夏 休 み

「仁ちゃん仁ちゃん起きなよ」

「うん、ねむいなあ」

「早くしないと駄目だよ、今日は田舎へ行くんじゃないか」

「あっそうだそうだ、忘れてた」

亮男に言はれて気が付いて飛び起きた、まだアタリは薄暗い。

今日から学校は夏休みだ。亮男は五年生、仁は二年生で、この休みを母の田舎で送る事になっているのだ。

仁は嬉しくて嬉しくてご飯がなかなか食べられない、やっと一膳食べて元気よく

「ご馳走様」

とやったら忽(たちま)ち母に

「仁さん不可(いけ)ませんよ、もっと沢山食べなさい、途中でお腹がすきますよ」

「だってーもう食べられないんだもの」

亮男も先刻から二膳目のご飯を持余している。仁は渋々二膳目を食べだした、そこへ父が入ってきて

「二人とも早くしないか、何だまだご飯を食べているのか、遅くなるよ」

と言ったので仁は狼狽(アワテ)だした。最後の一口を鵜呑みにして目を白黒させた。

「まあー、この子はお馬鹿さんね、さあ水を飲みなさい」

仁は母からコップを受け取って一口飲んだら直った。

 

「行って参ります」

「お母さん行って参ります」

「体に気をつけてね、仁さんはお兄さんの言う事をよく聞くのですよ、亮男さんはよく面倒を見てあげなさい、では行ってらっしゃい」

二人とも、カバンをしょって靴をはいた。父が父の大好物の最中の入った風呂敷づつみを持った。

「行って参ります」

もう一度言って家を出た。

「行ってらっしゃい」

母が門口(かどぐち)で見送った。角を曲がる時、しばらく母に会われないと思うと、急に寂しい感情が仁の胸の中を通り過ぎた。後ろを振り返って見ると、母はまだ立っていた。仁は帽子を振って

「行って参ります」

と叫んだ。母はにっこりと笑った。それを見て仁は無性に嬉しくなった。

静かな通りに車の音を響かして牛乳屋が行った。前のほうから、手拭(テヌグイ)で鉢巻をした新聞配達が元気よく通り過ぎた。朝のそよ風を受けながら三人は歩いた。

K駅へ着いた。父が切符を買って亮男に渡しながら

「道はわかるだろうな、向こうへ行ってあまり悪戯(イタズラ)をしてお祖父さんをこまらせるんぢゃないよ」

「はい」

「はい」

「それから勉強はなまけちゃ不可(イケ)ない。亮男は良く解(ワカ)らない所を教えてやるんだよ。仁も素直に言う事を聞かなくては駄目だ、わかったね」

噛んで含めるように二人に言い聞かせた。

「「大丈夫です、行って参ります」

「元気でな」

二人は改札を通りプラットホームに出た。

「兄ちゃん、お父さんがまだ居るよ」

「うん、こっちを見てるよ帽子を振ろう」

下の、父は手を振って答えた。

ホームには余り人はいない。釣りに行くらしい竿を持った二人連れと、女の人が二、三人居るだけだ。駅夫が眠たげな顔をして掃除をしている。

「兄ちゃん、電車が来たよ、前のほうへ乗ろうよ」

「よしきた」

まだこの線は電化して間もない。仁の田舎のN駅までは電車は行かない。一つ手前のI駅で汽車と乗り換えなくてはならない。

塗りたての栗色をした電車は静かにホームに滑り込んだ。

車掌の吹く笛の音で電車は走り出した。

窓に寄って二人は父の姿を求めた。父はまだ先刻(サッキ)の所に立っていた。電柱が次第に早く後ろへ飛んでいく。

「ああ刻々見えなくなっちゃった」

仁は呟(つぶや)きながら寂しそうに亮男の顔を見た。

電車は非常なスピードで走っている。レールの継ぎ目を通る度に起こる振動が心良かった。

「兄ちゃん、電車って、戸がひとりでに開くんだね」

「うん、ドアエンジンだもの」

「ドアエンジンて何あに」

「それは機械で戸を開けたり閉めたりする仕掛けさ」

「あっそうか、それで解った」

H駅近くに来たとき、亮男が

「仁ちゃん、あそこに教会の屋根が見える」

「何処に」

「ほら、あそこだよ、赤い屋根があるだろ」

「見えた、見えた」

二人はこの付近にある父が関係している教会の事を言っているのだ。

やがてE川の鉄橋にかかった。下を見ると、ボートを漕いで居る者が沢山ある。岸の近くでは盛んに泳ぎをやっている。川上からポンポン蒸気が煙の輪を吐きながら下って来た。

 電車はI駅へ着いた、乗換えだ。都合よく停車していた汽車に乗り込んだ。汽車はシューシューシュンシュン蒸気を吐きながら動き出した。

汽車の音を長く後ろへ引きながら走っていく。

「仁ちゃん下りるんだよ、忘れ物はないね」

「大丈夫、用意は出来てるよ」

汽車はスピードをおとしてN駅へ入った。二人は改札を出て歩き出した。町を通り郊外電車の踏切を渡った。坂道を上がって行くと仁王門があった。大きな草鞋(ワラジ)がかかっている。仁王門を過ぎると道は幾分下り坂となり、左側は高い土提となっている。両側ともお寺が沢山ある。土提の中には石碑も見える。道の両側から大木が空をおふばかりに生えてミーンミンミンミンミーン、ミィーンミンミンミンミィーン、ジーッジジジジジジー、ミンミン蝉や油蝉の鳴き声がアタリの静けさを破って振る様に聞こえる。正面に五重の塔が見える。前の広場には鳩がグウグウ鳴きながら餌をあさっている。塔の脇を通り一本道を歩く。大分陽が昇って来たので汗が流れてきた。今日も良い天気だ。

青空の所々に置き忘れたかのように白雲が三つ四つ浮いている。道は畠の中を何処までも続く。百姓が大根畠へ肥料をかけている。そばの林で雀が楽しそうに囀(サエズ)っている。まるで絵のような景色だ。道端をトンボがすいすい飛んでいく。そして時々小石へとまる。仁は足音を忍ばして近ずき、正(マサ)に捕まえようとした所、トンボはすーと飛んで行き畠の甘藷(かんしょ)の葉にとまった。仁は再びそれを追っていく。こんどは帽子を脱いで後ろからぱっとかぶせた。

「兄ちゃん、捕まった捕まった」

仁は嬉しさの余り大声をあげた。それを見て通る百姓が、にゅと笑った。

「どれどれ見せて御覧よ」

「帽子の中に入って居るんだよ、今捕まえるからね」

仁はそう言いながら帽子の下へ手を突っ込んだ。どうしたはずみか、折角苦心して捕ったトンボは、ぱっと逃げて青空高く飛んで行ってしまった。

「あああ、逃げられちゃった」

仁はがっかりした声をあげた。

「惜しい事をしたね」

亮男も、トンボが逃げていった空を仰いだ。

「兄ちゃん、僕、くたびれたから此処で休みながらトンボを取って行こうよ」

「駄目だよ。もうぢきだから早く行こう」

仁は歩き出した。三本松を通り過ぎて尚歩く。右手に大きな無線電信の鉄塔が水色の空にそびえている。

「兄ちゃんあれなあに」

「あれはね、海軍の無線電信の鉄塔だよ」

「ずいぶん高いね、てっぺんまで登ったら目が回るだろうな」

目をくるくると回しながら仁は言った。

「高いさ何百米(メートル)てあるんだもの」

ぢきそばにN競馬場の厩舎(キュウシャ)が見える。幾棟(イクムネ)も幾棟も同じ建物が並んでいる。道は大きく曲がった。急に前方に視界がひらけた亮男の目に目的の家が写った。

「仁ちゃんほら、あすこに見えるだろ、あのお家だよ」

「うん見えた見えた、もうすぐだね」

疲れた足に元気が出て二人は手を振りながら歩いて行った。

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