日瑞関係のページ 論文
日本 関口俊吾ー特務艦で帰国した日本人画家ー) 第二部 瑞西
日瑞関係トップ関口俊吾 第一部アンケート
 
<浅香丸欧州へ>

次に最後の欧州向け日本船となる浅香丸について調べてみる。日本郵船の社史ともいうべき「日本郵船戦時船史」によると同艦は、三菱重工長崎造船所で建造された七三九八トンの貨物船で、進水は一九三七年七月七日である。

往航はパナマ運河経由でハンブルクに向かい、帰路はスエズ運河を通過して日本に戻る東航世界一周線に就航した。

一九三九年二月八日よりベルリンで開催された「日本古美術展覧会」には国宝29点他が展示されたが、それらを積んで前年十二月一日に横浜を出港したのは竣工間もない浅香丸であった。
(「ナチスドイツと<帝国>日本美術」より 2016年5月22日 追加)


一九四○年から海軍裸傭船となる。翌年九月五日より特設巡洋艦となり、一九四三年からは特設輸送船として活躍する。そして一九四四年十月十二日、台湾馬公碇泊中空爆を受けて沈没する。ただし同書には、今回の欧州派遣についての言及はない。

先にも引用したが駐独陸軍武官室の入電記録には、浅香丸についての交信が残っている。そして一九四一年一月十七日
「桜井少佐予報の如く(十六日に)出発す。仏国へ転電相成りたし」と、日本からドイツに向けて発電した。桜井は同船でフランスに向った陸軍中佐である。そこからも浅香丸は予定通り、一月十六日に横須賀を出港した事は間違いない。よって先に紹介した防衛庁戦史叢書の日付け十二月十六日は、印刷ミスか何かであろう。

続いて一月二十六日付け電では
「浅香丸に関し陸軍関係乗船者中ベルリン行きは左記の六名なり。(氏名省略ー筆者)
(日本へ送るべき)貨物は三月一日までにビルバオに到着させて、かつ宰領者を派遣せられたし」と貨物の到着期限を連絡した。

この船には六人の陸軍関係者の他に、先述の十八名の海軍関係者が乗り込んでいる。前年九月に締結された日独伊三国同盟に基づく、軍事視察団の海軍代表であった。かれらは航空班班長の酒巻宗孝少将ほか、ほとんどが高級将校であった。よって海軍が主客で、陸軍関係者は肩身の狭い便乗組であった。

海軍は元々、ドイツとの同盟に陸軍ほど乗り気でなかったため、軍事視察団もシベリア鉄道経由ではなく、時間のかかる海路を取ったらしい。すでに陸軍関係者は、シベリア鉄道を利用して、続々とベルリン入りをしていた。

団長である山下奉文陸軍中将は、浅間丸の航海中である一月三十一日、ヒトラーに謁見された。そして帰国後間もなく、得意の絶頂のドイツの独裁者について
「写真で見るような凄さはなく、実にすっきりした静かな物腰、流石に一国の元首の地位にある人と肯かせるに充分で、まるで高僧と話をしている感じ」と褒め上げた。

先に紹介した桜井一郎中佐は戦後、「史」という雑誌に自らの欧州体験を「体験ヨーロッパ戦線」のタイトルで連載している。桜井はその中でフランス赴任から、敗戦による帰国までの全期間を回顧しているが、往路に利用した浅香丸の様子について、海軍の頼同様かなり詳しく書いている。ここでは桜井の回想からリスボンまでの航海についてついて、拾い上げて見る。

横須賀の沖合いに碇を下ろした浅香丸は、船長が海軍少将で、残りの船員は全員が日本郵船の社員であった。形式的に臨時の砲座を作って大砲が一門、そして若干の機関銃が備えてあった。もともと優秀な快速船で、今航海では機雷の危険を考えて、防雷具を搭載していた。

これまで欧州に向う通常コース上にあるスエズ運河は、ドイツと戦争中のイギリスが通過させない。したがって浅香丸の欧州への経路は、パナマ運河経由であった。そのパナマ運河を管理するアメリカと日本の関係も、相当悪化していた。

すでに南米諸国はアメリカの圧力で、日本船への給油を拒否していた。よってパナマ運河を通過するしか、日本船は欧州に辿り着くことは出来なかったのである。そのため浅香丸を海軍籍とし帝国海軍の威力で、海軍将校派遣のためとして、パナマ運河通過の許可をアメリカから得たのであった。 

乗船後間もなくすると桜井は、浅香丸の派遣の目的は海軍将校の派遣のほかに、二つある事が分かった。ひとつは先の交信記録でやり取りされたような、ドイツより供給された武器の引き取りで、もうひとつがパナマ運河の偵察であった。

日本海軍は来たるべき日米開戦に備え、目下拡張工事中のパナマ運河の、工事の進捗状況からその弱点、攻撃方に至るまでを知りたかった。そのため海軍の同乗者は、パナマ運河の実体を、通過する船上からつぶさに観察する予定であった。

浅香丸は二月上旬そのパナマに近づく。出港以来一隻の船とも出会っていなかった。そしていよいよパナマ運河にさしかかったとき、突如アメリカ側から、通過禁止の指令が船に届いた。

東京の海軍省に連絡すると、すぐさまワシントン駐在の海軍武官がパナマに飛来し、アメリカ側と交渉を始めた。アメリカは浅香丸のパナマ運河通過の条件として、武装した兵隊を浅香丸の乗り込ませる、という提案をしてきた。

これには海軍武官も艦長も頭を悩ませ、決断が出来なかった。当時の考えでは、軍艦上は領土の延長であった。他国の武装兵を乗り込ませることは、領土を侵犯されたのと同じ位の恥辱であった。先の女人禁制といい、海軍には多くの伝統に縛られていたようだ。

結局アメリカの武装兵は乗り込ませるが、かれらは全員甲板上で船に背を向け陸地を見続ける、というどこか滑稽な条件で、日米双方が妥結した。

パナマ運河をこうした苦労の末に越えて、大西洋に出た。すると間もなくラジオから
「アメリカは今後、英国を除くほかの国に対してパナマ運河の通行を一切禁止する」というニュースが流れた。こうして浅香丸が開戦前最後のパナマ運河通過船になったと同時に、帰国が大いに危ぶまれることになった。

二月十一日の紀元節を船上で向えその翌日、浅香丸はポルトガルの首都リスボンに着く。日本からの同乗者は、フランスへ向かう桜井を除き、ここで下船する。

そこで船は十分な燃料、水、食料品を積み込む。ついでスペインのビルバオに向け出港する。間もなく船は目的地に着き投錨するが、どうもビルバオの港とは思われない。そこは街からずいぶんと離れた河口に、ぽつんと作られた桟橋であった。



 <関口乗船>

ここからは再び関口の証言である。さていよいよ浅香丸に乗船した関口が先ず耳にしたのは、この船の日本出港は極秘であり、帰路は途中、英国の潜水艦の攻撃を受けるかもしれないということであった。関口同様のドイツからの便乗者がそれを受け

「案外イギリスを装った、ドイツの潜水艦が攻撃してくるかも知れない。日本を参戦させるためならその位のこと、ヒーさんならやりかねない」と不吉な事を言った。ドイツは同盟国日本の参戦を、希望していた。

補足するとこの「ヒーさん」とは、ヒトラー総統を指しているが、筆者も初めて聞く呼び名である。こうした話を聞いた関口は、これまで抱いていた軽い気持の帰国の旅ではないことを、悟った。

そして帰国者の一行は乗船したものの、何日経っても出港しない。それどころか次々とどこからか小船が横付けされ、荷物が積み上がってくる。これらの小船は関口の見る所、国境のすぐ向こう側、ドイツ占領下のフランスの港から来ているようであった。

「ハーンこの荷物がお客さんで、我々はおとりだったのだな」とやっと分かった。邦人引き揚げの大義名分の下、浅香丸は各種軍事物資を積めるだけ積め込んだ。

ドイツの兵器が、イギリス空軍の空襲の恐れの無い、スペインの港から積み込まれる行為は、同国の明らかな中立義務違反であった。しかしスペイン政府は、枢軸側の強硬な要請を、断われるような立場ではなかったようだ。そこでフランスの港からの積み込みということで、黙認したのであろう。ドイツ占領地に近いビルバオが、浅香丸の寄港地に最終的に選ばれた理由が、ここではっきりしてくる。

浅香丸は碇泊中、マストと船腹に大きな日本海軍の軍艦旗をかかげ、夜間はアーク灯でそれをくっきりと照らし出した。それを見た関口の印象は
「やるならやってみろ。(軍旗から判るようにー筆者)日本の軍艦を承知でやったと解釈して宜しいか、と捨て鉢な態度のようであった」という。実際この船に対し何かが起こったら、日本は激しく反応し、たちまち国際問題へと発展したであろう。

こうして次々と積み込まれた海軍の積み荷の内容は、不明である。しかしすでに幾度か引用した駐独武官室の残存記録から、陸軍関係のものが分かる。

一.陸軍用品
イ.「ラ」式機関銃図面(トランク)
ロ.二米測遠機  四十本
ハ.五千トンプレス部品
ニ.造調欧第一四七号(交信記録の番号であろうー筆者)ハンマー部品
ホ.Me109  二機(メッサーシュミットのことー筆者)
ヘ.シュトルヒ  一機(連絡機ー筆者)
ト.ダイムラーベンツ発動機  二台
チ.Me火砲
計七十七箱  約一四五トン

ニ.陸軍関係品
イ.一五00トンスクリュープレス
ロ.昭和製鋼所製鉄用機械類
ハ.クランクプレス部品
ニ.クランクシャフト  満州航空用
ホ.Ju八六予備品(ユンカースのことー筆者)
ヘ.川崎ダイムラー関係品
計七三三箱  約一二九八トン

陸軍関係品だけで約一五00トンの貨物があった。このうち関口等乗船者に目立ったのは、やはりメッサーシュミットの現物であった。荷揚げのまさに最後に、長大な木箱(長さ約七メートルから八メートルはあったという)が積み上げられた。関口は中身は飛行機に違いないと推察した。一方日本海軍はドイツへのお土産として、自慢の酸素魚雷四十本を、積み込んで来たという。

そしてメッサーシュミットが積み上げられた日の夕食の後、いよいよ船内に外出禁止令が出た。真夜中になって浅香丸は、マストと船腹の軍艦旗を煌々と照らし出したまま、ビルバオの港を厳粛に離れた。極秘の出港とのことであったが、子供を含むかなりの数のスペイン人が桟橋に立って「アディオス、アディオス」と手を振っていた。

かれらはまず、英独の潜水艦が死闘を展開中のドーバー海峡を、通過しなければならない。船からは万一に備え、最初の二日間はズボンをはいたまま寝るように、と指示があった。関口は「エライ事になった」とますます人心地がつかなかった。

船の航路も機密とのことで、誰も民間の帰国者には教えてくれなかった。桜井中佐の記述では、どうも浅香丸は、一気に南下しそこから南米の先端を通過して、帰国したようである。筆者から往復の経路について聞いた関口は

「往路がパナマまわりとは初耳です。海軍は良く秘密を守ります。そんな話は全く聞いていません。帰途もどこを通ったかも判りません。戦後も浅香丸の専任将校に二、三度会いましたが、往路のパナマ運河通過の話すらしませんでした」と感想を述べた。

幾日もの航海の後、関口等が最初に見た島影は、当時ポルトガル領のチモール島であった。我々の世界地図を基準にすると、島を下側から見ながら、北上したようである。かもめが飛来してきた。一同その見なれた姿に歓声をあげたという。そしてして出港後五十四日経った四月二十八日(関口の記憶による)、横須賀港に帰り着いた。

関口の聞いた話では、浅香丸は往路に積み込んだ水、食料のままスペインで水一滴も補給せず、横須賀まで三万海里の航海を続けた。これは記録破りであったという。(桜井中佐の記述では、リスボンで補給をしたことになっているー筆者)

「ロハとはいえ命懸けの旅であった」と関口は回顧する。それでも浅香丸に乗船出来た事で、関口は欧州に閉じ込められることなく、開戦前に帰国することが出来たのであった。

付け加えると陸軍はメッサーシュミットは持ちかえったが、海軍はハインケル社の航空機「一一六型」を持ちこんだようだ。高松宮日記の同年七月二十四日には
「午前、霞ヶ浦へ。浅香丸がもってきた“ハインケル一一六”を見にゆく」とある。



<引き揚げ者>

ではこの最後の欧州からの引き揚げ船には、どのような人が乗り込んだのであろうか?この疑問は意外にも困難に突き当たった。
「長々と書き進みましたがそれ以上詳しいことは、どうしても書けません。ノンフィクションという物は実名でないと迫力もありませんから、小生がもし書くとしても、実名を挙げねばなりません。

よし大部分の人々は死亡しているとしても、遺族がいます。特に高級軍人はおそらく妻子にも、この種の存在を秘していたと思います。当時の軍人はそんなものです。それを小生が暴露することによって、初めて遺族は知ることになり、小生のあの時の堅い誓い(他言しないこと―筆者)を破る事になり、法的には最早罰せられませんが、道義的に責任を問われる事になります。

いろいろ考えている内に昔の友人(一緒に帰った)の一人(某国立大学名誉教授)が来巴(パリに来ての意―筆者)し、種々討議した結果、やはり実名を挙げ余り詳しく書くことは取りやめた方がよかろう、という結論に達しました」

浅香丸の話を公にしても、迷惑のかかる人はないのであるから、なるべく詳しく知りたいという気持が筆者には強かった。手紙のやり取りが続いた。そして一九九五年一月二日付けの手紙が関口から届く

「実は小生よる年波でいろいろ身体が故障で、本業もままならず、特に手紙は苦手です。貴兄の希望の人名を明かすことはプライバシーに関わり、生き残りの二人の友人はかたくなに秘匿を申し出てきています。

そんな訳でためらっていましたが、心臓が悪くなり(中略)いつ死ぬかも分かりませんので、貴方の質問に差支えない限りお答えします。といっても大きな軍の秘密を本当に知っている訳ではありません。(中略)

フランスからの便乗者は一番多く六、七名でしたが、四十年コックをしてきたとか、便利屋の様に邦人の間で、なんとか食っていた人たちで付き合いはありません。ドイツからも学者が一名、イタリーから新聞特派員(中外商業新報、後の日経)円城寺次郎氏、ルーマニアから海軍武官(鈴木少佐)、パリから海軍では技術少佐(遠山光一、後の日本鋼管副社長)。そんなもんで円城寺氏、遠山氏と二人の友人のほかは、全く付き合いがありません。みんな死んでしまいました」(棒線筆者)

欧州最後の引き揚げというわりには、少ない引き揚げ者の数であった。あわせて十人前後であろうか?やはり荷物が主で、かれらは従であった。

さてここに挙がった名前の人のうち、円城寺氏は日本経済新聞社の社長を務め、一九九四年三月に八十六歳で死亡している。かれの死後に出版された「追想  円城寺次郎」という立派な装丁の本がある。そこでの氏の経歴によると、この時期は

「昭和十五年六月  海外特派員として欧米を訪問(欧州巡回特派員)、
  昭和十六年五月  経済部長に就任」
と記されている。四月末に帰国して翌月、経済部長に就いたのであろう。しかしこの厚い本のどこにも、浅香丸での帰国についての記述は見当たらない。かれもほかの仲間同様、浅香丸について沈黙を守ったようだ。

外務省外交史料館の「旅券下付表ー欧州の部」によれば、駐フランス海軍造船少佐遠山光一は、帰国のためとして一九四○年十月十二日、旅券をパリの大使館に申請している。 

ルーマニアの海軍武官中佐鈴木光信も翌一九四一年二月七日に同じくルーマニアで旅券を申請している。この二人が関口のいう海軍関係者であろう。



<二人の友人
>

関口は浅香丸で帰国した者のうち、秘匿を提案した二人の友人については、今回も氏名は勿論、一切何も言及しなかった。かれらの伏せておきたいという意思を尊重したのだろう。しかし筆者はその後偶然に、この二人の名前に接することが出来た。

それは外交史料館の外交文書で、文部省専門学務局長から外務省欧亜局長宛の、一九四一年十一月十五日付け連絡書である。最近は誰も見た事の無いような、ひどく埃だらけのバインダーの中に保管されていた。件名は「仏国政府招聘留学生帰国旅費請求に関する件」となっている。

フランス政府招聘留学生の往復の旅費は、フランス政府が支給のはずであるが、戦争のため三名が最近、一応各自で立て替えて急遽帰国した。ついてはフランス政府に対し、留学生が立て替えた帰国費用を、請求しようというものであった。今思えばかなり強引な要求である。

請求額は一人当たり、パリからスペイン国境まで二十六円八十銭、スペイン滞在費四十円、帰国費百三十三円二十八銭であった。そのあとには三名の名前学校、住所が明記されている。 

九州帝国大学助教授  A
第三高等学校講師    B
書家                関口俊吾

このA,B二名が先に秘匿を申し出た関口の友人であることは間違いない。筆者も悩んだが、二人の名前はここでも伏せておく。一人は先に紹介した一九三九年の政府留学生の一人だ。

なお三人の当時の住所を見るとAが堺市、Bが京都市、関口が神戸市となっている。どうやら関西の留学生仲間が、揃って帰国を決めた。

この二人は現在の紳士録にも、名誉教授として名前が出ているので、健在であると思われる。そして浅香丸同乗者のうち、今尚存命中なのはおそらく、当時最年少であったこの三名のみであろう。

同じ船で五十七年前に帰国した三人の留学生が、今も現役でいるというのは奇跡と呼べるのではなかろうか?まただれしも自分の特異な体験を、人に聞いてもらいたいという願望を持つものである。それにもかかわらず誰一人として、沈黙を破らないのは、我々の感覚では理解出来ないことである。

先の帰国費用の件に戻ると、文部省は駐日フランス大使館に、この要求を出した。本国はすでにパリが占領されており、今ではかつての国土の四十%のみを代表するフランス大使館であった。

すると意外にも、フランスは三人の帰国費用の支払いに応じると返事をしてくる。日仏間の力関係の現れであろう。ただし三人がどうやって帰国したかは、文部省のこの文書でも触れられてはいない。

付け加えると特務艦での帰国は、格安であった。海軍の船は運賃をとらなかったからである。関口は帰国に際し大使館から
「船賃は無料だが、航海中の食事の世話をする郵船に、八十円の食事代を帰国後払い込むように」と説明を受けていた。(文部省の文書では百三十三円となっているー筆者)

当時の日欧間の船賃は、一等で片道千円以上した。この安い料金ゆえ、持ち金の乏しいパリ長期滞在者が、浅香丸で帰国できたのかもしれない。



<沈黙する関係者>

すでに紹介したように浅香丸の欧州派遣に関し、往路については桜井中佐が、詳細に書き残している。しかし欧州派遣の海軍の真意とか、ビルバオでの荷物の積み込みから帰国までについての公式の記録はないようだ。日本郵船の社員である浅香丸の乗組員による声も全く聞かない。浅香丸は台湾の港で沈んだため、乗組員は一人を除いて生き残り、戦後を迎えたにもかかわらずである

これまで見てきた所によると、浅香丸は中立国スペインでドイツの武器を積み込むという、国際法に違反する行為を行っている。積み荷は判明したのは陸軍のみであるが、通常の兵器を脱するものはない。関口の証言からもこれら以外に、特殊任務があったとは思われない。

規則を重んじる海軍にとってはこれ自体が、大変不名誉な事であったのかもしれない。軍事船の隠れみのを着て、連合国の禁輸品を日本へ運んだからである。日本の軍事船を臨検する勇気は、当時はどこの国も持たなかった。これがもし貨物船で、連合国の臨検を受けたらすぐさま積み荷は没収、大きな国際問題へと発展したはずである。

当時関口らは、この積み込み行為が中立義務違反である、という意識は全くなかった。かれらを半世紀以上にわたって、沈黙させてきたのは、関口の手紙にあった
「海軍の関係者が家族にも口をつぐんでいたのに、自分等が話すということは、道義上許されない」という考えであった。

ここでの海軍関係者とは、おそらく一緒に帰国した遠山光一少佐、鈴木光信中佐の二人を指すと思われる。乗組員は船長を除いて郵船の社員であったからである。二人は帰国方法について、本当に最期まで家族に語らなかったのであろうか?

帰国者の戦後の足取りをもう一度見て見ると
  円城寺次郎  日本経済新聞社長
  遠山光一    日本鋼管副社長
  A          東京理科大学教授
  B          関西大学文学部教授
それに関口と、そうそうたる顔ぶれであった。かれらは戦後、発言の機会も多かったはずである。しかしこれまで見たように、誰もが帰国方に関しては事実を黙った。



 <帰国後>

さて関口らの戻った日本は参戦を半年後に控え、欧州からの帰国者が、非常に珍しい存在となっていた。よって関口は帰国後は講演、執筆の依頼を次々と受け、忙しい毎日を送る。

五月早々には、JOAK(今のNHK)の大阪のスタジオから「フランス文化はどこに行く」という題で喋った。当時珍しい全国ネットワーク放送であったという。「フランスは戦いでは負けたが、文化までは死なない」という主旨の話をした。放送にはかなりの反響があった。さっそく文芸春秋社の編集長(松原氏と記憶している)よりドイツ占領下のパリ生活を、二十枚くらいで書いて欲しいと依頼が来た。

関口は当時の記事は一切持っていないとの事であるが、半世紀も前のことについての記憶の正確さには驚くべきものがある。それを頼りに、筆者は実際に見つけることが出来た。

ただしそれは「文芸春秋」ではなかった。同社より発行されていた雑誌に「現地報告」というものがあった。やや時局に迎合した感のある雑誌であるが、一九四一年七月号には関口の名前で「独軍占領下のパリ」という記事がある。放送後に依頼されて書いたというのはこれに間違いない。その中から、占領下のフランス人について書いた部分を紹介する。

「しかして彼等(フランス人ー筆者)のドイツ人観はどんなものであろうか。伝えられる如くドイツに完全に心服し、従順な生活を送っているのたろうか。

私は親しく六ヶ月間、独軍占領下のパリに身を置いて、フランス人の学生の中に生活してきた経験から判断して、ドイツ流の秩序をそのままフランスに押し付けるのはかなり、難しいのではないかと考える。フランス人は一般に上から命令された秩序を好まない。(中略)それでは私の目撃し話に聞いた、二、三の街頭風景をご紹介しよう」

続けて興味深いエピソードが書かれている。先ずパリでは映画館は本編に先立つニュースを、電気をつけたまま上映していた。暗くすると、ドイツを批判する野次が飛ぶからであった。それでも毎回支配人が観客に向って、野次らないようにとお願いした。ドイツ批判が一言でも出ると、パリ中のすべての映画館を閉鎖する、と占領軍より言い渡されていた。機知に富むパリっ子は、野次が駄目ならと不自然な咳で、抗議の態度を示したという。

また命知らずは地下鉄の中で、ドイツ士官の背中に「ドゴール将軍万歳、英国万歳」と書いた紙を引っ掛けた。まわりの乗客は危険な目に合わないためと、乗り合わせた関口の友人の腕をつかみ、途中で降ろしてくれた。

雑誌にはさらにに三枚の、関口自身による占領下のパリのスケッチも掲載されている。”肉屋の前で行列するパリジェンヌ”、”キャバレーのドイツ兵”というタイトルが添えられている。

文章全体に流れるのはかなり大胆な、ドイツ軍のフランス統治への懐疑、あるいは批判である。おそらく全国向けラジオでも、同様な内容を喋ったのであろう。ところが当時は日独同盟下、言論が厳しく統制されていた時代である。関口はすぐさま親仏、反独者のレッテルが貼られた。特高が自宅まで来たという。またしても関口は「エライ目にあった」と肝を冷やした。

以上は先の触れたが雑誌「現地報告」の一九四一年七月号に載ったものである。関口の名前の下には「五月帰朝」と書かれている。同号には他にも二名の帰朝者が記事を寄せている。一人は先に紹介した中外新報の円城寺次郎で「独米戦時経済の比較」、もう一人は外務省調査部勤務の斉藤裕蔵で「戦時イタリアの諸相」それぞれのタイトルで書いている。

そしてかれらにも「五月帰朝」と注意書きされている。よって筆者は、浅香丸に乗り込んだドイツからの学者というのは、この斉藤氏ではと考え、関口に問い合わせた。すでに通常の帰国方法が、皆無な時期に入っていたからである。

それに対して関口は
「サイトー某氏は同じ船ではないと思いますが、他にあの頃帰国の便はありません」と否定も肯定もしないコメントであった。
 


 
<パリその後>

一九四一年十二月八日、日本が米英に宣戦布告し、欧州戦争は世界大戦へと拡大する。関口の去ったパリには、五十人ほどの邦人がなおも居残った。そしてかれらには帰国の方法は全くなくなった。

留学生で特務艦への乗船を拒否された湯浅年子、自分の才能の開花を予感し自ら帰国を見送った諏訪根自子、彫刻家高田博厚、ハープの阿部よしえ、ソルボンヌの小松文子らが残留する親仏文化人のメンバーであった。ほかにはフランス人を妻とする芸術家が、多くパリに留まった。

一方三谷隆信大使ほかの外務省関係者、および海軍陸軍の関係者は、パリを離れフランス政府と共に、新政府の首都である温泉町ヴィッシーに移動していた。

一九四四年六月、連合軍の大反撃が始まり、フランス西岸のノルマンディーに上陸する。フランス人によって構成された連合軍の部隊は、真っ直ぐにパリを目指した。それに呼応するようにパリの市民も立ち上がり、落城は目前に迫った。

ヨーロッパの短い夏も終ろうとする八月中旬、ドイツ軍のパリ撤収が始まった。そして同盟国である日本人も、ドイツ人と共にパリを去らねばならなかった。残された行き先はベルリンであった。連合軍の空襲の下、抗独パルチザンの襲撃の恐怖におびえての、必死の避難行となった。

この時根っからフランスに心酔した邦人は、苦渋の決断を強いられた。今さら避難しても、ドイツもそう長くはないようである。
「言葉も分からず、仕事も出来ず、寒い敗戦のドイツで捕らえられるのなら、我が懐かしのパリで、フランス軍なりアメリカ軍に直接捕らえてもらうにしくはない」と不満をあらわにし、残留を希望するものがいた。日本大使館の威光も陰りはじめた。

ベルリンからはこうした邦人を「縄で引っ張っても連れてこい」という強い指令があり、パリの大使館員は実際はこうした幾人かを拝み倒して、避難行に同道させた。

またフランス人を妻とする邦人は、妻子を連れベルリンに向かうもの、自分も残る者、妻子を置いて一人でベルリンに避難する者との三組に分かれた。どの道も将来を考えると、暗い気持にさせるに十分であった。結局数人の邦人はそのままパリに留まった。

翌年春、ソ連軍がベルリンに迫る。フランス引き揚げ組を合わせた日本外交官は、南ドイツに避難し、そこでドイツの敗戦を迎え、アメリカ軍に抑留される。そして日本の敗戦後、アメリカを経由して帰国した。

パリ時代から大島浩駐独大使に可愛がられたヴァイオリニストの諏訪根自子も、大島大使夫人私設秘書としてこの外交官グループに加わった。彼女は民間人であるにもかかわらず、身の安全が保証されたことで、ベルリンに残る民間人からはずいぶんと、非難の声が上がった。

一般の邦人は、ベルリン郊外の古城に避難しているところを、進駐してきたソ連軍に全員無事に保護された。それ迄のベルリンに対する激しい空襲でも、邦人の死亡者は幸運にも一人も出ていなかった。

日ソ間には依然中立条約が存在していた。よってベルリンの邦人は幸いにも、ソ連軍によって第三国人として扱われた。総勢二百五十名はいくつかのグループに分かれて、シベリア鉄道を利用し六月に帰国する。フランスを避難した者は、ドイツで空襲をさんざん受けた後に、ソ連軍の手で日本に送り届けられた。そして今度は日本で空襲、敗戦を体験することになるのであった。 
 



<関口その後>

浅香丸で日本に帰り、最新の欧州事情について一通り語った関口は、翌年初夏に中国大陸を旅する。どうもこれは軍部に頼まれた仕事のようである。奉天、承徳、北京、済南といった日本占領下の都市を二ヶ月にわたって旅行し、スケッチをした。

関口はこの時の原稿を雑誌「旅」に渡したと記憶しているが、筆者が見つけたのはやはり「現地報告」である。「満支書信」と題して関口のスケッチも添えられている。

「満州国が建国以来、巨万の費用を以って、これが復旧に当たりつつあることは、誠に喜ばしい限りである」といった、やや宣伝臭い文章が交じっている。

そして同年末、外務省から仏印(今のベトナム)に派遣される。日本とベトナムの間にも交換留学生の制度が出来、関口は三人の留学生の一人に選ばれたのであった。破格の一等書記官待遇で、ベトナムの中央に位置する都市ユエに三年滞在したという。

一等書記官といえば、大使、公使、参事官に次ぐ地位だ。終戦をそこで迎え翌年五月、リバティー船に豚のように詰め込まれ(関口談)て帰国する。
「まあ色々と苦労もし、一方貴重な人生体験もしたものだ」と、身の回りに起こった出来事を振り返った。

また浅香丸が苦労して持ちかえったドイツのメッサ―シュミット他の戦闘機も、空襲で破壊されたか、敗戦で自らの手で処分されたであろう。

戦後間もない一九五一年、四十歳になった関口は再びフランスに向かう。敗戦からわずか六年後、戦後の渡仏者の内画家としては萩須高徳、藤田嗣治についで三人目であったという。この時はまだ日本はアメリカの占領下であった。

一月二十七日発行のパスポートには
「関口俊吾は美術研究のためフランスに行く目的で(中略)連合国最高司令官によって許可された日本国民である」(棒線筆者)と記されている。日本政府の発行したものではなかった。

一九六○年銀座文芸春秋画廊にて個展を開いて以来、八一、八四、八六、八八、九○、九二、九四、九六年と相次いで同画廊で個展を開いた。文芸春秋とは既に述べたように、戦争中からの付き合いである。その間それ以外にも、いくつかの百貨店でも個展開いてきた。最後に関口の一九九六年の新年の挨拶状を紹介する。

新年のご挨拶を申し上げます。
思へば小生本年で生誕八十五歳。初渡仏以来六十年を過ぎました。”人間五十年夢幻の如くなり、、、”を三十五年も過ぎてしまいました。そしてあまつさえ今秋は結婚五十年目で、金婚式の年に当たる事に相成りました。

夢にも思わぬ出来事です!
ここまでよくも辛抱したものと、お互いに感心しています。今秋の個展は色々の意味で有意義だと、今から新アトリエでフンレイ努力しております。
あと何年もつか判りませんが最后の最后までガンバルつもりです

終わり 
 

P.S.
関口氏は2002年4月15日に亡くなられ、モンパルナス墓地に埋葬されました。謹んで冥福をお祈りいたします。


参考資料
関口俊吾さんの手紙、インタビューのほかに、主として以下の資料を参考にした。

関口自身の記事
*氷島とスピッツベルゲン  改造  一九四一   年十月号
*独軍占領下のパリ  現地報告 一九四一年
  七月号
*満支書信  現地報告  一九四一年 八月号
*スペインの印象  世界知識 一九四一年 
  七月号 
*烏か鳩か  文芸春秋 一九四九年 八月号

外務省外交史料館 
*在外本邦留学生及研究員関係雑件
(I120.1)

防衛庁防衛研究所
*戦史叢書
*戦争指導  外交文書 一二八  在独陸軍武官  室史料  兵器購入関係

書籍、雑誌等
*ナチ占領下のパリ  長谷川公昭  一九八六  年  草思社
*最後の特派員  衣奈多喜男  一九八八年 
  朝日ソノラマ
*凱旋門広場  澤田廉三 一九伍○年
*分水嶺  高田博厚 
*パリ通信  中村光夫  中央公論社  一九八  二年
*秘められた昭和史  林正義編  一九六五年
*日本郵船戦時船史
*「史」 一九六六年第三号ー一九七四年
  第四号
*朝日新聞  一九三四年から 
   


 
トップ

フォーマル