木 枯 し

いまだに明けやらぬ暁の空に星が冷たく光っている頃であった。

「亮男がだめだ」

 と言う母の声に驚いて飛び起きた。兄の枕元にたった時は、すでに息はたえ、顔は一層青白さをまし唇の色はあせた変わり涯(ハ)てた兄の姿があった。それを見た瞬間、かねて覚悟はしていたものの、今此処にクローズアップされた冷たい現実を見て茫然(ボウゼン)としてしまった。あの元気な兄も病(ヤマイ)に遂に打ち勝つ事が出来ず、この変わった姿となってしまったのか。

 ああ病は恐ろしいものだ。朝(アシタ)に明るい笑顔を見せた人も、夕(ユウベ)には冷たい骸(カバネ)となって目に映るとは。何時しかあつい涙が瞳に溢れて来たが、仁はぐっとこらえた。

 混乱した頭も直きに、自分でも驚くほど冷静に冴(サ)えて来た。では仁は血も涙も枯れた冷たい人間か?否、人一倍情にもろい人間だった。だが今この場合、仁には真の心から悲しむ資格があるであろうか。否、其の資格はないのだ。兄が死ぬ最後まで世話を掛け通して来た自分なのだ。今この期(ゴ)になって、母と同じく悲しみを、真の悲しみとして清い涙を流す事は許されない。母は泣いている。夜も寝ずに心身を砕いて看病をした功もなく、今その労苦は悲しき現実となって報いられようとは。

 時、昭和十七年十二月十一日午前四時四十分、亮男は永遠の不帰の旅路にたったのだ。

篠(シノ)降る雨の中を、又吹雪荒ぶ冬の夜を暖かい愛の翼で庇い育てて来た二十星霜の、懐かしい夢が今無残に打

 

 

壊されてしまったのだ。

 母よお泣きなさい。私の流すに流せぬ涙も、お母様のその清らかな瞳から流させて下さい。

 時計がセコンドを刻む音がアタリの静寂に一層悲しい思いをさせる。

 だが其の清い涙を以ってしても一度(ヒトタビ)停止せる心臓が、鼓動をうつ事はなかった。この上はただ死んだ兄が心残りなく、彼(ア)の世へ旅立っていけるように、最善を尽すより他にない。此れが唯一の兄に対する誠の道だ。

 

     かねてよりすでに覚悟は致せども

         今ぞ新(アラタ)に胸痛むらん

 

     風寒き涙にむせぶ夜明けかな

 

吹く風に紅葉も散りぬ君もまた

 

味気無い朝食を終らして、十時四十分N町に住む叔父にその事を知らすべく省電のR駅へ行く。電車は仲々来ない。冷たい川風がホームを吹き過ぎて行く。

やっとT駅行きの電車が滑り込んだ。車掌が吹く笛の音に電車は走り出した。次々と車窓に繰り広げられていく風景は、今は大分変われども昔、兄と共に楽しさに小さな胸をふくらして叔父の家へ遊びに行った事を寂しく、想い出させるに十分であった。N川の鉄橋、又E川の流れは、今も昔と変わらずに白帆を乗せてゆるやかに流れて行く。し

 

かし、この川にも当然九年の間の変遷があったはずだ。だが余りにも自然であるが為に、その著しい変化を認める事が出来ないのかもしれない。今目に映る川の面は昔のままとしか思えない。

 様々な楽しい当時を連想している間に電車はN駅に着いた。

 仁は昔とんぼを捕まえながら、てくてくとひぐらしの鳴く道を歩いていった想い出にふけりながら道を急いだ。ああ懐かしい三本松もある。沿道は住宅が増え、右手の畠の向こうの森陰から、日本現代科学の枠を世界に誇る海軍通信隊の無線電信の、巨大な鉄塔が陽の光を真に受けて青空高く聳(ソビ)え建っている。僅(ワズ)か見ない間に急に増えた鉄塔の数に仁は目を瞠(ミハ)った。アンテナがキラキラ光る上に我が荒鷲の精悍(セイカン)な勇姿が見える。鉄塔の間にはN競馬場のスタンドが美しくお化粧して建っている。

 叔父の家へ着いたのはもうお昼だった。知らしてすぐ、そばにある分家の叔父の所へ行った。皆吃驚(ビックリ)している。絹子が一人機嫌よくバアバアと回らぬ口で片言を言いながら座敷をはい回っている。

 垣根の外では風に木立がさわいでいた。庭の中ほどに咲いている紅菊が可愛いい頭を振っている。

 

思い出や今日は寂しき木々の色

 

吹く風も今日は身にしむ田舎道

 

 今日(十四日)はいよいよ告別式だ柩(ヒツギ)の中へ兄が愛用したハーモニカ、帽子、死ぬ迄勉強した教科書などを入れる。生前勤めていた会社の人たちも見える。

 柩は霊柩車にうつされ人々の見送りを受けて動き出した。

 

 自動車は幾曲がりかしてS火葬場へ着いた。

 最後の焼香をする。紫の煙は生あるものの如く、ゆらゆらと立ち登っていく。終って柩は、窯(カマ)の中へ入れられた。すると柩はブスブス焦げだした。ああ此れが兄の肉体の亡びる最後の時かと思うと胸をしめつけられる思いだ。

 待合室のガラス戸越しに窯場の大きな煙突が見える。今あの煙突から、兄の体も一抹(イチマツ)の煙と化して大空の中へ消えていくのかと思うと何時までも、見ている勇気はなかった。

 骨あげが済んで、兄も小さい骨壷の中に収まってしまった。胸に抱く白布が眼に痛くしみる。手にほのかな暖かみが伝わってきた。

 自動車は木枯し吹く街をすべる様に走って行く。

 

大空へたち行く煙や悲しけれ

 

今胸に抱いてにじむ涙かな

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