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日本 作者のノート 2 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西
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「古書入手」

先日NHKの放送で、最強の検索サイトとして「Google」社が紹介されていた。
試してみると本当に速く、必要な情報にたどり着ける。

自分のサイトで紹介している、ほとんど無名の邦人の名前を入れても、結構反応がある。「まだまだ史料はあるぞ」と新しい発見であった。そんな中、横浜正金銀行「
北村孝治郎」の名前で一件ヒットがあった。

それは蟻屋書房という古本屋のサイトの蔵書一覧で、「
第二次世界大戦とスイスの中立」の著者としてであった。このように有象無象のサイトの中から、片隅の情報を見つけ出すGooglという検索サイトには感心する。

この本の存在を筆者が知ったのは、今から五年ほど前、阿部良男氏の手による「ヒトラーを読む3000冊」(刀水書房)であった。ヒトラー及びナチズムに関連する日本語の文献を紹介する本の「スイス」の欄で見つけた。

早速永田町にある国会図書館に調べに行ったが、なぜか見つからない。以降も何度か、いろいろ角度を変えて入力してみたが駄目であった。法律なのか日本で出版された本は全て、国会図書館に納める仕組みになっているので、原則ない本はないのである。北村氏の本は一九六二年に時事通信社の発行と、しっかりしたところから出されているにもかかわらず、不思議であった。

こうした状況であるから当時の定価四百円のものが,二千五百円と少しためらう価格でHP上で売りに出されていたにもかかわらず、買う価値はあった。さらに入手方法を読むと面倒くさい手続きはなく、メールで注文すれば、本は即送られてきて、後から振り込めば良いという。即座に注文を決めた。老婆心であるが,この本屋は後から代金を取りっぱぐれるリスクはないのであろうか?

さて昨日,その本が郵便で着いた。四十年近く前に発行されたこの本は、著者本人が表紙の裏にサインをして、ある人に贈ったものであった。はからずも、筆者の研究対象である北村氏の自筆が手に入った。

ページを開くと、残念ながらその贈られた方は読まずに古本屋さんに出したようだ。また奥付から二千部刷られたことも分かった。今どれほど残っているのだろう?この本にまつわる経緯がいろいろ想定され,楽しい体験が出来た。読後は自分のHPの文献リストに加えよう。またインターネットのお世話になった

Google :http://www.google.com/intl/ja/
蟻屋書房:http://www.t3.rim.or.jp/~ariya/index.html

2000年12月21日(木)
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「史料求めて 2」
自宅に歴史関係の図書の目録を送ってくれる出版社がある。好意的に解釈すれば、自分の所属している学会が、住所を提供しているのであろう。先日、届いた印刷物を見ていると「東京裁判尋問調書」というのがあった。「アメリカ国立公文書館所蔵」の文字があるので研究範囲かなと思い目を凝らす。

するとさらに「加瀬俊一 特命全権公使 1942−」の名前がある。自分の研究テーマであるスイス公使も、戦争裁判の取り調べを受けたのかと、新たな発見に驚いた。そこではスイスでの和平工作、もしくは大島大使との確執とか述べているかもしれない。とすれば自分にとって超一級の発見である。

ちなみにこの本は全52巻、一冊48,000円で全部そろえると2,213,593円である。買う人なんているのであろうか?僕は出版社には申し訳ないが,当然国会図書館に行くことになる。

しかしそのためには平日に本職の方の有給休暇を取る必要がある。一方見てみると落胆する内容かもしれない。迷ったが、とにかく確認してみないことには消化不良の状態が続くので、今日永田町に向かった。

図書館は空いていた。端末で番号を調べ受付に出す。それでも30分は待った。自分の番号が掲示され取りに行くと女性は「この本は4階の憲政資料室の方にあります」と言う。
「こちらの時間をどう考えているんだ」と思い、「端末上にそういうことは表示されないのですか?」と聞くと「されているものもあるが、されてないものもある」との返事であった。

幸先の悪さを呪って上に行くと,確かにあった。開架式の書棚にあるので52冊が選び放題なのは嬉しい。勇んで加瀬公使が出ている巻を取り出した。
調書はすべて英語である。読むと経歴に続き、断片情報が続く。残念ながら結果はがっかりであった。

連合国はスイス公使加瀬俊一(かせしゅんいち)を当時外務大臣秘書官で同名異音の加瀬俊一(かせとしかず)と混同していた。そして本命は後者であった。その過程で公使の記録が作られただけであった。したがって本人の調書もない。

こうして,ほぼ一日をかけた調査はほとんど成果がなかった。決して珍しいことではないのでそんなに落胆はしていないが、、、、

2000年10月26日(木)
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「ことわざの泉


私は現代史に関係した「日瑞関係のページ」のほかに、ドイツ語の慣用句に関する「きているドイツ語」と言うホームページを開設しているが、最近は後者の訪問者のほうが数の上ではだいぶ上回っているようだ。

全文検索型サイトではおそらく最強と言われるGoogle http://www.google.co.jp/ に「ドイツ語」と入力すると20万件を超えるヒットがあるが、そのトップに来るのが私の「生きているドイツ語」である。これがその根拠です。 

ドイツ語の慣用句の関係で「ことわざ辞典がほしい」と言ったら妻が買ってきてくれたのが表題に上げた「ことばの泉」であった。副題は「日.英独仏中 対照諺辞典」である。「数ヶ国語で諺が並んでいるので、まあ読み物程度にでも」と私は思ったのであるが、よく見ると作者はドイツ語の研究者であるので、その部分が充実していることに気がついた。

「これは使えそうだ」と真剣に読み出したのだが、あとがきには

1944年の上海の夏はことのほか暑かった。ノルマンディーに対する連合軍の大上陸作戦が成功したという報道が伝わると、次の目標は中支の沿岸に違いないとの憶測が、ひそかに広がってきた。

生きて再び故国の土を踏む望みはないものと覚悟した私は、長年書き溜めていた諺に関する独文の原稿の取りまとめに着手した。(後略)」とあり、一気に戦時中に引き戻された。

また後半部分には「戦時下のベルリン以来の畏友山脇亀夫氏の、お口添えで快く上梓を、、、」とも書かれているが、山脇氏は朝日新聞のベルリン支局に戦争中勤務した人だ。

最後のページを見ると作者の名前は高嶋泰二で、1912年生まれである。「聞いたことのある名前だ」と思うと同時に、“戦時下の欧州滞在邦人”という自分の研究対象であることにようやく気がついた。

早速パソコンのスィッチを入れて自作データーベースを見ると「帰国 41.6.17桑木P5582 赤松P277、伯林日誌(19391941)」と出てきた。補足すると私は関係者の名前をキーワードとして、書物等での登場箇所をそこに打ち込んである。それらの史料から次のような像が浮かび上がってきた。

1935年に東大の独文科を卒業した高嶋は、陸軍士官学校独語教官に任官される。1939年にはドイツに赴任のため、日本郵船の「照國丸」でマルセイユに向かう。同じ船でフランスに赴任した赤松貞夫陸軍中佐の回想録によれば、高嶋は王子製紙の社長の息子である。当時数少ない欧州赴任者には著名人の子息が多かった。彼の場合も表向きはベルリンの陸軍武官室勤務であるが、少し意地悪な言い方をすれば、金持ちのみが出来た徴兵逃れのための留学かもしれない。

19399月にヒトラーがポーランドを奇襲して欧州に戦争が始まるが、ドイツ帝国内にいる日本からの留学生は20名を越すくらいであった。うちベルリンを留学地とする者は七名である。翌1940年の7月にはオーストリアのザルツ.カンマーグートにそれら留学生が一同に集まった。

同じく留学生であった桑木務の書いた「大戦下の欧州留学生活」によれば、そのときのベルリンからの出席者として、高嶋泰二に続いて山脇亀夫の名前があがっている。戦後高嶋の出版に骨を折った山脇は留学生から、そのままベルリンで朝日新聞に雇われた。

同年末には日独伊三国同盟締結を受けて、陸軍から調査団がドイツに派遣された。団長は後に「マレーの虎」と畏れられた山下奉文中将である。高嶋は彼らが西部戦線を視察する際には通訳などもした。

しかし諺に対する関心は戦時下でも衰えなかった。高嶋が戦後五十年近くたって自費出版した「伯林日誌」の一九三九年の八月六日には次のような記述がある。

「緯度がソ連領樺太くらいになるベルリンでも,真夏の昼間はやはり暑くなる。この特に暑い数日をドイツ語でフンツ.ターゲ(犬の日々)という。日本には「土用の丑の日」がある。引用する動物が変わる例がまだある。日本語の「犬猿の仲」はドイツ語では「フント.ウント.カッツェ(犬と猫)」が仲の悪い関係を表す言葉だ。」

そして同年6月にはいるとドイツとソ連が戦争を始めるのではと言う気配が漂い始める。山下らの一行は617日にベルリンを出発する列車で、あわててソ連経由での帰途に着くがその中に高嶋も加わった。両国の間で実際に戦争が始まり、ドイツと日本の間の交通手段が実質的になくなるのは、その五日後の622日のことであった。これに乗らなければ高嶋はおそらく、終戦までドイツに留まることになった。

帰国して同年12月には宣伝、情報関係の任務を与えられ中国に赴く。上海で終戦を向かえ、戦後は製紙業界で働く。ことわざ関係の本を出版したいと考えるのは会社を引退してからのことであった。

そうして「ことばの泉」の初版が出たのが198111月のことである。高嶋は70歳になろうとしていた。戦時下のドイツから始まって上海を経由したことわざに関する資料が、長い年月温められてとうとう日の目を見た。

200213日)

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「外交官いま昔」

筆者は先の第二次世界大戦中欧州に滞在した邦人の足取りを追っている。その中には外交官も含まれるが、彼らに対する評価は概して高い。戦時下においてそれなりに国益を代表し在留民を保護した。不思議なことに最近外務省の不祥事等に際し、そうした過去の外交官の名前に多く接する。

日にちは忘れたが連休明けの国会で青木盛久元ケニヤ大使
「私たちアフリカに関係する外交官は、アフリカのことをよく考えてくれる鈴木(宗男)先生には足を向けて寝られない」と証言した。青木大使は5年前のペルー大使館占領事件直後のタバコをくわえた姿の記者会見で、我々を驚かせた大使でもある。

一方今から半世紀以上前の戦争末期、トルコの日本大使館には青木盛夫という二等書記官がいた。一文字違いの名前から判断して二人は親子であろう。盛夫氏は欧州駐在の外交官の中で、最も枢軸思想の強かった人物の一人と言われている。当時の同僚は「(大使)館の空気はただ一人のアンカラ大王の跳梁によって、いつも重苦しく不愉快」という言葉を回想録に残している。アンカラ大王とは誰かは説明するまでもない。「子は親に似る」と言えば少し牽強付会だろうか?

鈴木議員に関係し、次のような記事もあった。
「鈴木宗男衆院議員の影響力を排除するため、外務省は2日、元欧亜局長(現欧州局長)の東郷和彦オランダ大使ら幹部三十数人の処分を発表する。」(毎日新聞4月2日)

東郷和彦氏は一卵性双子の弟で、兄はワシントンポストの茂彦である。兄のほうは痴漢常習者として最近禁固刑を言い渡された。そして二人は東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣の孫である。多くの外交官を排出する同家では長男がの字を踏襲するようだ。

祖父は1937年にドイツ大使を務め、日本の開戦時、終戦時両方で外務大臣を務める。終戦に際しては米内光政海軍大臣と共に、ポツダム宣言の受諾を進言した。そして東郷家の場合は「親の心子(孫)知らず」か?

また最近の瀋陽の日本領事館の事件では新たな名前が登場した。
阿南惟茂駐中国大使は九日、瀋陽の日本総領事館駆け込み事件で中国外務省を訪れ、劉古昌外務次官補に対し、中国武装警察官による総領事館への無断侵入を強く抗議し、連行された朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の五人全員の早期引き渡しを求めた」(共同ニュース 5月9日)

大使は終戦時、東郷外相の意見に反対を唱えて抗戦を訴え、終戦時に「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と残して命を絶つ陸軍大臣阿南惟幾の子息であるという。まだ第二次世界大戦が現代史であることを実感させる。そして軍国日本時代の陸軍大臣の子息が駐日大使とは「歴史の皮肉」か?

さらには次の二人も確証はないが過去の外交官と結びついて考えてしまう。まずは昨年の田中真紀子外相との確執からこんな記事があった。
柳井俊二駐米大使は27日、外務事務次官当時に任命したデンバー総領事が公金流用で懲戒免職処分になったことなど一連の不祥事の責任を取り、辞任する意向を外務省幹部らに伝えた。政府筋が同日、明らかにした。」(毎日新聞2001年7月28日)

柳井元駐米大使は、開戦時コロンビア公使を勤めた柳井恒夫氏の親族でなかろうか?あまり多い苗字ではない。恒夫氏はコロンビアから帰国後の1943年、ルーマニア公使を発令されたが渡航ルートが遮断され赴任することが出来なかった。

そして先の東郷元オランダ大使の記事にはもう一人の名前が出てくる。
「鈴木氏との密接な関係が指摘されていた東郷氏については帰国命令という形で大使を退任させるほか、鈴木氏の関与を許した監督責任を問うため野上義二前事務次官ら歴代事務次官も処分する見通しだ。」

田中外務大臣との確執で行われた記者会見に、ひげに覆われた顔で現れた野上次官は、外交官というより週末はログハウスで過ごす自然志向の父親のような印象を与えた。

彼はやはり苗字から判断して戦時中ローマ大学講師を勤めた後、 終戦時ドイツ大使館嘱託となった野上素一氏と関係があると思われる。そうだとすれば与謝野晶子と同時代で、作家としても母としても立派な業績を残した野上八重子の血筋である。

最近国民の信頼を失った外交官であるが、こうしてみてきたように一部断定出来ない部分はあるものの,最近マスコミに登場する人は例外なく親子外交官といえそうだ。難しい外交官試験を経ての結果であるが、二世が多く存在するのはなぜであろう。(この外務省の二世、三世の問題はマスコミでも取り上げられたが、筆者が最初に書いたと思う。ー後日記入)

かつて外交官はまさに日本国を代表したと言える。交通機関も発達していないため首脳同士の会見が困難であったからだが、今日では首相、外相は世界各国を訪問しその国の首脳と直接の交流を図っている。よって在外公館の使命は今後は変わって行くのであろう。

(2002年5月11日)

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「終戦前夜秘話」

最近、私の「藤村義一 スイス和平の真実」を読まれた方から旧海軍関係者の会報である「水交」に掲載された津山重美氏の標題の記事を送っていただいた。

津山氏は私の上記文章をお読みになった方には説明の必要はないと思うが、藤村中佐の右腕としてドイツ敗戦間際にスイスに入り、和平工作の援助をしたとされる方である。まだの方は是非そちらをお読みになってからこの小文を一読ください。(以下敬称略)

記事の下欄には<水交11-7.8>とあるので平成十一年の7.8月号である。そして一九○八年生まれの津山は九十一歳になっている。そして今回の「終戦前夜秘話」は松伯会(商戦三井のOB会)での講演を再録したものというが、全体としては藤村中佐の死後の一九九三年に発行された「追憶藤村義郎先生」に津山が寄せて書いた「仰ぎ見る人格」の内容を踏襲しているようだ。題名からして津山の藤村中佐に対する評価が伝わってくる。

この回想はスイス和平工作の当事者によるものとしては、間違いなく最後のものとなるであろう。しかし藤村工作の真実を追究してきた筆者としては、藤村中佐寄りの回想にはどうしても疑いを持ってみてしまう。藤村中佐の証言の史実と異なる点に関して筆者は、すでに前掲の文章の中で充分に指摘した。さらに九十一歳の当事者と言うことで気が引ける部分もあるが、今回改めて以下の二つの点に関し検証をしてみたい。

一 藤村と津山はベルリン勤務中より幾度かスイスを訪問しハックと会っていたと言う。そしてこうした個人的な関係が終戦間際の和平工作の開始に際し役に立った。

「私(津山―筆者)も藤村中佐の代理として二、三回連絡のために(スイスを)往復しましたが、彼は本当に素晴らしい人でした。」

筆者の調べた範囲ではベルリン駐在中の藤村中佐が北欧、フランスに出張した記録は残っているが、スイスを訪問したものはない。またスイス側の記録でも藤村中佐、津山が戦争中にスイスを訪問した事実は確認できていない。当時スイスは出張者も含めて外国人の入国を厳しく管理していた上に、今日記録もよく残っている。例えば一九四一年、二年にスイスに入った日本人報道関係者リストがあり、それによれば四名の名前が記されているだけである。

ただしハックはベルリンの日本海軍武官室に宛てたある種の報告書を、定期的にスイス駐在武官補佐官に渡したとされるが、それをベルリンまで持ち運ぶクーリエとして津山がスイス入りした可能性は否定できない。筆者としてはもう少し調査をしてみる必要がある。

二 藤村中佐と津山が崩壊間際のベルリンからスイスに脱出した際、ユダヤ人の女性を伴い、彼女の命を救ったと言う。津山は以下のように書いている

「私とて生きて帰れるとは思っていませんので、二人でスイスの首都、ベルンに行くことになりました。ベルリンのスイス公使館ではビザが取れない。スイスとの国境でビザを取る約束を取り付けて、藤村中佐は海軍の制服を着て、私は皮のジャンパーでそれぞれ車を運転していくことになりました。ところが中佐が

“女の子を一人連れて行ってもよいか?”(中略)そういう訳で
ロッテという名の女性を連れて(三月十七日ベルリンを)出発しました。」

さらに続けて
「彼女には夜間を利用して国境を突破させました。われわれはビザを貰ってスイス入りしました。」
その彼女は国境の山林でドイツの警官に足を撃たれて怪我をしたものの、スイスに入ることが出来た。そして
「ホテルに朝日新聞の笠信太郎さんがいて、和平交渉の条件や意見などを名文で書いてくれて、彼女が直ちに立派な英語にタイプしてくれました。」

と美談に仕立て上げられている。

この話は先に述べた「仰ぎ見る人格」の中で津山自身が「ベルリン陥落直前、スイス脱出の際、ナチスの迫害から守ったユダヤ娘ロッテ クラマ嬢をその両親に頼まれて同伴し、我々自身の危険も顧みず彼女を国境突破させて中立国に逃亡させた」と少し経緯は異なるが紹介している。一方藤村中佐は生前どこにもこの話を書いていない。藤村中佐の死後に初めて紹介された点が興味深い。

「終戦間際に身なりのしっかりしたユダヤ人がベルリンに残っているわけなどない」と一笑に付すことも出来ようが、自説を裏付けるかのように林の中で制服姿の藤村中佐、革ジャンパーの津山と共にロッテ嬢とされる人物が写った写真が載せられている。ドイツを南下する途中に撮影したものであろう。

仮に厳重に警戒されるスイスの国境を突破したとしても、怪我をした女性が一ヶ月も経たずに難民収容所を出て、日本海軍武官室で働くことなどスイスが認めるはずはない。仮にそうした動きがあれば、スイス外務省と日本公使館で何らかのやり取りがなされて当然であるが、こうした記録も勿論見つけることが出来ない。

推測であるが二人はベルリンから南ドイツの親戚にでも疎開する女性を同乗させたのであろう。そしてこの時期にユダヤ人女性がベルリンにいたとは考えにくいので、普通のドイツ人女性である。

女性をスイスに入国させる試みは和平交渉と同じで、国際決済銀行理事北村孝治郎と外交官によって行われており、それらは史料から確認できる。北村はRenate Kellerという秘書を連れて入いれるようスイスに申請している。

一九四四年二月二十一日、四月十八日と申請が行われ六月二十八日に許可が下りた。この時期に女性を連れての出張は不自然であり、何か訳がありそうである。

また一九四四年十一月八日にはスイス公使館勤務の鶴岡千仭二等書記官がドイツ出張から戻る際、Hazama Adelia Elvine夫人を連れて帰ることが許されている。日本人と結婚して死別したドイツ夫人と思われるが、もしかしたらユダヤ人であったかもしれない。

このような事例を知っていた津山が、藤村中佐もユダヤ人のスイス入りを助けたということにしたのではなかろうか?

(200354日)

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