九○)とゴーギャン(一八四八〜一九○三)が、一時共同生活をしていたという史実をもとにした作品『ゴッホからの最後の手紙』を札幌のA.G.Sによる上演で観た。(作・宇都宮裕三、演出・本間盛行、東京国際舞台芸術フェスティバル二○○○リージョナルシアター・シリーズ参加作品)
  ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(山野久治)は、強烈な色彩とうごめくような筆使いが印象的な画家。バブルの時代にはその作品に何十億円もの値がつけられ話題になった。
対するポール・ゴーギャン(斎藤歩)は南の島タヒチに滞在し、南国の人々を描いた作品で知られる。
  そしてこの二人に絡むのがゴッホの弟テオ(関根信一)。彼は、画商として働くかたわら、世間ではいっこうに認められない彼らを精神的にも経済的にも支える献身的な人物だ。
 今では天才の名を欲しいままにするゴッホもゴーギャンも、百年以上前の当時は全く受け入れられず、孤独や貧困に耐えながら創作を続ける生活だった。
 特にゴッホは次第に精神を病みながら、それでも絵筆を休めることはない。周りを巻き込み、さらに自分を壊しながら突き進む狂気は次第に深くなっていく。まるで芸術が一人の人間を破壊していく様子を見ているようだ。芸術家の背負った宿命か、人間の究極の生き方か。ゴッホの情熱、喜び、苦悩、命。彼の人生とかけ離れたところで今を生きる私たちが、彼の絵にどれほど接近することができるのかと思うと胸が苦しくなる。
 画家の理想郷を目指して始めたゴッホとゴーギャンの共同生活は喧嘩別れに終わるが、このときゴッホは自分の耳を切り落とす。次第に発作を繰り返すようになり、最期は自ら命を絶つ。ショッキングなエピソードで広く知られる人物なだけに、舞台で交わされる言葉は非常に重い響きをもって迫ってきた。
 とはいえ、史実をもとにしながらも、中味は時間を入れ替えたり事実を書き換えてあったり、作者曰く「自分流に都合よくねじ曲げた」フィクションだ。彼らの実像に迫ろうということではなく、あくまでフィクションの中で芸術家という存在を映し込む。そこには、芸術とお金のあり方や、さらには人間にとって芸術とは一体なんなのだろう?などといろいろな事を想像させてくれる面白さもあった。
 そしてその反面、舞台に登場する男達(ゴッホ、ゴーギャン、テオ)よりも、私は途中で、表には登場しない女達のことばかりを考えていた。
 男達は妻や婚約者の存在を口にするが、舞台に彼女たちは現れない。時折姿を見せるのは、ゴッホの入院していた病院の看護婦だけ。
 看護婦は病室に入ってきて、ゴッホが描きかけの絵を見てこう言う。
 「何も描かれていない、真っ白なキャンバスじゃないの」と。これはどうしたことか。彼女たちには、ゴッホの描いたものが全く見えていない。ゴーギャンは叫ぶ。
 「なぜ、君たちには見えないんだ!」と。
 このせりふを聞いたとき私は、芸術に憑かれた男達と不在の女達のドラマをひたすら想像するのだった。
 ゴーギャンは安定した仕事を辞め、絵のために妻子を捨てている。あげくには貧しさゆえに病気の子供を死なせてしまう頼りにならぬ父親だ。
 テオはある女性と結婚する。しかしゴッホの死後まもなく精神に異常をきたし、兄の後を追うようにしてこの世を去る。その間も兄に対して献身的なテオ。そんな弟だけが頼りのゴッホ。こんな状況で、テオは果たしてどれだけ平穏な結婚生活を送ることができたのか。とり残された妻と幼子は、どうやって生きていくのだろうとそればかりが心配になる。
 さっきまで、凡人には計り知れない壮絶で崇高なまでの芸術家人生として映っていた天才画家のたちのドラマは、一転してうだつが上がらない男達の姿となってしまった。
 芸術家として最高であるということは、私達が思い描く夫・父親として人並みの生活を送ることは不可能なのだ。それだからこそ多くの人の心を打つ作品を残すことができたのだ……と思いたい。
 ゴッホは孤独の中血まみれになって死んでいった。莫大なお金とは無縁のまま――。ゴーギャンも貧しさの中、可愛い娘や息子が死んでゆくのをただ黙って見過ごすことしかできなかった。その手を握ってやることもなく。
 そしてそんな男達を必死で支援し続けるテオの心中に渦巻いていたものは何だったのだろう。妻を残して兄と殉死していく夫。さっさとこの世を去る男達。残された女ばかりが、社会の荒波にもまれて生きていかなければならない。
 現代の評価が彼らに与えられていたら……と思うとよけいに哀しい。でも今彼らの絵は札束に埋もれて見えなくなってはいないだろうか。
 ゴッホ、ゴーギャン、そしてテオ。この芝居は、社会的な夫や父親としては不器用にしか生きられなかった男達の面を描き出すことによって、彼らは私たちのそばにぐっと近づいてきた。
今度、もし、彼らの絵に出会ったなら、もっと身近に、だけど少しだけ新鮮な気持ちで対峙できるような気がする。
(十一月十四日観劇)

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「内野聖陽のスタンレー」
C・M・スペンサー
 私にとって『欲望という名の電車』は、一九八七年に杉村春子のブランチ&北村和夫のスタンレーを観て以来である。当時セゾン劇場(現・ル テアトル銀座)で観たということは、その時のブランチとスタンレーの年齢は、芝居の設定をはるかに上回っていた。そのためか、作品に対する感じ方も、今回の公演とは違った印象を抱いている。こうなると、舞台が生き物であるとつくづく感じるのである。
 初めてこの作品を観た時は、目の前の気丈なブランチと、周囲の人々によって語られる彼女の過去が、全く別のものに思えた。他人によって語られる人物像を、人ごとであるかのように振る舞う彼女が、ただただ哀れに思えてならなかった。スタンレーにいたっては、彼女の本心を見抜いて鋭く指摘をする皮肉屋の男友達のようだったし、ステラは姉思いの親切な妹という存在であった。
 樋口可南子のブランチは、最初のうちは久しぶりに会った妹に心配をかけまいと体裁をつくろっていたが、ラストの部分を除き、全て自分のやっていることを知った上で現在の彼女が存在する、という姿が一貫していた。ステラにしても、しばらく離れて暮らしていた家族に悪い顔を見せないようにと振る舞い、姉に対する遠慮があった。七瀬なつみの淡々としたステラとしての存在が最初は少し物足りなく思えたのだが、ラストで精神の傷ついた姉ブランチを第三者の手に委ね、見送る彼女の「私ったら何て事をしたんだろう!」と叫ぶ姿に、彼女の堰を切ったように溢れ出す姉への強い愛情を感じた。そして何よりも、粗野なスタンレーの家族に対する「愛」が印象に残る舞台であった。
 南部の大農園の上流階級出身であるステラが、ポーランド系の粗野な男、スタンレーを愛し、結婚して家を出た。彼は乱暴で、感情がストレートで、いつも酒ばかり飲んでいるが、ステラへの愛は本物であるということが優しい言葉一つ無くても伝わるのである。
 ステラの実の姉であるブランチに対する振る舞いは、最初から決して礼儀のあるものではなかった。そして更に、実はブランチが教師を辞めた後で娼婦のように暮らしていた事実を知ってからの彼女への詰め寄り方、ブランチを慕う彼の友人ミッチと彼女との間を裂く態度、ついにはブランチを家から追い出そうとする行動は、観る者が辛いと感じるほど冷たいものだった。しかしそれは全て、ブランチによってかき回され、振り回される今の生活から、生まれてくる赤ん坊のいる生活を守りたい一心であったこと、ブランチを聖女と崇めるミッチに対して、見て見ぬ振りをして裏切ることができなかった故の振る舞いであったことが、言葉にしないが彼の思いとして伝わってくる。愛するものを守らなくてはならないという一家の主としての家族への愛情、そして友情が。こんなにもステラを愛していたのかということがストレートに伝わり、羨ましいくらいだった。スタンレーが誰にも遠慮せずに振る舞うほど、その愛情の深さが目に見えてくる。
 演出は栗山民也。そして役者が役の年齢に近いというだけでなく、演じる内野聖陽がとにかく上手かった。彼について言えば、周りを気にせず、自分の役に没頭するタイプだと感じるのだが、スタンレーにしてもハラハラするほど粗野で乱暴であったため、そこに存在する「家族への愛」の部分がはっきりと見えてきた。文学座座員の彼が、座内のみならず外部公演で扮する誰もが、違った顔、異なった人物に見える。テレビや映画で彼の「顔」は有名になってもなお、本人像は役柄から推察することはできない。次はどんな「人物」となって現れるのかが楽しみな役者である。
 二十一世紀は二月から『モンテ・クリスト伯』が文学座で公演される。復讐のために幾人もの人物に変装するモンテ・クリスト伯。そのタイトルロールを内野聖陽が演じる。
(十一月九日観劇)

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