えびす組劇場見聞録:第39号(2012年1月発行)

第39号のおしながき

今回は演出家特集
あなたにとって演出家とはどんなイメージですか?
稽古場で灰皿を投げるあの人、舞台に登場しないのに作品そのものを象徴する不思議な存在…。
私たちの演出家論をお楽しみください。
演出家名 劇評タイトル 執筆者
森新太郎 『第三の演出家・森新太郎への問いと答』 by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
森新太郎  ノゾエ征爾  鈴木アツト 『二○一二年に期待する三人衆』 by マーガレット伊万里
栗山民也 『やさしく「なぜ」を考える』 by C・M・スペンサー
毛利亘宏  宮城聰  白井晃 『天守の姿』 by コンスタンツェ・アンドウ
あとがき ○●○ 劇場賛江 設置御礼かたがた ○●○

  

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第三の演出家・森新太郎への問いと答』
ビアトリス・ドゥ・ボヌール

 豪華な俳優陣に大掛かりな舞台美術で客席を魅了する蜷川幸雄、戯曲を緻密に読みこみ、多くの俳優を演技開眼させたデヴィッド・ルヴォーは、九十年代から二〇〇〇年代はじめにかけて、観劇スケジュールに欠かせない存在であった。
 しかし二〇〇五年を境に自分はいわゆる小劇場系の舞台に軸足を移し、サンモールスタジオやこまばアゴラ劇場、下北沢界隈に通いつめるようになる。劇団の主宰みずからが戯曲を書いて演出し、出演までこなす形が多く、ことさら演出家を意識する機会が減っていった。
 その日々で出会ったのが演劇集団円所属の森新太郎だ。蜷川、ルヴォーに続く、いわば「第三の演出家」である。
 最初はおそらく土屋理敬の『光の中の小林くん』(二〇〇三年三月)であったと記憶するが、鮮烈な印象を受けたのはマーティン・マクドナー作『ロンサム・ウェスト』(二〇〇六年十月)だ。アイルランドは風土も歴史も複雑で、登場人物の性格や言動も極端で共感しづらい。にもかかわらず、この舞台は生身の人間の体温が伝わってくる、手ごたえの確かなものであった。
 つぎはモナカ興業という不思議な名前のユニットだ。劇作家はフジノサツコ。題名も『不安な人間はなにするかわからない』(二〇〇七年十二月)と、あやふやでつかみどころがなく、意味ありげである。『ロンサム〜』とはおよそ異なる劇世界で、以後フジノ、森コンビの『点滅する秋』(二〇〇八年八月)、『夜が歩く』(二〇〇九年三月)、『木をめぐる抽象』(二〇一〇年六月)と、モナカ通いが続くことになった。
 文学座や民藝に象徴される濃厚な新劇色はやわらぐものの、ジャンルわけするとしたら、やはり円は新劇系の老舗劇団であり、そこに所属する森は「硬派」領域の演出家である。前述のマクドナーなど外国戯曲だけでなく、土屋理敬や松田正隆、鄭義信の書き下ろしにも腕を奮う。
 それに対してモナカ興業・フジノサツコの作品はテーマ性や作家性といったものを強く押し出すものではない。
 どんな舞台かを要領よく説明するのはむずかしく、「劇作家の主張は、舞台のテーマは何か」と前のめりになるこちらをとぼけた味わいでなごませる、独特の「ゆるさ」が魅力的なのだ。 
 ところが二〇一一年一月公演の『理解』において、その雰囲気が激変した。看護師と患者と家族をめぐるやりとりは、カミソリで切りつけ、傷つけあうように鋭く容赦ない。マッサージに行ったつもりが水風呂に浸けられたとでも言おうか、その荒涼たる様相に心が凍りついた。
 そして最新作『43』(十一月九日〜十三日 下北沢小劇場楽園 十一日観劇)では、人々は素手でつかみあい、相手を殴り倒す。
 より暴力的で生ぐさく、うっすらとした恐怖に絶望の色あいが滲むものであった。
 試行錯誤の手つきがみられるが、劇作家の作風の変化に対し、演出家がぶれずに勝負している印象を受けた。
 このあたりから、モナカ興業への興味は劇作家と演出家の関係にあることに気づく。
 まず目の前の舞台のどこまでが台本に書かれた劇作家の指定で、どこからが演出家による色づけや仕掛けなのかが判然としない点だ。『43』で言えば、長さが異なるためにギザギザにみえる夥しい本数の蛍光灯が天井に放射状に張りつけられ、劇中それらが点滅と点灯を繰り返すこと、最初に十人の人物全員が登場して、出番がないときも壁にもたれたり床に寝ころがったりして、終始舞台に居つづけることだ。いずれもみるものの気持ちを微妙にいらつかせ、舞台への集中や感情移入を阻む。
 なぜ、どのような過程を経てあの蛍光灯と死体のごとく床にころがる俳優が提示されるに至ったのか。劇作家と演出家のあいだで、舞台をめぐる葛藤や攻防はいかばかりであったのか。
 物語の流れや主張がはっきりしないフジノサツコの戯曲。それが俳優の血肉を得て、観客のいる劇場で立体化、いや空間化というのか、まさに演劇という別次元のものに変容している実感を与えてくれるのが演出家の手腕であり、劇作家の作風の変化や生身の俳優に辛抱強く向き合う姿勢をあらわすものだと考える。
 二〇一一年四月、森は新国立劇場において岩切正一郎の新訳によるサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を演出した。
 フランス語の原本をもとに、ベケット自身が演出した際の台本も含めて翻訳の岩切と演出の森とが検討して作ったという今回の上演台本に対して、強い違和感を訴える猛烈な批判もあった。
 戯曲のよしあしが演出に及ぼす影響は計り知れないとはいえ、『ゴドー〜』にいたっては、非常に稚拙な言い方になるけれども、これ自体がどうなのか、いやもうわかりません的な作品であり、それだけに舞台成果のうち、演出家に委ねられている部分は大きいのではないか。そして自分は森の『ゴドー〜』がどんな舞台であったかを言語化できないまま、実に楽しく豊かな観劇体験であったことを繰りかえし思い出しては幸福感に浸っているのである。
 前述の戯曲と演出の関係についての疑問は上演台本を一読すれば多くが解決し、公演パンフレットや演劇雑誌に掲載されたインタヴュー等でも多少のことはわかるかもしれない。しかし舞台そのもの、その場の空気感から何かをつかみとりたいのだ。
 蜷川とルヴォーから、自分はただただ受けとるばかりであった。
 森に対してはこちらから問いを投げかけ、答を探るのだ。その過程を通して、蜷川とルヴォーを経て第三の演出家・森新太郎にめぐり会えた幸運を演劇的必然として、いっそう喜ぶことができるだろう。

 

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『二○一二年に期待する三人衆』
マーガレット伊万里
 二〇一一年を終えようとしている今、来たる二〇一二年に期待する演出家三人が頭に浮かんでいる。
 一人は演劇集団円の森新太郎。そして、劇団はえぎわを主宰するノゾエ征爾。劇団印象(げきだん・いんぞう)-indian elephant-の鈴木アツト。
 私の個人的な嗜好の問題であるが、舞台を見るときにとても重要なのが、そのステージのしつらえの美しさである。言ってしまえばビジュアル重視か。演出家によってその作品に対するさまざまな解釈やプランがあるのは当然だ。しかし少々乱暴な言い方になるが、まず幕が開いた瞬間にどれだけ舞台に引きつけさせてくれるか、その後の物語の展開にどれだけ集中させてくれるかといったことが私には非常に大切。そうしたこと抜きにまず演出家の語りを延々と聞かされるようなタイプの作品は苦手である。
 まずは森新太郎。二〇一一年に新国立劇場で「ゴドーを待ちながら」を演出し大きな話題となり、めきめきと頭角を現してきている。
 初めて彼の演出作品を見たのは、二○○六年にステージ円で上演された「ロンサム・ウェスト」。過激な内容と過剰な人物が登場するマーティン・マクドナーの戯曲であったが、緻密な演出で、特異な登場人物に嫌気がさすことなく劇世界に集中することができた。限られた道具を上手に配置して狭い空間を使いきる美術にも好感がもて、一気に注目に値する人となった。
 翌年同じくステージ円で上演した松田正隆作「天使都市」は、物語を読み取るのが難しい作品ながら、舞台全面を白砂で埋め尽くし研ぎ澄まされた空間をつくりあげた手腕にとても力のあるアーティストだと再確認した。
 そして彼が参加するモナカ興業の公演にも必ず足を運ぶようになった。こちらは円が主催する公演とは一転して、フジノサツコという作家の作品を森が演出している。ナンセンスでつかみどころのない作品を発表したかと思うと、抑圧された女性を描いてみたり。次に何が飛び出すのかわからないところが魅力のユニットである。
 劇団以外での演出の仕事も確実に増えており、今後の活躍が非常に楽しみな存在だ。彼には、これまでの新劇系の演出家にはない美的なセンスを感じる。戯曲の意図が最大限観客に伝わるよう仕掛をつくり、俳優の演技だけでなく、美術や照明、音楽や音響効果、衣装など舞台で見せるものすべてに目配りをする。彼の演出する作品を見るときは、聴覚と視覚をフル稼働させ、作品との交信準備をするのが非常に楽しみである。
 どうしても距離を感じてしまいがちな海外の翻訳劇などをどんどん私たちに見開かせてほしい。
 次にノゾエ征爾。彼は劇団はえぎわを主宰し、作と演出を兼ねているアーティストなので、森とは異なるタイプ。実際、彼の二〇一〇年作品「春々」は岸田國士戯曲賞の最終選考にまで残っている。
 はえぎわは、一九九九年に第一回作品を上演して以来、ノゾエ征爾が作・演出を担当している。すでに一〇年以上活動を続けているが、私が実際に公演を見たのは、二〇〇八年の作品「寿、命。ぴよ」が初めてで、あまりに遅いはえぎわデビューに後悔ひとしきりだった。
 「寿、命。ぴよ」は、卒業制作に意欲を燃やす美大生の命の輝きを示した作品だったが、大胆な場の構築や見せ方に、これまで見た小劇場系の劇団とはまったく違うテイストやエネルギーを感じた。はえぎわの創作現場では、役者との信頼関係のなかから時間をかけてシーンを作り上げていくようだ。生みの苦しみを味わいながらの過程だろうが、作品を決定づけていくのは演出家のそのときの取捨選択のなかから生まれるはずだ。そこにはやはり演出家としての力を感じる。
 森と同様、外部での演出の仕事が目に留まるようになってきた。その魅力がここ最近じわじわと認知されてきているようで嬉しい。はえぎわでの作品に集中力を維持しつつさらなる飛躍を期待したい。
 そして最後は劇団印象(げきだん いんぞう)-indian elephant-の鈴木アツト。彼も劇団の作・演出を兼ねているタイプ。森やノゾエより少し年下の三十代前半。こちらの劇団は見聞録ビアトリス様にすすめられてつい最近知ったばかりである。
 タイニイアリスで行われたドラマツルギ×二〇一一というフェスティバルで上演された「人涙(じんるい)」を見た。
 妖精が働くクリニックで目の手術を受けた女性のお話という奇想天外な設定だった。どうなるのかと多少不安な気持ちで客席に座ったのだが、小品ながらとても楽しい仕上がりで、二〇一一年の記憶に残る出会いとなった。
 二〇〇三年に旗揚げした劇団は、?「遊びは国境を超える」という信念のもと「遊び」から生まれるイマジネーションによって、言葉や文化の壁を越えて楽しめる作品を創作?とある通り、この作品は女性の戸惑いや不安な心をていねいに描き出しながら、全体の雰囲気はポップでユニークなものとなっており、歌あり踊りありの見せ方もとても好感がもてた。これまた今まで足を運ばなかったことがとても悔やまれた。
 新しく強く魅力的な才能に出会う喜び、これも舞台鑑賞の醍醐味の一つである。今あげた三人衆が新しい年を迎えてどんな作品へと私たちを導いてくれるのか、西へ東へ奔走する日々を楽しみにしている。

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『やさしく「なぜ」を考える』
C・M・スペンサー
 今号のテーマは「演出家について」。面白そうだと取り組んだところ、こんなに難しい題材は無かった。
 現在、劇場に足を運んでいる作品のほとんどは、現役の演出家の作品を観ていることになる。恐れ多いとおののきながら、本誌、つまりはこの見聞録が観客目線の観劇記であることを念頭に置いて、思考を巡らせた。そうだ、気になる演出家、その気になる理由について考えてみよう。感覚ではなく、そのワケを。
 私の観劇始め、と言えばざっと二十数年は遡るのだが、当時はミュージカルに心を躍らせていた。ある俳優の退団をきっかけに特定の劇団以外にも足を運ぶようになり、その頃に観たのが『バタフライはフリー』(一九九三年一月)。博品館劇場で上演されていた。
 庇護しようとする親から自立し大人になろうとする盲目の青年と、奔放に生きる少女との出会い。今でも心に残るのは、彼ら二人の心情だ。子供扱いする母親に対して、目が見えないことを気にも留めない少女。臆することなく開かれていく彼の精神、彼の希望が眩しかった。
 一方少女にとっては、青年と過ごす時間は夢に等しく、部屋の外に彼女の現実があった。青年の母親から付き合いを禁止され、別れるためにとった少女の行動。当時の自分と年齢の近い少女の空虚さが、今でも記憶の中にある。屈するのでは無く、その人の為を想うとはどういうことなのか。ままならぬ現実の寂しさを感じた初めての作品だった。
 それまで演出家の存在にまで注視したことがなかった。そんな芝居を観始めた頃のことである。初めてと言っていいほど作り手の存在が気になり、プログラムを買って確かめた演出家の名前が、翻訳も手がけた「栗山民也」だった。
 ところで近年、栗山演出作品を挙げるとすれば、私には井上ひさしの戯曲が一番に思い浮かぶ。昨年は震災直後に『日本人のへそ』『雨』、そして舞台版『キネマの天地』と、それぞれカラーの異なる作品を観た。
 井上戯曲の中でも特に印象深いのは、プロレタリア作家の小林多喜二の信念と活動、そして拷問で死に至るまでを描いた『組曲虐殺』。労働者の権利を主張しペンで訴え続ける小林多喜二。純朴な青年がこのような最期を迎えなければならなかったことへの、チラシの文を拝借すると'小林多喜二の、この「なぜ」'が、多喜二扮する井上芳雄の歌声から魂の叫びとなって私たちの心を抉るように突きつけられた。
 この作品の記憶にはオマケがある。観客と出演者の両者が涙を浮かべてのカーテンコール。魂の叫びに突き動かされた感情の、まさにそこで起きていたことへの涙だった。
 栗山演出作品は、舞台での立ち位置、フォーメーションも見どころの一つと考える。一瞬のことだが、その群像は美しい。特に音楽劇では、ダンスは無くとも人々の造るそのカタチが言葉とともに残像となって記憶の片隅に残るのだ。
 そして新国立劇場で上演された「東京裁判三部作」と言われる『夢の裂け目』『夢の泪』『夢の痂』。一言で言い表せない日本の戦後が描かれている。半ば封印してきた人々の心に傷跡として残る部分にメスを入れ、拡大鏡で映し出し、問題を提起したような作品である。一国民の目線から語り掛ける彼らの問題に耳を傾けるように作品に見入ってしまった。
  『夢の痂』では、恋人を戦争で失った娘の感情の行き場が、まさかという場面で噴出する。天皇ご訪問の予行演習で天皇の役を頼まれた居候の骨董屋。ただ座っていればいいと思いきや、彼女に突きつけられた、そして天皇の役のままとっさに返した「言葉」とは。それまでの面白おかしい芝居の運びから一転して伝えられる言葉の重みに緊張が走った。
 栗山氏は井上戯曲ばかりを演出しているわけでは無いが、作家が存命の頃から数々の新作にも取り組み、それを世に送り出してきた演出家の一人である。戯曲の持つ力が大きいことは言うまでもないが、観客にどう受け止められるかが演出のしどころであるとするならば、栗山演出は作品に入り易い。「むずかしいことをやさしく」伝えようと努めていた作家のその望み通り、観客として偏見も垣根も作らずに作品を受け入れた。作品のテーマを自身の中で議論して結果を出すのは観客の務めでなくてはならないと考える。そんな余白も栗山演出は残しているように思うのだ。
 演劇の楽しみの一つに劇場で何を味わえるのかという期待感がある。作品にとっぷりと浸かったその上で、自分の中にある何かが引き出されるという醍醐味を損なわずに、観る者に「なぜ」を考えさせる。果たして、栗山民也氏は私にとって気になる演出家から信頼する演出家となっていた。

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『天守の姿』
コンスタンツェ・アンドウ
 泉鏡花作『天守物語』と聞いて思い浮かぶのは、坂東玉三郎の名前だろう。主演舞台は再演を重ね、一九九五年に映画化、今年はシネマ歌舞伎としても公開される。私自身、短い舞踊劇等を除き、玉三郎以外の舞台を知らなかったが、二○十一年、三つの『天守物語』を見る機会があった。
 三作品の違いを考える前に、共通点に触れると、主役「富姫」を演じたのがいわゆる「普通の」女優ではない、ということである。
 吉祥寺シアター(脚色・演出 毛利亘宏、以下「吉祥寺版」)では、元宝塚の男役・あづみれいか。一九八八年の退団後は女優として活動している。
 静岡県舞台芸術センター 野外劇場「有度」(演出・宮城聰、以下「静岡版」)では、ク・ナウカの美加里。どこか人間離れした独特の個性を持つ女優だ。
 新国立劇場(演出 白井晃、以下「新国立版」)では、篠井英介。古今東西の舞台・映像作品に出演が続く「現代の女方」。
 白鷺城天守に棲まう美しい魔物・富姫には、(玉三郎を筆頭に)生身の女性を感じさせない演じ手がふさわしいのだろう。
 六月五日に観劇した吉祥寺版は、「脚色・演出」と表記されているが、『天守物語』の設定を借り、登場人物を増やして「書き換え」られた別作品だった。
 富姫と図書之助の一度きりの恋、という要素は弱まり、妖かしと人間それぞれが重い過去と暗い情念を抱き、繋がろうとしては衝突する群像劇になっている。
 和洋をミックスした華やかな衣装、高低差を付けた装置、派手な立ち回り、パワフルな総踊り等、長大な原色のエンターテイメントという印象だ。
 憎悪の連鎖、人間のエゴ、生きる意味…震災後に発表された演劇としてのメッセージは伝わってきたが、『天守物語』をタイトルとするには、作り手の思いが強く、直接的すぎたように思う。
 静岡版(六月十八日観劇)は、一九九六年初演、ク・ナウカの代表作として海外を含め度々再演されており、ムーバー(動きを演じる者)とスピーカー(台詞を語る者)を分ける手法が特色。女性の役の声は男性が、男性の役の声は女性が担当する。
 衣装や音楽は東南アジアの舞踊を連想させ、写真だけを見たら、日本の戯曲を日本人が演じているとは思えないだろう。
 上演時間は六十分強で、原作を刈り込んではいるが「変更」を感じさせる部分は少なく、アジアの世界に「置き換え」た演出と言える。シンプルな物語を借り、二人一役という手法や、演出家が抱くアジア的な美意識を表現する場、という印象を受けた。
 吉祥寺版同様、原作の静謐な世界とは離れていたが、『天守物語』の一つの演出として、また、久しぶりのク・ナウカ公演として、林の緑を背景にした野外劇場で極彩色の舞台を楽しんだ。
 新国立版(十一月八日観劇)では、冒頭と劇中に現代の扮装をした人物が登場する。私には意図をつかめなかったのだが、その点と、立ち回りの多さを除けば、非常に「正統派」な『天守物語』になっていた。
 篠井の舞台はほぼ皆勤賞の私にとって、富姫は待望の役。前半はやや沈んだ印象だったが、図書之助との二人芝居のようになる後半は、篠井の台詞が冴え、泉鏡花の流麗なことばが体に心地よく響いた。姿も動きも美しく、「篠井の富姫を見た」という満足感を得ることができた。
 衣装・装置・照明は端正で上質感がある。舞台の奥や下部を生かし、天・城・地が表現されている。他にも必要なものは揃っている…とは思うのだが、一方で、何かが足りない…という思いも拭えなかった。
 幕開きで意識させられた「現代」との繋がりが未消化のまま終わったことや、「正統派」だった故に、玉三郎の舞台と比較したことが影響しているだろう。玉三郎が絶対で他は拒否するという気持ちはない。しかし、完成された絵画や交響楽を思わせる玉三郎の『天守物語』が、脳裏に刷り込まれてしまっているのも事実なのだ。
 『天守物語』三作で、「書き換え」「置き換え」「正統派」という、有名な作品を上演する際の主なスタイルが揃った形になった。
 原作と相違点が多いことを事前に知っていれば、「書き換え」も楽しめるし、「置き換え」は今後も多用されるだろう(個人的には、装飾を極力削った演出で、篠井の富姫をもう一度見たい)。そして、「決定版」があるような作品に正面から挑戦する演出家も、出てきてほしい。もしも、新たな「決定版」の誕生に出会えたなら、観客冥利に尽きるというものだ。
 次に見上げる白鷺城天守は、どんな姿をしているのだろうか。

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劇場賛江 設置御礼かたがた  

相鉄本多劇場 劇団スタジオソルトとの出会いが相鉄通いの最大のきっかけでした。横浜駅の喧騒を抜けてわくわくと橋を渡り、帰りは舞台の余韻を味わいながら同じ道をゆっくりと歩く。どちらも至福のときです。(ビ)



シアターX ここで初めて観たのが『熱海殺人事件』阿部寛「モンテカルロイリュージョン」(93)。想定外な役どころと思い切りの良い芝居が忘れられない。受け入れる度量の大きさが感じられる劇場。見聞録も早い時期から設置ありがとうございます。(C)



神戸アートビレッジセンター ずっと行ってみたかった新開地は、下町感とアート感が微妙なバランスで混在。情報発信を担うアートビレッジ、今回はチラシ置場だけ拝見しましたが、次回は舞台や美術展を。(コン)



にしすがも創造舎 廃校を再生利用してつくられたにしすがもは、今や毎年秋になると演劇好きがこぞって訪れる場。アーティストが集い、カフェも併設された自由な雰囲気。実は住まいからとても近いところもより魅力的。(万)

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