[医療事故を考える]

いつまで続く器具の不備による医療事故:行政の怠慢で国民が犠牲になり、責任は医療者に課せられ、企業は儲けるだけ!
[栄養剤誤点滴 87歳患者死亡 大阪の病院] 中国新聞 2009年1月6日 → 『人は誰でも間違える』
[人工呼吸器の回路接続間違い] 医療安全情報 No.24 2008年11月(日本医療機能評価機構/医療事故防止事業部)
[医療過誤を共に考える]一第三者機関の設置を一 南山大学教授 弁護士 加藤良夫「道」月刊保団連 2004年9月号
[人間は誰でも間違える。しかし、間違いを防ぐことはできる] 米国医療の質委員会著「人は誰でも間違える」2001年3月20日
[患者の安全のために医療者の適格性検査や監視制度も必要か] 朝日新聞「天声人語」2001年1月12日
[「過誤」という名の犯罪] 大熊由紀子 朝日新聞「観測点」論説記者の目 2000年12月23日
[医療事故対策 万全な予防から] 高柳和江(医療管理学)朝日新聞「論壇」2000年12月9日
[なぜ続く医療ミス、大学病院を妄信するな] 朝日新聞「くらし」欄 2000年11月12日
[「麻酔事故」専門医の数が足りない] 朝日新聞社説 2000年8月22日
[医療事故招く病院の職員不足] 川島康生 1999年2月16日 朝日新聞

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[栄養剤誤点滴 87歳患者死亡 大阪の病院]
中国新聞 2009年1月6日

大阪府茨木市の「友紘全総合病院」で2日、女性の准看護師(45)が寝たきりの男性患者に誤って栄養剤を点滴で投与し、患者が間もなく死亡していたことが5日、分かった。茨木署は誤った点滴による副作用が原因とみて、業務上過失致死の疑いで調べている。

男性は大阪府箕面市萱野、無職○島○一さん(87)。調べや病院によると、准看護師は2日午後4時ごろ、栄養剤を胃に直接注入するためのチューブに装着する際、左腕につながった点滴用の補助具に誤ってつないだ。約30分後に別の看護師がミスに気付いたが、中島さんは午後5時40分ごろ、死亡。病院が茨木署に届けた。

<ドクターちゃびんの解説>
栄養剤を注入するチューブと、点滴の回路の口径が同じに成っていて、栄養剤を注入する注射器が、どちらにも接続できるようになって、過った接続ができること自体が問題です。サイズとか規格を変えて、接続できなくすれば解決できることです。いつまでこんなことを放置しておくのでしょうか?

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[人工呼吸器の回路接続間違い]
医療事故情報収集等事業 医療安全情報 No.24 2008年11月(日本医療機能評価機構/医療事故防止事業部)

事例1 看護師は、人工呼吸器を組み立てる際、加湿器に吸気側の回路を接続すべきところ、呼気側の回路を接続し、患者に使用した。その結果、吸気が加湿されない状態で人工呼吸器を使用した。
事例2 看護師が患者の体位変換を行った際、人工呼吸器の吸気口に接続されていた回路が外れた。看護師は、過って外れた回路を患者の呼気排出口に接続した。

事例が発生した医療機関の取り組み
・人工呼吸器を使用する際、簡易取扱い説明書などを用いて、回路が正しく接続されているかを確認する。
・人工呼吸器の回路を呼気口や吸気口、加温加湿器などに接続する際、回路の口径が同じであるため、過った接続ができることに注意する。

<ドクターちゃびんの解説>
回路の口径が同じになっていて、過った接続ができること自体が問題です。サイズとか規格を変えて、接続できなくすれば解決できることです。いつまでこんなことを放置しておくのでしょうか?

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[医療過誤を共に考える]一第三者機関の設置を一
南山大学教授 弁護士 加藤良夫
「道」月刊保団連 2004年9月号

■医療事故には、いくつかの原因や背景が存在している。事故を分析して事故の原因や背景を取り除く努力をしていかないと、同種の事故が繰り返されることになる。これまで医療界は、医療事故について「臭いものに蓋」式の対応をし、事故の事実を隠蔽することによって保身を図る傾向を示してきた。しかも残念ながら、わが国では医療事故に関する情報を網羅的に集約しそれらを的確に分析し教訓化して生かそうとする第三者機関が存在してこなかった。■医療事故に関する情報提供をためらうのは、「警察さた」、「マスコミさた」、「裁判さた」(これら三つを合わせて"三さた")を恐れているからである。被害者の行動と"三さた"は深く関連している。従って被害者の願いに応えることのできる解決のルールを樹立しなければならない。メリットシステムも導入し、正直に報告した者がかえって不利益な取り扱いをされることがないようにすべきである。すなわち「隠す文化」から「正直文化」への転換が必要である。そして正直・誠実な「加害者」をある程度計そうとする文化の形成も求められていると思われる。■医療事故の被害者は「五つの願い」を持っている。第一は、「死んだ子を返して欲しい」という「原状回復」の願いである。第二に「真相究明」の願いがある。第三に「反省謝罪」を求める。第四に「再発防止」の願いがある。第五に「損害賠償」である。■そして事故防止を考える際、「被害救済は裁判で」という姿勢は、被害者を置き去りにするものであり、被害者の共感は得られない。すなわち真の医療事故防止の営みは、「五つの願い」を踏まえ加害をしてしまった医療機関がその被害者を招いて研修会を開くなど被害者と協同して実践されることによってこそ魂が入ると言うべきである。■医療の安全・質の向上のために第三者機関が必要であることについては、今日ではほぼ共通の認識となっている。私は1997年以来「医療被害防止・救済センター」構想を提案している。その特色としては、@「防止」と「救済」を一体的に取り扱うこと、A事故の教訓を制度改善につなげること、B著しく意外で大変気の毒な結果に対しては過失がなくても補償すること、C情報提供・判定・運営・監視に市民参加を図ること、Dメリットシステムを導入していることである。詳細はhttp://homepage2.nifty-com/pcmv/をご覧戴きたい。(かとうよしお)

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[人間は誰でも間違える。しかし、間違いを防ぐことはできる]
米国医療の質委員会/医学研究所著「人は誰でも間違える〜より安全な医療システムを目指して」総論より、2001年3月20日

ボストン・グローブ紙の有名な記者、ベッツィ・レーマン(Betsy Lehman)が化学療法を受けている最中に、薬の過剰投与で死亡した。ウィリー・キング(Willie King)は間違って大腿を切断された。ベン・コルフ(Ben Kolb)は、「些細な」手術で薬の調合を間違えられて、8歳で死亡した。

ニュースの大見出しになった、これらの恐ろしい事件は氷山の一角にすぎない。コロラド、ユタ両州で行われた調査とニューヨーク州で行われた調査との2つがあるが、それぞれ入院患者の2.9%、3.7%が何らかの被害に遭遇していた。コロラド州とユタ州では、そのうち8.8%が死にいたり、ニューヨーク州では13.6%が死亡した。両方の調査とも、有害事象(adverse events)の半分以上には医療ミスが関与しており、防ぎうるものであったことを明らかにしている。このうち、コロラドとユタ両州の調査結果を、1997年の全国入院患者、3360万人余に当てはめると、少なくとも毎年4万4000人の米国人が医療過誤で亡くなっていることになる3。ニューヨークの例を当てはめると、9万8000人という高い数字が出てくる。少なく見積もっても、医療過誤による死亡者数は死亡順位の8番目に位置する。この医療過誤による年間死亡者数は、自動車事故(4万3458人)、乳がん(4万2297人)、エイズ(1万6516人)による死亡者数を上回る。

防ぎうる有害事象(傷害を引き起こす医療ミス)が国家に与えた損失総額(収入のロス、家庭内労働の喪失、障害および治療のための費用)は、170億-290億ドルだと推定される。そのうち、医療費が半分以上を占める。人命が失われるという観点からみれば、患者の安全は労働者の安全と同じように大切である。毎年、労働現場における傷害で6000人以上のアメリカ人が命を落としている。病院の内外で起こっている薬物療法(medication)のエラーだけで、死亡者が毎年7000人以上にものぼると推定される。

薬物療法に関係するエラーがしばしば病院で起こっている。それらが実際に傷害を与えるわけではないが、そうなったときは高くつく。最近、有数の2つの教育病院を調査したところ、入院患者100人のうち2人は防ぐことのできた薬による有害事象を経験していた。その結果、入院1回につき4700ドルの費用が余計にかかり、700ベッドの教育病院では、年間約280万ドルの経費を要することになる。この調査結果を一般化すると、入院患者に影響を与えた防きうる薬の有害事象に関する費用だけでも、米国全体で約20億ドルの余分な費用を支払っていることになる。

こうした数字は、大きな問題のほんの一部を控えめに表現しているにすぎない。入院患者は、リスクをかかえている人たちのほんの一部だし、直接病院に支払われる費用は全医療費の一部にすぎない。外来医療施設では、以前よりもより多くの、いっそう複雑なケアが行われている。外来専門の手術センターや開業医のオフィス、診療所は、毎日、何千という患者を治療している。在宅医療では、患者や家族が複雑な器具を用いて、退院後の継続治療を行っている。町の薬局が患者の処方箋に合わせて薬剤を調合し、その使用方法を教えるといった大事な役目を果たしている。ナーシングホームのようなその他の施設では、虚弱な人たちに幅広いサービスを毎日行っている。いまある調査結果は病院におけるものが多いが、医療ミスは病院にかぎらずどの施設でも起こりうるのである。

エラーは、機会費用(opportunity cost)の点からみても経費がかさむ。検査の繰り返しや、有害事象のための出費は、他の目的には使えないお金である。医療サービス購入者(保険者)や患者は、エラーによって正当な医療が行われていれば必要のないサービスを受け、余分な保険料や自己負担金を払うことになる。医療には間違いがつきものだとしても、そのために医療費のなかから数十億ドルを支出してしまったら、患者に最高の治療をする余裕が国になくなってしまう。

しかし、すべての費用が直接計算できるわけではない。エラーは、患者の医療システムヘの信頼を失墜させるという高価な代償を払うことになり、患者と医療従事者の双方の満足度を失わせる。医療過誤のために、病院に長期滞在するはめになったり、障害に陥った患者は、身体的にも精神的にも不快な経験をする。医療従事者は、モラルを喪失したり、よりよいケアができないという欲求不満に陥る。一般的には、企業や社会は労働生産性の喪失、学童は出席日数の減少、市民は健康のレベルの低下というつけを払う。

しかし、この問題は黙殺されている。消費者は、どの側面でも守られていると思い込んでいる。メディアも興味深いさまざまなケースの一部分しかカバーしていない。Good Housekeeping 誌による格付認証が一般の人の注目のもとで医療機関に与えられている一方で、免許や資質認証のプロセスは問題の一部分にしか注意を払っていない。というのは、これら最小限の努力でさえ、医療機関や医療サービス提供者から抵抗に合うからである。また医療サービス提供者は、医療上の損害賠償責任システムを、エラーを明らかにし、そこから学ぶ組織的な努力をひどく害するものとみなしている。

医療提供システムの持つ分権的、分散的性格(これを「非システム性」と称する人もある)は、患者の危険を増大させ、安全性を高める努力をかえって妨げる結果となる。病院や大きな医療グループの内部でさえ、専門職能やその影響度によって厳格に仕事が区分けされている。たとえば患者は、いろいろな施設でさまざまな医療従事者に会うが、その誰もが完全な患者情報にアクセスできていない。ケアをよりよく統合調整するよりも、間違ったままにしておくほうが楽なのである。と同時に、ゆるやかな連携下にある医療機関や医療従事者が提供するサービスは、医療従事者が患者情報にタイムリーにアクセスできる臨床情報システムの改良を難しくしている。安全を欠いた医療は、説明責任をはっきり持った医療システムがつくられないことによって、われわれが支払わねばならないひとつの対価である。最後に、医療サービスが買われる状況において問題はさらに悪化する。サービス購入グループは、安全性の改善にはほとんど関心を示していない。第三者が支払うシステムの多くでは、医療機関に安全性を改善するインセンティブがほとんど働いていないし、医療機関の安全や質の向上努力を認めて報酬を払うものになっていない。

本報告(本書)の目的は、こうした対応不在の輪を絶ち切ることにある。この現状をこれ以上許すことはできない。費用面の圧迫、賠償責任のきびしさ、変化への抵抗、超えることができそうにもない壁といったものがあったとしても、癒しとやすらぎをもたらすことが期待されている医療システムから傷害を受けるということは、患者にとってとうてい受け入れられるものではない。ヒポクラテスの「まず、害を与えるなかれ」という言葉は、医療に従事する者すべてにとって身近な言葉である。一般の人の安心と安全を確保することは医療システムにとって最低限の責務なのである。

患者の安全向上には広汎な取り組みが必要である。この取り組みに単一の解決策はない。この問題を解決する「魔法の弾丸」がないからである。本報告では、「解答」と思えるような単純な提言は行わない。複雑で大きな問題には、よく考えられた、多面的な答えが必要である。各提言の最終目標は、医療機関や医療提供者に「エラーを起こすと高くつく」という外部環境の圧力をつくり、彼らが安全の向上に向けて行動するよう仕向けることにある。同時に、安全性を改善する知識と手段を向上させ、安全の妨げになる法的、文化的な障害を突き崩す必要がある。こんにちの医療ミスがもたらしている問題の大きさを考えれば、当委員会は5年以内に医療過誤を50%近く減らす責任があると確信する。

本報告では、安全とは「事故による傷害のない状況」と定義している。この定義は患者の立場からみれば、安全に関する第1の目標である。エラーは、計画された行動における失敗か、間違った行動計画を立てた失敗に分けられる。ジェームズ・リーズン(James Reason)は、エラーは2種類の間違いから起こるとしている。すなわち@実行のエラー(計画したとおりの正しい行動をとらなかった)とA計画のエラー(初期の行動計画に間違いがあった)である。エラーは、診断から治療、予防といった医療のあらゆる段階で起こる可能性がある。

すべてのエラーが害をもたらすとは限らない。傷害をもたらすエラーは、防きうる有害事象ということになる。ある医療行為が介在した結果、生じた傷害が有害事象である。他の言葉で言うならば、患者の要因が傷害の原因ではないということである。すべての医療事故は医療行為の結果起こるのだが、それがすべて防ぎうるとは限らない(すべての傷害がエラーによるものではないということである)。たとえば、患者が手術を受けて、術後に肺炎で死亡したら、それは有害事象である。もしこの事象を分析した結果、手洗いが不完全で医療器具を清潔にしていなかったために患者が肺炎を起こしたとしたら、その有害事象は回避可能であったことになる(実行を怠ったことによる)。しかし、分析の結果、医療ミスはなく、患者は難しい手術を受け、回復するのは困難であったという結論が出ることもある(回避不可能な有害事象)。

エラーの分析から、多くのことを学ぶことができる。傷害を残したり、患者を死にいたらしめるような重大な有害事象に対して、提供システムを改良することによって、将来日じようなことを起こす可能性を減じることができるかどうか評価すべきなのである。傷害を起こさなかったエラーでも、有害事象を起こす可能性があれば、システムを改良する重要な機会になる。

エラーの防止には、安全を確保するために医療システムのすべてのレベルの再設計が必要である。医療プロセスをより安全にするということは、エラーを減らす効果的な方法を考え出すことであって、個人の責に帰することではない(デミング(Deming)などのように、プロセスの改良が質の改良への唯一の道だと考える専門家もいる)。重要なことは、個人を攻撃して起こってしまった誤りをとやかくいうのではなく、システムを安全に確保できる方向に設計し直し、将来のエラーを減らすように専心することである。もちろん、個人の不注意をそのままにしておいてよいという意味ではない。人は注意深く行動しなければならないし、その行動に責任を持たねばならない。だからといって、エラーが生じたときに、個人を責めるだけでは、システムの安全化にとっても、同じようなエラーを起こすことを防ぐうえでも効果は低いのである。

医療の分野は、基本的な安全対策を重視するハイリスク産業にくらべて10年以上遅れている。第二次世界大戦以来、航空産業は集中的に安全システムの確立に力を入れてきた。1990-1994年の、米国の商業航空機による死亡率は、今世紀の半ばとくらべ3分の1以下に減っている。1998年、米国内の民間航空で死亡した人はゼロであった。医療の分野では、「防ぎえた傷害」を受けた人は、入院患者の3-4%いると考えられている。航空機のようなめざましい記録をにわかに達成することはできないにしても、明らかに改善の余地はある。

人間は誰でも間違える。しかし、間違いを防ぐことはできるのである。安全は、ケアの質を高める第一歩である。ハーバード・メディカル・プラクティス・スタディ(The Harvard Medical Practice Study)がこの問題の調査研究を、約10年前に出版したが、研究が未熟だといわれたため、他の研究グループがそれを追試した。にもかかわらず、まだ患者の安全を高める具体的な行動は足りない。医療機関の安全を確保するのに、もう10年待たねばならないのだろうか。

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[患者の安全のために医療者の適格性検査や監視制度も必要か]
朝日新聞「天声人語」2001年1月12日

重体となっている少女の家族が、自宅の玄関に心のうちをつづった紙を張り出したそうだ。<事件後ニカ月以上経過した現在も、意識は戻りません><過去を振り向けば、涙は止まりませんし、過去には戻れません>▼少女は、仙台市のクリニックで起こった筋弛緩剤混入による殺人未遂事件の被害者である。<子供のために出来る事は、家族全員力を合わせて、精一杯の心地よい介護に努めることだと思っています>。記事を読みながら、ことばもない▼被害者は何人にも及ぶ、という見方がある。容疑者の准看護士は病院での待遇に不満を抱いていた、といった報道もあった。だとしても、それが何の関係もない人を標的とした恐るべき凶行の動機になるとは、とても考えられない▼前後して海外でも、医療従事者がからむ大量殺人事件が報じられている。患者十五人にヘロインを注射し殺害したとして終身刑に服している英国の元医師について、保健省は二十四年間に二百九十七人を殺害した疑いがある、との報告書を公表した▼米国では、少なくとも六人の患者を故意に死亡させたとして、元看護士が逮捕された。この男は病院に勤務中、筋弛緩剤を注射したり人工呼吸器を操作したりして四、五十人を安楽死させたと自白したが、その後否認に転じている。二件とも、なお動機は不明だ▼仙台の事件では、管理を含めたクリニックの態勢の緩みも指摘されている。しかし、どんなに周辺を固めても肝心の医療従事者自身に問題があれば、この種の犯行を完全に防ぐのはむずかしい。事件後、英国の開業医団体は「医師として屈辱感はあるが、公共機関による監視を受け入れる」との立場を明らかにした▼医師や看護士らの適格性審査を定期的に実施するなど、日本でも外からの監視制度を採り入れる必要はないか。

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[「過誤」という名の犯罪]
大熊由紀子 朝日新聞「観測点」論説記者の目 2000年12月23日

幼いときの、私のあこがれの職業は「看護婦さん」だった。あきらめた理由はただ一つ、並外れたうっかり者だからだ。きっと、ハサミを体の中に置き忘れたり、薬を取り違えたりするに違いない。それが心配だった。昨年末、米科学アカデミー医学研究所の「医療の質」委員会が出した報告書に「人はだれでも間違える。しかし、間違いを防ぐことはできる」とある。医学ジャーナリスト協会の会員たちは使命感に燃えて翻訳した。原著と伺じ「人は誰でも間違える」という表題がつき、日本評論社から先月出版された。ここに書かれていることを実行すれば、うっかり入間がいても、危険は最小限にとどめられそうだ。米国では、こうした報告をもとに、保健省に医療過誤の原因分析と防止策を受け持つ部署を設けた。五年間で過誤を半分以下に減らす作戦だという。

日本は、どうか。「日本で『医療過誤』と呼はれるものの中には、犯罪的なものがある」と、日米両方の医療過誤事情に通じるハーバード大医学部の李啓充助教授はいう。米国では、「医療過誤」とは「医療側がルールを守った上での過誤」であり、守るべき最大のルールはインフォームド・コンセントだ。「ところが日本では、インフォームド・コンセントのルールをはなから無視するケースが目立つ」と李さんはいう。そんなものは、「過誤ではなくて犯罪だ」というのである。インフォームド・コンセントは、米国では「医療者と患者が共同の治療目的を設定し、それを達成するために治療プランを作成するプロセス」と定義される。日本の厚生省や医師会のいうような単なる「説明と理解」ではない。そうしたインフォームド・コンセントが無視されることは、日本では確かに珍しくない。昔、書いた記事にもその例はあった。

▽学界では不必要とされていた腸パラチフスワクチンの投与で熱を出した少年が、口からものが食べられるのに大量の点滴を受け肺水腫で亡くなった(1967年12月6日付)

▽視力と判断力が衰えた高齢の院長が手術をするのを周りが止められず、多数の犠牲者を出してしまった(69年9月1日付)

▽「見習い看護婦」と名づけた素人に帝王切開した産婦をまかせて死なせた(70年2月5日付)

最近では、埼玉県の精神病院で、痴ほうのお年寄りをベッドに縛ったり、ひもでつないだり、病室でがんの手術をしていたことが明るみに出た。厚生省は、介護保険の報酬を受ける施設では「身体拘束ゼロ作戦」を推進しているが、精神病院は「治外法権」だ。危ないのは、人生の始めからだ。日本の赤ちゃんの出生は、日曜日や祝日はぐんと減り、火曜日が多い。「子宮口をやわらかくするお薬」といった、いいかげんな説明で陣痛促進剤を与え、医療側の都合で出産の時期を調節している例が、非常に多いからである。この薬は感受性に百倍もの個人差があり、何人かに一人は強烈な陣痛に見舞われる。胎児の脳に酸素が不足して障害が残ったり、死や子宮破裂を招いたりする。その危険はすでに、74年に日本の産婦人科医全員に極秘に通知されたにもかかわらず、いまも日常的に使われている。

大阪の枚方市民病院で先週、こんな日本が変わるかもしれない、と希望がわく集まりがあった。十年前、陣痛促進剤のために生後八日で亡くなった星子ちゃんの命日に同病院の職員組合が、その二日後には病院が研修会を開いた。星子ちゃんの両親や、医療事故をなくす積極的な試みで知られる八尾総合病院の森功院長が招かれた。その提言をもとに、山城國暉院長が、「カルテの遺族への開示」「医療事故をなくすため市民を交えた組織の創設」など思い切った改革を約束したのだ。被害者と医療機関が一緒に考えた改革は日本では初めてだ。きちんと実行されるよう、観測を続けたい。

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[医療事故対策 万全な予防から]
高柳和江(日本医科大学助教授、医療管理学)
朝日新聞「論壇」2000年12月9日

医療事故の多発ぶりは、目を覆うばかりである。新聞には、医療事故と呼ぶのも恥ずかしい初歩的な、しかも患者にとっては重大な事故が報じられる。その度に、院長の最敬礼の写真がマスコミをにぎわすが、最大の事故対策は予防である。個人に責任を負わせて収束するのではなく、教訓をその後の安全に生かす再発防止が肝要である。事故には、患者の取り違えや手術部位の取り違えなど、病気の経過と関係なく、初歩的なミスで起きたケースがある。こうした事故の予防のため、米国の合同医療施設評価機関(JCAHO)が1996年から提唱しているのが、危険因子を事前に排除するセンチネル・イベント管理(SE管理)である。左右の足を間違えて切断された事故がきっかけだった。個々の病院で、初歩的なミスによる医療事故を特定し、個人に原因を求めず、その病院のシステムを変更して対策を立てておこう、というものである。センチネルとは「歩哨」「番人」を指す言葉で、事故が起きたら病院組織が崩壊する危険があることを警告するものだ。患者の自殺、取り違え、手術部位の間違い、輸血の型の間違いなどは、どの病院にも共通するセンチネル・イベントである。今年二月、クリントン大統領に報告された患者安全指針を受けて、医療施設による医療ミスを防ぐための組織が立ち上がり「決しておきてはならない医療事故(ネバー・イベント)」のプロジェクトができ、医療の質と患者の安全の向上を目指している。

私は、今年の四月に大学病院の院長と看護部長にSE管理アンケートを行った。九割以上の回答者が必要性を認めていた。しかし、実際は「ひやり」としたり「はっ」としたりした「ヒヤリハット」と呼はれる、無数のニアミスの分析に時間を取られているのが現状である。インフラの整備、プロセスとシステムを変えることの方が、もっと重要ではないだろうか。患者の取り違え予防には、全患者の名前などがバーコードになった腕輪の着用や顔写真(それも、麻酔科医師の要望をくんで片耳と歯を出した写真)のカルテ張りつけを、誤注射防止には、静脈に入れる注射や消毒薬、栄養剤の管の連結管の口径を変える、薬瓶の色や形を変える、手術する側の皮膚に主治医が油性ペンでサインする、などさまざまな対策がある。事故の頻発は看護婦の増員を迫っているのに、病院側はそれをせず、チェックの回数だけ増やそうとする。「ヒヤリハット報告」の提出まで義務づけられて、看護婦は疲弊している。事故がふえるのを座して待っているようで恐ろしい。自院にとって優先的に取り組むべきリスクをあげ、対策を講じるSE管理を、日本のすべての病院で、即、行ってほしい。患者には防ぐ手立てがないのである。必要のない点滴や薬の投与も、事故を増やしている。適切な医療は「検査予約が早く取れるから入院しましょう」「念のため点滴しておきましょう」という水準ではない。エビデンス・べースト・メディシン(EBM)=根拠に基づいた医療=は、日本では言われ始めたばかりで、現場に定着はしていない。医療、研究、当直と、個人生活を犠牲にしている現場の医師だけを責めるのは酷である。適切な医療のための標準化が求められる。だれが医療行為をしても事故が起きないようにするのが予防であり、リスクマネジメントである。

私は、6年前から首都圏14施設の救命救急センターの医師と研究会を組織し、外傷死の所見を評価して生存可能性を計算式で求め、50%以上だった患者について、避けられた死亡か否かを検証している。検証を可能にしているのは、患者入院時の完全なデータであり、医師の情報開示である。医師側の確固たる方針と努力なくして、救急医療の質の確保と評価は成り立たない。医療の標準化などによる質の確保と、SE管理で医療以前の事故をなくすことを車の両輪として、医療事故を考えるべきである。=投稿

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[なぜ続く医療ミス、大学病院を妄信するな]
和田秀樹(精神科医)
朝日新聞「くらし」欄「介護あの目この目」(31)2000年11月12日

相変わらず医療ミスが続いています。医者である私も「どうしてレベルが高いとされている大学病院や大病院で医療ミスが続くのですか」と聞かれることが少なくありません。ここで一つ知っておくべきことは、大学病院が成りたての医者たちの練習の場であるという事実です。日本では学生であるうちは、一切の医療行為が認められていません。メスで患者の体を切開するのも、注射を打つのも、処方せんを書くこともできません。これらのことは、国家試験に合格して医者の免状をもらって初めてできることなのです。そういう何の経験もない成りたての医者(研修医と呼ばれます)の練習の場が、大抵は、大学病院なのです。当然、彼らは外来の診療は行いません。しかし、入院の病棟では患者の訴えを聞いたり、検査結果が出てから本を調べたり、先輩の医者に聞くことはできるので、多くの大学病院では、研修医が受け持ち医になります。だからといって、大学病院で医療ミスがあるのは当たり前というつもりはありません。実際、研修医には指導医が付くシステムになっています。問題は、世間でレベルが高いといわれている大学病院ほど、臨床より研究に力を入れているので、指導医が研究室にこもりきりになりがちだということです。

もちろん、彼らも全然指導しないわけではないのでしょうが、どうしても懇切丁寧という感じではなくなります。現場での直接指導より、カルテのチェックが指導の中心になるし、少し研修医が慣れてくると、研究室から電話で指導を行うことも日常茶飯事になるようです。そういう中で初歩的なミスが起こるのでしょう。私の見解は、国から研修医の指導のためにお金が出ている以上、指導医はまずその指導を第一の任務にすべきだと考えます。が、研究業績で出世が決まるシステムは、すぐには変わりそうもありません。だがらこそ大学病院に入院する場合は、その権威を妄信することなく、受け持ち医が「若いな」と思った場合は、研修医なのかどうかを確認し、病状についても納得のいく説明を要求すべきです。そんなことを重ねるうちに、研修医が指導医に質問をする機会も増え、ミスを予防するばかりでなく、研修医自身にとってもよいトレーニングになるはずなのですから。

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[「麻酔事故」専門医の数が足りない]
朝日新聞社説 2000年8月22日

聖マリアンナ医科大学病院の麻酔科医が六年前、昨年、今年六月と、相次いで麻酔薬中毒で死亡した。麻酔科医が麻酔薬を吸入したり、自身に注射したりする。日本では奇異な事件と受け止められたが、米国ではその危険性が早くから認識されていた。米国麻酔学会の専門委員会は昨年、病院全体で防ぐべき問題だという報告書をまとめ、警告を発していた。明るみに出た事故を、個人的な問題として片づけてはなるまい。病院として、医療界として、対策を立てる必要がある。とくに究明すべきは、背景に過剰勤務という要因がないかという点だ。日本の場合、人口十万人当たりの麻酔科医の数は、米国や英国の三分の一程度である。多くの病院勤務医が麻酔科医不足を実感している。麻酔科医の過労はミスの誘発につながる。日本では、それ以前に、麻酔科医抜きの手術も珍しくない。これでは麻酔による事故が起きても不思議ではない。この機会に、こうした構造問題の改善策も検討しなければならない。

麻酔科医が薬物の依存症にとくになりやすい、というデータはない。だが、手の届くところに麻酔薬があれば試してみようとなりがちだ、と米国麻酔学会は指摘している。アルコールであれたばこであれ、やめられなくなってしまうのは、依存症という名の病気である。それは孤独と孤立の病気でもあるか何らかの意味で心理的に追いつめられた人が、薬物が手に入りやすい環境にいると、それにすがってしまう。麻酔薬依存症の怖いところは、進行が速いことだ。アルコールであれば、周囲の人が気づくほど依存症が悪化するには十年も二十年もかかる。だが、麻酔薬中毒の場合はふつう一年以内、薬によっては一カ月以内で周囲にわかるほどひどくなる。周りが気付かないうちに死に至ることもある。

米国では、麻酔の専門コースを取った医師の約0.5%が毎年、依存症になっているというデータもある。薬物依存症の原因は、アルコールとコカインが一割ずつ、残りの大半が病院で使われる麻酔関連薬だそうだ。こうした米国の事情が、日本にそのまま当てはまるとは考えにくい。だが、少数とはいえ日本でも起きていることが分かった以上、依存症になった医師を早く見つけ、不安を和らげるとともに、治療に向かわせるにはどうしたらいいか、やり方を検討し、周知させる必要があろう。併せて、麻酔科医の数自体の増加も急がなければならない。

三十年前の米国では、麻酔一万例に一件の割合で死亡事故が起きていた。それが今は、二十五万例に一件に減った。政府が麻酔専門医を増やすという政策を採り、専門医が一万人弱から三万四千人に増えたことが、大きく寄与したと見られている。日本の麻酔事故の正確な統計はない。しかし、専門医らは、三十年前の米国と同じぐらいの比率で事故が起きているとみる。危険な状態を放置するわけにはいかない。

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[医療事故招く病院の職員不足]
国立循環器病センター名誉総長・大阪大学名誉教授 川島康生
1999年2月16日 朝日新聞 論壇

横浜市立大学付属病院で心臓手術患者と肺手術患者が取り違えられ、要らざる手術がなされてしまった。前代未聞の出来事が起きた原因が検討される中で、反省とともに関係者からも第三者からも意見が述べられている。しかし、長年この種の外科治療を手がけ、また医療体制の責任者として働いてきた者として、これらの議論には最も大切な部分が欠落していると言いたい。

それは、なぜ一人の看護婦が二人の患者を手術室に運んだかという点である。意識のはっきりした小規模な手術の患者ならともかく、心臓や肺といった大手術を受ける患者は、不安を除くためにも基礎麻酔が施され、意識は多少とも薄らいでいるのが普通である。そのような患者を寝かせた移動式ベッドを、一人で二台も運ぶのは物理的にも容易ではない。なぜ、一人の看護婦が一人の患者を運ぶ体制に出来ないのか。人手不足が原因である。入院患者のすべてに腕輪型の名札を付けるなど、改善すべき点があることはいうまでもない。関係者の不注意が重なって重大な結果を招いたことを弁護するつもりもない。しかし、ここで指摘したいのは、病院における人手不足が、あらゆる面で医療事故の陰に潜んでいるということである。

例えば、今回の事故のような心臓や肺の手術患者が術後に入る集中治療室(ICU)では、患者一人を看護婦一人が担当するのが欧米では普通である。術後の状態がやや落ち着いてがらも、一人で二人の患者を看るのが最低の水準である。ところが、わが国の大学病院でこれが守られているところは、むしろ少ない。一人の看護婦が複数の患者を看るのは普通であり、今日でもなお、人手不足のために十分なICU病床を開設できない大学も多く、このような状況のもとでの大手術には大きなリスクがともなっている。しかし、それぞれの地域の最先端の医療施設と位置付けられている大学病院が、人手不足を理由にこれらの手術を断ることは出来ないであろう。

なぜ、医療従事者が少ないのか。心臓外科や肺外科などの先進医療がなかった時代の定員枠を、大幅な増員の無いままに踏襲してきたからである。それは、いわゆる無給医局員や低賃金で働く研修医の存在にあぐらをかいて、その増員を真剣に求めてこなかった、私を含む大学関係者の怠慢でもあり、増員要求に対応できなかった文部官僚の責任でもあろう。しかし一方では、患者を危険にさらしてでも、少ない人員で診療しなければ赤字を招くという医療費体系のなせるところでもある。

わが国の医療費は高いというのが社会の通念である。しかし、本当にそうなのか。実は国民一人当たりの医療費は米国の半分にも達せず、欧州の多くの国に比べても低い。すなわち、日本の医療費は先進工業国の中では決して多くはないのである。もう少し医療費を増やしてでも、患者にリスクを負わせるような医療を早急に改善すべきである。医療費を増やせば医者をもうけさせるだけと考える人もあるが、そんな形の医療費の増額を求めているのではない。患者の取り違えといったばかばかしい医療過誤の底にある原因を取り除くためである。

一方で医療の透明性も求められている。医療情報の開示には、私も全面的に賛成である。しかし同時に、わが国の病院医療の担い手である医療従事者がいかに少なく、国民がいかに大きなリスクを負いながら医療を受けているかという現実も周知されねばならない。日本の大学病院の病床当たりの看護婦数は米国の三分の一、欧州の二分の一であり、医療事故がいつ起きてもおかしくない環境である。加えて、医師や看護婦を含めた全病院職員の数でも、わが国のそれは米国の五分の一、欧州の二分の一にすぎない。今回の事故は、その実態を国民に垣間見させたものといえよう。

わが国の病院における入院期間は欧米に比べて長すぎると指摘されているが、医療従事者の数が極端に少ないことが、短縮を困難にしていることも忘れてはならない。今回の不幸な事故を教訓として、病院医療の実態とその根本的な解決に向けての議論が高まることを期待したい。

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