はじめに 筆者 弟(私(筒井)がこの冊子をお借りした人です) |
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昭和二十年三月九日の深夜から十日の未明、私たちは兄の書いたこの小冊と先祖の位牌等を背負い、闇と紅蓮の渦の中にいた。空は下界のホ濃の反射で一面桃色に浮き上がり、低空で飛ぶB29の怪鳥のような翼が銀赤色に目一杯に次々と現れ、焼夷弾を雨のように降らせる下で、虫けらほどにも自分の意思と力を見出せぬままただただ逃げ惑い、極限の幾時間を過ごした後、運命の定めた結果として、母、私そして弟と三名の命を得た。私は今その事を記すのが本位ではない、只なぜに兄の書いた小冊を背負って逃げたかを知ってもらいたい為だ。 兄はその年の三月一日、本籍地である 昭和二十年当初より米軍による空襲は、東京地方でもますます激しくなり、一方食物、日用品は最低生活も維持できない劣悪状態となっていた。 兄は二月二十六日の午後家を出て 「俺が戻らない事がはっきりしたら、この中を開けて、読んでくれ」 と言った。 母はその日、兄が生きて帰れないであろう事を思い、自分の実家(中山競馬場の近く)まで行き、何かまともな食物を調達して持ち帰り、食べさせてあげてから送り出してやりたいとの一心であったが、帰路空襲にあい電車が動かず、兄の出発時間までに家に戻れなかった。又私の弟は国民学校六年生で前年より千葉の登戸に学童疎開をしていた。(三月一日に卒業のため家に帰ってきたので、三月九日の大空襲に会う羽目となった。)従って兄が家を出るのを見送ったのは私一人であった。 二日ほど前に降った大雪が道端に残る中、ただ黙って肩を左右に振りながら(兄の歩くときの癖)角を曲がり消えて行った後ろ姿が今でも目に浮かぶ。 その旬日後の三月九日、街が焼夷弾の火でもう駄目だとわかったとき、私は兄のカバンを真っ先に背負ったのだ。 兄はこの書で両親と兄(三兄)そして自分の四人家族として描き、背景と情感を凝縮しているが、その頃は、兄と母親、弟二人(五男の私、六男の私の弟)で四人家族であり、父と長兄、次兄、三兄は既に亡くなっている。 昭和二十六年に 今、私どもの墓地には父、母及び長兄より三兄までの遺骨、そして、この兄が鎮まっているが、彼のものだけは十センチメートルの程の骨箱の中は粗削りの木の小さな角棒に、ただ兄の名が書かれたものがあるのみで、問いかけてゆすっても、カタコトとむなしい音がするだけだ。 この度はOOOO先生の一方ならぬご尽力と皆様のおかげで、五十年を経た本書が皆様の目にふれる事になり感謝に堪えません。 そして天国の彼方で照れくさそうな顔をしながらも、自分の気持が何人かの方々に伝わる事の安堵感で、何故かシャイな格好をしている兄の姿が私の瞼を過(よ)ぎる。 一九九五年九月一日 小O O (氏名)
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