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書評“「スイス諜報網」の日米終戦工作―ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか”の補足 

今回お寄せいただいた私の書評に関する著者である有馬先生の反論は多岐にわたりますが、私はポイントを整理して、以下のように補足説明いたします。

<1 電文は東郷大臣の目に留まったのか?>

先生が東郷外務大臣の終戦の意思決定に重要な役割を果たしたとされる、加瀬スイス公使の終戦間際の電報、「ポツダム宣言に関する観察」に関し不思議なことは、それを受け読んだという日本側の反応が、全くない事です。つまり

1 受領したという返電がない。
2 感想を東郷が側近に漏らした記録がない(多くの当事者が回顧録など書いているにもかかわらずです。)
3 東郷が終戦3年後に巣鴨刑務所で書いた回想録「時代の一面」の中では、先生も引用したように、東郷はポツダム宣言を自分で通読して、「無条件降伏を求めるものに非ざることは明瞭」と書いていますが、加瀬電にはまったく言及していません。そこから素直に想定されるのは、東郷は加瀬の電報を読んでいないか、読んでも回想録に書くほどの印象を与えなかったです。

そして東郷はポツダム宣言に関し同じ個所で、
「外務次官に法律的見地より厳密なる検討を加えるように命じた」と書いています。加瀬の電報は、この検討グループに留め置かれ、終戦対策に忙殺される東郷まで上がらなかったことも想定されます。(これはあくまでも想定です。)

この理由から上記1、2のような事実が出るまでは「読んだ。内容に賛同した。」と断定するのは、慎重になるべきと言うのが私の意見です。



<2 藤村ストーリーは、そもそも評価すべき中身はなかった?>


先生の見出しの見解に対し、それは「言い過ぎ」だという考えを述べ、いくつかの点に反証しました。「言い過ぎ」とは「藤村がやったことはやったこととして、正しく評価するべき」と言う意味です。私は加瀬ルートに対し、藤村ルートの方が有望だったとか言っているのではありません。

まずその一つの理由に挙げている、暗号電報の発信者は藤村ではなく西原だった、という先生の説に異議を唱えましたが、
「私は大堀さんとは、まったく違う結論を引き出しています。」と見解の相違という答えを頂いたと理解しました。

私は新たな3つの資料を提供し、電報の送り主、スイス海軍武官室のOSSとの接触の主体は藤村であったことを再度主張します。

1 「電報の起草者が、西原自身がどうかは、全くはっきりしない」と西原の名前で送られた電文を解読したアメリカの人間ですら、西原が発信者であることに違和感を覚えている。(Magic summary 1945年6月13日)

2  西原のスイス派遣の目的は魚雷艇の技術導入です。(「深海の使者」 110ページ)
つまり先生が「西原がドイツやスイスの兵器産業についてのインテリジェンスを海軍省に送っていた」と書くのは、通常業務として「技術情報を送っていた」ととらえるべきでないでしょうか?さもないと欧州にいたほとんどの技術士官がインテリジェンスを送ったことになります。

なお先生の本には「OSSはスイス入管記録から、(西原が)43年にスイスに入国したことを知っていた」とあり、脚注にはスイス公文書館の西原の記録が示されています。OSSは当時スイスの入管記録に自由にアクセスしていたということでしょうか?

3 ベルリンの海軍武官室はスイス外務省に「西原は外国語も使えず、技術将校としての活動にも制限がある」として光延東洋駐伊武官の入国を要求しています。西原は情報を扱う資質は無いとベルリンは判断していた事を示しており、実際に藤村をリードしてのOSSとの対話は出来なかったと考えます。(スイス公文書館、光延東洋ファイル)



3 「藤村のラインでダレスと話さえさせておけば(中略)」と東郷外務大臣は語ったのか?>

大井篤が海軍反省会で述べた上記証言に関し、私は疑問を呈しましたが、
「東郷と米内が和平派で密接に協力しあっていたコンテキストがあり、また海軍省の複数の幹部の証言と照らし合わせると、予断なしに考えれば、この証言は信ずるに値します。」という回答を頂きました。

米内海軍大臣と東郷外相が藤村電について話し合った内容を、東郷が先述の「時代の一面」に書いています。そこには当事者の名前などの混乱も見られますが
「自分(東郷)は米国の気持ちを察知するのにはいい機会だと思った。」
「無条件降伏ではなくては日本政府もとても承服出来ないと思うと言わせて、向こうの出様を見たらいいと言って発電方を打ち合わせた」などと書いてあります。

これが大井の発言の基かと考えますが、いかがでしょうか?とすれば大井は証言したと言うより、東郷の著書の内容に自分の色を付けたと考えます。また東郷は大井の述べる「藤村を通じてソ連の本当の話が分かる」云々とも言っておりません。

そしてここから読めるのは、奇しくも大井も書くように、東郷の藤村ルートに対する期待です。この証言に「単なる」と言う言葉を加えて「単なる情報とりだった」とまとめるのは、やはり同意できません。



<4 朝日新聞チューリッヒ支局とOSS>


私は朝日新聞の日本人に関し、いくつか正確でない記述があると述べました。そしてそれらの前提から導き出された、「笠信太郎が当時OSSのエージェントであった」という先生の説明は疑問である、というのが次の私の論点です。

1 先生の反論文ではまず朝日新聞チューリッヒ支局に関し、「笹本たち」ではなく
“「田口たちと合流する」とすべきでした。”と回答いただきを頂きましたが、この時は朝日新聞の駐在員は田口だけでしたので、“田口と合流する”が正しいかと思います。

2 「1942年1月15日、東京からスイスに入国して公使館アタッシェになる」が間違いと指摘したのに対し、先生より
「田口はスイスの日本大使館に採用される前にいったん東京に帰らなかったでしょうか」と質問を受けました。それに対し今回以下のように答えます。

1941年12月8日の日本参戦後は、日本人の欧州(含むスイス)への入国手段はありません。1942年1月15日にスイス入国と言う記述をまず疑うべきでしょう。またアタッシュになるというのも正しくないです。この時田口は朝日新聞採用です。よってこの文章は単純ミスかと思います。

3 次いで「新しいエージェントに関し」の部分を詳しく説明します。

先生の本より該当部分、引用させていただきます。
「田口二郎と笹本駿一がいる朝日新聞チューリッヒ支局の新しい我々のエージェントは新しい内閣の顔ぶれに失望している。それは反軍部でも親軍部でもなく、強い線がない。
彼らは近衛に無任所大臣になってもらいたかった。(以下彼らの見解が続く)」

この文章は繋がっていて、すべて田口、笹本二人からなる朝日新聞チューリッヒ支局の新しいエージェントのコメントと読むのが自然ではないでしょうか?
そうではなく「チューリッヒ支局の新しい我々のエージェント」を笠信太郎と理解するのは、まず文脈から、さらに彼らのスイスの入国の順番、ベルンでなくチューリッヒとしている点等からも無理があります。なぜ田口と笹本の名前は挙げ、笠は挙げないのかも解せません。

ということからこの時点で笠がスイス時代、OSSのエージェントであったと判断するには、別の資料が必要であると考えます。

当時の笠は「何よりも熱烈な愛国者であった。(中略)シンガポールが陥落の日、落涙で喉を詰まらせた」と言う証言があります。
(「回想 笠信太郎」 192ページ) 
日本がアメリカと戦う時に、そのアメリカとコミュニケーションするということを笠が行ったのかは、慎重に判断したいです。(私の推測です。)

付け加えると先生の本の「終戦工作・ネットワークコミュニケーション図(1943年以前)」にはベルリンの笠と、ベルンのハックが結びついていて、またそういう文章もありますが、これは具体的にいつ、どう結びついたのでしょうか?また「結びついた」とは先生は「知り合った」と言う意味でお使いですか?それともそれ以上でしょうか?

私の質問の理由は、ハックがスイスに亡命したのは1938年(諸説で若干ずれがある)で、笠がドイツに来たのが1941年1月ですので、2人はドイツでは重なっていないからです。スイスとドイツ、離れていながら二人はどのように結び付いたのか、関心があります。

また同じ図でハックから笠に向かい「早期和平呼びかけ」と点線で書かれていますが、これは1943年時点で、どういう事実を指しているのでしょうか?



 「キナ臭いと思った東郷は、5月14日以降ヨーロッパの中立国の公使館などに、英米がどのような終戦条件を考えているが探りを入れるように命じていた。実際、5月7日から27日までに、ポルトガル、スイス、スエーデン、バチカンの公使館員が現地のOSS代表と接触して和平条件を聞き出そうとしている。」という記述の出典について>

この文脈にそって脚注の資料は語っているのでしょうか、と言うのが私の質問でした。
まず東郷外務大臣は、自身も含めた最高戦争指導会議でソ連を仲介として英米と終戦交渉をすると決めたその5月14日から、一方で
「ヨーロッパの中立国の公使館に、英米がどのような終戦条件を考えているが探りを入れるよう」に命じたというのが事実とすれば、もっと語られるべきです。

東郷が命じたのは電報によってかと思いますが、これが脚注で紹介されているのでしょうか?またそれはアメリカの解読文書などで、確認されているのでしょうか?

また東郷大臣からこういう指示があったとすると、欧州公館からの返電は「貴電XXに関し」となる訳ですが、バチカンの電文など見ても、日本からの指示で探りを入れたということが読み取れません。東郷の指示があり、それに基づいて欧州中立4か国で日本から英米へのアプローチというダイナミックな日本外交ストーリーは、成り立っているのでしょうか?
私の読みこぼしもあるかと思い、丁重に再度質問させていただきます。



<6 朝日新聞の田口二郎が東郷外相に送ったとされる書簡について>

私の田口の書簡は存在しないであろうという主張に対し
「ではおききしますが、なぜ、ワシントンで対日放送していたザカライアスが田口の東郷宛の手紙を放送で引用しているのでしょうか。」と逆に質問を受けました。

まさにここが疑問点です。手紙が存在しない(少なくとも現在まで確認されていない)とすれば、やはり田口の名前のみOSSの情報から取り、手紙の内容はザカライアスの創作と言う可能性は残ります。(先生はザカライアスが「でたらめを書いたとは思えません」と反論文に書いています。)

ここでも田口の書簡が見つかり、もしくは存在が傍証され、その内容とザカライアスの放送内容が一致して、先生のおっしゃる「(ダレスがザカライアス)に直接この情報を伝えた可能性が強い」と言えると思います。そして先生の主張されるダレスとザカライアスの関係の強い根拠となります。



 「このハック、ダレス、ヤコブセン、吉村、岡本、加瀬らが数年をかけて確立した日米間のトップをつなぐコミュニケーションのチャネルが無ければ、そもそもこのような終戦を巡るコミュニケーションもなく、したがってドイツのように軍事力と政治機構の完全なる消滅によってしか戦争は終わらなかった。」と書いているが、ここまで言い切って良いかは、議論の余地があるところであろう。>

これに対し、「言い切って悪い理由を、具体的に言ってください。」と反論を受けました。

理由の一つには先生の主張に対し、これまで述べたように、私がまだ納得していない点があるからです。また多くの要素が絡まった終戦史に関する“歴史上のイフ”を、この先生のルートだけで判断するということに、他の多くの研究者などが賛同するであろうか?という疑問を呈しました。

以上が私の補足です。あわせて先生には著書「アレン・ダレス」巻末において、ウェッブ上の資料として私の「藤村義一 スイス和平工作の真実」を紹介いただいたことをお礼申し上げます。

これまでの有馬先生と私とのやり取りで興味を持たれた方は是非先生の著書、“「スイス諜報網」の日米終戦工作―ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか”を購入下さい。

大堀 聰 2015年9月19日


 
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