心 の 花

 

 心の花とは何か?それは正しき行いと美しき精神に依り磨かれた人格である。しからば我々の心の花壇には年中たえる事なく、四季の花が色美しく咲いているであろうか。

 

 否、花壇は荒れるにまかせて、醜い雑草が生い繁っている。この荒れ涯(ハテ)た花壇に美しき心の花を咲かせるには容易な業(ワザ)ではない。先ず雑草を取り、次に良く耕し肥料を播いてそれから、良い種を、播かねばならない。此れを聞いてああ大変だと投げ出してしまう人の花壇には、蓮華草も菜の花も、薔薇もチューリップも萩の花も菊の花も咲くことは無いだろう。何時も木枯し吹く荒野の如く冷え冷えとした感じを人に与える事だろう。それではならない。我々は何とかして美しい花を咲かせなくては駄目だ。此の花は買ってきて植えるとか、取ってきて植えるとかする事が出来ない。やはり種から播かなくては花が咲かないのだ。面倒臭いなと思うかもしれないが、種を播く機会は何時も自分のまわりにあるのだ。ただ皆がそれを気が付かないか又、気が付いても播こうとしない迄なのだ。

 例えば木枯し吹く町へ

「仁さん一寸××迄お使いに行っていらっしゃい」

と母に言われたならば、すぐ

「はい、行って参ります」

と清く明るい気持で行く事である。

母の言いつけを守ると言う事は巌(イワオ)をも貫く正しい行いである。又野辺に咲く白梅より美(ウルワ)しい精神である。

 もう一つの例を引くならば、今坂道を重い荷物を載せて難儀をしている人があったとする。この時心からの親切で車の後ろを押してやると言う事は、勇気のいる正しい行いである。そして春の女神にも劣らない優しい精神である。つまり此れが心の花なのだ。心に花を持たない人間は、魂の抜け殻と等しくどんなに学問をしようとも、又幾万の富を築こうともそれは砂上の楼閣や、香りの無い造花の様なものだ。やがてそれは微塵(ミジン)に砕け散る時が来るであろう。

 

 仁は遅いながらも気が付いて種を播いた一人だ。

 我々の嫌うところの病気も(勿論誰一人として好むものはいないであろうが、もしいたらそれは気違いだ)嫌だと言ったからとて罹(カカ)らないで済むものではない。人間の力では如何ともすることが出来ないのだ。

 では予防注射は何だ。と聞く人があるかもしれない。だがそれはあく迄も予防であって、根絶ではない。誰が絶対にと保証をつけるか。

 それ程解りすぎた事ではあるが、大勢の人は病気に罹った場合、医者の門を叩き薬を飲んでそして直ると思い込んでいる。もし医者に病気が治せるならば、生への無限の愛着を、持ちながら空しく死んでいくと言う人は絶対に無い訳である。第一此れが医者の無力を証明する最大のものである。

 それならば医者にかかるということは無駄か。否必用である。医者の手を借りずして病気の診断は困難である。しからば医者の薬は不要か。これも否である。薬も勿論必用だ。只、薬を以って病気を直そうと言う心理が違っている。

 病(ヤ)める心を直さず薬に頼ると言う事は、底抜けバケツに水を入れる様なものである。我々生物には自然の治癒作用があるのだ。この有難い治癒作用を活用しなくてはならない。第一心が正しければ病気などは寄り付かない。頭が痛むのも、腹の痛むのも総て心が汚れているからだ。

 仁の一度は駄目かと思われた体が今無事でいるのも、決して奇跡や偶然のことではない。此れまでになるには随分つらい努力をしたのだ、総て物は努力無しには実らない。

 辛い思いをし苦しい目に会ってこそ、初めて心の花は咲くのだ。

 梅にしろ桜にしろ、風の吹く日も、雪の降る夜も、ぢいと耐え忍んで来たればこそ、人々の感嘆する程の花を咲かす事が出来るのだ。

池の上を楽しげに泳ぐ水鳥も、人目にはつかない水の中で、足は動き続けているのだ。

 

空を見給え、緑に晴れた大空をここち良げに飛ぶ鳥も一瞬の休みなしに翼の活動を続けている。

さあ一日も早く、我々も心の花を咲かせるべく、努力をしようではないか。

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