日瑞関係のページ 作者のノート
日本 作者のノート 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西
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気軽につづる身辺雑記です。 
HP訪問者

自分のホームページ「日瑞関係のページ」は、今年1月20日に開設し、カウンターによれば一日平均20人ほどの、日陰の花のような状態であった。3月には念願のヤフーの検索サイトに登録されたものの、以降も数字はほとんど変わらなかった。初夏のころ、自作の独和/和独辞典を「生きているドイツ語」という題名で、メインサイトにぶら下げた。カウンターは共通で、どちらを訪問しても一度に限り勘定する。

9月末になってその「生きているドイツ語」が同じくヤフーに掲載された。言語>ドイツ語>辞典>とクリックするとたどり着く。「アクセス独和辞典」「パスポート独和辞典」という専門出版社のオンライン辞典の間に挟まっているのが誇らしい。
そしてその翌日から突如として、日に150人近くの訪問者が来るようになった。少し間を置いてのぞいて見ると,カウンター数がもう増えている。「日瑞関係のページ」の時には無かった現象だ。
各種資料と情報源>辞書>からもたどり着けるせいか、アクセスが多いのであろう。一人ほくそえむと共に、ドイツ語という特殊言語のサイトにこれほどの訪問者を連れてきてくれるヤフーの影響力の大きさを実感した。

このペースなら一ヶ月以内に訪問者10000人を突破すると喜んだところ、登録から一週間が過ぎると「NEW」の印がはずされた。すると効果てきめん、アクセス数は100人を切った。それでも最近はまた100人を越す様になって来た。そんな経緯に日々一喜一憂している。ちなみにアクセスカウンターの結果を自分自分なりに分析すると以下の様です。

1 ホームページ内の二つのテーマ「日瑞関係のページ」と「生きているドイツ語」の訪問者は、前者が20名、後者が80名という比率で、主客が転倒している。

2 週末である土日は訪問者が半分になる。ある知り合いのサイトも同じ状況のようで、平日は学生さんが利用しているからだろうと分析していた。私はそれに加え、会社勤めの人が、仕事で、もしくはその合間に見ているからであろうと考えている。

3 表紙から、最低次のページに進んだ人は3分の1程度か?(これについては前回も触れた)

いずれにせよ訪問者10、000名が見えてきました。(予想は11月30日です)それに備え、アクセスカウンターを4桁から5桁に増やした。

2000年10月21日(土)

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ームページ考

私のHP「日瑞関係のページ」を開設して九ヶ月が過ぎた。訪問者数も五千に達そうかとしている。まことに嬉しい限りである。

思えば自分がそれまでに調査し、作品として書いてきたものは、今年中には自費出版と言う形で本にして、公表するつもりであった。五百部くらいでも百万円を越える出版社からの見積もり費用に、自分は覚悟したものの、妻は猛反対であった。
「あなたの駄文の読者なんて、日本中に百人もいるわけがない」とも言いきった。戦時下の日瑞関係という狭い研究領域に興味を持つ人は、確かにそのくらいかもしれないとは、自分でも内心思った。

そこで昨今のインターネットの急成長を考え、ホームページでの公開に踏み切った。当初は自分の研究内容をどこかで盗用されたらどうしようなんて不安もあったが、今では世界的百科辞典も全て無料で閲覧できる時代、先に公開したほうが勝ちだと逆に考えた。大きな脚光を浴びるかもしれないなんていう空想も描いた。

公開後は有名無名の検索サイトに自分のHPのアドレスを登録した。検索サイトだけでもこんなにあるのかともびっくりした。結果、電話代を除いてほとんど無料に近いコストで、今日五千もの訪問者があった。そして私のHPを見て興味を持って下さった幾人かの方よりメールをいただいて、知り合いに慣れたことも収穫であった。自費出版で考えていたより訪問者もはるかに多く、まさにインターネット様様、一見良い事尽くめである。

しかしインターネットは双方向のメディアと言われるが、私のHPに対する意外に反応は少ないと言うのが印象である。HPの内容に関するアンケートの書式を用意しているが、それを埋めて回答をくれた人はこれまで、なんと三人のみである。

数字は五千でも、検索サイトからジャンプしたものの表紙を見て「面白くなさそう」とそのまま通りすぎてしまった人が、実は半数くらいいるのではと考えたりもする。自分でもインターネットサーフィンをしていると、そういうことは良くあるので、これは概ねどのHPにも当てはまることかもしれない。さらには自身でクリックした数も平均一日一回半くらいになるであろう。

こうして冷静に考えてくると、本当の読者はかつて妻が言い切った様に、実は百人に近い数字なのかもしれない。これをお読みのあなた、また私の作品を読まれたあなた、迷える作者のため、是非アンケートに「読んだ」とだけでも書いてお送り下さい。

2000年9月16日(土)

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字情報

ある日の朝日新聞に面白い記事が目に付いたので切り取ってある。それによれば日本のインターネットウェブ上にあるすべての情報のうち、文字だけを集めてくると、合計で数十GB(ギガバイト)くらいには収まってしまうという。

今のパソコンは10GBくらいのメモリーがあるので数台あれば,HP上から写真等を除いた日本語の文字情報は、すべて収録できてしまうことになる。この作者はここからいかに日本語で書かれたHPが少ないかと言うことを述べているが、文字情報は映像と違って実にコンパクトであるという実感を,私は強く抱いた。

メールを送っても映像があると、とたんに送信速度が遅くなるのが分かる。逆を言えば今のパソコンは、文字情報を扱うには十分完成された機器になったと言える。

私は過去5年,会社に毎朝始業45分前に着いてドイツ語の原書を読んでいる。勿論辞書を片手にだが、単語を調べても覚えるわけではないため、幾度も幾度も同じ語を引いている自分にいらだってきた。

そこで、興味深い単語は例文とともにエクセルに入力し管理することにした。三度くらい遭遇した単語は「いい加減に覚えろ」と自分に言い聞かせるためだ。
今や例文は4200を数えるようになり、アルファベット順に並べると、独和辞典の体裁を持つようになった。

永年かけた労作だが、容量は1メガにも至らずフロッピー1枚で収まってしまう。それをコピーすれば、瞬時に同じ情報を共有できてしまう。先に文字情報の特徴を書いたものの、なんとも寂しい話である。

ここで一念発起、これらの単語をもう一度整理して、自分のHPに公開することにした。「生きているドイツ語」
http://www.people.or.jp/~deutsch/framedeutsch.htm

やってみて分かったことはエクセルから、HPの言語への転換は未だ自動に転換できない要素が多い。よって一語一語にリンクのタグを付けていく手作業である。もう数ヶ月かかりそうだ。すでに腕は腱鞘炎,腰も痛くなってきた。高くつく作業である。

しかしこれが完成すれば,自分のドイツ語学習の集大成として残り、今後拡充もしていける。またこれからドイツ語を勉強しようとする人の役にも立つであろう。興味のある方は一度除いてみてください。

2000年6月17日

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上智の桜

今日は妻と四谷の上智の土手の桜を見に行って来ました。
郊外の我が家の周りにはずいぶん桜はあるのに、わざわざ都心まで行くのも変な感じですが。
赤坂見附で昼食を取ってニューオータニの方から四谷に向かう。休日の赤坂のレストランはどこもガラガラでゆったり食事が出来ます。また和田アキ子が交通事故に会った場所を通過しました。
土手の桜はもう十二分咲きとでも言うか、花びらが激しく舞っていました。でもある場所では、枝一杯の花びらで下のグランドが見えずに、運動しているらしい上智大学の学生の声のみが上がってくるのはなかなか良かった。

今日感じたこと。
1. 二十年前、自分が大学に入った年に確かに花小金井に行ったけど、以降は大学の仲間と花見をした記憶がない。(と思う)今、花見は若者の間でブームなのかな?
2. 上智の桜は土手の頭部と斜面に植わっている。この人工的に盛られた土と、雨水と、太陽だけで毎年降るほどの花びらをつける桜の木の生命力ってすごいと思う。

4月9日(日)



Yahoo,Japan

昨夜は飲んで帰宅が遅くなりましたが、12時過ぎてメールを見るとあの「Yahoo,Japan」から一通届いていました。

僕のホームページがそこに登録されたという知らせでした。その瞬間は、かつて大学に受かった時と同じくらい嬉しかったといえば大袈裟だけど、かなりそれに近いものがありました。興奮してなかなか寝付けなかったくらいですから。なんかようやくインターネットの世界で一人前として認められた気分です。

フロントページから始め「地域情報 > 世界の国と地域 > スイス> 芸術と人文> 歴史」とクリックしていくとある二件の一つです。(もう一件はちなみに僕の所属しているスイス史研究会)もちろん「日瑞関係のページ」とタイトルを打ち込んでも出てきます。良かったら試してみて下さい。

念願のYahoo Japanですが一日が経過した感触では、アクセス数がアップという変化は全く見られません!ここ二週間ほどすでに毎日、10から15くらいのアクセスがあります。「誰が見てくれているんだろう」といつも考えてます。
3月25日 


3月雑感

今日は朝から強風の変な天気です。今月は身の回りから、二つの出来事を書きます。

一 家電

一昨日ガスストーブが故障した。スタートしている音はするものの、火がつかない。私と妻は顔を見合わせ思わず「これもか」とののしった。実は最近になって家庭内の器具のトラブルが続いている。
真冬に風呂が着火しなくなり、修理してもらった。食堂の照明のスイッチが切り替わらなくなった。メインスイッチは入るが、ぶら下がる紐を引いても日本の蛍光灯が一本になったり、豆電球に替わらない。これらはすべてこの三ヶ月の間の出来事です。

海外から戻り、この家に移って七年が経過した。こんなに長く一所に住むのは初めてです。七年もの間電気器具を毎日使用していれば、スィッチのような場所が最初に弱ってくるのでしょう。(本来の機能は問題ないのですが、、)、日本に私より長く暮らす皆さん、僕の家庭内器具七年周期説はあたっていますでしょうか?

だけどもっと頑張っているものもある。夫婦で考えてみた。
一位 妻が中学生から使っているというNationalの温風器 − 二十年以上でまだ十年はいけそう。
二位 この前紹介したパイオニアのレーザーディスク − 使用頻度は少ないが十五年超え。
三位 シャープのテレビ − スイスで買ってオランダ、日本と十年以上も二つの放送方式で像を映し出してきた。

昔の家電はもっと頑丈だったのでは?

二 退職金

新潟県警の不祥事はひどい話です。当事者二人は警察を去り、強い勧めで退職金を返上しました。しかし日本人というかマスコミは他人の過失、悪事には厳しいですね。マージャンを賭博罪だと糾弾する記者が「民間人は別、別」なんてうそぶいて卓を囲んでいたりして。

もし皆さんもしくはご主人が三十年近く働いた後に、大きな不祥事で退職金が出ないとなったらどうなるでしょう?主人は社会的地位が失墜するだけではなく、家庭も完全に崩壊してしまうのではないでしょうか?少なくとも我が家では間違いないです。

私の考えでは今回の事件でも退職金返上は重過ぎる。その大部分は過去の業績に応じて、もらう権利があるものだからです。それが数千万円かもしくはゼロなんてギャンブル,投機それ以上です。(ただし数年天下っただけで相場から著しく離れた金額をもらう人は別)何らかの大きな過失があると退職金がまったく払われないと考えると、我々も四十年近く変な緊張状態を続けて働かなければならない。まさに人質状態だ。

一方では会社の業績悪化により、退職金が20%カットなんていう会社も出てきている。まじめに働いても会社が払えなくなってしまうかもしれない。もうこんな会社勤めの最後に渡す退職金制度はやめたほうがいいのではなかろうか?そして一部で始まったように、毎年それに応じた金額をもらうのだ。大きな過失があればその年はなしという程度なら耐えられる。

こうしたことを書くのは、自分の退職金が気になりだした証拠?

2000年3月某日


先駆者

最近のインターネットビジネスでは「あるビジネスを考えたときは、もう他の三人が同じ考えを持っていると思ったほうがよい」と、若い企業家が喋っているのを耳にした。先を争う競争の激しさを強調したかったのであろう。これは自分の経験からしても真実だと思う。

それは一九九四年の夏のことである。旧東ドイツが西と統一されて三年ほど経ちわれわれも不自由なく訪問できるようなったので、ベルリン北方八十キロにある、ボイツェンブルクという村というにも足りないようなところを訪れた。

ここの山の上ある城に戦争中、連合軍の空襲の激しさを避けて、ベルリンの日本大使館が一部移転したという話を耳にしていたからだ。村の規模と不釣合いに城は大きく、わずかながらの年配の訪問者がいて、受付もある。その中の人は「自分は日本から調査に来た」といってもあまり反応しなかったが 
「少し前にアメリカから助教授(Dozentというドイツ語であった)が来て、ここが日本大使館の移転先だと確信すると写真を撮って帰った」と淡々と語った。それからは「こんなことを調べるのはどんなアメリカ人なのだろう」といつも気になっていた。

昨年、国会図書館の外国図書のコンピューター検索に、あてずっぽうで戦時下の駐独大使の名前「大島浩」と入れると二つヒットした。そのひとつがカール.ボイド氏の「Hitler's Japanese Confident」であった。大島大使が日本に打った電報をアメリカはひそかに傍受解読していたが、それらを丁寧に読み込んでいる。そして「アッ」と気づくと、筆者撮影としてあの城の写真が映っている。

あの時聞いた助教授とは彼に間違いない。その本は最近、日本語にも翻訳された。一番乗りは難しい。

3月5日(日)


史料求めて三千里

論文を作るときやることは参考文献を集めることから始まる。同分野の書籍の巻末の参考文献を見てリストアップする。 
これまでの経験から90%は国会図書館で見つかる。天羽英二氏の回想録見つからないで困っていた時は、ある日ふと思い「あもう」ではなく「あまう」と引いたら見つかった。一年以上費やした。あってもこのように見出し語を間違えていて、探し出せないこともあるであろう。 
国会図書館にない本が都立、県立の図書館にあることはない。その国会図書館にないのは主に「私家版」「自費出版」の類である。また自分が史料の収集を始めた初期とは違い、一回で入手できる情報量もだんだん減ってくる。次のようなことまでやって史料をそろえたこともある。

1. 外交資料館に「外務省OBの著作目録」というのがあった。これらの書物は外務省内部の図書館にあるとのこと。電話すると一般には公開していないとの返事。じゃあ何で目録を一般の人の目に付く所に置いているんだ! 
ある日突撃で外務省を訪れた。警備の厳しい日だった。受付で一般資料の請求とか言って通され、大応対に出てくれた人に本当のわけを話した。会社の名刺を出したら 
「xx社に勤めている人ならどうぞ」とかいって図書館に連れていってもらった。肩書きのおかげか?

2. ある本が防衛大学の図書館にあることが判明。幸い軍事史学会の会員なのでそのルートから紹介して入れてもらえた。菓子折を持って目黒に。なかなか良い図書館であった。カードを買ってコピーしようとしたら 
「沢山取るならここのは高い。本は借り出せるので町でして来たら良い」と受付の女性が提案する。たしか一枚二十円でそんなに高いとは思わないが、親切な申し出なので断るのも気が引け受け入れた。結局平日を二日使うことになった。

3. 朝日新聞社OBの遺稿集なので朝日新聞にはあるはずと半ば駄目元で電子メールで問い合わせたら見せてもらえるとの返事。、電子メールだからこそ出来た。わざわざ手紙、電話でという勇気はなかった。また平日に有給を取って菓子折を買って築地に。向かいながらどこかむなしさが漂う。 
「こんなことまでして何の意味があるの?」と内なる声が聞こえる。 
朝日の広報課には私のこのような質問に対応する担当の人がいる。その親切な広報の人はコーヒーまで招待してくれた。 
一日の収穫はコピー8枚であった。

  2月19日(土)


わがリフレッシュ休暇

会社の勤続二十年で二週間の休暇をもらえた。趣味のための時間を十分に持つ事が出来た。その時の出来事をいくつか。

1月30日(日)暖かい
七時起床。熱海の自社の保養所に。人気の場所だが明日は平日とあって客は全部で十名のみ。しかも退職者が大半。わが社の若い人は真面目な人が多いのであろう。
大きな風呂も常に一人で大満足。三回入浴、二回マッサージ機に。保養所の部屋のテレビのほうが、我が家のよりもきれいで二人で愕然とする。

1月31日(月) 寒い
朝入浴。バスで熱海観光。バスガイドのついた大型バスの客は、我が夫婦を含めて四人のみ。売り上げがしめて9200円では伊豆箱根急行も大赤字だ。観光産業はいかに土日以外を客で埋めるかが鍵。利用者にとってはゆったりした旅をするなら週末をはずすこと。これに尽きる。両方の実家に干物のお土産を買う。店はいくらでも並んでいるがどうしてどこも同じような価格なんだろう。

2月3日(木)
7時起床。暖かい
妻の希望で上野の美術館に「皇室の至宝」という展示会を見に行く。テレビでよく見た青いシートのテント村を過ぎてたどり着くと「ただいま入場制限中で、待ち時間は1時間」とのこと。平日にも拘わらずである。まるでスピードの解散コンサートのような長い列だが、違うのはほとんどが60歳くらいの女性である事。
「前売り券でも千円するにもかかわらず、こういうことには惜しげもなく熟年の人はお金を使うんだ!」と考えた。(私はまだ熟年ではありません)帰りに寄ったアメ横では「千円、千円」といって山盛りの魚を持ってお兄さんが叫んでも、通行人の反応がいまいちなのと対照的だった。

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