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日本 関口俊吾ー特務艦で帰国した日本人画家ー(第一部) 瑞西
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<序>

関口俊吾は一九一一年生まれ、今もパリを本拠に活動を続ける、現役の画家である。一九九六年には、十月二十一日から二十六日まで、銀座みゆき通りの文芸春秋画廊で「関口俊吾展」を開き、高齢にもかかわらず日本に帰国している。

筆者がその関口の名前に接したのは、ひょんなことからであった。一九九四年六月十二日付け日本経済新聞に「パリ  洋画家たちの青春」という見出しの記事が載った。

付け加えると筆者は日本経済新聞は購読していない。たまたま訪ねた横浜の実家で何気なく手にしたら、先の見出しに続いて、次の文章が目に飛び込んできたのであった。

「八十三歳の関口俊吾の歳月は、パリの日本人画家としては恵まれていた。フランス政府招聘留学生として一九三五年に渡仏、ドイツ占領下のパリから極秘の特務艦で帰国した後、戦後は萩須高徳、藤田嗣治に次ぐ三人目の日本人として再渡仏。ビュッフェの日本への紹介者であり、今も制作を続ける」

美術に門外漢の筆者の目に留まったのは、文中の「極秘の特務艦」という個所である。第二次大戦中の日欧間の交流について調査していた筆者に、この特務艦の話は初耳であった。最初に思ったのは「本当かな?」という懐疑の気持ちであった。

筆者の知る限り戦争中は潜水艦、ドイツの特殊な対封鎖突破船、もしくは特別に通過査証を得てソ連を経由するくらいしか、日本人は日欧間を行き来することは、出来ないはずであった。

それでも一応、この関口という画家にコンタクトして、事実を確かめたいと思った。ページをちぎって持ち帰り、日本経済新聞社に手紙を書いて、関口のフランスの住所を尋ねた。柴崎信三さんというこの記事を書いた記者は、丁寧なコメントを添えて折り返し返事をくれた。拍子抜けするほどスムースであった。筆者はすぐさま関口氏に手紙を書いて、特務艦について教えを乞うた。

しかし今度は違った。見も知らずの日本の自称アマチュアの歴史家に、パリの老画家は、そう簡単に事実を語ろうとはしなかった。今思えば当然の反応である。それでも筆者は熱意を伝えた。歴史家としては送る自著もない中、国会図書館に通い、五十年以上も前に関口が書いた記事を見つけ出しては、コピーをとって国際郵便でパリに送った。ある時期、関口はずいぶんと、欧州体験について日本の雑誌に書いていた事がわかった。

それらを読んで当時を懐かしがるうちに、パリの画家も心を許し例の特務艦について、知る範囲のことを長い手紙にして、筆者に書き送ってくれた。日本とフランスの間で、何度か手紙のやり取りが続いた。以下はそれらをもとにした、関口の渡仏から帰国までの物語である。


 <フランスへ>

関口がフランスに向ったのは一九三五年、今から六十五年も前のことである。フランス政府招聘留学生に選ばれ、ダルタニアン号という船(フランス船?筆者)で海路、パリに向ったという。まだ戦争の影はなく優雅な航海の出来た時代であった。

このフランス政府によるこの留学制度について調べてみた。始まったのは関口の渡仏より四年前のことである。一九三一年五月十三日付けの東京日日新聞(今の毎日新聞)に
「フランスが国費で日本留学生を招くとことを決定。今年からまず七名を送る。第一回は帝、慶、早、法から選び、留学期間は三年とする」と発表された。

それから四年経った一九三五年、五月九日付け朝日新聞にも「仏国奨学金留学生」という見出しがある。
「フランス政府の奨学資金による本年度のフランス留学生は試験の結果八日、左の八名と決定した。(名前省略)六月十一日出港のアトス第二号船で渡仏のはず」

しかしこの八名の中には何故か、関口の名前がない。本人は確かに一九三五年と言っている。筆者の問い合わせに対し「よくそこまで調べたもの」という前置きに続いて

「同年の選考では最後まで残ったものの、本決まりには至らなかった。そこで思い切って自費でパリに渡り、翌年現地で招聘留学生の資格を得た」と語った。少し省略して語ったようだ。それにしても当時、自費での渡欧が可能であったのであるから、関口は相当経済的に恵まれた家に育ったと思われる。 

さてこの一九三○年代、日本は米英と対立し、独伊との提携に傾いていった。関口が晴れて公費留学生となった一九三六年には、日独伊防共協定が締結されている。日本の枢軸陣営入りが明確となった。同時に日伊の間でも交換留学生制度が出来て、新聞もそちらをしきりに書き始める。

それに反比例して同年からは、フランス留学者の氏名が新聞に公表されなくなる。次に登場するのは四年後の一九三九年である。六月三日付け朝日新聞は

「仏国留学  初の女性二人」と奨学生に二人の女性が選ばれたことを、写真入りで大きく取り上げる。フランスへ行くことより、女性が留学することか話題になったようだ。

「日仏交歓のくさびとなる第八回フランス留学生は、文部省とフラン大使館で選考中であったが二日、十五名の候補者の中、左の五君と決定した。この中湯浅さん、片岡さんの二人は初の女性留学生で何れも今秋出発、仏国政府から学費の補給を受け約二ヶ年留学する。五人の氏名は左の通り。

加藤美雄  二十四歳   フランス文学
北本治    二十九歳   フランス文学
笹本猛正  三十四歳   デカルト研究
湯浅年子  三十一歳   原子物理学
片岡美智  三十三歳   フランス文学 」
この中には後の関口の話に登場してくる名前が含まれている。


<パリ>

フランスに着いた関口は、パリ国立高等美術学校に通う。当時パリには、食うや食わずの貧しい邦人画家が数多くいたが、関口は先にも触れたように、留学生として経済的にも恵まれていた。したがって観光客相手に、肖像画を書く必要もなかったらしい。

関口の滞在した当時のパリの邦人社会はどんな様子であったのであろうか?いく人かの話を総合すると、すでに四百人位の邦人が暮らしていた。そしてかれらの親睦組織として「パリ日本人会」があった。

外務省に残された記録によれば、会の創立は一九二三年十二月で、一九三九年四月現在の会員数は八十五名であった。この数はベルリン日本人会の九十名に次ぐ。全邦人の数もドイツ(約五百名)に次いで、イギリスを除く欧州大陸において第二位であった。そして日本人会では在留邦人交流の場として日本人会館を経営し、日本料理部(日本食レストラン)などもあった。ほかにも「ぼたんや」という日本人相手の旅館件食堂が営業していた。

また芸術の都というだけあって、帰国した後に名声を確立することになる芸術家が、その中には多数いた。画家では藤田嗣治、萩須高徳、建築の岡本太郎、音楽関係では天才バイオリン少女と呼ばれた諏訪根自子、ピアノの原智恵子、声楽の牧一、ハープの阿部よしえ、白石昌之助等などである。

文芸関係では評論家中村光夫、小松清、淡徳三郎、後にサガンの邦訳で有名になる朝吹登美子らがいた。田中路子、早川雪洲という俳優も含め、パリに暮らす日本人芸術家は、有名無名すべてひっくるめて三百人位にのぼるといわれた。全邦人を四百人とすれば、四人のうち三人までが芸術関係であったことになる。ベルリンが外交官、軍人、商社マンはほとんどであるのと対照をなしている。

そんな当時の邦人の芸術活動を二つ紹介する。まずは一九三九年五月十一日付け朝日新聞である。

「パリ楽壇に妙技揮う。提琴精進の諏訪根自子嬢」
「天才ヴァイオリニストの諏訪根自子嬢も既に少女の域を脱して芳紀正に十九歳、腕もすっかり大人になって彼女を知る周囲の教師、知人達は、その上達振りに驚異の目をみはっているが、春の音楽シーズン名残の一夕五月十九日夜、パリのショパン音楽堂で初めて公衆の面前にその妙技を振るうこととなった。

最近の彼女は明朗そのもので、大倉男爵の庇護で将来尚二年の音楽研鑚を保証され、幸福な研究生活を続けている」

日本で「天才バイオリン少女」と評判の高かった諏訪根自子は一九三六年、十六歳でベルギーへ留学に向った。関口より一年後になる。そして間もなくして修行の場をパリに移す。その諏訪根自子が、パリで初のコンサートを開いたのであった。戦後日本でも彼女は一世を風靡することになる。 

次いで同年六月二十七日より七月十三日まで、パリのシャルペンティユ画廊で、第二回パリ日本美術展が開催された。藤田嗣治ほか日本人五十七名の絵画、彫刻、工芸、商業美術作品が展示された。

フランスでも排日気分がずいぶんと高まって来た頃で、開催に関していろいろと心配もされたが、招待日には千人以上の入場者があった。フランスからも文部大臣代理でユイスマン美術局長が顔を出した。フランスの日本大使館は、こうした文化を通じて、日仏関係の改善をわずかでも目指した。
駐在邦人の代表格である外務省関係者では、関口がパリに着いたとき、駐フランス大使は佐藤尚武であった。老練な外交官である佐藤はフランスから帰国後、外務大臣の要職を務める。終戦時は駐ソ連大使として、ソ連を仲介しての日本の連合国との和平に骨を折る。

続いての大使は杉村陽太郎である。一九三七年末に着任した杉村はパリ着任後、間もなくして病に倒れた。癌で再起不能と診断された。関口もすぐさま病院まで見舞った。夫人が東京から迎えに来た。しかしインド洋経由、日本までは三十日間の航海である。途中苦痛が起こらないよう、出発前にパリ一番の名医の手で処置がほどこされたという。

杉村の後任は澤田廉三大使であった。そして赴任翌年の一九四○年は、当時の暦で紀元二千六百年と、日本にとって区切りの良い記念すべき年であった。建国記念日である二月十一日、記念式典がパリの大使館で盛大に行われた。招待状はほぼ全邦人に出された。

関口はこの式典のことをよく覚えている。日本から運ばれた冷や酒と、シャンペンがふんだんに振る舞われ、参加者一同大いに気炎を上げたという。欧州戦争での枢軸陣営優勢は邦人の気を大きくした。
澤田はその年の八月、松岡人事といわれる在外大公使の大刷新で、帰朝を命ぜられる。

付け加えると関口は今も、パリの大使館の新年会に出席している。今や長老格の関口は「大使も自分の息子に毛の生えたような若い人になった」と冗談交じりに語る。



 <緊迫の欧州情勢> 

欧州情勢に目を向けると、一九三三年に誕生したヒトラー総統に率いられたドイツはオーストリア、チェコスロバキアと次々に武力は使わないものの恐喝的に併合し、さらに勢力を拡大する気配であった。

一九三九年に入って、ダンチヒ回廊を巡るドイツとポーランドの間の緊張が高まり、そのまま戦争にまで発展しそうな気配であった。そして同じ年の八月、不倶戴天の敵同士と思われていたドイツとソ連が、不可侵条約を締結する。日本ではこの条約成立の知らせが入ってくるなり
「欧州情勢は複雑怪奇なり」とコメントを残し、平沼騏一郎内閣が総辞職する。

一方フランスではすでに述べたように、一九三六年に日本が独伊と防共協定を結んで以来、日本に対する風当たりが強くなってくる。軍国主義、全体主義はフランスの伝統的な個人主義とは相容れなかった。そんな影響で邦人女性がスパイ嫌疑で、フランス警察に逮捕されるような事件も起こった。
関口自身のこの頃の体験談として、戦後間もなく文芸春秋に発表したものがある。題は「烏か鳩か」である。

一九三八年、パリのローザンベルク画廊でピカソの個展が開かれた。当時既に日本人の間で評判の高かったピカソの、久しぶりの個展とあって、関口のまわりの邦人画家の間では、しきりと噂話に花が咲いていた。

「午後からは見物人が多くてロクロク絵も見られまいと、私(関口ー筆者)はある日の午前中にそくさく出掛けた。先ず一歩会場に足を踏み入れて驚いたことには、床にもカーペットを敷きつめた豪華な場内には、猫の子一匹いなかった。これが日本であったら、ピカソと名前を聞くだけで早朝から延々長打の列をなし、猫も杓子も詰め掛けるであろう」と、会場を訪れた感想が述べられている。

五十年程前に書かれた文章だが、今でも当てはまりそうな日仏の文化比較である。

さらにこの戦争の気配の強い一九三九年の夏、学生の身分の関口は、ノルウェーの北端より更に北に位置する、スピッツベルゲン諸島を訪問している。芸術家を目指す関口は、緊迫する欧州情勢に関して、かなり無頓着であったようだ。帰国後に雑誌「改造」に載せた「氷島とスピッツベルゲン」から抜粋してみる。

「アイスランドを去って、グリーンランドを左に見つつ北上すること三日、夜の全く無い世界北緯七十五度のスピッツベルゲンはマグダレチ湾に上陸の前夜、私たちは音に名高い真夏の太陽を見る。

夏の盛りというのに冬外套に身をかため、船客一同甲板に出て、北氷洋上高く留まる太陽を、あたかも異様なものに接した心地で眺めた。(中略)

この世のものとも思えぬ異様な風景を、満喫ことに十分満足して私たちは、キングスベイでアムンゼン、ノビレの飛行船格納庫が北海の風雨にさらされているのを見て、ノルウエーの海岸づたいに夜のある国、常人の住める世界へと一路南下した。

フランスのアーヴル港についたのが八月下旬、その後二週間にして大戦が勃発しようとは、神ならぬ身の知る由もなかった」

欧州戦争勃発直前の、今日でも訪れる邦人は少ない欧州最北端への旅行であった。また念の為に付け加えると、文中の「真夏の太陽」とは白夜の事である。



<開戦>

一九三九年九月一日未明、ドイツがポーランドを急襲した。同日ヒトラーは国会で
「ドイツ軍は、侵略してきたポーランド兵に対する反撃を開始した」と全世界に向け訴えたが、誰の目にも明らかなドイツによって仕掛けられた侵略戦争であった。

英仏の対応が注目された。これまで両国は戦争を避けたいという思惑から、ヒトラーの領土の要求に譲歩を重ねてきた。世界の関心は、英仏は今度はポーランドを見捨てるかどうかであった。

九月三日、朝日新聞は号外を発行する。そこにはパリ発として渡辺紳一郎特派員の報告が、大きく出ている。

賑やかであった「夜のパリ」が灯火管制で消滅したこと、三十五歳の青年文相ジャン.ゼーが勇躍応召して銃を取って前線に赴いたこと等を伝え「フランスの激情は沸騰している」と、フランス参戦の危機を伝えた。

英仏はその三日、渡辺特派員の予測通り、ドイツに対し宣戦を布告する。するとフランス在住の日本人は、すぐさま大部分が日本への引き揚げを決めた。第一陣として約百五十名が七日、南のボルドーに入港する日本郵船の鹿島丸に乗船し、帰国することになった。

文芸評論家の中村光夫は当時パリに留学中で、この時鹿島丸で帰国した一人である。かれの「パリ通信」によると

「ボルドオからリヴァプールまで三日の航海は万一を慮って、ボートを全部両舷に吊り出したままでしたが、そもそも遭難した場合には何より寒さが恐いというので、僕等も外套やスェーターは鞄から出して、いつでも着られるように手近のところにおき(中略)携帯品はボートに持込むことを許されないというので、大事なものを全部シャツの裏に縫い込んだ人もありました」と、緊張した船の様子であった。

しかし英仏はドイツに宣戦布告したものの、ドイツとフランス両国の国境は、全く平静であった。危機にあるポーランドを背後から支援するための、英仏軍によるドイツ西部への攻撃は、遂になかったのである。フランスにおいてこの戦争は、まさに対岸の火事というところであった。

そのためかパリ在留の邦人芸術家のなかには、欧州戦争勃発の知らせを聞いても、比較的のんびりと構えていた者もいた。帰国する意思のないヴァイオリニストの諏訪根自子らは、パリの南二百キロの町アルシー.シルクレに避難した。そして藤田嗣治らの一部の芸術家は、そのままパリに留まった。日本画壇の重鎮である藤田は、この時のことを後に書いている。

「日本大使館も帰国を勧告し、その相談に集った同胞人が、余りハシャイでおったとて、召集令を受けた仏人から怒られたのも、開戦当時のことであった」

また先ごろ亡くなった建築家の岡本太郎もこの時、パリにいた。かれは予想されるドイツ軍機による空襲の際の爆風除けとして、自分のアパートの窓全部に、超現実的な紙絵を貼って楽しんでいたという。これもは藤田のいうはしゃいでいる例であろうか?そして留学の終らない関口もこの時、帰国など考えもしなかった。



< パリ陥落>

年が明けても西部戦線は変化なかった。ドイツ側の宣伝スピーカーは絶えず「諸君はポーランドの無名な町、ダンチヒのために死ぬのか?」と巧みにフランス兵の戦意をくじいた。ライン川をはさんで両陣営が対峙するだけの様は「奇妙な戦争」と呼ばれた。

そんなドイツが、新たな口実を設けてベルギー、オランダの国境を越えて攻め来んだのは、一九四○年五月十日である。ドイツ軍のお家芸である電撃攻撃の前に、駐留する英仏軍は総崩れとなった。ポーランド戦が終了してから八ヶ月しか経っていない。

そして休む間もなくドイツ軍はベネルクス三国から南に進路を取り、一気にフランスの心臓パリを目指した。フランスの軍隊は、もうこのドイツ軍の勢いを止めることは出来ない。パリから住民の避難が始まった。

パリの日本人会は五月二十日、緊急理事会を開く。予想されるドイツ軍のパリ侵攻に対し、次の様な処置を決定する。
一.特別の任務を要しないパリ在住日本人には、即時帰国を勧告する。
二.婦女子は取り敢えず南方ピアリッツに避難する。一方大使館では避難先の宿泊所を確保する。

一方パリの日本大使館では、引き揚げ勧告が出されたにも拘わらず、なおもパリに残ろうとする邦人に対し
以後大使館は一切責任を持たない。各人の責任で行動するように」と冷たく通告した。そして外交官らの避難先の受け入れ準備のため、斉田藤吉商務官をピアリッツに派遣した。大使館によるとピアリッツを避難先に選んだのは、同地が中立国スペインの国境に近く、かつ日本船の入港するリヨン、ボルドーの諸港にも近いためであった。

パリ陥落前まで、この花の都に残っていた邦人は
大使館関係者五十二名、
陸軍関係者十四名、
海軍関係者十六名、
商社二十七名、
新聞八名、
芸術家二十六名、
留学生二十四名
の合わせて約二百名であった。開戦前と比べると半数に減っている。商社関係者とほぼ同数の芸術家が滞在するのが、いかにもパリらしい。

パリも戦闘区域に入ろうかという非常事態で、今回は芸術家たちも大分、日本への引き揚げを決めた。藤田画伯は夫人と共に五月二十三日、すし詰めの列車でパリを発って、マルセーユへ向った。そこから今回の引き揚げ第一船である日本郵船の伏見丸に乗り込んだ。巨匠は七月八日、東京に帰り新聞記者に語った。

「仏画壇の中堅まで出征して、残っているのはマチスやボナール等、七、八十歳位の連中ばかり。印象派大家のモネやピサロたちの数万円もする絵、それも高いものほど良く売れた。流行方面も女性間には空襲避難所用の凄いきれいなモードまで出来た」
限られた紙面に色々書き込まれているが、戦時下パリの画壇の様子の一端がうかがわれる。

伏見丸に続く引き揚げ第二船として、イギリスのリバプールを出港した白山丸が、六月三日に同じくマルセーユに寄港する予定であった。しかし同月一日、マルセーユの港がドイツ軍の爆撃を受けた。被害状況によっては、白山丸は寄港出来ないのではと、帰国予定者および船舶関係者を心配させた。

実際入港は遅れた。十三日になってようやく、白山丸が港口に姿を現した。待ちわびていた邦人避難民からは、一斉に喜びの声が上がり、妊婦等は目に涙を浮かべたという。

同地にはもともと日本領事館があり、高和博が領事代理として滞在していた。今回一連の邦人引き揚げの面倒を見ていた高和は、入港した白山丸の船長に対し

「本船は邦人救済を主な目的とするを以って、荷役等は第二なり。かつ船の安全措置のため邦人収容後は港内郵船波止場に繋留せず、日没前に至急安全なる場所に避難するよう」と即刻の出航を命じた。船はそれに従い、同日中に港を離れ、中立国ポルトガルに向った。

この白山丸でも多くの芸術家が引き揚げた。画家の岡本太郎、萩須高徳の他、パリで九年民俗学の研究をした松平晋光男、同じく十八年の松本まさお等が船客の中にあった。船内はさながら「芸術船」の様子であったという。

他方フランスの邦人社会がさびしくなった。今なお残る邦人は、外交官等も含め六十三名と発表された。

六月十二日、パリを去って敗走するフランス政府はアメリカを介して、パリの「無防備都市」を宣言する。ドイツに対しパリで抵抗する意思のないことをフランス政府が宣告し、歴史と文化の町をドイツ軍の砲火から守ろうとした。

パリの市役所は 
「官吏は全員留まってその職務を果せ。市民は市に期待せよ。市は市民に期待する」と悲壮な最後の指令を発し、活動を停止した。居残る邦人は全員パリの大使館に集まり、ドイツ軍の入城をひっそりと迎えようとした。同盟国であるから邦人の待遇は問題ないはずであった。

六月十四日、いよいよドイツ軍が進駐してきた。パリの象徴である凱旋門前を通過する。先ずオートバイとサイドカーが先導し、兵士を乗せたオープンカー、さらに軽戦車、自動車部隊と続き、しんがりが歩兵と騎兵隊であった。誇り高きフランス人のプライドはズタズタになった。

さてやって来たドイツ兵は戦場を想像させないような、きれいな身なりの若い兵隊ばかりであった。無精ひげをはやした者など一人もいない。ドイツ軍もパリの占領に際し、かなり気を使った。そしてこの日からエッフェル塔にも、ハーケンクロイツの旗が翻ることになる。

フランスのレイノー首相はこの時、その座を第一次世界大戦の英雄ペタン元帥に譲る。ペタンはドイツとの”名誉ある休戦”をめざし、六月二十二日コンピエールの森で休戦協定を結ぶ。これによって国土の約六十%がドイツ軍による直接の占領地区となり、残りの四十%が非占領地区として、表向きはフランス政府の行政権に委ねられた。 

関口は未だ帰国する気はなかった。かれはパリにドイツ軍迫るの知らせでいち早く、留学生仲間の河合亨、稲村耕雄と共に南仏のモンペリエという村に避難する。間もなく近くのピアリッツに外交官らが避難してきたと聞いて、これに合流する。ピアリッツにも、ドイツ軍は進駐してきた。避難地の関口の印象は次の様であった。

「それまでフランス軍の負傷兵の療養所となっていた海岸の避暑地が、一夜のうちに緑色のユニフォームを着たドイツ兵に彩られた。海岸に面したホテルやカジノは、ドイツ士官の占領する所となり、街のキャフエーはドイツ兵で満員盛況の有り様であった。

ドイツ人が来たらどんな乱暴を働くかもしれないと、内心びくびくもののフランス人達も、彼らが案外規律正しいので、安心してか数日後には、平気で女子供までも街へ出掛けるようになった」
占領軍はパリ同様、地方でも規律正しかった。

また関口が占領地区と非占領地区の境のサン.ジャン.ピエ.ドボールの寒村にスケッチに出かけた夜、居酒屋で鳥の丸焼きに地酒で一杯やっていると、向かいのホテルに陣取るドイツ軍の軍楽隊が、もうコンサートを開いていた。ドイツ人の音楽好きを見た思いがした。

関口は九月まで、そこに留まる。鉄道は何ヶ所かで寸断されたままで、それまでは民間人はパリには行きたくても、ほとんど不可能であったからだ。そして三人の学生仲間のうち稲村は間もなく帰国するが、関口と河合はなおも残留を決める

鉄道が回復し、関口が再びパリの土を踏んだのは、秋風の吹き始める九月十日であった。この時の戦いに敗れたパリの印象については、関口自身が日本に帰ってすぐさまラジオ、雑誌で発表することになるので、後に紹介する。

久しぶりに会った美術学校のフランス人の級友によると、戦死の判明したものはクラス生四十名のうち二名、十七、八名が帰還、そして依然半数以上が捕虜になったか、行方不明との事であった。大きな戦争の跡があった。

関口はなおもパリに残りたかった。しかしまわりの友人は大多数が、留学期間を終え帰国していった。そうこうするうちに日本郵船の定期欧州航路が閉鎖された。今度は希望しても、帰国することが出来なくなった。

幾人かは最後の手段となったシベリア鉄道経由で帰国しようと、ソ連の通過査証を申請したが、ソ連からは何ヶ月も音沙汰はなかった。社会主義のソ連は自国の領土を日本人に通過させることは、特例を除き全く認めなかった。

一九四一年三月五日の朝日新聞には、こうしたソ連の査証にまつわる記事が出ている。
「欧州引き揚げ邦人ソ連査証で立ち往生」という見出しに続いて
「ローマ引き揚げ邦人約二十名は、目下当地に滞在してシベリア経由帰国するため、ソ連政府の査証を待っているが、一向に査証が下りず全員大いに困ぱいしている」とある。事実かれらはドイツの敗戦まで、欧州に足止めを食らう事になる。



 <帰国の知らせ>

関口がパリに向った一九四○年九月には、日独伊三国同盟が調印される。既に交戦中のドイツ、イタリアと軍事同盟を結ぶことで「日本もいよいよ参戦か」と陰で囁かれる様になる。

そして翌年に入るとすぐさま、パリの日本大使館は関口らに対し非公式に
「特別の船が、ヨーロッパの全邦人引き揚げのために派遣される。リスボンに向いつつあり、これを逃せば最早帰国の道はない」と伝えた。

 厳密にいえばこの時、日本大使館は澤田大使以下が親独フランス政府と共に、新首都ヴィッシーに移動していた。邦人が残るパリの旧フランス大使館には、留守番部隊として、数人の若い外交官が詰めるのみであった。

関口に帰国を勧告したのは、残留組の一人である前田陽一官補(戦後パスカル研究者、東大教授)であったが、かれは少し前までは、フランス政府留学生として関口の先輩であった。しかしフランス語抜群のかれは、間もなく官補として、大使館に勤めるようになっていた。

その前田が閑散とした大使館内で、元参事官用の立派な個部屋に腰を据え、かつての仲間に対し、まるで見下すような態度で帰国を勧めるのであった。関口には、腹に据えかねるものがあった。

こうして日本から派遣された特別の船が、冒頭に紹介した特務艦である。この船について、防衛庁防衛研究所戦史室編による公刊戦史「戦史叢書」は、どのように記述しているかをみよう。

それによると浅香丸の横須賀出港は一九四○年十二月十六日で、ベルリン着が二月二十二日という簡単な記述のみであるが、これらの日付けすらが間違っているのは後に触れる。また別の個所では
「一九四一年一月十日、海軍遣独軍事視察団規定を定める。十八名の技術士官を選抜、これにすでに独伊に在任していた駐在武官等を加えた」とある。

この十八人の海軍技術士官が、浅香丸に日本から乗船したものと思われる。しかし浅香丸の欧州派遣は、前述の膨大な公式の第二次世界大戦の記録には、これしか残されていない。ただし個人の回想録としてはこの海軍技術者の一人として訪独した頼惇吾が私家版「その前夜」のなかで往路の様子を詳しく書いている。

また同じく防衛庁の戦史室に断片的に残された、当時の駐ドイツ陸軍武官室と東京の交信記録の中に、浅香丸について触れられているものがある。少しさかのぼってそこから紹介すると、一九四○年十月二十六日付け駐独武官室発、陸軍省兵器本部宛の電文では

「スイス製左記諸機械、スイス傭船にて米国経由で輸送せり。今後のものについても右と同様の方法に依り輸送せしむるに付、承知せられたし」
とこの頃は、欧州経路が閉鎖、アメリカ経由で若干の兵器工作機械等を、日本に送った事が分かる。そして日付けははっきりしないが同じ時期

Me機(メッサーシュミットのことー筆者)は英国に奪取せらるる恐れなき方法にて海路し得れば、独空軍にて搬出に同意するも、しからざる場合には只今の所搬出の見込みなし」と東京に報告している。

欧州では、独伊と英連邦軍が激しく戦闘を展開している。戦闘地域は大西洋から地中海へと広がっていた。日本軍部が、欧州戦で使用されているドイツ軍の兵器研究のため、現物を手に入れようとするも、日本までの安全な輸送経路が確保されていなかった。したがってドイツ側は、いくら同盟国日本の頼みでも、途中イギリスに没収されたりすることを恐れ、機密性の高い兵器は譲渡しなかった。

中でも先の電文に出てくるメッサーシュミットは、イギリス上空で制空権をかけて戦う、ドイツ空軍の花形戦闘機であった。それまでもイタリアは、外貨欲しさから航空機の売却に応じたが、ドイツは一度も首を縦には振らなかった。

こうした状況の同年十二月二十七日、陸軍次官名でドイツ陸軍武官室に問い合わせが入る。

「ドイツに注文しある兵器、機械等にしてシベリア経由輸送困難の為、滞貨しあるものの内、来年二月中旬までにリスボンへ回送可能のものを調査、至急回答ありたし」

直接触れられてはいないが、残された史料のうちでは最も若い日付の、特務艦派遣を示唆する電報である。おそらくこの頃、派遣が決定されたのであろう。そして同じ時期にやはり日本から

「我が海軍に於いては日本郵船”アサカ”丸を艤装し、特設運送船として欧州に派遣、対独、対スイス注文貨物の積み取り、欧州派遣者及び在欧帰朝者の輸送に任ぜしむべく、準備を進めあり。予定は左の如し。

一月十六日横須賀発(パナマ経由)、二月中旬リスボン着、補給の上スペインのビルバオに至り約二週間停泊。貨物を積み取りに任ず。三月上旬ビルバオ発(パナマ経由)帰航、情況によりアフリカ又は南米を迂回す」と欧州に向けて打電された。(棒線筆者)
帰りの航路は決まっていないが、航海日程は決まった。

では特務艦派遣の報に接したフランス邦人の反応は、どうだったであろうか?前田官補の帰国勧告に対し関口は
「いよいよ年貢の納め時」と今回の特務艦での帰国を決めた。女性初と新聞に大きく書かれた留学生湯浅年子や、ハープ奏者の阿部よしえらも、最後のチャンスと言われ同様に帰国を決めた。

ところが間もなく、それは普通の船でなく、軍艦(関口談)と判明した。そして軍籍艦艇は当時は女人禁制であった。人命より、伝統が重んじられる時代であった。よって先の二人を筆頭に、女性は今回の帰国をあきらめざるを得なかった。

今では笑い話として関口が語る。
「阿部女史は一旦は帰国が決まり、有り金をすべてお土産に使ってしまい、泣きっ面に蜂の有り様であった」

また大使館は初め、引き揚げ者の乗船地はポルトガルのリスボンであると、帰国者にリスボン行きを準備させたが、間もなくスペインのビルバオになったと告げてきた。先の日本からの電報でも十二月二十七日の時点では、リスボンが目的地であった事が分かる。急遽変更があったようだ。

しかしそんな事を知らない関口には、前田官補の応対の悪さが腹立たしかった。
「大使館は海軍武官室に届いた日本からの暗号電報を訳して、一同に伝えるだけであった」と不平をこぼす。前田官補を筆頭にパリの大使館は
「半ば厄介者をこの際、パリから排除してやろう」という気配であったという。

この留学生イコール厄介者という関口の印象は、かなり当を得ていたと思われる。同年九月、次の引き揚げ船として浅間丸の派遣が決定されたとき、欧州の総責任者的立場にあった大島浩駐独大使は、現地の留学生について以下のように報告している。

「当地(ドイツー筆者)留学生は目下三十八名にて、その半数は浅間丸にて帰国のはず。
  在独五ー六年におよび、内職に依り生活し、その行状は思わしからざる者若干あり。この際右の不健全分子を一掃致したき(後略)」(棒線筆者)

関口もこの不健全分子の範疇であったのであろうか?付け加えておくとこの浅間丸の派遣は、日本開戦が迫り結局実現しない。

三月一日、関口らはビルバオに向け、あわただしくパリを出発する。地図を見るとビルバオは地中海側ではなく、ドーバー海峡に面したフランス国境に近い町である。関口はかつて自分等が避難していた、ピアリッツの町を経由してスペイン入りする経路をとった。

ピアリッツでは、一年前に知り合った当地の友人と、最後の杯を酌み交わした。時の経つのを忘れ、そうこうするうちにホテル帰還が夜間外出禁止時間になってしまった。ドイツの占領地域であった。

途中で運悪く、厳めしいドイツ人の夜警二人に呼び止められた。フランス語を理解しないかれらに、日本のパスポートを見せた。大目に扱ってくれるものと期待したが、有無を言わせずに、関口を引っ張っていこうとする。

「明日は国境を越えなければならない。それなのにここで捕まって留置所に送られ、ドイツ人のためにしばらくジャガイモの皮むきでもさせられることになったら、大変な事になる」ととっさに考えた。そして
「自分は日本人であり、明日スペインに向う」を説明しようとするが、関口はドイツ語を話せない。

やっと「モルゲン(明日)」とだけは言ったものの後が続かない。むこうもモルゲンだけでは何のことか見当も付かない。咄嗟に唯一ドイツ語で知っているのせりふ
私は日本人である(イッヒ、ビン、ヤパーナー)」というと、何と放免された。同盟国のありがたさを関口はつくづくと感じた。

国境を越えてスペインでの第一夜は、サンセバスチャンで迎えた。実に一年八ヶ月ぶりに、灯火管制のない明るい夜を体験した。フランスの夜は対独参戦以降、空襲に備えてどこも真っ暗であった。サンセバスチャンは人口十万人にも満たない、スペインでも中都市であるが、この時は全く夜が明けたような開放感を感じたのであった。

しかし内戦で疲弊したスペインの、食糧事情は悲惨であった。小麦が全く無かった。パンはトウモロコシから作られたもので、触っただけでばさっとくずれた。オレンジだけは豊富のようで、失業者や子供たちがあちこちでかじっていた。

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