ハワイ写真'60年代

・『荘内日報』に掲載されたエッセイ「思いつくままアラカルト」の写真です。
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熊谷めぐみのハワイ生活'60年代は、新刊−『追憶のハワイ〜バァバの青春奮闘記』−で是非お読みください。海外生活を通して日本人としての自覚に目覚めるエッセイです。日本のグローバル化は正にこの時期から始まろうとしていました。

 
@「ハワイへの船旅」
2007年8月15日掲載
ワイキキビーチで行われていたフラダンスのショー(筆者撮影)

プレジデント・ウィルソン号で太平洋を渡る
14歳の筆者の夢と希望に満ちたスタート。


A「転校初日の戸惑い」
2007年9月22日掲載
ホノルルにあるカメハメハ大王像。
1960年代に撮影したが今も同じ場所に建っている。

転校先の中学校で、言葉が通じず右往左往する。
その後の学校生活は?


B「登校拒否症状」
2007年10月21日掲載
心を癒してくれた花=Night blooming ceres(月下美人)

精神的ストレスが、様々な症状となって
身体に現れた辛い日々。


C「日本人として」
2007年11月11日掲載
私の「卒業アルバム」に載っている教師たち

日本を離れ多民族社会の中で暮らし、
初めて日本人としての自覚に目覚める。


D「メリ・カリキマカ!」=メリークリスマス!
2007年12月13日掲載
私たちが住んでいた「クイーン・エンマ・ガーデンズ」

煌くクリスマス・イルミネーションと、
ハワイの中学校で受け取った最初の成績表。


E「レヴァレント誇らしく」
2008年1月17日掲載
ハワイ時代の父と二人のアメリカ人牧師=ハリス教会の庭で

父の仕事と、ハワイアン・ウェディング


F「ダウンタウンの生活」
2008年2月10日掲載
ホノルル・ダウンタウンに引っ越したころの妹(左)とトゥイッグ家のベッツィ

ハワイの生活にも慣れて、楽しい授業も加わる。


G「タイプライティングから学ぶ」
2008年3月15日掲載
ハワイ時代に活躍した懐かしのタイプライター。今はもう動かない。

「英文タイプ・スピード競技」に向けての猛練習と、その結果。


H「1枚のバースデー・カード」
2008年4月17日掲載
ミセス・ウィンから贈られた15歳の誕生日カード。

心温まる教師の励ましと、生徒への配慮。


I「ハワイの忘れられない味」
2008年5月14日掲載
パイナップル畑=ハワイ風物詩の一つでもある
ワヒアワのドールプランテーション

ハワイのフルーツ、海の幸、そして「おふくろの味」。


J「マッキンリー高校に入学して」
2008年6月13日掲載
私が通ったマッキンリー高校。
手前は高校名になった第25代大統領マッキンリーの銅像

選択科目の「コーラス」で知り合ったデビーと大の仲良しになる。


K「ハワイで運転免許を取得」
2008年7月12日掲載
路上練習の場にもなったカラカウア・アベニュー
(ワイキキ1960年代のメーン通り)

教習場がなかったハワイでは、いきなり路上で実施練習が始まった。


L「ベビーシッターの経験」
2008年8月13日掲載
カイラニ・ビーチで。
大きな子供たちのシッター役をすることもあった。
右端は高校時代の私。

日本人とアメリカ人の「子育て」の違いに気付く。


M「マウイ島の『ハレアカラ・クレーター』に驚く」
2008年9月13日掲載
宇宙飛行士の月面着陸訓練にも使われたという
Haleakala Craterの前に立つ父と私

ハレアカラ山頂で見た日の出とクレーターの何と壮大だったことか!


N「マッキンリー高校のルールあれこれ」
2008年10月17日掲載
マッキンリー高校のcafeteriaは食堂としてばかりではなく、
生徒の憩いの場としても利用された

ランチタイムには長蛇の列がcafeteriaの外まで続いた


O「ハワイでピアノを弾く楽しさを知る」
2008年11月19日掲載
オーディション後に手にしたナショナル・ピアノ・ギルド会員認定証。
記入されている旧姓が懐かしい。

今、弾く喜びは歌う喜びへと。


P「ハワイのレクリエーション」
2008年12月21日掲載
アラモアナビーチのサンセット......。ゆったりと一日が暮れていく

40年前の夕焼けは今も変わらずハワイの空を染めているだろう


Q「アメリカの大学入試制度」
2009年02月12日掲載
3年間勉強に勤しんだマッキンリー高校全景=卒業アルバムから。
左側にダイヤモンドヘッドが見える。
ワイキキにはまだ高層ホテルが建っていなかった。

マッキンリー高校は今なお伝統校として健在である。


R「帰国前の大事件」
2009年03月14日掲載
盗まれたバッグを探し回った場所の一つ、マッキンリーの
裏庭に咲いていた黄色い花は今でも記憶に残っている。

それは「園芸」を選択していた生徒たちが育てた花だった。


S「『ぶらじる丸』で帰国の途へ」(最終回)
2009年04月14日掲載
乗船記念アルバムに載っている「ぶらじる丸」。
今からちょうど40年前の1969年04月09日、この船で私達は横浜港へ到着した。

帰国子女としてのICU生活が待っていた・・・


 
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