タイトル

免許皆伝の系譜

大東流の由来

口伝によれば、大東流は、代々清和源氏に伝わっていたものを、11世紀ごろ、新羅三郎義光が集大成したものとされています。義光は家伝の武術に一段の研究工夫をこらし、当時、戦場で死亡した兵士の屍体を解剖し、その骨格の組立を調べて逆極手の技を極め、さらに、女郎蜘蛛が、その張りめぐらした細い糸の上で、自分よりも大きな獲物と闘い、ついにがんじがらめに攫み取る手練を体得し、極意を極めたといわれています。義光の子孫が甲斐の武田荘に住み、武田姓を名乗ってからは、武田家家伝の武芸として代々伝えられました。天正二年(1574)武田国継が会津に至り、この技法を伝えた後は、会津藩御留技として、藩内のみに伝授されました。

流祖  新羅三郎源義光 と言われています。

系譜
  新羅三郎源義光─武田義清─武田信義─武田信光─武田信政─武田信時─武田時綱─武田信宗 ─武田信武─武田信成─武田信春─武田信満─武田国継─武田主税─武田信次(中略)武田惣右衛門 ─武田惣角─久 琢磨

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琢磨会のなりたち 

惣角・琢磨

琢磨会は、大東流合気柔術中興の祖、武田惣角より免許皆伝を受けた久琢磨を中心に、その門人が集まり創設された武道団体です。久琢磨は朝日新聞社在職中、昭和14年3月26日武田惣角より、その門人中唯一免許皆伝を受けました。その後、昭和34年関西合気道倶楽部を開設、後進の指導に当たっていたが、昭和43年に閉鎖しました。閉鎖後も門人によって各地で稽古が続けられ、毎年合同稽古を開催していました。昭和50年8月24日夏合同稽古のおり、阿波池田の千葉紹隆先生のご提案により、久琢磨のお名前を冠して以後琢磨会と名乗ることとなりました。

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武田惣角 

武田惣角

大東流合気柔術中興の祖といわれる武田惣角源正義は万延元年(1860)10月10日福島県会津坂下町に武田惣吉の次男として生まれた。父・惣吉から幼少の頃より剣術、棒術、相撲、小具足などの手ほどきを受けた。会津坂下町の渋谷東馬に就いて小野派一刀流を学び、更に各地を武者修行し、明治6年(1873)には、幕末の剣士・直心影流の榊原鍵吉の内弟子になり剣術の修行をつんだ。明治12年8月惣角は保科近悳を訪ね、近悳は、大東流御敷居内および小具足を教授し、惣角に会津藩に伝わるこれらの秘技を論す。その後、惣角は大東流合気柔術と小野派一刀流の二流をもって全国を巡回指導して歩いた。昭和18年4月25日(86才)青森で客死するまで、武者修行に出て70年間他流を含めた申し合いに負けることがなく、これらに関して各地で多くの逸話を残している。

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久 琢磨 

久 琢磨

明治28年11月3日高知県安芸郡佐喜村に生まれ、神戸高商(現神戸大)に入学。卒業後、朝日新聞社に入社。昭和9年、石井光次郎の紹介で植芝盛平を招き大東流合気柔術を学ぶ。昭和11年6月植芝盛平の師である惣角と出会い指導を受ける。惣角は久に昭和14年3月26日免許皆伝を授与し、大東流を後世に遺するように伝えた。昭和18年新聞社を退職、同年10月、関西財界の支援により、関西合気道倶楽部を設立し、大東流合気柔術の指導に専念した。昭和43年健康を気づかった家族の説得により関西合気道倶楽部は閉鎖された。昭和50年8月、門弟たちの総意により琢磨会を結成。昭和55年10月31日神戸で84才の生涯を閉じた。

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森 恕

森恕

1931年香川県に生まれる。弁護士。1962年7月、久琢磨のもとに入門。歳30を超えての入門に加え、屈強な青年でも音を上げるほどの過酷な稽古。職業との両立が困難を極めたことは想像に難くない。また琢磨会は技が豊富なことで知られており、技法の総数は2884手にのぼり、膨大な技法の根底に流れる原理や基本的な動きを体得することが重要であった。そのことに気づいた森は、様々な動きや技を修得する中で、そこにある共通の原理をくみ取ろうと努力した。この努力と天分の洞察力が厳しい修行に光明を与え飛躍的な進歩を遂げた。1973年11月8段を授与される。1978年12月、大東流合気柔術琢磨会総務長となり現在に至る。

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2007年3月22日更新