家 路

 

 立春が過ぎたとは言え二月の朝の風は身を切るように冷たい。通る人もオーバーの襟にあごを埋めて寒そうに歩いて行く。商店はまだ戸をたてている。仁も弁当箱をかかへてH橋の所まで来ると

  ボー、ボーボー

 と朝のしぢまを破って、何所かの工場の汽笛が響いて来た。ああもう仕事を始めた工場もあるんだな。仁はそんな事を考えながら街角を曲がった。通り過ぎる家々の軒先からプーンと味噌汁の芳(コウ)ばしい香りが、鼻をつく。仁は山田合資会社と白ペンキで書いてある重いガラス戸を開けて中へ入った。タイムレコードのカードを押すと、七時十四分だ。まだ始業時間迄に十六分ある。二階へ上がった。仁の職場は二階のトーチランプ掛だ。監督は戸川虎次郎(トラジロウ)と言う七十近い爺さんだ。虎三という息子も同じ仕事をやっている。後、内田と佐久間と仁の五人組だ。内田と佐久間は、仁より一つ年上の十八歳だ。佐久間は背の小さい色が白くて、手の指は細く一見女の様な感

じを与える。強いて男性的なものを求めるならば、それは女らしいその顔に、調和を乱している濃い髭であると、言いたい。内田は色の浅黒い、背も普通なみな、額に子供のときやった剣撃ごっこを記念する刀創(カタナキズ)がある。皆人が良い面白い人ばかりだ。他の職場の変種には、間抜けなゴン豊(トヨ)、何か二言目には、“おっとろいたね、全くおっとろいたよ”が口癖の林ちゃん、自分のところへ来た手紙すら読む事の出来ない工場長のブル公などがいる。まあ他人の悪口はこの位にしておこう。

 仕事衣に着替え終わったらサイレンが鳴り出した。

「整列」

機械場の野上さんが台の上に登って号令をかけた。

「気を付けー」

「なかば右向け右」

「宮城に対し奉り最敬礼」

皆は深く頭を下れた。

「直れ」

「靖国の英霊に感謝の誠を捧げ並びに、出征将士の武運長久を祈念いたします」

「黙祷(モクトウ)始め」

仁も衷心(チュウシン)より感謝の祈りを捧げた。

「直れ」

「体操の位置にひらけ」

野上さんはレコードをかけた。

 ジィ第一ラヂオ体操・・・・用意始め。

皆体操を始めた。活発に手足を運動させると心身がキリッとひきしまって良い気持だ。

 

「高津君、僕はもうお腹がぺこぺこだよ、動けなくなっちゃった」

佐久間はそう言いながら大げさに腹をかかえた。実は仁も先刻から空腹をかかえて時計と睨(ニラ)めっこをしているのだ。だが意地の悪い事に、こう言う時に限って針は中々進まない。腹の虫がギュウギュウと鳴いている。

「ああまだ十一時半か、僕も先刻から困っているんだよ、腹の虫が鳴いているんだ」

「全く憎らしいね、針を手で回してしまいたいね」

佐久間は指で針を回す真似をした。

「おいおい何をそこで言ってるんだい、こっちまで腹がへるぢゃないか」

寅ちゃんがバーナーを取り付けながら声をかけた。

「どうも子供等は意地汚くて不可ない」

と寅さん(爺さん)が言いながら弁当箱の蓋を取って、漬物をつまみ出し口の中へぽんと入れた。

皆はそれを見て大笑いした。

時計の針は四時二十分をさしている。室の中に、もう夕闇がただよい始めた。真赤な夕陽が窓から差し込んで、誰の顔も赤く照り映えている。近くを通る省線電車の警笛が、何故か物悲しく仁の耳に響いて来た。仁は耐(タ)まらない寂寥感(セキリョウカン)に襲われ一刻も早く家へ帰り度くなった。十七にもなって、五つや六つの子供の様だと人は笑うかもしれない。だが仁にはそんな事を考えるいとまはなかった。五時になるのを赤ん坊が、母親のお乳を待ちわびる思いで待った。

時計は五時をさした。同時に終業を告げるサイレンが鳴り渡った。

仁は汚れた手を洗うのも早々にして、仕事衣をもどかしげに着替えた。軽くなった弁当箱を片手に一番先に飛びだした。

 懐かしい父母の待つ我が家へと。

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