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日本人小学生の過ごした戦時下のイタリア 第二部

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<避難の始まり>

しかしながら日本開戦からほどなくして、イタリアも劣勢となる。1942年末にはロンメル将軍と共に戦ったアフリカから撤退する。
1943年春、日本から特別にソ連の通過ビザを得てイタリアのローマに赴任してきた日高新六郎新大使は書いている。(戦時日欧横断記参照)

「着いた翌々日が天長節(4月29日)。例年の通り大使官邸に集まった在留民諸君に会ってみると、婦人子供が3,40人もいるのですっかり面喰った。
聞いてみると、アテにしていた最後の日本船が来なくなったため、開戦以来殆ど全部の人がそのまま残っているのだということであった。

ともかく万一に備え、この人達をおびえさせず、また外部にも目立たぬように、安全な地方に移ってもらうことを工夫しなければならぬと考え、主だった人々に相談して、まず避暑という名目で北伊の山間に家族を移すことにし、次に(オーストリアの)ウィーン近郊に適当な建物を見つけて、集団生活が出来る手配をしたのであった。」

実際には7月9日に連合軍がシチリア島に上陸した後、大使館より邦人への避難勧告が出る。日高大使の書く「避暑という名目」とは合致するタイミングだ。

また「北伊の山間」はスイス東端の国境から65キロの都市「メラーノ」(Merano)を指している。井上まゆみさんはローマの次はメラーノに移ったと回想している。
また同地についてあまり知られていなかったため、北イタリアの大都市「ミラノ」(Milano)と混同している記述があるので要注意である。そしてこのメラーノは日本人にとって終戦時まで重要な役割を果たす町となる。

日高の回想を続ける。
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「9月8日イタリアと英米との休戦の発表は寝耳に水であった。(中略)かくして我々一行数十名は20余台の自動車に分乗し、行方も定めずにローマを立ち出た。しんがりの私の車が動き出したのは9月9日の午後5時を過ぎていた。」

7月25日にムッソリーニが逮捕された。その後イタリアと連合国との間で極秘に進められていた休戦協定が発表されたのである。婦女子をメラーノに疎開させた後もローマに残留していた外交官を主体とする日本人も、いよいよ脱出を図る。行先は水の都ベニスであった。

その後ドイツ軍が連合軍の北上を食い止め戦線が膠着する。日本大使館はそのままベニスに設置され、清水盛明大佐は陸軍武官室をベニス北方130キロのコルティナ ダンペッツオ、光延東洋大佐は海軍武官室を先述のメラーノに開設した。

その間、すでにメラーノに避難していた民間人および家族は、ウィーン近郊のウォーフィングに避難する。9月15日の朝日新聞には
「ミラノ避難中の邦人、およびローマ在留者より35名を出発せしめることとして12日までに、32名が無事ウィーンに到着」とある。この新聞報道も冒頭「メラーノ」を「ミラノ」と取り間違えている。次いで本文中に避難者の名前が列挙されている。

「15日までに35名がウィーン着。(山口総領事が手配)井上富喜(子供2名)、小林林平+妻子3人、五十嵐仁+妻子3人、渡辺俊夫(三菱)+妻子3人、朝香キヨ(大倉社員妻)、牧瀬裕次郎+妻子3人+女中1名、井上正(海軍嘱託)妻子3人、川村芳衛(昭和通商)夫妻、藤井歳雄(三菱)、田村清生(貿易斡旋所員)、小西今太郎(在伊日本人会代理人)

ウィーン到着者の先頭に名前のある井上富喜(子供2名)のうちの一人がまゆみさんであるが、本人はこの時ウィーン避難の記憶はない。彼女の記憶ではメラーノから次に移ったのは陸軍が武官室を開設した北イタリアのコルティナ ダンペッツオである。最初筆者は新聞記事が正しく、まゆみさんの記憶違いかと思った。
しかし上記新聞記事が良く読むと35名のうち32名がウィーンに到着したとある。井上さんの母と2人の娘の計3名が別行動を取ったとすれば差の説明がつく。
70年前の情報の精度の高さに敬意を表したくなる。ただしまゆみさん一家のみがコルティナ ダンペッツオに留まった理由は不明である。

一方ウィーン着の中には山下忠さん一家の名前もない。満洲公使館の一行はベニスではなく最初からコルティナ ダンペッツオを目指したのだ。独立国として、日本とは別行動をとったのであろうか?そして山下さんの家族もそのままそこに留まった。こうして井上家と山下家は同地で家族ぐるみで付き合うことになる。
ただし山下さんのお父さんの記録では、満洲国公使館は日本大使館と同じベニスに設置されている。


そしてコルティナ ダンペッツオにはドイツ軍の野戦病院があった。建物の屋根に大きな赤十字のマークが付いていて、街には包帯を巻いた傷病兵がたくさん歩いていたという。「こうした場所なら連合国軍の空襲もないだろう」と考えて、日本人家族も避難場所としたのかもしれない。

前輪の所に見える国旗は満洲国の国旗 コルティナ ダンペッツオの山下さん
買いだめしておいたガソリン食料を車に積みこんで、邦人はローマを脱出した
車はフィアット500


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<山間の日本人学校>

そしてここコルティナ ダンペッツオで冒頭の写真にある日本人学校が開設されたのであった。残された何枚かの写真から推定するに学校に通う小学生は7人であった。お二人からいろいろヒントをいただいたがまゆみさん、山下さん兄弟、清水武官の娘泰子さん(呼び名は“ややちゃん”)、の4名以外は特定できていない。

当地を避難所に選んだのはベニスに勤務する日満外交官の家族、および陸軍武官室の関係者及び家族である。後で述べる三城満洲国代理公使の家族は(奥さんを含み)4人と残されている。そして三男紅人は1939年9月に生まれているので当時4歳くらいである。彼を加えればちょうど7名となる。いずれにせよ、満洲国関係者の子弟が大多数を占めたのが、ここコルティナ ダンペッツオの日本人学校であった。

付け加えると日本人学校はローマの時からあったが文部省から認可された正式な学校ではなく、交代で大使館の人が教える寺子屋、ないしは私塾のようなものであった。絵の上手な父兄が教科書を作ったという。

また次の写真にはほぼ中央に日高大使が写っている。撮影されたのは1944年1月1日である。日高大使はベニスで単身赴任であったので、他の外交官と共にコルティナ ダンペッイオで元旦をささやかに祝ったのであろう。日本人夫人は6名いる。洋装で皆帽子をかぶっている。ローマを脱出する際も盛装は必需品として荷物に入れられたようだ。

1944年1月1日コルティナ ダンペッツオにて 
子供は左端が清水泰子さん、首をかしげているのがまゆみさん。水兵服を着ているのが山下兄弟。
ブレザーの二人が三城兄弟。その真後ろが清水武官で左隣が日高大使。

冒頭の写真同様ドイツの雑誌に載った通学風景。着ているものからみると晩夏?

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枢軸側の劣勢が続くなか、邦人の周りもきな臭くなってきた。

1944年6月8日、海軍武官光延大佐がドイツ海軍司令部のあったモンテ カティーニからメラーノに戻る途中、パルチザンに襲われて死亡した。
偶然なのか同日には三菱商事のローマ支店長牧瀬裕次郎、大倉商事の支店長朝香光郎がパルチザンに拉致され数日後に射殺された。商社の二人はウィーン郊外の避難所ウォーフィングからベニスを経由してメラーノに向かう途中であった。多くが長い避難生活に疲れ「まだ北イタリアの方がましではないか」との声が高まり、二人が代表して様子を見にイタリアに向かったのであった。欧州に戦時下滞在した日本人のうち、病死した人を除いて彼ら三名が、唯一の欧州における戦争の直接被害者であった。

光延武官の長女孝子さんとまゆみさんは、先の写真で見たようにムッソリーニの前に一緒に参列した。また牧瀬さんの長女、晴子さんともローマ時代から仲が良かった。

ベニスで働くまゆみさん、忠さんのお父さんは金曜日の夜にコルティナ ダンペッツオに戻った。事件が起こる前から日本人はパルチザンに狙われていたので、再びベニスに戻ると電話で無事を確認しあった。そしてベニスとコルティナ ダンペッツオを往復する際は護身用にピストルを持ち歩いたという。そのピストルもパルチザンに奪われたことがあったと山下さんは聞いている。そして終戦間際には「日高大使がピストル所持の疑いで逮捕」という情報も発せられている。

1944年になって山下さん一家は自分の家を、貴重なソ連の通過ビザを得て満洲に帰国した上司三城晁雄代理公使より引き継いだ。一戸建ての典型的な現地風の家である。(三城氏の帰国については筆者の「戦時日欧横断記」を参照)下の写真は新居に移った頃の山下さん一家の写真である。新たに妹も加わっている。
暗い時代にもかかわらず家族の笑顔が印象的だ。三城家に関して付け加えると1939年9月10日、妻栄子との間に三男がローマで誕生し、「紅人(べにと)」と名付けた。当時人気絶頂であった、ベニト ムッソリーニにちなんだのであろうが、三男は戦後は名前で苦労したかもしれない。

家には料理人とドイツ人の家庭教師がいたが、厳しい先生だった。この先生も三城家から引き継いだのであったが、誇り高く、自分の仕事は家庭教師と決めて、料理人の仕事は一切しない女性であった。ここ南チロルにはドイツ語を母国語とする人が多いので、ドイツ語を母国語とするイタリア人の家庭教師と呼ぶべきかもしれない。

写真の裏に1944年7月20日と日付が入っている。ドイツではヒトラー
暗殺が企てられた日である。ここコルティナ ダンペッツオで長女洋子さんが生まれた。

日高大使が日本の外務省にムッソリーニの通称サロ共和国の危機を打電するのは1944年の秋である。9月3日には大使館はベニスを避難し、ガルダ湖西岸のガルドーネ(Gardone)に設置された。ベニスも安泰ではなくなった。ここには通称サロ共和国の政府機関、野戦病院などもあって、傀儡政府の最後の砦となっていた。

日高大使は次いで9月12日には大使館員の今後の対策を日本に打電した。それによると「自分と木内参事官、他二名はガルドーネに残る。幾人かはメラーノに移りベルリン大使館と接触、邦人のドイツへの疎開の世話を行う。」

補足するとベルリンと接触するためにメラーノに移ると言うのは意味が不明であるが、これはアメリカが暗号電を傍受解読したものなので、誤訳の可能性もある。

また続いて「他の館員と家族は早急にドイツに移動する。おそらくベルリンのドイツ大使館に向かうであろう。民間の不要不急の者はウィーン南方40キロのウォーフィングに(すでにイタリアからは幾人かの邦人が避難している)避難する。」と報告された。

ウォーフィングは1943年来、イタリアの民間人の避難所として確保されており、最終的に岩崎三菱商事ローマ支店長他33名が避難した。彼らも敗戦、帰国まで苦難が続いたが、それは別の機会に譲る。


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<コルティナ ダンペッツオを去る>

前記の電文によれば外交官のうち家族持ちはベルリンに転勤となった。イタリアよりは安全、もしくは長く持ちこたえるという判断であろう。しかし井上さんの家族はおそらくこの時にウォーフィングに避難した。民間人の「不要不急のメンバー」にかなり遅れて加わった形だ。1943年に一度はウォーフィングへの避難が予定されていたのは、すでに述べたとおりだ。ここでローマ以来の小林林平外務書記生の長女美都子さんらと再会を果たす。

井上さんが唯一持つウォーフィングでの写真。ここはジーメンスの療養所であったという。
右の写真の裏には「(小林)美都子がうつした(ママー筆者)のが出来ましたので」と
手書きで書かれている。左の男の子はおそらく小林欣生さん。

一方山下さん一家はこのころドイツの「ブコー」に避難したという。そしてそこの城に住んだ。ブコーに該当する地名と言えば、ベルリンの東45キロにBuckowがある。真北に900キロの移動をしたことになる。当時ベルリン郊外に多くの邦人が疎開してそこからベルリンに通っていたので、お父さんも満洲国ベルリン公使館の勤務となり同様に通ったのであろう。

「ドイツは爆撃があっても翌日には綺麗に片付いている」と父が言っていたのを忠さんは覚えている。爆撃はベルリンの様子を指しているであろう。忠さんの記憶でも近隣には幾人かの日本人がいた。ドイツの満洲国関係者の避難先グレデハイン(地図で特定できない)はベルリンの東方35キロに位置していたとあるので、父親は主に彼らと交流していたのであろう。城には写真のような大きな温室が付随してあった。それよりは他にも日本人がいたということなので、三菱関係者が避難したベルリンから北に100キロほどのズコー城(Suckow)のことではと筆者は考える。

忠さんは週末に見た人形劇が怖かったのを良く覚えている。ボヘミアの流れをくむ人形劇だと言う。帰ると暗くて大きな城の中にいるのが怖くなった。
食事はイタリアに比べて格段とまずいものになった。パンは黒パン、あとはジャガイモくらいであった。

ブコーにて 山下さんの3人の兄弟
これもブコー 右の子供はドイツ人?

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<枢軸国最期の時>

1945年に入るとイタリアのみならず、ドイツの行く末も長くないことが分かってきた。一方日本はアメリカを相手にしばらく戦争を続ける見通しである。
そこで駐在する日本人は独伊の敗戦を、どこでどう迎えるかという問題に直面した。

それに対しては大きく分けると三つの考えがあった。一つは中立国スイスに入ることであるが、難点はスイスが入国査証を出す可能性は極めて低い。二つ目は東から進攻してくるソ連軍の保護の下に入り、日本に送還されることである。ソ連は日本とはまだ中立状態にある。ソ連の振る舞いには未知数な部分も多いが、多くの民間人はこの道を選んだ。最後が西からの連合国軍の保護に入る方法であるが、交戦国とはいえアメリカは非戦闘員にひどい態度はとらないだろうとの考えで、外交官が主にこの道を選んだ。

邦人はそれぞれ態度を決め、しかるべく場所でドイツの敗戦を待った。

1945年2月13日 清水陸軍武官の家族は,志津野技術大尉に伴われ避難先のドイツのブリッケンベルクを発ち夫のいるコルティナ ダンペッツオに戻る。一人娘の「ややちゃん」はまゆみさんの遊び友達であった。ドイツでソ連軍に捕まるよりは、夫と一緒に行動してスイス入国を目指すことにした。

ちなみにこうした地名の探し出しは常に頭を悩ませる。上は筆者がたびたび利用する米軍による暗号電の解読文書によるが、戦後志津野本人は別の場所で以下のように書いている。「戦争末期にポーゼンの30MM MG見学に出掛ける途中、ソ連軍の急進攻のため貨物列車でベルリンに逆戻りの上、急きょヒルシュベルグの清水武官家族の救出に出かけ、空襲下の諸都市を経て北伊まで戻った行動は、スリルに満ちた一週間でした。」とあり、清水武官の家族の避難場所の名前が異なる。

それにしても軍人が「スリルに満ちた」と述べる一週間は、夫人と子供泰子(ややちゃん)にとってはどのようなものであったろう?

パルチザンに襲われて亡くなった光延海軍武官の遺族を、ベルリンの海軍武官室はスイスに逃がそうとした。光延武官にはトヨ夫人と四人の子供がいた。彼らは先述の商社関係者らと共にドイツ、ドレスデン近郊のケーニッヒシュタイン(ウォーフィングから一同再避難)に避難していたが、4人の子供の健康具合が良くないということで、武官室の嘱託二名がベルリンから同地に向かい、光延家と合流して、ドイツ国境のコンスタンツに着いた。

4月1日のことであった。ベルリン武官室が彼らのスイス入国ビザの申請をした。しかし彼らもスイスの入国ビザを得ることが出来ず、バート ガスタインに避難し、大勢の外交官と共にアメリカ軍に保護される。おそらく子供の病気をスイス入国理由に書いたであろうが、駄目であった。


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<山下さんの場合>

山下忠さんが聞いているところでは、側を流れるエルベ川までソ連軍が来るというので、捕まるならソ連軍が良いか、アメリカ軍が良いか日本人の間で議論したという。
そして山下家は「スイスを目指す、それが駄目ならバート ガスタインに合流する」と車で逃げたが、それは正解であったと今日理解している。東に逃げ、ソ連軍に捕まった人の引き揚げは悲惨だったと聞いているからだ。

当時満洲国ハンブルグ領事館に勤務していた、吉岡進の証言がそれを裏付けている。彼によれば満洲国公使館員も、ドイツ外務省より、日本の外交官と共にベルリンを避難し、オーストリアのバート ガスタインへ行くよう要請された。相談の結果、3人ほどがバート ガスタインへ行き、あと吉岡夫妻を含む11名が米軍の捕虜になることを恐れて、東へ向かった。この3名が山下、伊吹、宮本であった。山下と伊吹は元イタリア公使館勤務である。
そして江原参事官以下11名がソ連軍に保護されたという記事が間もなく朝日新聞に出る。吉岡の証言は非常に正確だと言える。山下忠さんの聞いているのとは異なり、ソ連軍の待遇は非常に良かったという。こちらが真実のようである。


山下家に話を戻すとベルリンを脱出する時、ブコー(ズコー)城主の伯爵が「ソ連に捕まりたくないので自分も一緒に連れて行ってくれ」と懇願したそうだ。

バート ガスタインはチロルのオーストリア側でドイツ大使館の大島浩大使以下が避難した温泉保養地である。

当時の資料に基づくと山下さん一家はまずスイス国境を経てバート ガスタインに着いたものの、イタリア大使館組と一緒に行動することとして再度スイスを目指す方策を選び、さらに南下して、日高大使ら一行に合流したのであろうと筆者は推測する。
(ただし功さんはガスタインで二人のアメリカ兵が部屋に入ってきて、抑留が始まったと記憶している。記録では以下のような行動をとった様になっているが、ガスタインで捕まってイタリアに移送されたのが事実でないか、と筆者は想像する。)

バート ガスタインにて妹の洋子さんを抱く山下さん
の母親
雪の残る景色からすると3月位?

以下はアメリカに傍受解読された日本の交信録からの再現である。
4月25日、日高大使は「私は最後までイタリア政府と行動を共にする」というメッセージを日本に送った。外交官はその特殊なステータスから、連合国に捕えられてもそれほど手荒なことはされないと考えたのであろう。なお最後の最後、ムッソリーニはミラノに居を移しているがそこにはついて行っていない。(メラーノではない)スイスに逃げようとしたムッソリーニがパルチザンに捕まるのは4月27日のことである。

いよいよ連合国迫まるの報で,彼らが目指したのはスイスであった。5月2日、スイスの首都ベルンの日本公使館に日高大使からメッセージが届いた。
それによると日高大使他28人(スイス側資料では29名)の日本、満州国外交官らは国境の町ミュンスターに着いて、スイス入りを要求した。
しかし国境責任者より拒絶された。スイスを目指したのは、少し前にフランス大使だった三谷隆信一行がスイス入国を許されたので「自分らも」と考えたのであろうか。

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加瀬俊一スイス公使は「非常な困難が予想されるがスイス政府、軍当局者と交渉をする」と折り返し伝えた。
ミュンスターはスイスの最東端に位置して、今日でも人口は700名ほどの寒村であるが、今日地図を探しても見当たらない。
1944年にミュスタイアーと改名されているからである。これまで何度か書いてきた日本人の避難場所メラーノからはわずか65キロである。

スイス入国を目指した日高大使の一行に、山下さん一家が含まれていたことは筆者の調査で間違いない。日本国大使館、陸軍、海軍関係者及び家族を合わせて22名、および満洲国の伊吹代理公使、山下家5人、および宮本の7名の29名が総勢であると記録に残っているからである。そしてこの逃避行に加わった婦女子は山下さんの家族のほかは清水武官の家族のみであった。

この直前にはフィリピンで10数名のスイス人が日本陸軍の手で殺害された。よって5月4日、日高大使一行の入国交渉のため外務省に出向いた加瀬に対し、スイス側の態度はけんもほろろであった。日高らの入国許可を引き伸ばし、このままでは国交断絶、人道的見地から入国を許可した三谷フランス大使らも国外追放すると威嚇した。加瀬公使は日本政府にフィリピンでの事件の処理を急ぐ様本国に依頼する一方で、館員の一人上田常光をミュスタイアーに送ったが、日高大使一行に接触することは出来なかった。

南の国境に突如と現れた東洋人の一行は、国の東端で警備に当たるスイス兵にも印象深く映った様だ。後に一人が書いている。
「ローマの日本大使館の小柄な紳士一行が良く磨かれた黒いリムジンで到着し、スイスが支給した毛布をしいて牧草地に座わり,我々の食器に注いだスープを受け取っている。
かれらは入国許可を待っていて,それを受け取ることになる」スイスは人道的に食料などを提供したが、彼が書くような入国は実現しなかった。


スイスの陸軍武官室でもイタリア武官室の状況を本国に打電した。

「清水武官一行はスイス当局から入国を拒否された。部下を一名(国境の町に)送ったが一行を見つけることは出来なかった。(ドイツが降伏した)57日、スイス外務省からから正式に入国拒否の連絡を受けた。自分の微力を詫びる。」と。そして入国を拒否された日高大使一行はメラーノに向かった。ローマからの最初の避難地にまた戻ったのだ。


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<井上
さんの場合>

一方の井上さんは、間もなくしてお父さんがウィーン勤務となったため、ウォーフィングを出て市内に移り住む。
ウィーンは1944年11月からソ連軍の爆撃が始まる。ベルリンほどではないものの空襲はやはり激しいものであった。絨毯爆撃を受けた。まゆみさんも地下壕でその空襲の怖さを体験している。

そのころ、父賢曹さんは日本にいる高齢の母の最期に話をしようとウィーンの領事館から国際電話を申し込んだが、当時は3、4日待たないと国際電話は繋がらなかった。
両親は領事館で連日電話が繋がるのを待っていたが、母が何か予感したのか

「今日は繋がらないから地下に行こう」と言って通話を諦めた。するとその夜に領事館は爆撃を受けた。そのまま待ち続けていたら、両親は死んでいたであろうとまゆみさんは回想する。

なお井上さん一家は外交官と言うことで食糧の配給切符を現地の人の8倍もらっていた。それらを現地の人に分けてあげて喜ばれたということだ。

ウィーンの領事館が爆撃を受けてから、領事館の日本人は散り散りになった。(まゆみさん談)これは統制を重んじた当時の出先機関としては珍しい。
実際に奥山幸蔵領事と後1名が残ってソ連軍を待ったのに対し、数名はそれぞれの判断でバート ガスタインに向かった。そして井上さん一家はさらに別の行動に出て、スイスとの国境の町シュルンス(Schruns)に移る。この経緯を奥山領事が帰国後に記している。

「井上領事(妻と20歳と15歳くらいの娘同伴)は山口総領事時代、本省の許可を受け、自己の末子(まゆみさんのことー筆者)の病気療養のため、スイスに赴くことをなっているが、スイスは容易に入国査証を与えざる一方、ドイツ国内の交通状況次第に悪化し遂には交通途絶することも考えられるに至るを以て(1945年)1月中旬、ウィーンを出発、スイス国境に近きチロルの村シュルンス(Schuruns)に赴き、同地にて療養し、査証の許諾を待つこととせり」

推察できるのは井上さんのお父さんが、ウィーン着任早々から家族のことを考えスイスへの入国を考えていたことだ。もしくは以前からスイス避難を考え、ウィーン転勤を願い出たのかもしれない。まゆみさんの記憶では自分はその時に療養を要するような病気を患っていた記憶はない。したがってここでもスイス入国の理由にしたのかもしれない。またまゆみさんの年齢はこの時は15歳ではなく11歳である

一週間で入国ビザは下りるとのことであったので井上さん一家は荷物を先にスイスに送ったが、結局入国ビザは下りなかった。そのため後には着の身着のままで日本に帰ることになる。
まゆみさんは今日まで「自分らがスイスに入国できなかったのは、日本とスイスの間で問題が起こったから」と聞いて理解している。それは先述のフィリピンのスイス人の問題であるが、これを除いても多くの邦人がスイス入国を希望していた中、残念ながら井上さん一家が優先的に扱われた形跡はない。

日本政府としてはドイツが崩壊する時、欧州の出先機関をなるべくスイスに移して継続させるため、それら要員を家族、病人より優先的に入国査証を得られるようにしたと筆者は考えている。

ドイツ降伏後、井上さん一家はそのまま国境沿いの小さなホテルの部屋で自炊生活となった。ホテルの一家が話すのはドイツ語だけで、フランス語系の井上家とのコミュニケーションは、ドイツ語を耳で聞いて覚えたまゆみさんがあたった。

間もなくフランス軍が進駐してきて、父親も一日連れて行かれたが、すぐに戻ってホテル生活を続けることを許された。父親はフランス語も話したため、好感をもたれたようだ。


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<抑留生活>

やむなくメラーノに引き返した日高大使一行は、進攻してきた米軍に捕えられた。中立国としてスイス同様に日本外交官が滞在していたバチカンから山下さんら満洲国外交官の安否が日本に送られている。

「伊吹代理公使以下満洲国公使館員および家族7名は、日高大使一行と共に5月12日までメラーノにあるが、同日ブオルーアノを経て空路モンテ カティーニに移送せられ、同地グランドホテルに抑留されるも、一行健康なる趣なり。」
ここでは具体的に満洲公使館員とあるので、功さんの記憶するバード ガスタイン抑留説が少し揺らぐが、実際には山下さんらが別行動をとったことはあり得る。

ここは少し前までドイツ海軍司令部のあった場所である。電文に「空路」とあるように、この時は軍用機で移送させられた事を山下忠さんは覚えている。

「ブオルーアノ」はメラーノの南約30キロの「ボルツァーノ」(Bolzano)、後者はフィレンツェ近郊のモンテカティーニ・テルメであろう。同地には今日も「グランドホテル テッツーチョ」というホテルが存在している。さらにその後サルソマジョーレ テルメに移されるがここでも保養施設に抑留されたようだ。陸軍の飛行機でサルソマジョーレに向かったと、山下さんのお父さんはある時語った。

抑留中も食事はホテルのレストランで取り、ボーイがきちんとサーブしてくれた。日本人はマナーが良くないとボーイに言われていた。母の記憶では日本人はサービスに出されるパンを食べすぎるから嫌われたらしい。

5人家族でホテルの一部屋。イギリス、アメリカの兵隊がいて、黒人の番兵だったが、待遇は良かったとお父さんは記録している。イギリス軍の本部に連れて行かれたこともあったという。

1946年 サルソマジョーレにて 山下さん3兄弟と清水泰子さん。
外人は「ハンス」の名前がある。ドイツ人?
帰国直前の撮影。


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その後、欧州中立国に残っていた日本人を本国に連れ帰すための船、プルス.ウルトラ号が出ることが決まった。年が変わって1946年1月23日にスペインのバルセロナを出港し、山下さんらはナポリからの乗船が決まった。

一方家族のみでオーストリアに滞在していた井上さん一家も帰国船が出ると聞いて、一家で向かうことにしたが、ナポリまでの交通手段が途絶していた。他の日本人は皆、公使館が主体となって集団行動しており、連合国がナポリまでのバスを仕立てたりした。全て自分らでやらねばならない井上さん一家は「列車で行ける所まで」と南下した。
途中ようやくホテルの一室を見つけたが、ダブルベッドに四人で寝た。暖房もなくひどく寒い部屋だったとまゆみさんは記憶している。

両親が走り回り、イタリアに行く貸し切りバスを見つけて席を確保した。3日かけて、ようやくナポリに着いた。ナポリでは兵舎に入ったが、こうして井上さん一家も引き揚げ船に乗ることが出来た。

井上さんのナポリからのプルス.ウルトラ号の記憶は小さい船にたくさんの人が積み込まれ、よく揺れたということぐらいであった。山下さんの聞いた話はその船には生きた牛が積まれていて、途中のどこかで乗客の胃袋に入るということであった。また途中に入港したボンベイでは、沢山の人夫が蟻のように列になって、船に石炭を延々と積み込んでいた。

マニラで筑紫丸に乗り換えて、3月22日浦賀に着いた。翌日の朝日新聞には「欧州最後の引き揚げ」の見出しで、井上賢曹さんの名前も出ている。

井上さん一家が先にスイスに送り出していた荷物は後日届けられた。しかしそれは違う人の荷物であったという。
忠さんは回想する。「大変な時代であったが、ひどい目にはあわなかった。家族連れであったことが幸いしたのではないか。子供には敵も味方もひどいことはしないですよ。」

終わり


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