えびす組劇場見聞録:第7号(2001年5月発行)

第7号のおしながき

「こんにちは、母さん」 新国立劇場小劇場 2001年3/12〜31
「甘い傷」 こまばアゴラ劇場 2001年4/11〜15
「ジョルジュ」 世田谷パブリックシアター 2001年1/17〜20
「天国の本屋」 青山円形劇場 2001年1/25〜26
「兵士の物語 PARCO劇場 2001年1/26〜2/11
「マクベス」 シアターコクーン 2001年3/30〜4/30
「柘榴変」 文学座アトリエ 2001年3/20〜30
「演劇を信じる」 「こんにちは、母さん」「甘い傷」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「二十一世紀初めに出会った三つの舞台」 「ジョルジュ」「天国の本屋」「兵士の物語」 by コンスタンツェ・アンドウ
「引き算の演出〜蜷川マクベス」 「マクベス」 by C・M・スペンサー
「柘榴の熟す瞬間」 「柘榴変」 by マーガレット伊万里

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演劇を信じる」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 演劇の特殊性とは何だろうか?
 場所と時間が限定される。演じるほうもみるほうもリアルタイムの一発勝負。同じものは二度とできない、などなどか。戯曲があって、それに血肉を与え立体化する俳優がいて、それを受けとめる観客がいて、この三者が生き生きとした空気を作り出す。
 その空気を体験するには劇場に足を運ばなければならない。
 三月十七日、永井愛作・演出の『こんにちは、母さん』をみた。戯曲と俳優と観客の三位一体というのか、笑いと涙で大いに盛り上がり、劇場はまさに生き生きとした幸福な空気に満たされた。並んでみたえびす組のメンバーはもちろん、劇場にいたすべての人に対して、かけがえのない時と場所を共有した大切な皆さん、という親しみが沸いてくる。ああ幸せ…この気分こそが(気分、なんて言葉を使うと曖昧で軽薄だが)演劇を支える力であり、特殊性の最たるものではないのか。
 永井愛はそのことをよく知っている。というか、信じている人だと思う。
 自動車会社の人事部長でリストラを推進している息子(平田満)は仕事にも家庭にも疲れ、二年ぶりに下町の実家へ立ち寄るが母(加藤治子)はカルチャースクールや中国人留学生(小川萌子)の世話で忙しい。おまけに恋人(杉浦直樹)までいて元気いっぱいである。そこへリストラされた元同僚(酒向芳)が乗り込んできて、ボランティア仲間(田岡美也子、橘雪子)もからんでひと騒ぎ。
 家族の絆、リストラ、高齢者の恋愛、戦争の記憶など、たくさんの材料が三時間足らずの舞台にきちんと収まっている。
 しかし、我ながら不思議というか身勝手というか、しっかりした戯曲を手堅く演出した上質の舞台をみたいと思う一方で、破綻を求める気持ちがあるのである。
 加藤治子、杉浦直樹、平田満。主演の三人はテレビや映画での印象が強いが、今回の舞台はこれまでのイメージや持ち味をよりいっそう「はまり役」「当たり役」的に提示していて、舞台ならではの意外性がない。脇を固める俳優も永井作品の常連メンバーが多く、キャラクターの固定化が気になる(そのなかで大西多摩恵は作品ごとに違う役を演じて新境地を開いている。今回は杉浦の息子の妻役。義父の老いらくの恋に困惑しつつ、自身も夫とは離婚寸前という役柄だ。平田とメンコをする場面は秀逸)。
 『こんにちは、母さん』は戯曲もおもしろいのだが、主演の三人はじめどの登場人物も舞台でみたままにしか動かないのだ。同じ俳優にある台詞を違うニュアンスで言わせようとしてみても、どうしても動いてくれない。
 これはみかたを変えれば、登場人物と俳優の当て書きがほぼ完璧であること、さらにそれが永井の演出と実力のある俳優によって確実に立体化されていることの証明なのだが、読みながら「いったいこの役をどうやって演じるのか」と考える楽しみがないのである。
 もどかしい思いをしていたときに平田俊子作・福井泰司演出の『甘い傷』をみた(四月十五日)。
 ある町に男まさりの母ふみと、働きもせず寝てばかりいる長男敬一(龍昇)、優柔不断の次男慎二(久保酎吉)と結婚八年になるその妻桃子が暮らしている。ある日、次男が旅の男をうちに連れてきた…という話だが、戯曲には「この芝居は全員男によって演じられること」と指定がある。母ふみは塩野谷正幸、次男の妻桃子は直井おさむが演じる。ふたりとも髪型はそのままで、メイクもしていない。男役も女役も白いシャツにベージュのズボンにベストという服装である。
 塩野谷は体格がよく、顔立ちも甘めのハンサムである。それがおふくろ役。いったいなぜこの役が塩野谷なのだ?というこちらの疑念などおかまいなしの力演、怪演である。
たとえば知り合いの葬儀から戻った桃子がそのままうちに入ろうとする場面。ふみは桃子を制して塩つぼを抱えて玄関に走り、まったく無意味に床で前転をし、吠えるように「鬼はーそと」と叫んで塩をまく。そのあまりの迫力に笑うのを忘れてしまう。
 対して桃子役の直井は何をしでかすかわからない女を緻密に造形する。義兄の敬一に「マニキュアを塗って」と足を投げ出す場面で、わたしは妙にどきどきした。女優が演じるよりもっと危なっかしい感じがしたのだ。
 ここで義理の兄と桃子がどうかなるとして、桃子役が女優なら「そんなこともあるだろう」と納得できるし、「そうなったらおもしろいかも」と期待すらする。しかし直井と龍がそうなったらどうしよう。どんな顔でその場面をみたらいいのだ?と不安にかられる。そんなことを心配してもどうにもならないのに。
 つまり全編人をくったような、というか冗談のような舞台なのである。いったいこれをどう受けとめればいいのか。どうして全員男が演じなければならないのか。意味や意図があるのかないのか。
 戯曲を読んでみたが、俳優や演出によって舞台の味わいはさまざまに変わりそうである。
 たとえばチラシによると昨年の初演でふみ役は冷泉公裕だったそうなのだが、みていないわたしにはどんな母親なのかまったく想像できない。塩野谷の母がわたしの想像を阻むのだ。やれるものならやってみろとばかりにわたしの前に立ちはだかる。となるとこちらも負けるもんかと必死で冷泉の母を動かそうとする。すると必然的に他の人物の演技も変化させざるを得なくなり、けっこう骨の折れる作業なのだが、これがなかなかおもしろい。
 『甘い傷』は変幻自在の、じつに不思議な作品だ。春の昼下がりに日だまりのなかでうたた寝をしているあいだにみた、はっきりしない夢のような舞台である。場内が笑いと涙に満たされるたっぷりした充実感はないが、わたしは劇場に足を運んでよかったと思った。
 このおもしろさは劇場に行かなければ体験できない。つかみどころがなくて手強いが、見終わったあとも自分ひとりの想像のなかで遊ぶ密やかな怪しい気分を味わえる。まさに「気分」という曖昧でいささか軽薄な言葉がぴったりで、ここにも演劇の特殊性があり、演劇を支える力が宿っている。
 『こんにちは、母さん』と『甘い傷』。どちらにも演劇でなければ描けない世界がたしかにある。
 わたしはそれを信じる。

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「二十一世紀初めに出会った三つの舞台」
コンスタンツェ・アンドウ
 二○○一年一月。五本の舞台を見た。出演者中心に選んだ演目だったが、偶然、そのうち三本に「朗読」「語り」「音楽」等の共通点があった。個々に劇評を書くだけでは見えてこない物を探し、この三本を関連付けて考えてみたいと思う。
 世田谷パブリックシアター『ジョルジュ』(一月十七・十八日、作・斎藤憐、演出・佐藤信)。タイトルに「ドラマリーディング with ピアノコンサート」とある。演奏は及川浩治、ジョルジュ・サンドに若村麻由美、友人のミッシェルに篠井英介(十九・二〇日は三田和代と村井国夫)。二人は、お互いにあてた何通もの手紙を読みつづる。視線は手に持った脚本の上へ落ち、椅子に座ったり袖から出入りする以外は特別な動きはないが、その手紙からジョルジュとショパンの恋が浮かび上がってくる。
 一般的な「リーディング」は、上演を目的にして書かれた戯曲を、俳優が体を動かさずに朗読するスタイルで、聴く者の想像力を刺激するが、演劇作品としては最終段階の一つ手前という位置づけになることが多い。戯曲の紹介や俳優の訓練、または新人劇作家の作品を評価する場としての役割が大きいと言える。
 しかし、『ジョルジュ』は非常に完成度の高い舞台だった。理由は、朗読を前提として書き下ろされた作品(今回は再演)であると共に、手紙が朗読に適しているからだろう。もともと手紙は「言葉で伝える」ことを目的にしており、直接的には視覚に訴えない。観客は「言葉だけを聴く」ことに違和感や不足を覚えず、物語を自然に受け入れられるのだ。斎藤の脚本は当時の社会情勢をも活写し、充実したものになっていた。若村と篠井は、感情を抑制しながらも「朗読」と「演技」とを近づけ、観客を惹きつけることに成功していたと思う。
 この作品において音楽は「伴奏」ではない。及川の演奏中は若村も篠井も退場していることが多く、舞台中央に置かれたピアノは十四曲のショパンをたっぷりと奏でる。手紙の中に楽曲の背景が織り込まれているので、普通のコンサートよりも積極的に聴くことができて楽しかった。
 最後の手紙。若村が立ち上がり、脚本を閉じて舞台中央へ進んだ。客席に目を向け、言葉を発する。その姿は、舞台というものの魅力を象徴しているようで、私は不思議な高揚感と開放感を覚えた。幕切れにほんの少しだけ動きを入れた演出が、印象的だった。
 上演時間が長いので、今度は週末にゆっくり見たい。物語があり、俳優がいて、音楽が流れる。劇場で過ごす時間は生活に潤いを与える…『ジョルジュ』を見た後なら、そんな歯の浮くような台詞も言えそうな気がするのだ。
 青山円形劇場『天国の本屋』(一月二十五・二十六日、演出と脚本・中村龍史、脚本・松田直行)。タイトルに「Reading & Sound Theater」とある。出演は山本耕史・赤坂七恵・黒沼弘己、シンセサイザーの生演奏が松谷卓。人数構成は『ジョルジュ』と似ているが、これは完全な芝居だった。俳優は、役に同化し、動き、会話を交わす。役柄の上で子供に本を読んできかせるシーンが何度か出てくるが、それは覚えるべき台詞の一部であり、リーディングとは異なる。後半、松谷の演奏に乗せて黒沼が芝居とは別の物語を朗読するものの、やや唐突で添え物っぽく、音楽が高まると聴きづらくなる難点もあった。
 しかし、全体的には好感の持てる舞台だった。甘いファンタジーながら作為を感じさせないのが良い。リーディングを盛り込もうとした分脚本や構成に強さを欠くが、整理すれば幅広い世代に愛される作品になり得るだろう。山本は、現実にはいなさそうな優しく温かい人間像を嫌味なく表現していたし、黒沼は、軽快かつ厚みのある演技で舞台を締めた。赤坂はどこか自信なさげで精彩を欠き、死んだ弟に「泣いた赤鬼」を読んであげるという、最大のクライマックスを盛り上げられなかったのが悔やまれる。
 二日間、三回公演では勿体無い。「Reading」というタイトルから演劇として考えず、敬遠した人もいるだろう。事実、私はテレビで稽古風景を見た後にチケットを買ったのだ。逆に、リーディングだと思って来た人は予想が外れた筈である。近年のリーディングブームを当て込んだ結果、呼べたかもしれない観客を逃し、足を運んだ観客をとまどわせてしまったのではないか?リーディングという枷から作品を解放し、芝居として練り直した上での再演を願う。
 PARCO劇場『兵士の物語』(一月二十六日〜二月十一日、演出・山田和也)。タイトルに「ストラヴィンスキーの」とあり、小人数編成のオーケストラ演奏が付く。この作品を見るのは二度目である。前回は横浜美術館のロビーで催された音楽会で、市村正親が出演していた。これが非常に面白かったので今回も楽しみにしていたのだが、やや期待外れに終わってしまった。
 その喉一つで無数の人間の声を表現できるいっこく堂が兵士役。変幻自在な演技力を持つ篠井英介が語り。この二人の顔合わせが呼び物だったのだが、『兵士の物語』には、それぞれの持ち味を全開にさせるだけの受け皿がなかったようだ。篠井は体を使う形で数役を演じるので、まだしどころがあったかもしれないが、満足感は腹六分目程度。いっこく堂は篠井に代わって篠井の声を出す位しか見せ場がなく、本業の腹話術と比べると物足りない。俳優としての面を強調したいなら、演技以外の「技」に期待を持たせる作品は避けるべきだったろう。
 また、作品自体が短い為か(横浜では『兵士の物語』の他にも演奏曲があった)、篠井が篠井本人としておしゃべりをしたり、中盤に指揮者による解説があったりして、作品世界に没頭できなかった。何かを加えるなら、バレエシーンを増やして欲しかった。
 『兵士の物語』は、作品の持つ演劇的要素に重点を置くのではなく、「音楽と語り」の形式を取る方が良いのでは、と思う。演劇として考えると演劇としての弱さが見えてしまう。しかし、音楽の中に演劇的要素を発見した時の喜びは非常に強い。私が横浜で感じた面白さはそこにあったのだ。いっこく堂か篠井、どちらか一人が語りで出演するなら、私はまた『兵士の物語』を見に行きたいと思う。
 リーディングや、演劇と音楽とのコラボレーションが盛んになっている背景には、演劇の可能性を広げて多くの人々にアピールしようとする考えがあるのだろう。それはもちろん意義のあることだが、むやみに流行を追おうとしたり、イメージに頼って企画を進めたりすれば、「並べただけ」の舞台や「ごちゃまぜ」の舞台が出来上がってしまう。他ジャンルとの交流や共存を図る時こそ慎重な準備と調整能力が必要であり、場合によっては途中で方向を転換する勇気を持つべきではないだろうか。観客は、自分が選んだ舞台に満足と納得を求めている。中途半端なものを見せられること…それが一番問題なのである。

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「引き算の演出〜蜷川マクベス」
C・M・スペンサー
 あまりにも有名なシェイクスピア四大悲劇の一つである『マクベス』。日本でもこれまでに様々な『マクベス』が上演されている。私が観ただけでも、ジャイルス・ブロック演出、マクベスとマクベス夫人は江守徹と麻実れい('87)、デビッド・ルヴォー演出、松本幸四郎と佐藤オリエ('96)、そして今回の蜷川幸雄演出、唐沢寿明と大竹しのぶがあげられる。
 今回の舞台は、とにかくシンプルであった。それゆえ結果的に大変理解しやすくなっていたと思う。美術にしても蜷川幸雄独特の「赤」が、随所というよりむしろポイントを押さえて使われており、それが効果的であった。共演はマクダフに勝村政信、バンクォーに六平直政、マルカムに高橋洋、マクダフ夫人に山崎美貴など、主演の二人同様それぞれに個性豊かで芸達者な顔ぶれである。しかし彼ら独特の個性的な演技が押さえられていた感があったものの、これがまた『マクベス』で役者の新たな一面が引き出されていて面白かった。特に勝村政信は、昨年の『VOYAGE〜船上の謝肉祭』では、彼の観客を楽しませようとするサービス精神にうんざりさせられてしまったのだが、マクダフとして、その毅然とした存在が観客の期待を一心に集めていた。つまりは、シェイクスピアの戯曲を彼らがシンプルに演じることにより、共感できる人物像が新たに生み出されたと、私は解釈する。
 私はこの舞台で、マクベスの心の変化を自然に受け入れることができた。登場時は王に忠誠を誓った勇敢な家臣であったのが、自分自身が王になる運命だと信じた瞬間から、夫人の力添えで王の座を手に入れる行動に出る。しかしマクベスの弱さは、不実の行いを知るものが常に同じ世界に存在する恐怖から生じており、夫人にそそのかされてダンカン王殺害に手を染めた彼にとって、現実の恐怖に耐えかねて幻を見て怯える姿を私は哀れだと思うのである。バンクォーの殺害を企てた時も、息子のフリーアンスを逃したばかりに、いつ、どこで狙われるかという、不安の種を更にまいてしまった。
 そして魔女とのかかわりを、占いに頼り過ぎたあまりに、しまいには自分の判断を信じられなくなった人物にたとえてみた。予言通りに事が進み、向かうところ敵なしと思った人は、高慢で耳を貸さぬ人物となるだろう。マクベスも魔女に予言を聞きに行った時は、もう藁をもつかむ思いで予言に頼り、予言なのか自分の意思なのか判断のつかない状態になっていたのかもしれない。今まで様々な『マクベス』を観てきたが、こんなにも彼を身近に捕らえたことはなかった。
 大竹しのぶのマクベス夫人が夢遊病で歩き回る場面も、心の奥底に潜んでいた夫人の弱さを垣間見ることができた。野心から女ながらに惨殺の現場へ出向いたものの、その時見たものはずっと恐怖となって重く彼女にのしかかっていたのだ。眠っている間に言ってはいけないことを言ってしまうマクベス夫人。そしてその夫人の世話をする侍女(神保共子・魔女と二役)。神保は、侍女としての出番は少ないながらも、夫人を心配する姿と彼女の立場をわきまえた発言が印象的であった。
 そして最後に個人的に嬉しかったのは、「バーナムの森が動いている」とセリフにはあるものの、今までその光景を目にしたことはなかった。が、今回は舞台の上でマクダフ達の森の木々を隠れ蓑にした戦略―木々がゆさゆさと動きながら迫ってくる光景を見ることができたのである。
 蜷川演出のひねりを理解できなくて寂しい思いをすることもあったが、この『マクベス』は随分と作品を身近に感じさせてくれた。『ハムレット』『ロミオとジュリエット』『リチャード三世』等、シェイクスピア作品の演出を多く手がけている彼の作品を観る楽しみが増えた。
四月十四日夜の部観劇)

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「柘榴の熟す瞬間」
マーガレット伊万里
 柘榴(ざくろ)は実が熟すと外皮が裂けて、赤い種子がこぼれるように露出する。そんなグロテスクな様子を人間関係になぞらえてネーミングしたと思われるのが、文学座アトリエの会『柘榴変』(作・竹本穣、演出・高瀬久男、三月二十〜三十日)だ。
 登場するのは一組の夫婦とその友人の三人。友人エトー(沢田冬樹)が失業したのを知った妻(八十川真由野)は、幼い子供をエトーに預かってもらい、自分はアウトドアショップで働き始める。夫(高橋克明)は、これに対してどうという反応もない。ものがたりは、他にこれといった大きな変化もないまま最後までつき進む。
 かと言って平穏な空気がひたすら流れているわけではない。時折かかってくる無言電話が夫の浮気を匂わせたり、妻とエトーのやりとりは、二人の間は過去に何かあったのか、友人関係以上の間柄なのだろうかと詮索させるような思わせぶりな場面が続く。
 でも、いずれのエピソードも果たしてそうなのか、そうでないのか、観客がはっきりと答えを出すことができない。
 妻は、無言電話の件や、子供に無関心な夫に対してしだいに不信感をつのらせている。それでもそれを夫に切り出すことはせず、いらだちを多少ぶつけはしても、夫も妻もお互い本当の気持ちを正面きってうち明けるような場面は訪れない。
 人間日頃から、誰もがそんなに自分をさらけ出せるわけじゃない。あぜんとするほどオープンなアメリカのTVドラマじゃあるまいし。
 でも、やっぱり白黒はっきりつけてほしいとも思う。なんともじれったい芝居なのだ。
 言ってみれば、そこが見所にもなる。あの夫の表情からすると、「浮気しているな」とか「妻の思い過ごしで、やっぱり違うんじゃないか」とか、舞台上からは、知りたいと思っていることがほとんど判別つかない。よってこちらの想像力がたくましくなり、彼らの表情から真意を注意深く読みとろうとする。そう、観劇というよりは観察している自分に気づく。この舞台に感じたのは、「観劇」という言葉よりも「観察」という感覚に近いということだった。
 こうなると、あらゆる場面で役者の表情が気になる。夫婦の何気ない日常が写し出されるマンションの一室。子守をしているかたわらで、TVゲームに熱中したり、子供の書いた絵をほほえましくながめるエトー。夏の昼下がり、TVを見ながら家事をする妻。妻のいなくなった部屋で、一人缶ビールを飲む夫。役者の顔がクローズアップされたかのように、こちらの視線が釘付けにされてしまう。
 さて、ラストシーン手前。夫が帰宅した部屋はさっきまで妻の買い込んできたアウトドア用品でいっぱいだったのに、ガランとした殺風景な部屋にかわってしまっていた。妻は夫への不信感をつのらせた結果、子供を置いて家を出ていったようだ。(想像の域を出ないが)ここでも、はっきりとしたいきさつの説明は、やはりない。
 妻が何かしらのきっかけでいなくなっていることが、かろうじて伝わってくるだけ。いや、もしかしたら、きっかけと呼ぶようなものではなく、柘榴の実が熟すのと同じで、夫婦の関係も水面下でその時を待っていて、その瞬間、妻がいなくなっただけなのかもしれない。
 夫の様子は取り乱したりするふうでもなく、落胆の雰囲気はうかがえるが、それを淡々と受け止めているようにみえた。そして場所は唐突に、蒸気たちこめる温泉場に移る。そこで、夫は子供を置き去りにするというショッキングな結末を迎える。(ここで一つ。父親に抱き上げられた我が子とされる人形の表情が、別の意味でショッキング。あまりにユニークすぎて、思わず吹き出してしまいそうになった)
 昨今、世間を騒がしている幼児虐待やストーカーといった、自分と他者との距離感がうまく計れないような事件を連想してしまう。夫が子供を捨てる動機がなんとも想像しがたく、作者の意図する通り、実にいやな気分になった。
 「あんなに仲むつまじいご夫婦だったのに。あのやさしそうな旦那さんが……」と口々に言う近所の声が聞こえてきそうな事の成り行き。
 きのうまでは想像すらしなかった柘榴の実の裂け目のよう。一見何事もないかのようなふつうの家庭が、鮮やかすぎるほどの破綻をみせるものなのかもしれないと思うと、背筋が寒くなった。
三月二十一日観劇)

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