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日本人小学生の過ごした戦時下のイタリア(第一部)
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<序> 下の古い写真の説明から入ろう。場所はイタリアアルプスの麓のリゾート地、コルティナ.ダンペッツオである。1956年に冬季オリンピックが開催され、日本でも名前が知られるようになった。
すでに日本では放送されていた“ラジオ体操”らしきをする日本の7名の小学生。何とも牧歌的な光景だ。しかし撮影されたのはおそらく1943年の晩夏。第2世界大戦で日独伊の枢軸国の劣勢が濃厚になったころである。




構図もしっかりした上の写真を撮影したのはエルヴィン ゼーガー(Erwin Seeger)という、ドイツ空軍に属する今でいう戦場カメラマンである。日本的授業の特徴を説明する文章と共に、写真はドイツの雑誌に掲載された。
この戦場カメラマンは1943年に同じイタリア戦線で、下のようなドイツのパラシュート部隊の写真を撮り、今日ドイツの公文書館に保存されている。戦場からほど遠くないところで撮られたのが、冒頭の日本人の子供たちであった。

この子供達を含む日本人家族は、戦前よりローマで同盟国駐在員としてかなり恵まれた生活をおくっていたが、1943年7月にムッソリーニが失脚してバドリオ政府が連合国と講和を模索するころ、ローマを脱出しなければならなかった。そして北イタリアに逃亡したムッソリーニがドイツの傀儡となって打ち立てた俗称サロ政府の勢力範囲の内に、ほぼ終戦まで留まったのである。

筆者は写真が撮られてから70年ほど経った2012年5月、冒頭の写真に写る7人の小学生のうち、2人の方から話を聞き、写真の提供を受けることが出来た。一人は写真一番左端の井上まゆみさん、もうひとりがその右隣の山下忠さんである。

本稿はこの二人のお話に自分の調査結果を交えて、第二次世界大戦中にイタリアに駐在した日本人の終戦帰国までの足取りを追うものである。筆者の知る限りにおいて戦時下のドイツの邦人に比べて、同じ同盟国イタリアの邦人の記録はあまり残されていないようである。また筆者にとっても初のイタリア邦人に関する文章となる。


1943年9月、「パラシュート部隊員の歩哨」。同じ時期に日本人学校の写真が撮られたのかもしれない。

<二人の生い立ち>

井上まゆみさん(以下まゆみさん)は1934年生まれである。父親である井上賢曹(いのうえけんそう)さんは外交官で、戦時中はイタリアの日本大使館に三等書記官として勤務していた。イタリア語とフランス語が専門のお父さんは、前回のミラノに続いて今度が二度目のイタリア駐在であった。それに母親冨喜と九つ違いの姉、武子の四人家族である。ローマで生まれたまゆみさんは途中、日本に一時帰国した時期を除けば、イタリアに在住したまま開戦を迎えた。

もう一人の山下忠さん(以下忠さん)は1939年にローマで生まれた。住まいは有名な通りコンソ トリエステ1703番地にあった。お父さんは満洲国公使館に勤務する外交官であった。よって2歳年上の兄は満洲で生まれている。満洲国も枢軸国ドイツ、イタリアには独自に外交官を送っていたが、そのほとんどは日本人であった。

時節柄、忠さんの異国イタリアでの誕生は周りからあまり歓迎されなかったらしい。そこで母親は忠さんの妊娠中に海に入いり、腰を冷やしてひそかに流産を望んだという。それを胎内で感じたのか、忠さんは生まれた時に泣かない子であった。

イタリア人の乳母の乳では「目が青くなる」と信じ、母親は忠さんを母乳で育てた。栄養をつけようと鶏スープをたくさん飲んだが、それは日本人女性の胃には負担がかかりすぎたようだ。まもなく胃下垂になってしまう。そしてバチカン病院の法王庁の従医の世話になったのだが、それは後の自慢話になった。家には身の回りのことの面倒をみる女中がいた。名前はリーナ、とても太っていたのを覚えている。


ローマの自宅にて母親に抱かれる忠さん

当時イタリアで生まれた人は自動的にカトリックに入信させられた。忠さんはローマ法王より「ロマーノ」というカトリック名をもらった。文字通り「ローマっ子」と言う意味だ。そしてローマ市長からは名前の彫られたメダルを贈られた。残念ながらこのメダルはおそらくパルチザンに襲われた際に奪われたのか残っていない。
まゆみさんは今もそのメダルを持っている。そしてまゆみさんもやはりカトリックに入信し、代母より、「マリア、フランチェスカ、カルラ」という名前をもらっている。


1941年4月 代母と初聖体を受ける井上まゆみさん (右がまゆみ
さんで左は姉武子さん)



まゆみさんは当時の食事の事情などを語ってくれた。

「何かと言うと日本人は大使館に集まった。そこでは和食が食べられたので、大使館に行くのは子供心にもとても楽しいものであった。ローマには日本食レストラン、食材店はなかった。よって日本食は自分たちで作った。例を挙げれば糠がないので、パンとビールでお漬物を作った。豆腐も自家製。搾りがうまくいかないのか、豆腐より卯の花の方がおいしかった」という。“かぶら”をもち代わりに飾ることもあった。
物心ついたころの忠さんは、家庭でパスタの一種であるニョッキに模様をつけること、スパゲティ用のひき肉作り等手伝わされたが、お兄さんが指をはさんだりもした。


ローマの日本大使館>

駐伊大使であった天羽英二の日記から、当時のローマ大使館の様子を見てみよう。
「1940年1月1日元旦 在留邦人一同に日本から訪問中であった飛行機大和号の一行8名を加えて95名位が大使館にそろった。大使が挨拶し午後は立食パーティである。すし、魚、おでん、雑煮が出され、その後一同盛会に“かるた”その他の新年の遊びに興じた。
2月11日 紀元節 君が代を斉唱し、大使が紀元2600年の挨拶をした。立食パーティが続き100名が参加。子供たちにはお菓子が配られた。
3月10日 陸軍記念日 在留民一同が集まる。余興があり、福引が行われ立食パーティとなる。」

このようにほぼ月一回のペースで大使館に集まっている。井上さんが「大使館に行くと和食が食べられた」と言うのはこれらの立食パーティの事を指していよう。
先に述べたようにローマには日本食レストランはなかったが、大使お抱えの日本人料理人が主となって日本食を作った。
出席者にはお客もいようからローマの在留邦人は、子供を含めて80名くらいであろうと筆者は想像する。ちなみに一番多かったのはベルリンでドイツ開戦時に300名くらいである。日本人も相手国の国力に応じた人数が滞在していたといえる。

さらに日記を読み進めると4月13日は在留民を招待しての映画界が行われている。「兄と妹」「日本旅行3週間」他を上映した後、11時よりビュッフェが始まった。
日本人の嗜好品が多くそろえられた。大使館は在留民に娯楽を提供する場所でもあった。そして終わったのは深夜の1時ごろ。遅い時間は完全にイタリア的になっている。夫人、子供らで約70名が参加した。


偶然にもまゆみさんが持っていた、大使館での立食風景の写真
(うどんコーナーに人が殺到?)


次いでこの年の6月イタリアがドイツの快進撃に便乗するように連合国に対して宣戦布告をした。

6月10日午後6時、ムッソリーニがヴエネシャ広場で演説し、拡声器が市内にその声を伝えた。天羽は「群衆熱狂、ただし割合に冷静」と書き記している。
9月26日 「本省よりドイツに館長符号(暗号電報)にて日独伊三国軍事同盟成立の報道」
と日記にある。駐独、駐伊大使は蚊帳の外のまま、東京にてスターマー特使と日本政府の間で交渉はまとめられた。

9月27日 「河原(参事官) 在留民の件(大使と)相談。」
前日の軍事同盟成立を受けて在留邦人の対応を話し合ったのだろう。
9月30日には「午後6時半、在留民80名招待。7時 詔書拝読、時局訓示、大覚悟を促す」とある。大使館も邦人に対し厳しい時局を伝えた。
そしてその後は立食、食後には活動写真(漢口、上海)があり11時に散会となった。

11月13日午前10時半、天羽大使は井上まゆみさんのお父さんである井上賢曹三等書記官を同伴し、チアノ外相を訪問する。外相に日本の勲章の
捧呈を伝えるためであった。イタリア語を買われて通訳として同伴したのであろう。

天羽大使が後任の堀切善兵衛大使に譲り、イタリアを去ったのは12月2日である。以降はこうした詳しい邦人に関する記述は筆者が探した限り、外交官ではは誰も残していない。ただし堀切大使はイタリア語が達者な井上書記官を重宝した事は推測される。しばしば要人訪問の際に通訳として大使と共に写った写真をまゆみさんは幾枚か持っているからだ。要人が誰だかわからないのもあるが
「戦火を越えて日本まで父が持ち帰った写真なので、特に思い入れがあるものでしょう」とまゆみさんは語る。

その中で筆者が選んだ一枚が下の写真であるが、中央に写っているのは訪欧中の松岡洋右外務大臣である。この帰途、モスクワで松岡外相は日ソ中立条約を締結する現代史に残る訪欧であった。

「1941年4月2日 法王ピオ十二世謁見 西園寺公一、井上書記官随行」と別の記録が残っている。法王謁見に際し随行は2名に限られたようだが、西園寺公一は日本から外相の随行で、イタリア大使館からは唯一井上さんのお父さんが選ばれた。ここでも通訳として重責を果たしたのであろう。


中央左が松岡外相。右から二人目が井上さん。まゆみさんによると場所はベネチア広場

<戦火の拡大>

時代を少し戻す。1939年8月23日、ドイツとソ連(今のロシア)が独ソ不可侵条約を結ぶとドイツの戦争は必至と言うことで、大島浩駐ドイツ大使が、すべてのドイツ滞在の婦女子に帰国勧告を出した。またフランスも1940年6月にドイツ軍にパリが占領された時に、南部のマルセーユから邦人家族は日本に引き揚げた。しかしながらイタリアではイタリアが参戦しても婦女子の強い帰国勧告が出された様子がない。
在住者は日本参戦が間近に迫った1941年10月に予定された、日本からの浅間丸に期待したようだが、それも運航が中止となり、イタリアのみ多くの婦女子が戦争中も残ることになったのである。

内務省事務官としてローマに駐在していた桜井三郎は、1942年5月4日、ソ連を横断して日本への帰国の途につく。当日のローマ駅頭には在留邦人多数が集まり、未経験のルートによる帰国を激励した。(この帰国の経緯は筆者「戦時日欧横断記」を参照ください)

そして日本に帰ると「現地報告」という雑誌に日本開戦時のイタリアでの状況を記している。「1941年12月8日は日米開戦の日であるが、その前日にローマの私の家に、丁度ベルリンから来ていた佐藤事務官、同じくベルリン
から来ていた満鉄出張所の伊藤さん、朝日の前田氏衣奈氏等が来ていて、話はいつか日米開戦の開否に集っていった。そして結局は開戦にはなるまいと言う様な事になったのであるが、その翌日には開戦となった。
ドイツ軍、イタリア軍共に消極的態勢にある時に、堂々と英米に参戦する(日本の)態度はイタリア国民の特に感激した点であった。」
さらに日本への帰国に関しては
「浅間丸が来る以上は、浅間丸が帰国するまでは日米戦争はあるまいと言う。イタリアでは帰国者50人の荷物は既にリスボンに向けて発送せられた。ところが浅間丸の出発は、一度延期せられ、さらに延期せられた。
なんとなく皆緊張感があり、その為一時は在留邦人の人の注意は浅間丸に注がれたのであったが、ついに無期延期となってしまった。

この桜井の意見が当時のイタリア在留邦人の代表的意見であったとは断定できないが、多くの邦人が日本の参戦はないと考えてのであろう

また帰国直後に桜井は朝日新聞に
「ローマには邦人は150名ほどいますが、皆元気いっぱい、日本人のお医者さんがいないのでベルリンから時々、来てもらった機会には全員が健康診断を受けたりして、前線銃後の努力に恥じないご奉公をしております」と邦人の様子を述べているが、150名の邦人と言うのはバチカンに留学中の神学生らを含めても、やや誇張があると思われる。

同時にイタリアの状況については

「ナポリやミラノは爆撃を受けています。しかしながらイタリアはまだまだ余力があります」とイタリアの苦境を言論統制の中、苦し紛れに否定している印象である。



ゆみさんの”活躍”>

当時イタリア在住の日本人で日伊の友好を目指す「日本友の会」が組織されていた。先に紹介した天羽日記にも記載されているので1940年にはすでに存在していた。そこにはムッソリーニも時々顔を出したという。読売新聞の山崎功が書き残している。
(ムッソリーニは)日本人の子供の前では、にこにこして、子供の顔をなでたり握手したりするんだけど、○○新聞の記者なんて紹介されるとそれが急にぎゅっと口を結んで、例のいかめしい表情になっちゃうのだよ」

まゆみさんから山崎の回想を証明するムッソリーニの写真を提供いただいた。実際にムッソリーニが日本人の子供たちの前に顔を出したのは1942年4月一回のみのようである。日本が米英に参戦して謝意を表す意味もあったのであろうか。いずれにせよ彼は親日的と言われたが、それを証明するものだろう。また北の独裁者ヒトラーと日本の子供が写った写真はないはずである。
写真ではご婦人はそろって和服を着ていて晴れやかである。そしてムッソリーニに顔をなでられた少女は今も健在なのである。



子供の顔をなでるムッソリーニ。場所はおそらく日本大使館で後方は堀切大使。中央着物姿
の右がまゆみさんで、背の高い方は光延東洋
海軍武官長女の孝子(たかこ)さん。

上の写真の中にいた小学生の一人、毎日新聞社の小野七郎の長男、小野光春さんは戦後すぐの1947年、「僕の欧米日記」という本を出している。13歳の時であるから記憶も鮮明であったろう。そこではこの時のことはこう描かれている。

1942年4月のある暑い日であった。
ローマにいた日本人は、皆「日本の友の会」の発会式に出席した。ムッソリーニは堀切大使と一緒に来られた。僕らは牧瀬君たちと並んで迎えた。こんなに間近にムッソリーニを見たのは初めてであった。ムッソリーニはニコニコ笑いながら僕らの顔をなでてくれた。

式が済んで皆庭に出た。ムッソリーニはニコニコ笑って(小野)紀美子を抱いて写真を撮った。紀美子は「いやん」と言って足をバタバタさせて、抱かれながら暴れた。僕は「失礼なことをする」と思った。この日記に見られる、式の後の庭での撮影された写真は以下のものであろう。そして日本でも4月11日、朝日新聞が「日本の子供をあやすム首相」と様子を伝えた。

大使館庭での撮影。中央にムッソリーニ。おそらく光延海軍武官、
清水陸軍武官の姿も見える。

この時の映像が残っていることが判明しました。こちらからご覧になれます。(開く際に、開いてよいか聞かれます)
(2016年4月9日追加)



市長のサイン入りの写真 1943年5月5日で、
間もなくしてローマを避難することとなる。
その直後にまゆみさんはイタリアのラジオ放送局に招かれた。まゆみさんが選ばれたのは、ローマ生まれであること、そいて適当な年齢の女子であったからと謙遜気味に語った。
事前にお母さんが原稿を必死に作り、当日は「ムッソリーニのおじさんは優しい人です」
などと話したとのこと。それは日本のNHKでも放送された。
ローマの放送局がまゆみさんのお父さんに宛てた、4月24日付けの感謝の手紙を添えて、録音されたレコードが贈られた。そのレコードも貸していただいたが、SP盤で筆者は再生できていない。(その後デジタル化が出来ました。ここをクリック下さい)


ちなみに1941年1月29日には「日伊定期文化交換放送協定」が締結されていて、協定の中には「イタリア放送協会の対日放送番組内容左()ノ如シ」に続いて「イタリア在留、もしくは滞在中の日本人による、イタリア文化の諸問題に関する日本語による講和」という条文がある。この協定の一環で行われたのが、今回のまゆみさんの放送かと思われる。

翌年5月日にはまゆみさんはローマ市長を訪問する。日本の端午の節句にちなんで、子供を大事にするイタリアならでは実現した会見であろうか?ひとり着物をきていたので、前に出された。
左の写真には市長が自筆で「井上まゆみさんへ」と書き添えてある。このように日伊の親善に貢献したまゆみさんであった。

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