えびす組劇場見聞録:ミレニアム増刊号

☆こんにゃく座特集☆(2000年11月)

オペラ「にごりえ」上演情報
原作●樋口一葉      台本・演出●山元清多       作曲●萩 京子
出演●竹田恵子    大石哲史    鈴木あかね 他
2000年9月13日〜17日●世田谷パブリックシアター

「不思議な肌触り〜こんにゃく座の魅力」 by マーガレット伊万里
「耳で聴く樋口一葉」 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「何を捨て、何を拾うか」 by コンスタンツェ・アンドウ

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「不思議な肌触り 〜こんにゃく座の魅力〜」
マーガレット伊万里

  ずいぶん前に、オペラに魅せられて一時声楽のお稽古に通ったことがある。イタリアオペラ専攻の先生に教わっていたので、練習曲はほぼイタリア語。たまに日本の歌曲を歌うのだが、実はこれがイタリア語なんかで歌うよりも歌いづらい。日本語の発声のせいか息継ぎも苦しく、歌詞を音符の一つ一つにのせるのが大変だった。一番身近な言葉のはずなのに……。私がいつも以上に苦戦していると、教える側の先生もそれはよく理解してくれた。
  オペラシアターこんにゃく座の舞台を見るとき、この時のことがちらっと頭をよぎる。クラシックの訓練を積んでいる彼らは、西洋のオペラにあえて背を向け、日本のオリジナルオペラの創造を目指す。ふだん無意識に使っている日本語だが、これをオペラという枠組みの中で伝えようとしたとき、そこには想像以上の努力と苦労、そしてさまざまな智恵が潜んでいるにちがいない。
  せりふの世界で翻訳上演は当たり前なのに、オペラの世界でそういったことはほとんどなされていない。音符の制約がついてまわるゆえんだろうが、イタリア語やドイツ語のオペラを、字幕なしで楽しめる人が果たしてどれほどいるのだろう。
  でもこれが日本語なら、言葉の意味と音楽は連動し、わたしたちは両方を同時に感じとることができる。ベルディのオペラをイタリア人がイタリア語で聞くように、日本人にとっての歌われるドラマとして、こんにゃく座は健全な作品を提供してくれていることになる。
  ベルディやモーツァルトの作品を原語で聞くのが当たり前になっている日本で、自分たちの言葉で理解できるオペラの上演を目的とする彼らの心意気は、それだけでなんだか嬉しいではないか。
  こんにゃく座は日本語のオペラを上演し続け、来年創立30周年を迎える。オリジナルの日本語台本に、芸術監督の林光や音楽監督の萩京子が作曲する。伴奏はピアノを中心に弦楽器や管楽器を加えた本当に小さな編成。
  彼らの作品にはオペラにつきもののアリアがなく完全なる主役も登場しない、アンサンブル重視だ。だからといって、歌手が皆同じ顔つきをしているわけではない。一人一人の個性は際立ち、それぞれが立派な歌を聞かせてくれ、それが一つにまとまったときの一糸乱れぬ迫力は圧巻だ。観客を捉えて離さない清涼で豊かな歌声はこんにゃく座のとびきりの武器だろう。
  その舞台の印象も「歌詞を歌う」というよりは「せりふをすべて歌っている」感じを受ける。ときとして早口言葉のように歌われ続けると、こちらは遅れまいと集中力全開でついていかなければならない。でも気がつくと、いつの間にか全身の力が抜けていたりする。意識して追わなくても、せりふが体にしみ込んでくるようになるから不思議だ。
  こんにゃく座の舞台に接したのはカフカの『変身』、『月の民』、そして最新作の『にごりえ』で3回目。今回の『にごりえ』は樋口一葉原作による明治時代の人々を描いた物語で、まげを結い、着物姿の男女が舞台で歌う。特に女性の身のこなしやたたずまいが、どのシーンをとっても情緒豊かで美しい。
  全身を完全にリラックスさせるというこんにゃく体操(劇団名の由来である)によって得た、自然な発声や身体性が最大限に生かされているのだ。彼らのオペラのスタイルが、ここ一番の輝きを放っていたように感じた。
  音楽性に走りすぎるでもなく、せりふに頼りきるでもない、ちょうどいいバランスの上に立つこんにゃく座のスタイル。逆に言えば、オペラという枠組みの中ではそこがかえっておとなしい印象を与えるマイナス面となっているのは否めない。それでも、自分たちの言葉をダイレクトに駆使できる強みから、ドラマは確実に伝えることができるのだ。
  しゃべるように歌い、歌いながらもせりふを話しているような独特の響きとでもいおうか。初めはわずかだった振動がこちら側に少しずつ広がり、それはやがて大きなうねりとなって体中で共鳴するようなイメージ。
  全身で聞く喜び、舞台ならではの醍醐味がきちんと存在し、西洋オペラの突き抜けるような快感やミュージカルのもつ躍動感とは別物の魅力がある。
 こんにゃく体操をよりどころにした身体性、あくまでも日本語のリズム・響きにこだわった台本、そしてその言葉の魅力を最大限に引き出す音楽、この3つの要素が生み出すトライアングルは、長年の蓄積からすてきな音色を聞かせてくれる。
  そんな存在は、オペラの世界にとっても、演劇の世界にとっても、まだまだ未知数だ。迎える21世紀、これからどんな地平を拓いてくれるのか期待を寄せるとともに、それをこの目で確かめるのをとても楽しみにしている。

(九月十四日観劇)

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「耳で聴く樋口一葉」
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 わたしの樋口一葉体験は耳からであった。
 九七年四月、亡くなった杉村春子の追悼で再放送されたラジオドラマ『大つごもり』がそうである(本放送は六八年)。生き生きした台詞と抑制された地の文とが織りなす絶妙なバランスにしばし圧倒された。台詞は耳慣れない昔の江戸弁で、地の文は堅苦しい文語体なのに、しっくりと耳に馴染む。
 さっそく原作を手に取ったが、目で読むとどうももどかしく、かといって自分で朗読するのは気恥ずかしいし、これがたいそう難しいのである。
 そこでわたしはラジオで聴いた女優の声で読んでみることにした。
 心のなかで声を出す、という感じである。
 するとどうだろう、ずっと以前から聞いていた、話していたような懐かしい響きをもって、言葉が流れ出すのである。言葉が自分のからだの中で脈うつ感覚があった。
 お力やお峯が生き生きと動き始める。現代劇の戯曲でも、作品によってはそうとう無理をしないと登場人物が動かないものもあるのに、この躍動感はどこから来るのだろうか?
 さて、わたしはオペラというものにほとんど馴染みがないのだが、ミュージカルなら多少覚えがある。好きになるミュージカルの重要な条件は「終わったあともずっと耳の奥で繰り返し鳴り続けるような、観客が口ずさめるような親しみやすいナンバーがあること」である。『レ・ミゼラブル』なら「民衆の歌」や「オン・マイ・オウン」であるし、『アニー』なら「トゥモロウ」であろう。
 オペラもそういう感覚の延長で味わってみようか。つまりアリアを楽しめばいいのだ。
 そんな気持ちで五月にこんにゃく座の『吾輩は猫である』(林光作曲・加藤直演出)をみて、はたと当惑した。
 覚えられそうな曲がひとつも(ワンフレーズさえ)なかったのである。全編が歌で進んでいく構成は『レ・ミゼラブル』に似ているが、それにしても難しい。素人が歌えるようなところは全くないのではないか。これ、というナンバーが、つまりアリアがないのである。
 しかしその感覚がまったく苦にならず、わたしは実に楽しくみることができたのだ。
 当惑したのはここに理由がある。
 今回の『にごりえ』も同様だ。二時間半、飽きることがなかった。
 耳慣れない言葉なのになぜ。
 覚えられないメロディなのになぜ。
 こんにゃく座の『にごりえ』にはふたつの「なぜ」がある。
 この理由を考えてみることにしよう。
 ミュージカルの場合、作品にもよるが「何かを伝えなければ、訴えなければ」というメッセージ性が強すぎて食傷気味になることがある。さぁ客席の皆さんもご一緒に歌いましょう、踊りましょうという、あの雰囲気だ。 押しつけがましさや必要以上の熱っぽさ。
 こんにゃく座にはこれがない。
 熱演、熱唱をしない。確かな技術の裏付けと(全員がきちんと歌えて、かつ演技もできるのである!)、作品に対する深い理解、劇団員同士の信頼が感じられる。
 また普通に台詞として話される言葉が、メロディにのるとずいぶん違った印象を与えることがわかった。
 話すように歌う。歌うように話す。そのどちらでもあり、どちらでもない。
 たとえば『レ・ミゼラブル』の場合、地の台詞の部分を歌うとき、きちんと聞き取れる俳優は案外と少ない。とくに翻訳ミュージカルは詩がきちんとこなれた日本語になっていないこともあって、余計に聞き取れない。
『にごりえ』にはそういうところがなかった。
 台詞と歌が融合して、しっとりと耳に心地よく響く。しかもおもしろいことに、小説の地の文のところも、登場人物が歌うのである。
 たとえば冒頭、菊の井のお力について「天然の色白をこれみよがしに乳のあたりまでくつろげて」云々という地の文を、彼女の昔の馴染み客である源七(大石哲史)が歌うのだ。
 同じ箇所を単に台詞として話したとしたら、
おそらく不自然な感じがするだろう。そこを歌うことによって違和感をなくし、ことさら説明的にならずに劇の流れを作っていくところに作曲の萩京子の手腕が感じられる。
 また創立メンバーである竹田恵子は別格として、飛び抜けた存在の俳優がいない。これはいい意味で、である。全員のレベルが高く、アンサンブルに優れているということなのだ。
 その竹田恵子は『にごりえ』のお初のほかはただ「女」という役を演じる。さまざまな場面で、そのときどきの女たちの心情を代弁したり、そっと見守っていたり、まるで一葉その人であるかのように、悲しく温かい目を注ぐ。竹田を中心に女優陣はよくまとまっており、アンサンブル重視のなかでもそれぞれに個性を発揮している。お力役の鈴木あかねの色香、お関役の梅村博美の質実さ、お峯役の鈴木佳奈の可憐さなど、人物のとらえ方が的確で、みていて安心できる。
 とくに十一場、女たちが「ああ、嫌だ嫌だ(中略)、これが一生か、一生がこれか」と激情にかられて歌う場面は秀逸であった。
 欲を言えば女優陣の充実ぶりに比べて男優がもう一歩という感じがする。結城朝之助役の酒井聡澄にはもっと円熟味が、石之助役の井村タカオには複雑さがほしい。
 そんななかでもっとも印象に残ったのは、車夫を演じた高野うるおである。菊の井の娼婦たちの恋文を代筆してやったりする、少々インテリ風の男である。
 まだ若いが影があって、これまでいったいどんな人生を歩いてきたのか、謎めいた雰囲気を漂わせる。台詞も出番も少ないが、竹田恵子の「女」とは少し離れた位置で舞台の女たちをそっと見つめている。わたしは彼が『十三夜』の録之助を演じるのをみたいと思った。
 聞き慣れない言葉と覚えられないメロディ。
 こんにゃく座はこのふたつの障害を、乗り越えるというより、融合させることによって新しい作品を産み出すことに成功したといえるだろう。ラジオドラマで聴いた樋口一葉を今回の舞台でより立体的に、新しいイメージで味わうことができた。
 こんにゃく座の魅力を言葉で表現するのは難しい。劇評だけでなく音楽評の面も必要になるからだ。とくに新作の場合、手元に戯曲もなければ楽譜もない。一度聴いただけの歌はどんどん忘れてしまう。しかも覚えにくい。
 だが舞台ぜんたいの雰囲気というか、肌触りのようなものはしっかり心に残っている。「オペラ」と身構えることなく、気がつけば心身をゆったりと舞台の世界に委ねてしまううこの感覚は、マーガレット嬢の言葉を借りれば「不思議」としか言いようがない。「不思議」の中身を何とか言葉にできないものか。 次回の公演はチェーホフの『三人姉妹』である。これまでストレートプレイでいろいろな舞台をみてきて、よくも悪くもある一定のイメージ(固定観念と言ってもよい)が出来上がってしまっている作品だ。
 こんにゃく座はどんな『三人姉妹』をみせてくれるのだろうか。
 まさにわたしが思い描いていたチェーホフだと思うか、逆にまったくイメージが変わってしまうか。そしてそれを新鮮であると感じとることができるか。その感覚をより的確により豊かに表現し、読者の皆さんに舞台の魅力を伝えることができるだろうか。
 さまざまな準備や学習や訓練が必要だろう。
 いささか荷が重いが、これは嬉しい重さである。
 大いに楽しんで『三人姉妹』に備えたい。
(九月十六日観劇)

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「何を捨て、何を拾うか」
コンスタンツェ・アンドウ
  オペラをきちんと観たことがない。興味はあるのだが、日常的に音楽を聞く習慣がない私にとって、音楽のジャンルに入るオペラは敷居が高い。しかし、縁あって、日本語の創作オペラを上演し続けるこんにゃく座の『にごりえ』を観た。総合的なオペラ評にならないのは承知の上で、一つの舞台として感じたことを書く。
  舞台には、狭い路地を挟んで二階建てのセットが二組作られている。上手側は「菊の井」の名を掲げた日本家屋で、一階と二階の座敷は階段で行き来できる。下手側の一階は別の座敷。二階部分はオープンな空間で、「菊の井」の二階へも通じている。セットの前面の舞台部分と合わせて五ヶ所が、場面に応じて使われる。
  色町を行きかう人々の描写で幕が開く。セットだけでなく扮装からも、当時の様子を忠実に表現しようとしているのがうかがえる。楽器はピアノ・バイオリン・チェロのみで、当然洋楽が演奏されるのだが、歌詞は文語調になっている。初めのうちは、明治風俗を模した舞台の上で文語調の歌詞が洋楽に乗って流れることに違和感を覚えた。加えて、歌詞が聞き取りにくい。文語調の言葉に抵抗はないが、すんなりと耳に馴染まないのだ。
  また、四つの小説を一つの舞台に散りばめるという構成も、私を混乱させた。『にごりえ』に続いて、別の小説の登場人物が歌い、再び『にごりえ』に戻り、更に別の小説へ…。舞台転換はなく、演じる場所が違うだけなので、気分が変わらない。二役を演じる人も多く、めまぐるしい。次々と移るエピソードを追うのに疲れると、歌詞を聞こうとする意志や集中力が弱まる。淡々とした調子の曲が続くことも手伝って、一部の後半は時折眠気に襲われてしまった。
  休憩時間になり、これではマズイと反省した私は、入口で配られたチラシをカバンから出した。チラシには、各場面のあらすじと登場人物名、どの小説に基くかが書いてある。あれがあれで、これがこれ、と復習しながら、最後まで目を通してしまった。初めて観る舞台のあらすじを事前に読むのは、高校時代の伝統芸能鑑賞教室以来かもしれない。自分のポリシーに反した様で複雑な気分だったが、頭の中でこんがらがった人物関係が整理され、落ち着いて二部を観ることができた。
  しかし、その構成に対する疑問は残った。主役を一人に絞らないことで、明治に生きる女性の全体像を浮き彫りにしようとしたのかもしれないが、あまり効果はなかった様に思う。演出上の必然性にかられてと言うより、歌い手の演奏の機会を均等にする為ではないか、と想像してしまった。
  歌唱力の評価は専門家にお願いするとして、出演者を演技者として見てみると、男性陣に比べて女性陣の方が台詞や動きの面で優れていたと思う。お力(『にごりえ』の主役)を演じた鈴木あかねには、「売れっ妓」らしい風情があり、女主人の噂話に花を咲かすお福(『われから』)役の田中ふみのキャラクターは、舞台を明るくした。田中は、二役でお六(『にごりえ』)も演じ、残してきた子供との触れ合いを歌うシーンでは切なさを滲ませた。お峯(『大つごもり』)の鈴木佳奈は、少女役に嫌味が無く、はつらつとして良く通る歌声は心地よく響いた。
  印象に残った場面は、『十三夜』。密かに思いあっていた幼なじみ同士が、何年ぶりかで再会する。身を持ち崩した車夫と、つらい結婚生活に耐える妻。今となってはどうにもならない男と女が、言葉を交わす。派手さはないが、しみじみとした情感に満ちて、まさに「短編小説を読んだ様な気分」を味わった。
  作曲の出来不出来について語れるだけの素地がない私にも、原文を生かしつつ膨大な量の歌詞を構成し、曲を付ける苦労は想像がつく。長期に渡ったであろう稽古をこなし、立派なセットを組んでも公演はたった五日間。勿体無い気がしてならない。
  日本の舞台芸術シーンの中でこんにゃく座が何を目指しているのか、私にははっきりと掴めないが、『にごりえ』の全体的な印象は、かなり演劇に近いものだった。その点から考えると、もう少し、物語や言葉に対するわかりやすさが欲しかった。もちろん、イタリアオペラやドイツオペラを聞く観客が、歌詞全てを理解しているとは思っていない。しかし、こんにゃく座のオペラは日本語で上演される。母国語なのにわからないのは、ストレスになる。そして何より、こんにゃく座にとって、言葉を伝えることは、音楽を聴かせることと同じ位、大切なことなのではないだろうか?
  舞台は、お力の死で結末を迎え、幕開きと同じく、色町を行きかう人々の姿を出して幕が閉じる。やや新鮮味に欠ける演出かもしれない。しかし、最後まで奇をてらうことの無い舞台作りからは、原作への愛情や尊敬が感じられた。
  帰宅してから『にごりえ』と『十三夜』を読み、考えていた以上に、歌詞が原文に忠実だったことを知った。普通の演劇では、小説の地の文を観客に伝える場合、演技や台詞に変換する必要がある。その作業が少なかった『にごりえ』は、西洋で生まれたオペラというスタイルを取りながら、日本の「語り物」的な要素も含むのかもしれない。ただ、その忠実さが、わかりずらさの一端を生んだのも事実で、近代以前の小説を舞台化することの難しさを物語る。
  原作の中の何を捨て、何を拾うかは、作り手の選択に委ねられる。一葉の文章を読みながら音楽を思い出すことはできなかったが、観たばかりのこんにゃく座の舞台が一葉の文学世界の邪魔をすることもなかった。こんにゃく座の選択は、原作と舞台の関係として、一つの貴重な形だと思う。
(九月十七日観劇)

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