揺 籠 の 歌 | ||
陽は何時しか西空に傾き、忍びやかに吹寄る夕風が冷たく身に滲(シミ)る。窓より見えるアカシヤ並木にも早や秋が訪れ、裸になった枝が寒々と行き交う人々を見下ろしている。 何所からか
眠れ眠れ母の胸に 眠れ眠れ母の手に 快よき歌声に 結ばずや楽しき夢 眠れ眠れ母の胸に 眠れ眠れ母の手に 暖かき其袖に 包まれて眠れよや シューベルトの子守唄の静かなメロディが、夕闇迫るアタリの空気を震わせて低く流れてきた。 眠れ眠れ可愛い若児(ワクゴ) 一夜寝て醒(サ)めて見よ 紅の薔薇の 花開くぞよ枕辺に
眠れ眠れ可愛い若児 一夜寝て起きて見よ 薫(カオリ)よき百合の花 匂うぞや揺籠に 歌は消入る様に冷たい大気に溶け込んでいった。 仁は何時しか幼心(オサナゴコ)に聞いた母の子守唄を想い出した。 次ぎ次ぎと楽しかった事、寂しかった事など今では懐かしい昔が夢の様に頭を通り過ぎた。 暗(クラヤミ)はアタリを包み、ひしひしと寂寥感(セキリョウカン)が身に迫り、感情に弱い仁は、知らず知らずに泣けて来るのだった。月の光は窓より静かにさし込んで、仁の顔を照らした。見上げる瞳に月影が滲(ニジ)ンで映った。 朝早くから庭の木で 鶯鳴きますホーホケキョ 小春日和の縁側で ねむれねむれと母様が お膝に抱いて下さった 思い出しては泣けて来る 桜咲く咲く春の頃 優しい優しい母様の おせなで聞いた子守唄 春風吹いて黒髪に ひらひら桜が散りました 思い出しては泣けて来る 旅の燕が訪れて 川端柳も靡(ナビイ)てる 此処(ココ)迄お出と母様が 両手を出して呼びました 日本晴の良い天気 思い出しては泣けて来る あやめ花咲く今朝の空 愛(イト)し我が子のお節句よ 真鯉のように元気良く 心に香れ花菖蒲(ショウブ) 祈る尊い母心 思い出しては泣けて来る 緑燃えたつ木々の下 白百合ほのかに匂ってる ゆらゆら揺籠ゆれてます 聞いた優しい子守唄 夢路浮かぶあのお顔 思い出しては泣けて来る 今日も母様御元気で 揺籠の歌 終
昭和二十年二月一日起稿 昭和二十年二月十九日脱稿 小杉淳
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