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日本 スイス・歴史・論文集 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

阿部勝雄中将日記の中の光延一家 

阿部勝雄中将の日記より、光延武官の戦死に関する記述を中心に集めました。

阿部勝雄中将は日独伊軍事専門委員のイタリア部門の責任者であり、ベルリンに居を構えるも、頻繁にイタリア(メラーノ)を訪問した。また光延武官が戦死した後の1944年9月20日からは、イタリア海軍武官も務める。(兼務)
また日記はかなり難解な部分も多いため、筆者の理解で補筆しました。(☆はメラーノ滞在時)

1944年

☆1月1日 元旦をメラーノにおいて迎える。光延家族と雑煮。朝食後ホテル。
        11時45分 海軍武官邸にて在留邦人も合わせ遥拝式。

6月9日 大驚愕の報。昨夜光延大佐、フィレンツエ北方山中にてパルチザンに襲われ即死。

6月10日 イタリアよりの報にて大体判明する。渓口大佐、小林軍医は今朝V(飛行機?)にてミュンヘンに飛びそこねた。よって軍用列車で「ボルツァーノ」(Bolzano)に向かう。
       光延大佐を戦死とすることを日本の海軍省に意見具申する。

☆6月15日 前日メラーノ到着。
       故光延少将の葬儀には、ベネチアからも大使館員がメラーノに来た。
       9時 墓地にて荘厳かつ盛大に葬儀行われる。
       10時30分 日高大使、清水陸軍武官と話す。

☆6月16日 11時 光延夫人訪問。いろいろと話をする。

9月28日 光延夫人ら今朝(メラーノを避難して)ドレスデン近郊に到着の故、鮫島を派遣する。
       (鮫島は5月にもメラーノを訪問している。イタリア海軍武官室との連絡係か?)

10月1日 嶋田大将に光延家族の件で電報を打つ。(ドイツ国内への避難を伝えたのであろう)

10月6日 ケーニッヒシュタインの光延夫人と電話。

☆10月14日 メラーノにて山仲中佐よりイタリア事情を聞く。
         午後5時 小田(小田七郎、毎日新聞)、加藤(加藤章、三菱で海軍嘱託)と共にペンションParcoに。

メラーノのペンション パルコ

☆10月15日 Garda湖畔 8PM 日高大使、清水陸軍武官少将と打ち合わせ。

☆10月17日 イタリア大本営にてDuce(ムッソリーニ)の引見あり。昨夏に比して元気なり。約50分会談。

12月12日 光延夫人は肝臓が悪く熱を出しているとのこと。
        ケーニッヒシュタインには、ほかにもローマから避難の邦人はいるが、心配であろう。

12月22日 浅香、牧瀬両氏の遭難が決定的となる。12月6日までに銃殺されたこと判明。
       ケーニッヒシュタインの関係者に伝える。
       (パルチザンに誘拐されたのは同年6月であるから、かなり時間がたっての判明である。)

12月27日 浅香、牧瀬両氏の遺骨ベルリン着。

12月28日 光延夫人より手紙来る。
        内容は不明であるが(夫人は肝臓を悪くしたあと、いろいろな窮状を訴えたのかもしれな い。)

1945年 

1月10日 故浅香、牧瀬氏の告別式がベルリンで盛大に行われる。
       小生もローマ組を代表して弔辞を述べる。

1月11日 葬儀に参列した牧瀬夫人、(元イタリア民間人避難場所の)ケーニッヒシュタインに帰る。

2月20日 ケーニッヒシュタインより悲壮な電報が来たので、邦人の安全の責任者である馬瀬総領事と相談。しかし良い考えが浮かばない。
(馬瀬金太郎は外務省の出張員としてメラーノに駐在していた)

3月5日 小林軍医長は某氏(判読不能)を伴いケーニッヒシュタインより午後5時に帰る。なかなかご苦労なり。ケーニッヒシュタインの避難者の健康の問題もこれで解決する。

3月13日 光延夫人の(新しい避難先の)件も進まない。そんな中、光延家族もバード シャンダウ(Bad Schandau)に 一応移ったらしい。光延家族のスイス入国の件を考えて、夜中につい目が覚めた。

3月19日 一行はケーニッヒシュタインよりバード シャンダウに3月15日に引越済みとの情報を得た。
      光延家族の件はスエーデンの武官室に電話をかけ、彼らの入国査証の件を頼む。
      一方スイス国境のコンスタンツへの移動も考える。

3月20日 スエーデン入国査証の件は進展せず。よって扇大佐の尽力によりコンスタンツにやることとし、指示する。

3月21日 光延家族の件、決定。救助のための自動車2台をベルリンより出すことにし、海軍武官室嘱託の和久田君 に託す。

3月23日 バード シャンダウ(Bad Schandau)に和久田君を派遣する

3月24日 光延一家和久田君の車で着。劇的会見。子供達思ったより元気。茶菓を供す。     

3月25日 11時 武官邸に行くと既に光延一家がいた。庭で子供たちと遊ぶ写真を撮る。
      光延夫人、東京の嶋田大臣と電話連絡が出来、泣きながら話す。
      (この時期の日本との国際電話が繋がったのは非常に幸運といえよう。)
      午後2時 20人以上の大送別会。皆川、下里それに、、、、光延一家。日本食。


ベルリン海軍武官邸

3月26日 4時30分 カイザーアレー(の海軍武官室)。きょう(コンスタンツに)出発の皆川、下里、辻、光延一行計8名と夕食。

3月28日 米軍がシュトゥットガルトに迫るという情報。光延一行につき心配する。

3月29日 光延家族に関し、スイスの西原海軍顧問に電報。(当然入国への便宜のお願いであろう)

4月2日 光延一行昨日午後1時、コンスタンツ着の報を受け、肩の荷が下りた。
      さっそく日本の海軍省副官に打電する。

     阿部中将もこの後は自分のベルリン脱出について考えることになる。

以上

 
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