えびす組劇場見聞録:第8号(2001年9月発行)

第8号のおしながき 

「さかしま」 室生村総合運動公園内健民グラウンド 7/19〜22
「スピーキング・イン・タングス〜異言」 下北沢「劇」小劇場 6/27〜7/1
「エリザベート」 梅田コマ劇場 8/3〜31
「ペンテコスト」 文学座アトリエ 6/26〜7/8
「自分を見つめる夏」 「さかしま」 by コンスタンツェ・アンドウ
「一見客の決心」 「スピーキング・イン・タングス」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「再演・演劇としての『エリザベート』」 「エリザベート」 by C・M・スペンサー
「傍観者で終わりたくない」 「ペンテコスト」 by マーガレット伊万里

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「自分を見つめる夏」
コンスタンツェ・アンドウ
  大阪を中心に活動する劇団「維新派」を意識したのは、「えびす組」メンバーのマーガレットが書いた劇評を読んだ時だった。大阪南港で上演された『王國』を、彼女は「一九九八年で最も鮮烈な出逢いとなった作品」に選んでいた。それ以来ずっと私の心に引っかかっていた維新派の公演を見る機会が今年訪れた。大阪旅行の空き時間と、新作『さかしま』(構成・演出 松本雄吉)の日程がうまく重なったのだ。海の日に、私は奈良の山奥深くへ入っていった。
  灼熱のミナミから近鉄線に乗り一時間強、「室生口大野」駅で下車し三十分歩く。道のりの半分は上り坂で、日差しはなかったがやはり暑い。会場を決めた人を恨みつつ、どうにか「室生村総合運動公園内健民グラウンド」の駐車場へたどり着き、少し低い位置にあるグラウンドを見下ろした。そこにはひまわり畑があった。
  三千坪の広大なグラウンド一杯に、人の背丈より高いひまわりの造花が無数に、かつ整然と立っていた。その背景に書き割りの巨大な入道雲がずらりと並び、更にその奥に、本物の山々がホリゾントになっている。スポーツを観戦するような、鉄パイプで組まれたヒナ段に椅子が置かれている客席は、演技スペースに比べると非常に小さく思えるのだが、席数は八百でシアターコクーンとほぼ同じキャパがある。会場の不便さを考えれば、かなりの動員力だ。
  午後七時開演。まだ明るい。顔を白く塗り、白やクリーム色の服を着た役者達が、音楽と共に走り出てくる。一番遠くの役者は何メートル離れているのだろう?豆粒である。チラシによると出演者は三十四名。全員が全力疾走し、止まり、また走り出す。その動きは、ダンスというよりマスゲームに近い。体は砂まみれだ。
  次第に、役者達は走りながらひまわりを抜いてゆく。やがて、気が遠くなるほどの本数のひまわりが消え、女の子が一人残る。名前は「なずな」、小学生。体は弱いが気が強く、女の子三人組のリーダーだ。グラウンドに「なずな」が過ごす夏の風景が広がる。それは観客の心に眠る夏の風景を揺り起こす。
  アイスキャンデー売り、日傘をさした着物の女性、蝶の羽化の観察。九九、昼寝、しりとり、だるまさんがころんだ。旧型のラジオ、電信柱の短い影、白いシャツやズボンを吊るした洗濯紐。全てがどこか懐かしい。
  気がつくと日が暮れている。満天…とはいかないが、都会で見るより沢山の星が輝く。星よりも多いのが虫だ。客席はもちろん、グラウンドが強いライトで照らされると、役者の周囲を狂ったように飛ぶ無数の虫達が浮かぶ。芝居を見ながら、人間以外の生命をこれ程沢山感じたのは初めてだ。生々しい本物の夏も、そこにはあった。
  本物の自然に拮抗して照明も音楽も力強く、かつ繊細だ。大味な印象を与えないのは、野外公演を続けてきたスタッフの実力だろう。面白かったのは「暗転」の規模が大きいこと。照明一切が消されると、ごく一瞬だが本当に何も見えなくなり、暗闇に閉じ込められたようで少し恐かった。
  グラウンド一番奥の雲がスライドして、ゼロ戦が現われる。何故だか、太平洋戦争といえば夏で、戦時中の夏のイメージは山だ。作り物の飛ばないゼロ戦も、ここでは現実感を漂わせていた。ラスト近く、「なずな」は発熱に苦しむベッドの中で、一緒にラグビーをして遊んだ青年兵が特攻へ出発する様子を見る。そこには「もう一人の元気ななずな」がいて、ゼロ戦に向かって「体当たりはラグビーとちゃうんか」と叫び続ける。おそらく実際には言えなかった言葉を。しかし、声高な主張を押し付けてはおらず、戦争の風景が作品を暗く支配するということはなかった。
  ラストには、山の中に海のイメージが現われる。ビニールの浮き袋を持って楽しげに歩いて行く「なずな」達も、いずれ「夏」を忘れて大人になり、また何かの拍子に「夏」を思い出すのだろう。このグラウンドに集まった人々のように。
  花火があがる。明るさの中に切なさを残して芝居が終わる。
  三人組と青年兵達以外には、役名がない。他の役者は「風景」を担う者達として、姿を変え、あちこちから現われ、移動し、あちこちへ消える。その動きには破綻がなく、念入りな稽古が伺える。彼らは、演出効果を上げるためや、主役を引き立てるために存在しているのではない。月並みな表現を使わせてもらえば、彼らが主役だと言えるだろう。個人的には役者を見る芝居が好みなのだが、『さかしま』のスケール感はそんな好き嫌いも忘れさせた。オペラグラスも使わなかった。細部をクローズアップしても、意味がない。「大きな空間」を通り越した「空気」の中に身を置き、深呼吸をして何かを感じる芝居なのだ。感じるものは、人によって千差万別だろう。
  想像していた維新派の作品と『さかしま』とは少し違った。美術は、緻密に建設された大掛かりな装置というより、イメージを喚起させる抽象的なものだった。内容も意外と淡々としていて、感情よりも感覚に響く。見終わった時、私の中には急激な気持ちの昂ぶりはなく、穏やかな驚きが満ちていた。私は、作品と共に自分の姿を見ていた。作品が一つの独立した世界として存在し、それを外から眺めるのではなく、自分が作品の中に紛れ込んで、作品を見るのと同じパワーで自分自身を見つめているような不思議な感覚があった。
  『さかしま』は、「舞台を見る」という自分にとって過去から未来へ繋がる行為について、立ち止まって考える余裕を与えてくれた。グラウンドの真ん中で、三百六十度を見渡している気分だ。道は一本ではなく、どんな方向にだって進める。やがて歩き出して進むうち、「夏」を忘れるように今の気持ちもきっと薄れるだろう。でも、また何かのきっかけで「夏」を思い出すようにこの気持ちが蘇るに違いない。舞台を見続ける上で、その繰り返しは無駄にならない筈だ。
  上演中何度か、グラウンドの上空をジェット機が低く飛んでいった。ふと「世界」に思いを馳せた。維新派も海外進出を果たしている。どの国のどんな町でどんな舞台が上演されているのだろうか?世界でも指折りの劇場数を誇る東京に暮らし、地下鉄を乗り継いで客席の闇へ滑り込む日々。そこで全てが得られる様な気でいた。しかし、手に入らない物もあるのだ。
  今は、何がなんでも維新派の次回作を見ようと計画を練ってはいない。私を室生まで連れていったのはいくつかの偶然や「縁」のようなものだった。次に維新派を見る時も、そういう曖昧な何かに導かれそうな予感がする。来年か五年後か…時期はわからない。だが、その再会はまた新しい発見の場になるだろう、きっと。
(七月二十日観劇)

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「一見客の決心」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
  のんびり構えていたら全席売り切れだという。「当日券(三千円)が必ず出ます」とのことだが、実はこの日、もうひとつのチョイスがあった。ピーター・ブルック演出の『ハムレットの悲劇』である。こちらも当日券のみで、しかも九千五百円なり。体力と財布の都合を考え、わたしは下北沢に向かった。
 四人の俳優(中山仁・中村まり子・田代隆秀・金沢碧)が九人の登場人物を演じるが、基本的には二組の夫婦の物語である。
 戯曲ぜんたいは三部構成で、パートTはレオン&ソーニャ(中山&金沢)夫婦と、ピート&ジェーン(田代&中村)夫婦が登場する。
 幕開け、舞台では二組の中年男女がダンスをしている。しかし会話が始まると、これが同じ場所ではないことがわかる。それぞれがお互いの相手とつまりレオンとジェーン、ピートとソーニャが浮気をしているのだ。
 夫どうし、あるいは妻どうしが同じ台詞を同時に言ったり、追いつ追われつ進行する様子がスリリングで引き込まれる。ヴィラ・ロボスのアリアをポップスふうにアレンジしたものか、細く悲しげな女の声が気怠く流れるなか、かわしあう台詞も歌っているように聞こえる。同じ時間に違う場所で自分の夫が(あるいは妻が)じぶんと同じことをしようとしている。合わせ鏡のような男女の関係。夫婦はすぐそばにいるのにお互いが目に入らない。しかしその状態が絵空事にみえず、妙に現実味を感じさせる。「劇」小劇場の小さな空間だからこそ活きる趣向であろう。
 パートUではもう一組の夫婦ジョン(ここでは登場しない)&セラピストのヴァレリー(中村)やパートTのピート&ジェーン夫婦の隣人(中山)、ヴァレリーの患者(金沢)などがからんで話が少々複雑になってくる。
  またヴァレリーとサラの会話のなかでサラの昔の恋人(田代)が登場したり、現在と過去、現実と幻想が行き交い、物語は迷走し始める。ふたつのパートが絡みあいながらパートVではある事件が起こり、唐突にこの物語は終わる。各パートの関連性が明示されるわけではなく、登場人物の心の奥底はわからないまま、偶然の浮気の顛末というにはあまりに謎めいていて、何の結論も出ていない。
 四人の俳優がトータルで九人の人物を演じるのだからそんなに複雑な構造ではないのだが、パートTの緊張感がパートUになっていささか緩んでしまったこともあり(舞台じたいの緊張感も、みているわたしも)、いまだに頭の中が整理できずにいる。
 出演俳優はいずれも舞台経験豊富なベテランだ。重層的な構造の戯曲に取り組み、大人の演劇をみせたいという意欲が伝わってくる。
 と同時に千秋楽であってもなお燃焼しつくせないものが感じられ、もどかしい印象が残ったことも否めない。
 つまりそれだけ難解で、奥行きのある作品なのだろう。観客の口コミで次第に動員数が増え、舞台の印象も刻々変化していく、とみた。俳優は演じるたびに違うことを、観客はみるたびに変わっていくことを実感できるだろう。再演に、ロングランに耐えうる作品だ。公演日数の短いことが惜しい。
 ピーター・ブルックの『ハムレットの悲劇』を見逃したのは、じつのところ今でも残念だが、わたしは今回の『スピーキング・イン・タングス』に出会えたことに満足している。初めて旅した町の見知らぬ路地裏の小さな店。情報もなく、しかし直感で思い切って入ってみた。そんな感覚だ。
 公演パンフレットによると、シアター・J・innという演劇ユニット名は「中山仁の宿屋」の意味だそうだ。「そこにいらした皆様に束の間の安らぎと気分転換の場所をご提供できれば」と、あるじ中山仁の心意気と願いが熱く語られている。
 しかし今回の作品は安らぎや気分転換を抱くには少々苦いものがある。後味よくさわやかな気分にはなれない。
 わたしはひとりで観劇したのだが、仮に誰かと一緒だったとして、話が盛り上がるとしたら冒頭場面の会話の掛け合いのおもしろさが中心になるだろうと思う。だが内容そのものになると、誰かと話すよりもひとり静かに考えたほうがよさそうだ。
 タイトルに「〜異言〜」と書かれているのはまことに象徴的だ。
 異言。相手が理解できない意味不明の言葉。
 これはどうしても心を通わせることのできない人間の話である。夫婦が同じ言語を使いながらほんとうの心は伝えることができない。愛がないから?いや、愛があっても伝えられず、また受けとめられないこともありうるという矛盾と悲しみが描かれている。
 しかしひとりで抱え込んだのち、たぶん誰かと話をしたくなる予感があって、わたしはぜひ再演していただきたいと思うし、戯曲も読んでみたい。
 この覚えにくいタイトルといい、演じる側としては伝えにくく、みる側にしても理解しにくいものだ。中山仁は承知の上で、敢えて挑戦したのだろう。宿のあるじはお客に媚びを売らない。この舞台をみて安らぎと気分転換を、というのは観客としてそうとうに高度な鑑賞眼と、なおかつ人間としての成熟が要求されているのではないか。
  「いつでもおいでください」という優しい笑顔の奥で「でもわたしはあなたを甘やかしませんよ」と囁く。今回一見客のわたしは残念ながら「負けました」という感じである。
 だからわたしは中山仁の宿屋にまた行きたい。もっと熱心でもっと聡明で、もっと無垢な心で。
(シアター・J・innプロデュース第一回公演 アンドリュー・ボヴェル作 中山功訳 大間知靖子演出 七月一日千秋楽観劇)

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「再演・演劇としての『エリザベート』」
C・M・スペンサー
 日本では二〇〇〇年の六月に初演の東宝ミュージカル『エリザベート』。オーストリア発のミュージカルで、ウィーンでは九三年九月に初日の幕が開いた。日本での再演が今年の春に東京から始まり、名古屋・大阪・福岡と秋まで縦断公演が行われる。私は夏真っ盛りの大阪梅田コマ劇場で観劇した。
 さて、観劇後に公演プログラムを隅から隅まで読みあさったことはないだろうか。そういう時はたいてい、観た作品をもっと理解したいとか、あの出演者はどういう人か、などと大変関心を抱いた時にそうしていると思う。帰りの電車の中で、大学生らしい男性が一生懸命大きな『エリザベート』のプログラムを読んでいる姿に遭遇した。
 昨夏に初演も観たが、この再演の『エリザベート』は面白かった。作品を観たという満足感があり、場面が大変印象に残る舞台だった。そしてこの日は、終演後の感激が冷めやらぬという感じで、場内が明るくなっても拍手が鳴りやまないほどだった。
 私なりの見方をすると、演劇的に芝居の部分でも楽しめる舞台だった。ロビーでは五十代位の女性が「トートの俳優、彼は情感があるわ」と話し、女友達に連れられてきたらしい男性が「こういう話の舞台はいいよね」と語っている声が聞こえてきたことからも明らかだった。この二千席もある大劇場の二階席ロビーで、この反応である。
 さて、音楽と芝居と舞踏などを加えた総合芸術がミュージカルである。(浅井英雄著「ミユージカル入門」より)そして「演劇小辞典」によると、そのはじまりはヴォードヴィルやヴァラエティが、イギリスのライト・オペラやヨーロッパのオペレッタの影響を受けて、ミュージカル・コメディとして発達したものといわれ、日本ではミュージカルと称した最初は、第二次大戦後、帝劇ミュージカルス以降に菊田一夫による東宝ミュージカルが娯楽性をもり込んで上演されたという。この『エリザベート』は「第二十六回菊田一夫演劇大賞受賞」作品であり、まさに東宝ミュージカルの王道といえよう。
 死の帝王トートがWキャストで配されているが、興味深いのは、劇団四季出身の今やミュージカル界で人気の山口祐一郎と、もう一人は文学座座員のバリバリの新劇俳優である内野聖陽というキャスティングだ。その内野聖陽が、宝塚歌劇団で雪組男役トップスターだった一路真輝のエリザベートを相手に、ミュージカルの舞台を踏んだ。初演では歌唱力にその経歴の差が歴然と出てしまったが、その中でも妖艶なトートという印象を強く残していた。再演のこの時期、東京では山口祐一郎が『風と共に去りぬ』に出演中のため、梅田コマでのほとんどを内野聖陽が演じることになる。
 私は内野聖陽のミュージカルという分野での存在の意味を、この作品で認識した。彼の演技の技量をもって、ミュージカルに芝居の部分で感動を呼んでしまうのである。今年の彼は『エリザベート』の世界を支配するかのように堂々とトートを演じていた。彼が相手役の目前に現れた時、その違いが目に見えた。内野聖陽を相手にすると、同じ舞台にいる出演者の目つきが違った(ように見えた)。舞台の上で彼の行動、視線が意味を持つことは、今までの彼の出演作を観てよく理解できる。『エリザベート』でもろうろうと歌い上げる代わりに、真に相手に語りかける姿と、彼の創った世界がそこにあった。
 主役陣のみならず共演者の歌唱力が見事だったため、内野聖陽の演技力をもって歌われるナンバーが重なると、技量の差よりも感情としての部分が生きて、情感のある舞台が出来上がったのは幸いだった。数年前に、ストーリーテラーであるルキーニを演じる高嶋政宏の『王様と私』の初演を観たが、その時と『エリザベート』で聴かせてくれた歌唱力とでは、今はかなりの成長が伺える。語りの口調を音符に乗せて、表現力豊かにうまい!と思わせる歌唱力だ。私の意見として、ミュージカルといえども、セリフがある限り歌とセリフの声があまりに違うのは不自然であると思う。セリフのある役を演じる俳優に求められる技術は多いが、それがミュージカルとしての奥の深さだろう。これからも「歌唱」の部分だけにこだわらず、「演技」をもって感動のあるミュージカル作品を期待する。
 余談だが、プログラムで出演者のプロフィールを読むと、この再演にかけるアンサンブルの意気込みが感じられる。いい脇役だと思ってプロフィールを確認すると、なんと二度もオリンピックに競泳選手として出場の経験のある俳優もいた。今や立派に今後が期待されるミュージカル俳優だ。かく言う私も、初演では買わなかったプログラムを隅から隅まで読んでしまった。
(八月十三日観劇)

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「傍観者で終わりたくない」
マーガレット伊万里
 人が人の心の痛みを本当に分かってあげることは可能なのだろうか?
  その人とは、どうやったってなり代われない自分が、他人の苦しみや悲しみを、完全な形で理解してあげることができるだろうか。
  たとえその悲しみや苦労について事細かく説明されたとしても、すべてをわかち合うことは不可能だ。せいぜいその事を想像し、同情の気持ちでいたわりの言葉をかけてあげることぐらいしかできないだろう。
  『ペンテコスト』(文学座六月アトリエの会デヴィッド・エドガー作 吉田美枝訳 松本祐子演出)には、絶望や苦しみや痛みを抱えた大勢の民族が登場する。
 話は、東欧の架空の国が舞台。片田舎の教会の礼拝堂で一つのフレスコ画が発見されたところから始まる。まずは、絵の真偽をめぐり、外国の美術史家から教会の神父、国の文化大臣らを巻き込んでの鑑定騒ぎ。
  しかし二幕に入るや、礼拝堂に難民ゲリラがなだれ込んできて、美術史家たちを人質に立てこもり、場の雰囲気は一変する。
  国を追われ、家族を失い、行き場を失い、礼拝堂にたどり着いた難民たち。耳慣れない外国語がいくつも飛び交い、皆一様にせっぱ詰まった表情だ。そこには、一人一人違う国籍をもった、または国籍をもたない者が集っている。現実の世界が抱える民族紛争、宗教的対立の問題をわたしたちに思い起こさせる。
  身の安全を求めて亡命先を要求するゲリラ。政府との攻防が延々と続き、後半にかけて緊張感はどんどん高まっていく。
  しかし反面、どこかその風景を傍観してしまう自分に気づいた。
  平和ということにあまりに無頓着になってしまっているせいなのか。なにか身構えてしまう。
 さらに芝居が進むと、ゲリラたちは身の上話を口にし始める。先ほど高まった緊張感はいったん小康状態、一人一人の告白が連なる。
  この直接的な戯曲の構成に対する役者たちの熱演にも、いささか限界を感じた。役者が皆一様に力みすぎの感じがして、逆に緊迫感をうすめているせいかもしれない。
  各人が抱える背景を想像させる場面なのだが、役者のもつ空気とか体温とでも言うような、皆のベクトルが同じ方を向いていて、どうしても均一な印象を受ける。
  また仕方のないことだけれど、難民それぞれが異なる民族という設定にしては、同じ肌の色、同じ瞳の色の日本人ばかりで演じるのだから、各民族の差異は際立ってこない。(この作品を成功させるんだという出演者の一致団結した雰囲気はひしひしと伝わってくるのだけれど)
 芝居が終わりアトリエを一歩出てしまえば、夜風にあたり、わたしたちは足早に家路を急ぐ。それでも、あの狭い礼拝堂で生きようと必死でもがく人々の姿に衝撃をうけたとき、客席のわたしたちには、彼らの辛苦を思いやろうとした一瞬が確かに存在した。
  でも、思いやろう、理解しようという、謙虚だけど消極的ともいえるスタンスをわたしたちにとらせるだけで満足してもいけないのではないか。とうてい本物の世界が抱える悲しみを理解できるものではない。けれど「上演することに意義がある」なんて言葉に収束させてしまうのはもったいなさすぎる。
 難民ゲリラが礼拝堂の扉の向こうから駆け込んできた瞬間の迫力と同じくらい、わたしたちの心の中に一気に押し寄せるような切実さが欲しかった。
三時間以上の長大なドラマ、二十人近くの出演者たち、飛び交う十カ国近い言語。
  役者・スタッフの並々ならぬ力の入りようが伝わってくるだけに、はっきりNOとは言えないけれど、YESとも言いがたい判然としないものを抱えてアトリエを後にした。
 (七月二日観劇)

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