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| 本編は書籍化されました。(2022年7月8日〜) 全編をお楽しみになりたい方はアマゾンでお求めになれます。こちら <浅香丸欧州へ> 次に最後の欧州向け日本船となる浅香丸について調べてみる。日本郵船の社史ともいうべき「日本郵船戦時船史」によると同艦は、三菱重工長崎造船所で建造された七三九八トンの貨物船で、進水は一九三七年七月七日である。 一九四○年から海軍裸傭船となる。翌年九月五日より特設巡洋艦となり、一九四三年からは特設輸送船として活躍する。そして一九四四年十月十二日、台湾馬公碇泊中空爆を受けて沈没する。ただし同書には、今回の欧州派遣についての言及はない。
先にも引用したが駐独陸軍武官室の入電記録には、浅香丸についての交信が残っている。そして一九四一年一月十七日
続いて一月二十六日付け電では
>この船には六人の陸軍関係者の他に、先述の十八名の海軍関係者が乗り込んでいる。前年九月に締結された日独伊三国同盟に基づく、軍事視察団の海軍代表であった。かれらは航空班班長の酒巻宗孝少将ほか、ほとんどが高級将校であった。よって海軍が主客で、陸軍関係者は肩身の狭い便乗組であった。 海軍は元々、ドイツとの同盟に陸軍ほど乗り気でなかったため、軍事視察団もシベリア鉄道経由ではなく、時間のかかる海路を取ったらしい。すでに陸軍関係者は、シベリア鉄道を利用して、続々とベルリン入りをしていた。 団長である山下奉文陸軍中将は、浅香丸の航海中である一月三十一日、ヒトラーに謁見された。そして帰国後間もなく、得意の絶頂のドイツの独裁者について
先に紹介した桜井一郎中佐は戦後、「史」という雑誌に自らの欧州体験を「体験ヨーロッパ戦線」のタイトルで連載している。桜井はその中でフランス赴任から、敗戦による帰国までの全期間を回顧しているが、往路に利用した浅香丸の様子について、海軍の頼同様かなり詳しく書いている。ここでは桜井の回想からリスボンまでの航海について、拾い上げて見る。 横須賀の沖合いに碇を下ろした浅香丸は、船長が海軍少将で、残りの船員は全員が日本郵船の社員であった。形式的に臨時の砲座を作って大砲が一門、そして若干の機関銃が備えてあった。もともと優秀な快速船で、今航海では機雷の危険を考えて、防雷具を搭載していた。 これまで欧州に向う通常コース上にあるスエズ運河は、ドイツと戦争中のイギリスが通過させない。したがって浅香丸の欧州への経路は、パナマ運河経由であった。そのパナマ運河を管理するアメリカと日本の関係も、相当悪化していた。
<関口乗船>
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