デーケン教授のミニ講義
ー欧州ホスピス視察研修講義録ー
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死別とグリーフ・ワーク
ー悲嘆への援助ー
「公認されていない悲嘆」
Disenfranchised Grief
アルフォンス・デーケン
ターミナルケア 1991,Vol.1,No.6,p391-394

はじめに

配偶者や肉親に死別した後には、社会的・経済的に多くの援助の手が、遺族たちに差し伸べられる。しかし、公認されていない喪失体験とそれに続く悲嘆のプロセスに対しては、まったく何のサポートも与えられない。現代の社会制度の下で、法律的な保護の対象とされていない特殊な人間関係は、当事者の片方の死という状況に遭遇すると、ほとんど強制的に破葉される。双方の意志にはまったく関わりなく、一方的に消減を余儀なくされてしまうことが多いといえよう。以下、こうした公認されていない悲嘆こ該当すると思われるいくつかの事例と、近年著しく増加している特殊なケースを挙げる。それらを考察する中から、今後の対応方法を検索してみたい。

公認されていない悲喚のケース

◆肉親に限定される死後の行事

日本はもちろん欧米でも、一人の人間の死が確認されると、その後の問題はすべて法律的な解釈が優先する。すなわち、公式に認められる遺言書で指定されている場合を除いて、普通は故人と血縁関係にある者が、死後の行事を執りしきることになる。同性・異性を問わず、どんなに親密な交友関係も、法的な裏づけをもたない以上、相手の死と共に崩壊せざるをえない。生前疎遠だった肉親たちよりも、よく故人の日常生活や性癖を知り、哀悼の意を深くしている友人のところへは、死亡通知さえ届かないことが多いのである。このごろ日本の老人ホームでも、入居者の訃報が伝えられると、生前まったく音信不通だった親類縁者たちが現れて、故人の遺産分配に狂奔するケースがよく見受けられるという。故人のルーム・メイトや親しくしていた近隣の人、最後までケアに当たった寮母やカウンセラーたちは、その人が亡くなった瞬間からまったく発言権を失ってしまう。たとえ、何十年一緒に暮らしていた親友でも、血縁関係がなけれぱ、その悲嘆の感情は無視され、故人を偲ぶよすがとなる形見の品一つ、贈られることはないという場合が増えているのである。

◆社会的に容認されない喪失体験

ドゥカ(Doka)博士は「Disenfranchised Grief」の中で、社会的に公認されない人間関係として、正式な結婚手続きをしていない同棲者、ホモ、離婚された相手、過去の愛人などは、葬儀に参加することもできず、その悲嘆のプロセスに対する援助がまったく欠けていることを指摘している。筆者はこれに以下のケースもつけ加えたいと考える。

(1)妊娠中絶後の女性の苦悩

これは喪失体験自体が社会的に容認されていないケースといえよう。日本でも社会的・身体的理由から妊娠を中絶する女性は、毎年おびただしい数を示している。また、流産・死産という場合も、母親にはいつまでも罪責感がつきまとう。胎児の人格がいつ発生すろかという論議は、まだ決定的な結論には達していない。おそらく今後もその確定は不可能と思われる。しかし、女性にとって、胎内の生命を抹殺することは、理屈では対処しきれない苦悩の体験であろう。妊娠の一方の当事者である男性と心情的に分から合えるような感情ではなく、母性本能の敗北としか受け止められないのではないだろうか。この場合も、孤独のうらに悲嘆のプロセスをたどらざるをえない人が多い。

(2)老齢に伴う挫折感と孤独

定年退職による喪失体験は、仕事一筋に{可十年も働いてきた日本の男性にとって、自己の存在価値を一時に抹消されるような深刻な事態ともいえよう。これは仕事の喪失と共に、帰り道での飲み仲間との一杯といった、長い間の交友関係の終わりも意味している。しかも周囲の人たちは、当然のこととしてあまり関心を示さない。そればかりではなく、高齢になるにつれて、それまで何の支障もなかった行為が苦痛になったり、思わぬ失敗も増えてくる。こうした生理的加齢に伴う挫折感と孤独の感情は、老人の愚痴としか受け取られないため、自尊心の強い人ほど広言しようとせず、ひそかに悩む例が多いようである。また、たとえば独りぼっちの老人にとって、最愛のペットの死は、かけがえのない喪失体験となる。しかし、周囲ではむしろその悲嘆を冷笑の的にして、老人をいよいよ深い孤独の淵に陥れてしまう。

(3)疾病や事故の後遺症による肉体的・精神的障害

乳がん治療のために乳房切除を受けた女性は、手術のあとで苛酷な喪失の悲嘆に見舞われるという。これも公認されていない悲嘆の代表的なものの一つであろう。肉体的に取り返しのつかない損傷を受けたという自覚が、女性としての自信の喪失やアイデンティティの危機を招いたと訴える事例も多い。病気や事故の後遺症によるさまざまな障害は、いつ誰の身に降りかかるかもしれないものでありながら、日本の一般社会の構造は、それらハンディキャップをもつ人たちに対して実に冷酷だといえよう。特に現代の都会の環境は、健康人の行動を墓準に設計されている。少数派である障害者の希望や意見は、ほとんど無視されているのが現実ではないだろうか。

◆悲嘆から疎外される人格

(1)子ども

肉親の死に遭遇した子どもに、その事実を告げない場合がしばしばある。これは子どもの自尊心に、不当に差別されたという傷痕と大人に対する不信感を後々まで遺す。大人の中には、子どもは死を理解する能力がないという誤った固定観念をもつ人たちがいる。これはむしろ、大人自身が死への恐怖を克服できずにいたり、子どもに死をどう教えたらいいかに戸惑っている場合が多いのだが、決して望ましい態度ではない。子どもは死を必要以上に恐れたりせず、事実を素直に受け入れることができる。大人の誤った思い込みによる対応が、子どもの心に、成人した後まで続く過剰な死への恐怖を、値えつけてしまうことにもなりかねない。

(2)高齢者

高齢になると死に対する反応もさまざまである。同世代人が次々と亡くなるのを見聞きすると、迫りくる死への意識を抑圧しようとして、死に関する話題にアレルギー症状を示す人がいる。また、たとえばアルツハイマー病などのように、脳の組織の変化によって、まったく別の性格が表れてくる場合もある。あるいは新興宗教に熱心に帰依したために、家族と離反してしまう人もいる。老人ホームなどに隔離されたために、肉体的には生存していても、心理的・社会的には、死を味わわされている高齢者も多いようである。日本の痴呆性疾患の高齢者、いわゆる呆け老人の数は、今世紀末までには百万人を超えるという。こうした人々に肉親や知人の死を理解させることは、確かに困難なケースが大半を占めると思われる。またこういう高齢者を抱える家族にとっては、病状の介護とともに、精神的な意志の通じあえない、家族としての絆の喪失という悲嘆のプロセスを、日夜体験していかなければならないことになる。

(3)精神障害者

精神的な障害にもいろいろな段階や傾向があり、一概にはいえないが、家族の死に際しての儀式に公然と参加することを許されない場合が多いと思われる。とかく周囲の人たちの社会的な体面や、他の遺族の感情が優先してしまい、障害者自身の意志は尊重されないケースがほとんどといえよう。

近年増加傾向にある問題

◆「エイズ」による死

エイズによる死の場合、遺族の感情は複雑に屈折する。故人に対する恨みやエイズを感染させた者への怒り、世間の蔑視への反発などが重なってストレスを倍加させる。現在、アメリカの大学生の中には、エイズ・ウイルス感染者が25000人から35000人もいるという。日本でも母子感染などによるエイズ発症者が増え続けているという報告がある。無知からのエイズ感染を防止するためにも、青少年に対するエイズ教育の実施が急務と考えられる。

◆「過労死」

サラリーマンの過労死は、次第に大きな社会問題となってきた。平成3年5月31日付朝日新聞朝刊によると、弁護士グループが1988年から全国規模で実施している「過労死110番」の相談件数も3年間で2000件を突破したという。中でも昨今は、過労が原因と思われる自殺の増加が目立っている。過労で倒れた人の病状は、脳や心臓の疾患が多く、現在その95.7%は男性だが、女性の過労死も増加の傾向にある。過労死の場合、遺族にはそこまで故人を追い詰めた企業側に対する怒りと、なぜもっと早く気づいて休養させなかったかと、自分を責める罪意識が顕著である。これが長く続く場合はカウンセリングを受けるなどの適切な治療を行う必要がある。悲嘆のプロセスが、順調に進行しないまま何年も経過することは、心身の消耗が激しく、大変危険な兆候といえよう。

対応への示唆

◆「死への準備教育」の普及促進

私たちは入学試験や就職といった人生の重要な試練に臨む前には、必ずそのための特別な教育や訓練によって準備を整える。しかし、人生最大の試練であるはずの死に対する準備教育は今までまったく行われていなかった。たとえば末期がん患者を、何の心構えもないまま死に向かわせるようなことは、社会として実に残酷な仕打ちといえないだろうか。筆者の提唱する「死への準備教育」とは、健康なうちから多角的な広い視野に立って、生と死の意義を探求し、自覚をもって自己と他者の死に備える心構えを習得することである。これは生涯教育として、いつからでも学べるし、あらゆる年代層の必要に応じて行うことができる。筆者まこの「死への準備教育」に主な15の目標を設定し、それぞれの年代に特有なニーズに応えて実施されることを念願している。ちなみに、現在アメリカやカナダでは、小学校からデス・エデュケーションをカリキュラムに取り人れる州が増え続けている。筆者の母国ドイツ(旧西ドイツ)でも、宗教の時間の枠内で、死についての学際的な教育が活発に行われている。またそのための「死への準備教育」の優れた教科書が多数出版されているのが現状である。日本の教育水準の高さからいっても、今後「死への準備教育」が実施されれば、次第に公認されていない悲嘆に対する理解も広がり、こうした喪失体験から生じる疾病の予防にも大きく貢献できるのではないだろうか。

◆遺言の作成

公認されていない人間関係を保証するための一助として、正式な遺言状の作成は望ましい手段といえよう。もちろん、資産の遺贈のような経済的な問題が絡む場合には、プライベートな問題を世間の好奇の目にさらしたあげく、苦悩を深めるだけに終わる結果も考えられる。しかし、正規の乎続きを経た遺言状の作成は、遺される人への具体的な愛情表現の一つの方法として考慮されるべきであろう。

おわりに

公認された人間関係の中での悲嘆に対しては、各社会によって、それぞれある程度対応するルールが定められている。アメリカでは、配偶者や子どもの死後には1週間、親や兄弟姉妹の場合は3日間の弔慰休暇が与えられる。日本でもほとんどの会社に、親族関係によって日数の異なる忌引の社内規定がある。しかしこれは、あくまでも社会的に公認されている関係だけに適用されるものである。公認されていない人間関係が終焉を迎えた場合、喪失の悲嘆のプロセスを歩む人たちには、今のところ何の援助も望めないのが実情といえよう。いわば社会的な基準に当てはまらない、純粋に人間的な閑係が崩壊したあとで、残された者の抱く悲嘆は、表現を抑圧されているだけ、深く長く続いてしまうと考えられる。この公認されていない悲嘆のプロセスを、もう一度要約すれば、

1)社会的スティグマ(恥辱・欠陥)として扱われる
そのためにこれを味わう人々は、まったく社会的な支援を受けられず、孤立無援のうちに長期間を過ごさなければならない。

2)回復のための儀式が欠如する
葬儀に参加することを許されないために、精神的なカタルシス(浄化作用)が行われにくい。これは感情の発散を妨げて、悲嘆からの立ち直りを遅らせる。

3)情緒的なトラブルが続く危険性が大きい
怒りと罪意識は、一般の遺族よりはるかに強い。フラストレーションが重なるために、病的な悲嘆に陥りやすい。最近アメリカでは、同性愛者たちの社会的権利が、かなり容認される方向に向かってきている。これは決して同性愛の奨励ではない。現実は現実として、その人たちの存在を認め、人間としての権利を無視してはならないという、広い意味での人権運動の一環ともいえよう。人間は誰もが、自分なりの生と死を全うしたいと望んでいる。たとえ社会的に公認されない悲嘆であっても、その渦中にあって苦しむ人には、人間同土として温かい援助の手を差し伸べていくべきであろう。

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