田 舎 の 朝 | ||
夏の夜明けは早い。鶏の鳴く音につれて夜のとばりは静かに開かれて、東の空は紅(クレナイ)に輝いている。 遠くの森や人家などが朝もやの中にぼんやりと霞んで見える。朝の静けさの中から馬のひづめの音が段々と近付いて来た。見ると競馬場の馬丁が今朝も早くから馬に運動をさしているのだ。馬に乗った馬丁の姿は畠の一本道の中へ消えて行った。 仁は東を向いて新鮮な空気を一杯吸い込んで、何度も何度も深呼吸をした。終って下駄を脱ぎ芝生の上を歩いた。 冷えた大地の冷気が心地よく素足に滲み渡って行く。 わん、わん、わん、 喧(やかま)しい程吠えながらこげ茶色をした犬が弾丸のように仁の足元へ飛んで来た。 「チビ公、来たのか」 仁は生まれてまだ二ヶ月しかたたないチビを抱き上げて軽く鼻を叩いてやった。チビは舌でペロペロと仁の手をなめる。 「チビ、そんなになめると気持が悪いよ」 「さあ、お前と競争しよう」 と言いながらチビを下におろして駆け出した。後からチビも夢中で駆けてくる。首の鈴が、 りんりんりりりりりん 澄んだ音色をたてて仁のそばを駆け抜けて行った。 ぴーいぴいぴいぴー 後ろの方で誰か口笛を吹いている。チビは其の口笛を聞くと一目散に駆けて行った。仁も後から負けじと駆け出した。 「仁ちゃん散歩に行こうよ」 と兄の亮男が声を掛けた。 「うん、競馬場へ行こう」 二人は手をつないで歩き出した。チビもちょこちょことついて来る。 競馬場に門を入ってしばらく行くと左に大きな鳥籠がある。 ぴいちくぴいちくぴーちくちくちく と紅雀と四十雀などが元気よく囀っている。天井のほうにある小屋では、丸い窓から可愛いいお目々をした鳩が ぐうっぐうっぐうっぐうっ と咽喉(ノド)を鳴らしながら、こちらを見ている。 「兄ちゃんあの鳥は何て言うの」 「どれどれどの鳥さ」 「ほらあすこの枝にとまっている雀みたいなの」 「あああれか、あれは紅雀(ベニスズメ)と言うんだよ」 「やっぱり雀なの」 「うん、雀だけど、口ばしが赤いから紅雀と言うんだよ」 「ああそうか、あの鳥、随分きれいだね、僕も欲しいな」 「家のじうしまつも好きだけど紅雀の方がいいね」 亮男も欲しそうに言った。 「この鳥は真赤だね。何と言う鳥なの」 「僕も知らない、後で叔父さんに聞いてみようね」 「でも随分しっぽが長いんだね」 二人は嘴(クチバシ)が黄色、胴が赤、所々に緑色が混じっている。この鳥は今まで何処でも見た事のないものだった。胴体だけの長さが、約五〇糎(センチ)程もあり尾は雉(キジ)のように長い。 足元ではチビもおとなしく見ている。 水溜(ミズタマ)りの所には鴨やおしどりが、すましたかっこで歩いている。嘴(クチバシ)の黄色な体の真黒い足の緑色をした、鳩くらいのな鳥が、他の鳥の事をつついたり蹴ったりしている。 「仁ちゃん、この鳥仁ちゃんのように意地悪だね」 「違わい、僕なんか意地悪はしませんよ」 「ああそうだったね、仁ちゃんは本当に良い子だね、今のは冗談だよ、御免ね」 「うん」 仁は素直にうなづいた。 「兄ちゃん、この鳥、本当に意地悪だね、何て鳥なの?」 「僕も知らないよ、意地悪鳥とでも名前を付けようか」 「うん、それが良いや」 仁は手を叩いて賛成した。 「仁ちゃん向こうへ行こう」 「兄ちゃん、花壇のそばまで駆けっこをしようよ」 「よし、やろう」 「いいかい、用―意、どーん」 二人は駆け出した。後からチビも駆けて行く。芝生の築山を登り柵(サク)を乗り越え又、築山を一つ越して花壇の所まで来た。一番先に着いたのはチビだ。二番目が亮男、一番最後が仁だ。 「やっぱり負けた」 仁が言った。 「違うよ、一番は仁ちゃんだよ」 と弟を労(イタ)わって言った。 「ううん、一番はチビで二番は兄ちゃんでびりが僕だよ」 転んで擦(ス)りむいた膝頭をなぜながら訂正した。 「そうだそうだチビが一番で二人とも同時だ」 亮男はどこまでも優しい兄だった。 花壇にはしっとりと露が下りて、花も葉も濡れている。所々によった水玉が朝陽を受けてきらきらと水晶の様に光る。 赤、黄、白、桃色、絞りなど色とりどりの松葉牡丹がつつましげに顔を出している。こちらにはチューリップがある。赤い花、黄色い花、紫色の花と行儀良く並んでいる。 並んだ並んだチューリップの兵隊さん 赤いシャッポに青い服つけた チューリップの兵隊さん、並んだ並んだ。 仁は大きな声で歌いだした。亮男も一緒に合唱した。向こうの方には鳳仙花(ホウセンカ)が咲いている。 「ああ、馬が駆けているよ」 仁が叫んだ。 「本当だ、早くミに行こう」 二人は馬場の方へ歩き出した。何頭もの馬が汗をかきながら駆けている。調教をやっているのだ。スタンドに登って見ると目の下に馬場全体が手に取るように見える。右手の森の後に海軍無線電信所の大きな鉄塔が、空高く聳(ソビ)えている。左の方に見える藁葺(ワラブ)き屋根の人家から朝飯の支度であろう淡い紫色の煙が大空に溶け込んで行く。遠くの電車の警笛が朝の空気を振るはして鈍く響いてきた。
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