世界遺産登録の価値

 推薦された「日光の社寺」は、世界遺産への登録に値するかを審査されます。1998(平成10)年の12月7日から8日にかけて、ICOMOS(国際記念物遺跡会議)による現地調査があり、審査を経たあと、1999(平成11)年12月2日、モロッコのマラケシュで開催されていた第23回世界遺産委員会で登録が決定されました。
 日本で10番目、また、文化遺産としては東日本で初の登録となり、「世界の日光」は名実ともに、人類共通の財産として世界に認められたのです。
 それでは、世界遺産に登録された「日光の社寺」は、どのような価値を認められたのでしょうか。

 世界遺産に登録されたのは、「二社一寺」と称される、日光二荒山神社、日光東照宮、日光山輪王寺の「建造物群」と、その境内地としての「遺跡(文化的景観)」です。
 資産の面積は50.8ha、バッファーゾーンの面積は 373.2haで、その中には、国宝9棟、重要文化財94棟の、合計 103棟の建造物群が含まれています。
 ここで、「建造物群」と「遺跡(文化的景観)」のそれぞれについて、歴史的な価値と概略を御紹介します。

01 建造物群

日光二荒山神社

 日光における山岳信仰の中心として古くから崇拝されてきた神社で、とくに、中世には多数の社殿が造営されました。また、江戸時代になると、徳川幕府によって新たに本殿や社殿が造営され、このうち、本殿や神橋など23棟が重要文化財に指定されています。

日光東照宮

 徳川家康の霊廟として1617(元和3)年に創建されました。現在の主要な社殿は、1636(寛永13)年、三代将軍・徳川家光によって造営が行なわれたものです。この東照宮の建築により、日本の代表的な神社建築様式である「権現造」が究極的に完成したといってもいいでしょう。また、彫刻や彩色などの建築装飾についても、当時の、最高水準の技術が用いられました。本殿・石の間・拝殿、陽明門など8棟が国宝に、34棟が重要文化財に指定されています。

日光山輪王寺

 8世紀末に、日光を開山した勝道上人の創建による四本竜寺を起源とし、日光山の中心寺院として発展してきましたが、1653(承応2)年に、三代将軍・徳川家光の霊廟である大猷院が境内に造営されて以来、徳川幕府の大きな尊崇を受けて幕末に至りました。大猷院霊廟本殿・相の間・拝殿が国宝に、その他の37棟が重要文化財に指定されています。

02 遺跡(文化的景観)

江戸時代における歴史的な役割

 「日光の社寺」は、江戸時代初期に東照宮が鎮座して以来、徳川将軍家の祖廟として、諸国大名の参拝はもちろん、歴代の将軍の社参や朝廷からの例幣使の派遣、朝鮮通信使の参詣などが頻繁にあり、ある意味で徳川幕府の政治体制を支える、きわめて重要な歴史的役割を果たしてきたといえるでしょう。

宗教的空間と一体をなす石垣、階段、参道など

 また、東照宮や大猷院の霊廟は、高低のある山の地形を巧に利用して造営されており、区域全体に荘厳な風格と神聖な雰囲気を醸し出しています。建造物の絢爛な装飾彫刻や彩色だけではなく、このような地割や、それを支える石垣の造成、あるいは水道や排水の設備などにも、城郭建築を応用した、当時の日本では最高の技術が生かされていました。

古代からの日本的な宗教空間を継承する山や森

 さらに、「日光の社寺」の周囲の山林は、8世紀に始まった日光における山岳信仰の聖域とされ、現在も老いた大木が鬱蒼と茂っています。なかには、御神木とされる杉の木ものこされており、特定の山や森を神格化して信仰しようとした、古くからの日本人の伝統的な自然観と宗教観を今日によく伝えているといえるでしょう。日本独特の神道思想との関連において、日光山内の山林区域は、周囲の自然と建造物が一体となった文化的景観を形成するうえでの不可欠な要素となっています。